架空戦記・仮想戦記とかいう『昭和のなろう系小説』はなぜオワコンになってしまったのか…
時空最強自衛隊【上】第三次大戦勃発!
発売日:2023年4月14日
中韓に対する戦力の誇示と、武力侵攻の抑止効果を狙い、日本は陸海空自衛隊による大規模な合同演習を硫黄島で行なっていた。
だがそこで、実験運用された新型核兵器の炸裂が、予想だにしない驚愕の事態を招く。なんと演習中の自衛隊を、硫黄島ごと70年前の日本へと時空移動させてしまったのだ。自衛隊が飛ばされた世界──
それは、大日本帝国が第二次世界大戦に勝利し、唯一の超大国として君臨するパラレルワールドであった。日本の世界進出を阻むべく、ソ連や欧州各国と結んだアメリカは日本に宣戦布告。ここに、日本VS全世界という未曾有の第三次世界大戦が勃発する。
そして最新鋭兵器を持つ自衛隊は、この戦いに否応なしに巻き込まれていくのだった! 斬新な設定で描く架空戦記の傑作!!
ネトウヨは架空戦記読んでそうだしなw
昔は本屋の片隅にあったよな
誰が読んでるんだろうと思ってた
歴史群像新書亡くなったからな
惑星に不時着した未来の地球人が科学力で無双するパターン多かったきがする
ミリオタの知識マウントがSF衰退と同じ原因になった
現在のなろうに知識マウントするファンはいない
設定考えるのが面倒だしドラクエとFF足して適当にパクった方がええやろ
現実のifの架空戦記は歴史を知ってないと書けない
異世界なろうは知識なくてもでっち上げられる
>>14
旧日本軍が悪役になる展開はNG
>>14
歴史群像新書の最後の方で売れてた戦国時代の架空ものは中身すっからかんだったぞ
戦艦大和は空も飛ぶし陸も走るしなんなら潜る
クソ面白そう
webに山ほど落ちてるけどかなり雑なんだよな
国民党が勝利してたら現在の台湾文化のようなものが大陸にも広まってて親日だったみたいなの見た時はやべえなと
そりゃ歴史学でIFを禁止するわなと
読んでる途中から
でもこんな世界無いよねって心の声がして冷めるんだよね
ある意味これを解消したのがなろうだろな
幼女とかが現代版じゃねえの
転生先でシカゴ学派を持ち上げるけど
ああいうのって読んでるマジでいるんだっていう衝撃
チートキャラがドーンするだけだから
酷いのになるとミッドウェーもガダルカナルでも勝ってフィリピンやインパールすらも戦術的勝利してるのにどんどん戦線縮小してるやつとかあったな
すげー不利だけど
敵の超弱点を奇襲して成功!逆転!
これできるから架空は楽よね
未完作者多すぎィ!
どうしても無理が生じるんよな
露骨にいやそうはならんだろ…的な展開で冷める
なろうや架空でも1人のキャラが千人斬りとか少数で大群を押し止めたところか倒したみたいなのあるとうへぇとなる
この病になるとフィクションがまったく楽しめなくなる
ご都合主義の極みの上に、途中から話が破綻するからな
艦これやストパンガルパンもこの一種じゃないの
昔は戦争が一大コンテンツだった
今ではオタクにしか知られていない
山ほど乱発して数が大きく質も下がった上に
ネタが限定的すぎて新しい展開がしづらかった
荒唐無稽すぎてな
まだ異世界転生の方がリアリティがある
最初期は戦争経験者世代向けのコンプレックス産業じゃないの
アニメ版ジパングは良作
さすが名匠古橋監督
-
-
まだ有るんだ、こういうの…
廃れた理由は表紙絵がワンパターンだからかもな -
ねぇこれ意味わかんないんだけどこいつ一体何を記事にしてんだ?
まさかよく分からん素人のゴミカス害児のワンレスを元にレス開いてんじゃねえだろうな?
だとしたら気持ち悪過ぎんだろ?
キモオタが勝手にほざいてることのこっちが乗っかって話題にするとかオタクとして人間としてプライドないの?
知らないキモオタが急にこの内容で話しかけてきてそれに野るんかって話?
てめえらが害児がやってるのそれレベルの異常者だぞ? -
そりゃ多角的な視点と戦力分析できる頭脳が必要だからなあ
なろう書いたり読んだりしてる程度の頭では理解できんよ -
幼女戦記とそれ以外の似非歴史風架空戦記って戦争以外共通項なくないか。
紺碧の艦隊みたいなのは風呂場でプラモで遊んでるガキくらいしか相手にしてないんじゃないの。 -
(´・ω・`)正直言うと、いつまでも揉めてて欲しいんですよ
(´・ω・`)その都度ネタに出来て効率よく稼げるんで
(´・ω・`)ボヤを炎上させて大火事にするのが仕事みたいなもんなんで
(´・ω・`)コメも良く伸びるし、お前らこういうのほんと好きだよね -
艦これがこういう駄目なミリオタ文化を上手く中和、もしくは相殺してくれたんだと思う
-
煽っといてやらかんノーコメは草
-
ウヨ専用タイトルだったからな
もう時代錯誤なんだよ 誰も興味無いのさ -
-
最初期の辺はともかく増えると設定だけで話が面白くねーんじゃないの
-
腐るほどあるけどな
異星人とのファーストコンタクトから日本ごと転移とか -
当時の人と比べたら前提条件の知識が全くない
-
大戦略シリーズが衰退して信長の野望シリーズが残った
これが答えじゃないのか -
幼女せんき
-
こう言うのを読むようになってたであろう層を艦これやガルパンが吸収してくれた
艦これガルパン経由でコレ系に流れていっても、可愛い女の子が出てこないから定着しないで済んでる -
話作るのが難し過ぎるから
下手に作るとなろうより陳腐な話になるし作るが理由無い -
>>13
こまけぇことはいいんだよ -
日本にはバカしかいなくなった
-
第二次世界大戦をネタとかウヨしか読まん
普通は興味すら持たない -
>>20
別にそれだけを扱うわけじゃないから
色々あるのよ戦国時代系のものもある -
-
日本三國があるじゃん
-
志茂田景樹とかもこんなの書いてたろ
なろうの流行りと同じで一時期流行ったけど
今は完全にブームの去ったオワコン -
そこら辺の都合の悪い歴史教育は、上手に蓋をしてるしな
-
>>7
キャラじゃなくて兵器がメインだからだろと思ったら、そういえば艦これがあったな -
架空戦記だから別に異世界で戦う戦わせる話でもいいしな
宇宙系とかも星間戦争書いてるのは一応架空戦記になるし -
えーと、あ、政治の話ですか?
-
グランクレスト戦記を過小評価したお前達が悪い。
-
架空話に没頭しなくても戦争してる国あるし、そろそろ対岸の火事では済まなそうだから
-
そりゃ簡単にパクれないからだよ
-
個人的には星界みたいなの書いてくれる人がいると嬉しいな
-
GATEが最後の仮想戦記だろ?
まぁ自衛隊が無双できるのも異世界だけだよな -
>>29
過小評価というかスルーしたというか -
皇国の続きはよ
-
紺碧の艦隊面白かったが対ドイツになってからがなー、より良い負けを
目指してたのに連戦連勝化した日本軍 -
タイトルで昭和って書いてるけど昭和時代(80年代まで)の架空戦記はかなり日本軍について批判的トーンが強かった
タガが外れたのは紺碧がメガヒットした90年代の平成時代に入ってからだったよ -
戦艦大和の設計図が世界中に洩れてしまった結果、何故か世界中がヤマトタイプの戦艦を作って戦うという、ヤマト版Gガンダムみたいなのもあったなぁ
-
初期の頃はまだ良かった
後期は作者知識が乏しくて
船の設定以外がめちゃくちゃ
浅瀬に巨大戦艦を作るとか訳がわからない -
佐藤大輔は続きを書かないまま逝ってしまったなぁ
-
架空戦記はまだ「IF世界」を描こうって努力があるから許せるわ
なろうタイムスリップは何したって結局歴史通りの結果が起きるだけで想像力の乏しさがヤバいわ -
>>34
あれ以降、あれより優れたファンタジーは出てない。
それが悲しいけど現実なのよね? -
GATEは続編やらんのけ?
あと幼女戦記も -
>>29
グランクレスト戦記はリプレイやからなあ…… -
まず作者に歴史や兵器の知識が(ある程度)必要で
さらに読者にもそれが(ある程度)理解できる素養が求められるからな
そのどっちも無いんだからジャンルそのものが消えるのはしょうがない
この前やってた金貨8万枚とかひどかったぞw -
>>42
戦記と言ったら、グランクレスト戦記しかない。(`・ω・´)ゞ
やはり戦記は最低2クールは必要だ。 -
>>43
一応2期が発表されたけど2年近く続報がない -
「紺碧の艦隊」がヤバかったのは史実の日本軍や大日本帝国は愚かだったが、大東亜共栄圏の理念自体は間違ってなかった
聖人君子の国なった日本がアジアの植民地を解放してアジアの人々を善導すればすれば大東亜共栄圏は成功したのにと言い切ったことなんだよなあ -
なろうの歴史ジャンルは現代人が戦国時代の歴史改変して無双とかばっか
アルスラーンみたいに1から歴史作るのなんかほとんどランク外 -
火葬戦記とかいう酷い仮想戦記に対するあだ名があるくらい駄目なもんは駄目でしょあれ
-
プロでも殆ど完結しないから
プロでも殆ど売れないから -
1クールアニメが増えて・・中身のあるファンタジーを作れなくなっている。
分割ではリセット傾向が強い。スマートフォンがそんな感じだな(*≧m≦*) -
俺が好きな作品は書籍化失敗してなろうじゃなくカクヨムで無理やり終わらされたな
戦記と言えるのかなあれ…
戦乱の帝国となろうで検索すると出てくるべ -
>>48
え? なんかおかしいか?
みんなそれが正しいと思ってるけど、日本が主導するのは嫌なだけだぞ
中国だって大東亜共栄圏を目指してるよw -
なろう書いてる人たちが架空戦記もの書くとか艦これでいいでしょ?
-
「サブマリン戦艦空母大和」
それ、架空どころか大日本帝国海軍が実際にやってたぞ -
何でご都合なのに設定が破綻してしまうかなんだよな
-
>>48
別に変でもない
その後に日本が植民地だった国に居座らなきゃ問題ないんじゃね
人間には欲があるから難しいかもな -
>>54
そしてアメリカはそれを蛇蠍のごとく恐れる
ある意味、今は太平洋戦争の再来 -
>>49
転生転移だとそれやらなきゃ意味ないからな -
パクス・ロマーナ ←ローマ帝国が主導する共栄圏
パクス・アメリカーナ ←アメリカ帝国が主導する共栄圏
日本がパクス・ジャポーナやったら駄目な理屈が全くわからないw -
お隣が五月蝿いから
-
>>62
あいつらは無視でいい
どうせ大したことは言ってない -
元ネタしらんとIFなんて楽しめない
第二次大戦あたりのそういう下地となる知識が30年前ならともかく今の読者や視聴者側にあるとは思えないから衰退したのも仕方ないんじゃないかな -
>>58
現地の文化を蔑み、労働力と資源の搾取
力による支配
いったいどうやってそれを正当化するつもりだろう
いや、正当化するための大東亜共栄だけど繁栄してるのは日本だけじゃな -
船は兵器は作る期間や設定が細かいのに
それを作る
ドックや港は1年で出来ましたばっかり
地水工事や埋め立てなんて知りませんが
書いてるやつばっか -
>>2
単純に考証する労力も大変だし作者も頭良い人が減って、
読者も理解できない馬鹿だらけになったからだろ・・・ -
>>61
犠牲に対して成果出せなかったからよ
指導者の無能は罪だ -
>>65
だから居座らなきゃって書いてるのに -
簡略とした戦記が多すぎるのが今のファンタジーの現状と言えるだろう。(`・ω・´)ゞ
すぐ決着のつくww -
>>68
アメリカの洗脳に染まっただけだろ
仮想戦記ってのはそーいうのおかしくね?って疑問を持った人が大勢いたから成立してたジャンルなのだ
おまえらはもうすっかりパクス・アメリカーナを受け入れてしまったのだ -
>>67
×頭良い人
○軍事オタク
だぞ -
>>70
所詮は娯楽だからな -
>>70
さっさと決着つけないと「ダラダラ引き延ばしすな!」て怒られるからしゃーない -
ジパングのこと?
-
なろうみたいに資料集めも何も必要ない、ド素人が他のマンガやアニメで見た知識とテンプレだけで済むジャンルがあるんだから。そりゃ楽な方に逃げるさ
-
なんかむしろ海外の小説で日本が第二次勝った世界の話なかったっけ
-
>>73
スマートフォンの反乱は、1話で終結したしなwwそれが
つまらないファンタジーの典型的な物語と言える。 -
>>77
映画じゃね? -
海外にも一応WW2でナチスドイツが勝ってたらとかソ連が21世紀も続いてたらみたいな仮想戦記的な小説はあるが、しかし基本的には日独以外の国はWW2の戦勝国かつソ連崩壊時の民主主義資本主義国だから
そういう風に自国がやり込められてるみたいな作品は単なる作者のオナニーでしかないんで全く売れないんでキワモノ扱いされてるのが現状 -
>>77
高い城の男な
フィリップ・K・ディックって即出てくるとかっこいいぞ -
空中軍艦大和ってヤマトがはやったから俺らも空飛ばせてみようぜ的ところから作られたのか?
-
ミリオタだけがにやにやしながら読んでた小説だししょうがない
-
>>74
ちゃんとした戦さというものを描けなくなっている。後は尺がないのが問題だww
ワンピースなんて延々と戦っているのになww -
なろうだけど日本国召喚とかこの系統の流れよな
-
架空戦記は昭和より平成のほうが多いんじゃない?
一時期すごい並んでた -
ある程度のミリオタか歴史オタで知識がないと薄っぺらくなって書けないからだろ
あとは娯楽がファスト化してしまったので積み重ねて面白くなるようなものより
手軽に結果を得るような作品がウケてしまってるからだろう -
ミリタリー知識がドラクエに変わったんだろうな
やってることに大差はないし -
>>1
それでも戦国自衛隊は好き -
>>69
逆だろ
占領するつもりで戦争したから共栄なんて嘘っぱちだった -
歴史は勝者が作るって言うけど、今はまさにその状態
まぁロシアくんには頑張ってほしいもんだ -
お前らの(*^ω^*)な鬼滅キタ――(゚∀゚)――!!
-
>>85
漫画しか読んでないけど日本政府と役人が清廉潔白すぎてスンッてなる -
日本語文化圏の物語製造能力にも限界があるからあるジャンルが流行ってたらそちらに労力が割り振られてて別のジャンルは衰退して割を食うのは必然
-
横山さんの八八艦隊は面白かったな
他は日本が勝つんだけど、コレは結局日本が負けるのが新鮮だったわ -
佐藤大輔が死んだから、で終わる話
-
廃れたてより
実在の歴史を元にすると荒が出るから
空想世界ばかりになったんだろ
結局は作者の力量不足 -
日本が太平洋戦争に勝った後で欧米に代わってアジアを支配したため、アジア各地で抗日ゲリラが蜂起して日本が延々と対ゲリラ戦やる話もあったのよ
たしか最後は日本軍が東南アジアで原爆まで使用したはず -
未来の技術の提供とかさ
昭和初期の人間に円盤やUSB渡したりしてたけど
彼らはどうやってファイルを開いたのか
謎だったな -
>>61
日本人はマニュアル通りに動くのは得意だが、自分で考えて命令出すのは苦手な民族
世界のジョークにあるように日本軍は兵士が優秀、士官は平凡、将官は無能と言われてる
トップになって世界を治めるのは不得意
政治でも世界を主導するのは欧米だし、世界的経営者も日本人からほぼ生まれない -
チートが無いから徐々に荒唐無稽になるからね…
なろう系は最初から破綻してるからその心配がない -
>>100
俺らは戦争に負けた歴史を生きてるから、日本は必敗だと思いがちだけど
実際はそうでもない
日本やドイツが勝った歴史も必ずあったはず
そんな世界を妄想する自由があるはずだが、仮想戦記が廃れたのはそーいう妄想すら出来ない不自由な社会になったからでは? -
ゆとりには難しいからだろ
-
昔は三大仮想戦記作家ってのがいてな
谷甲州
佐藤大輔
横山信義
だっけ?
まぁマニアしか知らんだろうが -
WWⅡも大昔の話だしな
大和が空を飛べたら日本が勝っていたかも・・・なんて発想する人も
もういないだろ
三国志や戦国時代がいまだに人気だし、史実マニアは時代に関係なく
ずっといるのかな -
架空戦記なんて、そこら中に転がってるだろ?
-
昭和の適当な考証の穴をついた歴史修正主義的妄想なんて衰退しない方がおかしい
-
例えば秀吉が死んで、家康が天下を獲ったわけだけど
秀吉が生きてた世界線も必ずあったはず
そーいう妄想を面白いと思えない読者は、ちょっとおかしいぞ?
そんなことあるわけないだろって言う子は、今の閉塞した世界に絶望してるだろ -
>>101
むしろその荒唐無稽っぷりを楽しむジャンルだと思うが -
>>102
清やロシアに勝ってるから、別に必敗とは限らない
ただ日本が世界トップの軍事力になる可能性は極めて低いし、万が一なっても続かないのがリアルなシミュレーションだろう
だからリアルさを求めなければ、都合いいフィクションなんかいくらでも作れる -
面白いのは序盤だけ。上手く完結させられる人はほぼ皆無
最初から無理なジャンルだろうこれ -
荒巻義雄がSF作家から方向転換した時は悲しかったな
-
ニセコ要塞とか好きだったな。冷凍凍結された男性とイタす所とか好きだわ
-
>>1
なろうの先輩格じゃねーかw -
横山信義は25年以上も書き続けているな
新作がきっちり2カ月おきに出てくる
この人の芸風としてはトンデモ兵器は出てこない
最新作は日英同盟下のWW2の話だな
米国は同盟国じゃないけどいろんな兵器を日本に売ってくれる -
まぁ仮想戦記が廃れたのは
遥か昔に佐藤大輔が予兆のような事を言っていた
仮想戦記ってのはバブルの申し子みたいな存在だからバブルがはじけると廃れるだろうと -
時代考証とか読者も厄介過ぎるから相当な知識ないと無理よ
-
-
>>64
これやな
架空戦記モノって要は史実を元ネタにした二次創作みたいなもんやからな
史実を知ってるからこそ史実との違いで笑えるのが架空戦記モノの醍醐味なのに、史実を知らなかったらジョークも通用しない -
>>110
どんだけ負け犬根性なんだよ
ユリウス・カエサルを英霊として召喚して戦略戦術で無双しちゃいましたってなろう小説書いてくるわ -
>>116
あの頃はマジでアメリカに勝てると思ってたからな
そりゃまぁ仮想戦記も流行りますはwww -
>>118
書く方も読む方もそれなりに知識いるし、少しでもおかしいと突っ込みの嵐になる
なろうならなんでもありだから好きに書けて、つっこみあっても
そういう世界だからで済んじゃう -
平成のなろう系
エルフを狩る者たち
エルハザード
天地無用 -
>>106
昔ほど緻密にまるで百科事典や歴史書や科学をぶち込んだような
読むほうにも教養を必要とされるような物は今は皆無だろう -
佐藤大輔が死の間際に書き残したのは実はSF作品なんだよな
帝国宇宙軍という銀英伝みたいな作品で1巻が中途半端な所で未完と書かれて締められてる -
>>123
天地無用はなろう系ではなくただのハーレムモノでは? -
佐藤大輔なんか艦隊戦を書くときに自分で砲撃の弾道計算までやってその結果を元に執筆してたからな
こういう事やるようなフィクションジャンルってもうないだろ -
>>120
根性とかそういう問題じゃなく、現実的に考えたらそうなるだろ
欧米文化に染まり、洋服着てる日本人が、欧米主導で生み出されたインターネットで書き込んでるのは負け犬根性じゃなく現実 -
コナミ タイムパイロット
-
>>128
これが結論でいいな
仮想戦記が廃れたのは日本人が現実を受け入れて完全に犬になったから -
WW2が舞台じゃないけどタイラーは仮想戦記に入る?
吉岡さん・・・ -
作家の教養が地に落ちたから書けるわけないだろ
-
-
>>130
仮想戦記ってそもそも日本が勝つだけの分野なの? -
仮想戦記って今と相性悪いのは
今はキャラクターが全てなところあるけど
仮想戦記はキャラをほぼ描写せず歴史背景や背景描写や全体描写に終始する
あくまでキャラ(人物)は作品においての部品一つとしてしかみなさず脇役小道具的な位置づけなんよ だから人物もキャラづけもされないし深く掘り下げられることもない
萌え全盛期の昨今とはとても相性が悪い -
>>134
もちろん負ける場合もあるけど、それは読み進めないとわからないじゃん
読者は日本が勝つか負けるかわからないアンビバレントな状態を楽しんでるんだよ
おまえらはすっかり日本が負ける現実を受け入れている。 勝つ展開など望んでいないのだ -
>>100
最後のは英語が世界共通語のせいだろ。
それが覆せたかもしれない欧米への最後の挑戦がWW2。負け濃厚の無謀な挑戦だけど。 -
前提条件が変化したのに同じ出来事が起きる展開があると、歴史の修正力でも働いてるのかコレって思っちゃう
-
>>104
この3人はSF書いても1流だから3人ともとんでもない教養の持ち主なんだよな -
-
>>136
小説って現実がどうとかより、面白かのほうが重要じゃね?
なろうなんて非現実だらけだろ
勝とうが負けようが面白ければ廃れない -
>>126
チート能力持ちで異世界人のハーレムだから変わらんて -
秋本治も読み切り漫画で書いてた···
-
>>4
なろうの作者は頭が悪いとお前らが思いたいだけで
なろうの作者はまともな奴多い
頭が悪いのは読み手だな基本的に
子供向けが昔は戦争もので今はゲームものであるだけの話
ゲームやってないやつだけがなろうを叩きなさい -
>>137
英語が世界共通語になったのも、イギリスやアメリカが強かったから
日本が強かったら日本語圏の国ももっとあったろう -
高い城の男
-
第二次に限定すればネット等を通じて結局どうやっても日本じゃ勝てないが読者の基本認識だからじゃないのかね
いかに上手く負けるかもしくはそもそも敵対しないかみたいなのは今でもなろうとかで少数みるけどさ
信長近辺の作品は思ったよりはあるよね、国内なら物資は自由に手を伸ばせるし -
>>131
なるわけねーだろ -
>>141
なるほどね
日本が勝つかもしれないって状況は面白くないと -
金平糖艦隊
-
>>147
ところが、バブル絶頂期は日帝が勝つ小説が嘘に思えなかったわけだな
面白いって感覚は普遍だと思われがちだけど、時代や社会情勢で変化する証拠だわ -
>>131
タイラーは違うと思うがヒラヌマが出てくる本書いてなかったかな?
あとは爆竜かなぁ・・・ 作者じゃないけど・・・ -
>>149
いや面白い展開なら勝ち負けに拘らない -
>>43
アニメの続編、って事ならGATEは無理だね
この後中国が完全に悪役だから -
人間対人間だからね
ストライクウィッチーズみたいな人外な敵に人類が結束して戦うじゃないと -
キャラ(人物)描写が一切無くても楽しめるかどうかみたいな教養が読者にも求められるからな
現代のなろうなんて1から100までキャラ描写しかない -
全体的な構成が出来なからだろ。
妙に細かい所は詰め込むが他は何処かで見た内容で設定だけに拘る -
双頭鷲の紋章 東方露西亜帝国秘史
www.cwo.zaq.ne.jp/bface700/ts/ts02.html -
鉄人28号も旧軍兵器だっけ
戦中ネタが通じてた戦後の時代は終わったってことなんやろ
今は戦前だからな平和平和w -
単にネタ切れで飽きられたんだろ
WW2という限られた題材なら似たような話にしかならんし
そもそも仮想戦記がそんなに流行ってたか? -
>>131
それが入るなら「のらくろ」も入るだろ -
架空戦争や歴史なんて60代くらいしか興味がないから。空想するより今を生きなきゃならないのに架空物なんて見てる暇無いやろ。みんなボンビーなんだから。
-
今でも地味に売れてる
SFと同じくらい細々と
たまに売れるので
一緒に買う本の種類からミリタリー好きの人は好きなようだ -
在日は嫌なら出ていけよ
-
昔は川口博もUFO番組もガチンコもノストラダムスも嘘くさくてももしかしたらとか本気で見てた人がくそ多いんよ、世間が狭いからね
今の世はそういうのを信じない+笑って馬鹿にする土壌といつでも確認できる有識者の虚偽判定もあるからね、極々一部の人以外は -
韓国ではたまに安部暗殺、天皇暗殺みたいな小説が売れたりするけど
日本はそういう精神勝利がむなしいと気づいたんじゃない? -
紺碧の艦隊はよく読んでたな
-
レスが大体なろう系みたいな内容だしなろう系の未来の姿だわ
-
妄想的にシミュレーションされた世界のエンタメならすでにゲームがあるからな
ゲームが発明されなければ小説はまだベストコンテンツだったかもな
なろう系は小説の延命処置みたいもん -
>>167
最後転生してきた人達消えていくんだよな -
まともに考えるのがめんどくさくなったんだよ。
萌えキャラが肌も露わな姿で活躍する方が客の食いつきもいいだろ?
戦艦や戦闘機みたいなメカはロボットより前の文化だし、ガンダムでダメなもんが今更読者に受けるとは思えないね。
作家だって飯食う為に小説書いてるんだから売れる方を書くさ。
時代が変わったんだ、あきらめろ。 -
架空戦記が受持っていた大戦期ミリオタがいなくなったわけじゃなくて
より居心地の良いガルパン艦これストパンに移行しただけだろう -
ガルパン艦これストパンだと、この系統だと艦これが近いが
「けれどそうはならなかった、ならなかったんだよ」
が根底にあるので、蘊蓄でニチャってくる厄介ミリオタは相手にされずにネームドアンチになった -
皇国の守護者・・・遅筆の上に作者死亡・・・
-
>>102
歴史にifはないは名言だな
仮想は仮想という前提を守らなきゃ妄言に変わる -
>>1名前:名無しさん 投稿日:2023年04月30日ネトウヨは架空戦記読んでそうだしなw
?これ系のコメントはだいたいやら管の同士 -
第二次大戦を元ネタにしたフィクション小説を作ると
おトナリの某半島国家が実話扱いをして
謝罪と賠償を要求してくる
そのせいで第二次大戦の架空戦記(ホラ話)は
出版業界がタブー視していると思われる -
空母いぶきなんて
現実の方が追い越しちゃったからな -
>>24
志茂田景樹の読んだことあるけど、まあ酷かった
元々戦争や兵器に造詣が深いわけでもなさそうだし、流行ってるから便乗した感満載だった -
幼女戦記は熱が冷めないうちに出せば普通に売れると思うけど
現実のロシアへのヘイトが強くなってる現状
ロシアと戦う続編をやりにくくなってる感 -
佐藤大輔がやる気なくしてそのまま逝ったから
-
せんちゃ版なろうがgateだしな
-
けっきょく理屈っぽいおっさんが理屈っぽいこと言う話になりがちだから
戦記物ってニッチなんだよ元々
ガンダムとか銀英とかの理屈っぽいおっさんすんげえってアニメで育った
40代あたりにしか刺さらん -
俺TSEEEEEEEEEが読者が一番スカっとできてウケが良いんだろうな
-
オワコンかどうか知らんが未だにこのジャンルは出続けている
少なくとも一定の需要があるのは確実で、じゃなければ書いたところで売れないし、連載も続かない -
主人公がネチネチ小男
中国がー韓国がーって五月蝿い
光の戦士プーチン
↑みたいなテンプレ踏めば踏むほど
マニア向けになっていく難しいジャンル -
佐藤大輔の架空戦記はなかなか良かった
レッドサンブラッククロスとか -
chatGPTのAIに
『WW2を引き分けに持ち込んだ大日本帝国、それから100年後西暦2045年に大日本帝国宇宙艦隊が太陽系の覇権を賭けてアメリカ合衆国宇宙艦隊と木星宙域で戦う小説を書いてください』
と頼むとなかなか面白いハナシを書いてくれたよ -
戦国自衛隊とかか
-
幼女戦記は結局負けるからツライ
なろう系じゃないけどアルキメデスの対戦だってどうせ最後は負けるんだろうから読むのやめた -
>>64
ちょっとわかる
俺が子供の頃だと学校の図書館には近代の歴史が書かれた本があって、それで太平洋戦争の流れがわかったもんだが今はどんなだろうと思う
第2次世界大戦自体は頻繁にあった映画でと言う程度だったが、今そんなに戦争映画もないしな
下地になる知識が段違いだろうな -
>>84
だから、ワンピめっちゃ叩かれてるだろ
特に闘いが散発して、二度もカイドウとの直接対決を中断したりで露骨な引き延ばししてたワの国編 -
>>139
つうか、仮想歴史戦記がSFからの派生というか1カテやし…… -
紺碧の艦隊のアニメ
MXさん 放送 お願いします -
GATE 自衛隊 って
コミカライズは 有るの -
ジャンルが続きすぎてマニアが出てきて、考察が甘いと突っ込まれる
かといって考察を忠実にするとどうしても日本を米国に勝たせるのが難しくなる
けっきょくトンデモ兵器目白押しの旭日の艦隊が一番おもしろかったねとなる -
むしろブームになったモノでオワコンにならない方が珍しいだろw
-
幼女戦記は小説版で新しい将軍が追加されて、理解ある有能な指導者がいないから負けたweb版と違う展開になると期待した(過去形)
-
ドリフターズは架空戦記・仮想戦記とかいう『昭和のなろう系』に入りますか?
-
リアルにしすぎた結果、ラストで主人公側が負けたり無残にというかけっこうあっさり淡々と死ぬとかになったりすると、ずっと読んできたのが無駄に感じるからな
それだったらなろうみたいな俺つえーもののが読んでて楽しいってなるよな
まあ最初から何の苦労もなく俺つえーする作品はすげーつまんないけど -
とりあえず関東軍は悪役にしても良いという風潮はあったと思う
-
>>14
大戦略シリーズは単純に技術力が足りなくて死んだ気がする
大戦略エキスパートWWIIを最後に、クオリティの高いゲームが出なくなった -
なろう+愛国っていう悪魔合体だからな。廃れるのは当たり前。
-
艦これとかまさにこれだよな。プレイヤー的には全部勝利してるはずなのに呉空襲とかされてる。
酷いのになるとミッドウェーもガダルカナルでも勝ってフィリピンやインパールすらも戦術的勝利してるのにどんどん戦線縮小してるやつとかあったな -
アニメ版ジパングは脚本おかなかったのが正解かな。
漫画からコンテ起こしてた。
他の作品でやったら失敗するかもだが。 -
そもそもどうして米英と戦うことになったかといえば、中国と戦うための石油と鉱石の輸入を米英に止められたからで、米英倒しても中国との戦いは続くし、中国との戦いを止められるなら米英と戦うこともなくなるんだよな
-
歴史ネタは時代と共に「変えたかった史実」が研究によって変わってしまうことがある。
それが廃れた要因。
そう言うのを回避するために今は異世界なんだよ。 -
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-
架空戦記って今も昔もノベルスの端っこに少しだけ置いてあるってイメージだし
オワコンって言われるほど流行った事なんか一度もないだろ -
過去に戻ってやり直しとかなろうと変わらん
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なるほど、興味が持てない
だってなぁ? -
絶対に長編になるし作者が投げる可能性高いから読者がついてこないだろ
-
飽和しすぎただけだろ
40年以上やってんだから
日本で出版する以上日本が勝つように描くのが必須で
そうなるとほとんどの兵器特に艦船、パターンが出尽くして、読む側も飽きて離れていった、それだけの話
個人的には「宇宙戦争1941」が好きだったけどな、南雲機動部隊が真珠湾奇襲したらハワイはすでに謎の円盤と三脚歩行兵器に襲われて炎上してたってところから始まる話 -
昔のなろうみたいなもんか
-
>>194
MXじゃないけど、かなり昔にやったぞ -
ブームは紺碧の艦隊からはじまったが、全体構成が破綻してるんだよな
「これはシミュレーションではなく、ただの小説ですから、間違えてもいいのです」
「これはただの娯楽小説ではなく、シミュレーションですから、間違えていません」
正反対の戦略目標を、ひとつの作品の中で達成できるはずがないのだが
ここに気付かない作家、編集者、読者が「戦略」を語っているのだから、片腹痛いw -
そもそもブーム初期の作家たちには接点がある
荒巻義雄、檜山良昭、佐治芳彦、戸高一成(大和ミュージアム館長)=日向仁、そして学研編集責任者の太田雅男には共通の知人がいる
「80年代オカルトの黒幕」との異名を持つ、ムー編集顧問で八幡書店社長の武田崇元という人物の影にちらついている
(荒巻=狂信的愛読者、檜山、佐治、戸高=寄稿者、太田=ムー創刊時の副編集長) -
武田という人物は元学生運動家で、日本に争乱を起こす目的で八幡書店を設立
ムーや怪しげな通信販売でボロ儲けし、コミックやSF小説を使ったメディアミックスを多用したんだな
戸高とは79年頃に知り合った模様で、90年頃に雇われ社長だった戦記専門出版社が経営破綻すると、八幡書店が吸収合併した
折しもバブルのいけいけどんどん、日米開戦半世紀が重なったんだな
その折りを狙って、近代史の陰謀論を広めるため、架空戦記を乱発したのではないかと -
「紺碧の艦隊4」で使われた参考資料「操られたルーズベルト」(プレジデント社)は、オウムの機関誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」でも使われている
麻原は80年ぐらいから八幡書店に出入りしはじめ、武田の紹介でムーに寄稿
ちょうど空中浮遊した写真が掲載された号の編集長が、学研が架空戦記に参入したときの編集総責任者の太田雅男
オカルト人脈が架空戦記を立ち上げたんだな
ちなみに徳間の荒巻担当だった故芝田暁の父親は、共産党50年党員で有名な平和運動家の芝田進午だったりするw -
ブームになったのはともかく、「なんかおかしい」と察知できなかった=洞察力のない作家、出版社=編集者たちほど大挙参入したんだな
変な話だが、オカルト人脈が最優先でデビューできた
ついで裏事情を察知できなかった作家、「テンプレ通りに書けばいい」作家の順
下手に歴史や軍事知識がある人間ほど、編集者や読者の意向に逆らうので、出しもらえないことになる
そりゃつまらないものが増えますよと -
「架空戦記はすべてつまらない」とはいわないが、「娯楽小説なのか、シミュレーションなのか」をはっきりさせない段階で、半端なものしかできないんだな
「格闘技だ、ショーだ」のダブスタを使っていた頃のプロレスと一緒
「どちらが良い、悪い」ではなく、「どちらに全力を集中するか」が戦略の鉄則だと
全力を尽くそうとしないから、ダブスタで誤魔化そうとしているだけ
だから「娯楽小説だ」とカミングアウトすれば、まだ面白い小説ができる可能性はあった
結局それができない作家は、「作家としての戦略」を間違えてるんだねw -
1 専門的なシミュレーション(正確だが、普通の読者が読んでも面白くない)
2 SF的設定を取り入れた小説(多少のミスは許容されるが、売れそうにない)
3 娯楽小説(不正確でも許され、大当たりする可能性はある)
「3つのどれがよくて、悪いか」という話ではなく、「どれに絞り込むか」ってこと
架空戦記が駄作になる率が高いのは、作家や読者が3のくせに、1であるかのように振る舞おうとする
専門書を読めないコンプレックスがあるのに、「専門家に匹敵する」といわれたい読者が多いから、編集者もリクエストを受ける作家に書かせる
人並みの羞恥心があれば、そんなリクエストは拒絶けどねw -
>>224
誤 拒絶けどね
正 拒絶するけどね -
しかし架空戦記側だけがクソって話でもない
一見まともな戦史研究家にしても、架空戦記に批判的な言説をしていながら、戸高が関係していることを知っているので、その部分は批判せずに回避しようとする
神立尚紀が好例だが、仕事を回してもらっていた戸高が歴史偽造に関与していたことを指摘されたら、突然ギレだした
自分は読者に「戸高は架空戦記に関与していない」と偽情報を流そうとしたから、戸高が自分を騙していたことには気付かなかったのだと
戦史研究家がだらしなかった間隙を、歴史偽造を広めたい人たちが架空戦記を使って突いたんだな -
荒巻の「猿飛佐助シリーズ」だったが、不快な描写があったな
相手側にいる、転世しなかった史実の武将が当時の所作で戦に臨もうとしたら、転世した主人公たちが編成した小銃隊が「古くさい」といって射殺する
史実の人間が、当時の行動通り動いて何が悪いんだ?
オーパーツである自分たちが、史実に対して自分たちの価値観を押しつけることこそ、思い上がりだろうに
それこそ相対的に物事を考えるなら、自分たちの前に「未来から来た」と称する人間が現れたら、彼らのいうことをすべて認めるのかと -
結局架空戦記、仮想戦記とはSFと似て非なる存在なのだろう
「転世自体が悪い」とはいわんけど、転世しなかった人たちを理解しようとせず、転世した人間の価値観を強要しているだけ
「どうやって理解してもらったか」という描写は長くてかったるいから省略し、「ともかく理解してもらった」で話を進めていく
そりゃ連戦連勝で間違いないよ -
>>228 ある意味これは、左翼系平和主義者の論説と同じだったりする
「世界が憲法9条の精神を受け入れれば、平和になる」のかもしれないが、「どうやって受け入れてもらうか」についての具体的な策は書かない
「ともかく受け入れられた」を理解できないのは、「憲法を理解する精神がない」と
平和主義の論理論法は、実は彼らが批判している旧日本軍の精神的な部分と相似形で、一周回って架空戦記でも使われているんだな
徳間の担当編集者の父親が平和主義者とは書いたが、共産党員でも「アメリカをやっつけてくれるから」と架空戦記が好きな人間もいるそうだw
なんだかなぁ -
>>228 >転世した人間の価値観を強要
「小説の中」だけで完結していれば、まだいい
「架空戦記とは、俺たちが理解できる作品なのであって、他の読者たちも俺たちに合わせるべきだ」となると、言い過ぎだろうに
少数の好みに合わせれば、大衆小説ではなくなるのだがな
「少数しか読まない大衆小説」、「専門家の読まない専門書」という存在になるのだから、誰も評価しなくても当然だと -
>>24 >>179 馬場祥弘って知ってるかな?
芸人のパーマ大佐が「森のくまさん」の替え歌を歌ったとき、作詞者と自称して差し止め請求をした人物
ところがこの御仁、作詞者不明の歌を「自分が作詞した」と名乗り出て印税をかすめ取ろうとした著作権ゴロとして有名だったりする
「森のくまさん」だって、自分が小学生時代に作詞したことになってしまうw
この人も架空戦記に参入したんだな
まともなものができるはずがないんだ -
削除項目に引っかかるかも知れないが
架空戦記を担当していた編集者(上記写真に担当作品あり)の同級生と知り合ったのだが、学生時代はずっといじめられっ子だったのだと
理由は、彼が身障者とか明らかに自分より弱い相手を執拗に虐めていたので、見るに見かねた同級生たちが「自分がやられないとわからないのか」と止めさせるために虐めた
しかし中学終了まで、自分が虐められていた理由に気がつかなかったのだと
そういう編集者に、まともな小説を編集できるはずがない -
「紺碧の艦隊」が、転世=タイムスリップ(縦移動)とパラレルワールド(横移動)を同時に行う、禁じ手を使ってしまった
物語がその世界で展開されるのは勝手だとして、史実のIFとはまったく関係のなくなっていることに作者が気付かなかった
というか「この作品はIF、シミュレーション」、「史実とは関係のないSF小説」と都合に応じて使い分けたから、作者自身が作品世界の整合性をぶっ潰した
熱狂できる読者ほど、意外と深く読み込んでいない -
謎本でも指摘されてたが、ルースベルトの名前が史実と別人と判明したのが4巻
1巻から3巻まではルーズベルト、チャーチル、ヒトラーが「史実の人間か、別人なのか」が区別されない書き方になっている
4巻刊行段階で「旭日の艦隊」が中公から出ることが決まり、話を合わせるために「史実とは別人」であると読者に明らかにしたのだと
面白いつまらない以前に、小説としておかしいと思うんだよな
ストーリーの根幹部が簡単に変更される小説って、基本戦略ができてないわけでしを
そんな作者が、史実の日本軍を批判できるのかと -
「架空戦記を批判的に書いた」からといって、「架空戦記が嫌い」ではない
荒唐無稽なのが悪いのではなく、むしろ正々堂々と「荒唐無稽な小説なのだから、シミュレーションではありません」といってくれれば済むだけ
ところが「シミュレーション小説」と半端な名称を付けることで、
「ただの娯楽小説ではなく、シミュレーション」
「シミュレーションではなく、ただの娯楽小説」
と都合に応じて使い分けようとしている
そういう卑屈な連中ほど集まったから、架空戦記がつまらなくなっただけのこと -
>>221 >>234 >謎本
荒巻自身が、紀伊國屋旧札幌本店で立ち読みしたんだと
「操られたルーズベルト」の米版元が、米政府が反社会的組織と認定してたとか自分の気付かなかったミスまで指摘されたのを知り、売り場で奇声を上げてそのまま失×脱×
それを中央公論の販売担当が社内で広めて、爆笑してたんだと
外伝を書いた大木(赤城)毅も笑い者にしたそうだが、心底卑屈な連中が揃ってるんだな
大木にしたところで、師である戸高一成が歴史偽造運動に荷担していた過去にはまったく気付かなかった
人間的に問題のある連中しかいないのかよ -
>>236 >人間的に問題のある連中しかいないのかよ
横山信義は、本名信太郎名義で「と学会」に参加
山本弘とかと荒巻や他の作家の悪口を言ってたのを、編集者には知らせなかった
「義」という字はデビューに尽力した荒巻からもらったのに、その恩はしっかり忘れてる
読者から「さすがにまずい」と指摘され、編集者を経由して「と学会に参加してもいいが、公的な場所で文章は発表しない」よう注意されたのだとか -
>人間的に問題のある連中しかいないのかよ
檜山良昭は京大史学科の院で指導教官とトラブルになり、歴史学者になるのを諦めた
あとがきなどに「歴史学者は想像力がない」など、恨み節を書いている
荒巻も。SF作家の主流からは外れてしまった
大なり小なりみんな劣等感を持っているとして、諦観や昇華できなかった人たちの怨念が、架空戦記の底流に流れているんだ
作家、読者、そして編集者の劣等感、恨み節が共鳴し合って架空戦記ができてるわけ
軍事や歴史の知識、描写力の有無以前に、諦観や昇華ができた作家、読者、編集者には心を揺さぶられるものがないんだな -
>>238
逆説的な言い方になるが、現在架空戦記に集まっている作家、読者、編集者がいなくなったほうが、まだジャンルとして再生できるチャンスはあるw
「どうして多くの人に読んでもらえないのか」という問題は、「自分たちが多くの人たちに受け入れられようとしていない」ってことすら理解できていない
「多くの人たちが、自分たちに合わせるべきだ」と信じて疑わないんだな
とどのつまりは「架空戦記がつまらない」のではなく、「つまらない人間が架空戦記に集まって、つまらないジャンルにしてしまった」んだよ
結局再生なんてできない(再生できるなら、その以前の段階で手を打っている)んだな -
>結局再生なんてできない(再生できるなら、その以前の段階で手を打っている)
「日本が勝っているのに、本土を空爆される」のと同じ
1年前に刊行された作品が、「特価本80円セール」に流れても売れていない
紺碧の艦隊はブックオフで買い取り拒否されたとか、霧島那智の某作品は返品率95%って伝説まであるからなw
売れそうな展開、キャラなどを揃えてるのに、どうして売れないのだと?
根本的な問題から目を背ける作家、編集者、読者だけが集まって、「戦略」とか「シミュレーション」とかそれらしい言葉を並べているだけでしょうに -
もっとも架空戦記だけが悪いわけじゃない
不況と読書離れのダブルパンチで、出版社はより売れるものを求めるのは自然のこと
ところが平素から読み慣れた客より、読み慣れていない客を集めるほうが容易いと考えた
作中に矛盾があっても作家を叱咤しながら「どう克服するか」を一緒に考えようとする読者を斬り捨て、矛盾に気付かなかったり、自分の趣味に合えば許容するような読者を優先した
「読まない読者ほど買う」という、冗談みたいな状況なんだな
作家、編集者、読者の質が同時に低下したってことだよ
そんな時代の典型例が、架空戦記という形になったわけで -
日本人は、意外と荒唐無稽を誤解してるからな
「西部警察」みたいに、1つの署にスーパー装備が集まることもないし、所轄署刑事課の人間が全員出張して、他警察の事件に介入することもない
それなら「大激闘マッドポリス80」みたいに荒唐無稽なストーリーが転がるような荒唐無稽な設定にすればいいのに、そこまで行けば引いちゃう
ぶっ飛んだ荒唐無稽はダメだが、半端な荒唐無稽さのほうが優遇されると
架空戦記で荒唐無稽を追求するなら、胸を張って「シミュレーションなどしていません」と言い切れるはずなのね -
>>242 〉胸を張って「シミュレーションなどしていません」と言い切れる
聞いた話だと、ある編集者が「シミュレーション小説は、シミュレーションではない」と口にしたそうな
それならそれで「シミュレーション小説とシミュレーション」、「シミュレーション小説と他の小説」との明確な境界線を設けようとしない
境界線を明示して「このなかで頑張ります」といってくれれば、どれだけ嫌いでも存在を否定しようとは思わない
「今は正確なシミュレーション」「今は間違えてもいい荒唐無稽な小説」と作家、編集者、読者がその場その場で境界線を変えるから、架空戦記が好きになれないんだな
言い方を変えれば小説の内部に御都合主義があるのではなく、構造自体が御都合主義なんだと
それが異常と思わない作家、編集者、読者が、「戦略」を口にするから、余計に滑稽さが際立つ -
そもそもシミュレーションは専門家の専任事項なのであって、多少の知識があっても「できます」とは言い難いもの
架空戦記の作家、読者が「できます」と口にするのは、専門家の領域を土足で踏み荒らしているのと同じ
先方に失礼という意識、常識が欠落してるんだな
専門家の顔を立てることで、共存共栄を図ろうなんて思いもつかない
軍事戦略以前に、作家としての戦略すらわかっているか怪しい
というか作家としての戦略、専門家に失礼という意識、常識を持ち合わせている作家には、架空戦記というジャンルに魅力を感じないのだと -
架空戦記作家は、他の作家を「軍事、歴史の知識、想像力、危機感がない」とも批判しているが
しかし作家は、まず小説の土俵で勝負すべきなんだよな
結局架空戦記作家は、他の作家には「シミュレーション」、専門家には「小説」の土俵で戦えと言ってる
それこそ潜水戦艦wが、戦艦に「潜水で」、潜水艦には「砲戦で」勝負しろというようなもんだと
自分がアウエーの土俵、ルールに立って、相手から評価、賞賛されるのではなく、常に自分が有利な土俵、ルールを設定して「戦えないヤツは卑怯」と口にしてるんだな
卑屈で、人間性に問題のある連中しか集まらないのは当然だと -
>>244 これは書いていいかわからんけど
親族に元防衛研究所研究員がいて、佐藤大輔の「逆転太平洋戦史」を見せたら、第1章の真珠湾攻撃のイフの設定部を読んで同じ感想だった
「これ、わざわざシミュレーションしなければならない問題か?」
「史実の南雲艦隊にとってマイナスの要素が、すべてプラスに転じていたら」、史実以上に日本が勝つだけのこと
「佐藤のシミュレーションが正しい、間違い」ではなく、専門家は「する意味がない」と切り捨てる
つまり「正しいシミュレーションができる人ほど、していない」という矛盾に落ち込むんだな
膨大な知識量、緻密な描写力が、意味をなしてないんだな
たとえ佐藤ほどの知識がなくても、常識的に考えれば架空戦記の存在意義に疑問を呈するはずなのに、それがないのは、佐藤の立脚点がおかしいわけで -
普通に考えれば、佐藤大輔と霧島那智の知識量、描写力には極端な差がある
しかし「架空戦記の矛盾に触れない」でくくり、外部の視点から見れば、両者の差はそれほど大きくない
佐藤信者は認めたくないだろうが、知識や描写とは別の部分で、両者にはなんらかの共通項があるのだと
そうでなければ極端に差のある2人が、同じジャンルに住めるわけがないので
真っ先に思いつくのは、常識の欠落なんだがなあ -
>>242 「西部警察」だと、警察庁直轄の広域特別車両班とでもすればよかった
「西部署」という縛りを外したほうがスーパー装備を揃えられるし、他警察の事件にも介入できるし、好き放題できたんだな
架空戦記も荒唐無稽が悪いのではなく、まず「シミュレーション小説」という縛りを外せよと
縛りを外せないのはそこまで吹っ切れるのが怖いのと、シミュレーションと銘打つことで、他者に妙な優越感を誇示したいからなんだろうな
だから集まる連中の卑怯卑劣さが際立ってしまう
「荒唐無稽なシミュレーションが正確だ」なんて二重の矛盾で、なんの意味もなしてないのだがなw -
>>243 作家と読者の責任分担をはっきりさせる意味でも、境界線は必須
「ここまでは作家、編集者の責任で、読者が騙されたら、作家、編集者が悪い。しかしこれ以上は読者の責任で、読者が騙されても、作家、編集者は悪くない」
フィクションを安心して楽しむため、相互の信頼関係を構築しなけりゃならない
ところが架空戦記は境界線がその場その場で変わるから、責任分担も曖昧なんだな
というかわざと曖昧にすることで、作家や編集者が負うべき責任を読者に負わせているわけで、読者を信頼なんかしてないんだな
まともな読者は「おかしい」と気付くが、架空戦記の読者はそれがわからない(常識、洞察力がない)
偽情報が紛れ込んだら、免疫がないにも等しい怖さがある -
>>248 〉吹っ切れるのが怖い
荒巻義雄は「SF」を使っていたが、檜山良昭は「スペクタクル小説」だった
ここは作家側の問題ではなく、「SFは子供っぽい」という偏見を持つ読者を取り込むために使わなかったのだろう
しかし実際はSFの設定、展開を用いていても、「SFにすらなっていない子供っぽい代物」が市場を席巻した
「どうやって転生しなかった人間とコミュニケーションをとったか」を排除して、「とにかく理解できた」
「元の世界に帰ろう」よりも、「ともかく世界、歴史の改変」
作品世界は壮大なのに、やってることは薄っぺらい -
普通のSFなら、「主人公たちがパラレルワールドに飛ばされた→元の世界に帰ろうとする」
しかし「帰るためには、パラレルワールドを改変せねばならない→それが許されるか苦悩する」
その最中に「敵が迫ってきて、やむなく反撃→撃退してその世界の住民に賞賛されるが、さらなる敵が攻めてくる→ますます自分は帰れなくなる」
「さすがに住民たちも悪いと感じる→コミュニケーションの齟齬が発生→両者がようやく理解し合い、「世界の改変」と「元の世界に帰る」の折り合いをつける→最終決戦で多大な犠牲を負いながら辛うじて勝利→住民と主人公たちとの涙の別れ」ってのが、是非は別として王道の展開
架空戦記、なろう系は「王道の展開」をかなり端折って、戦闘シーンとかに妙な力を割く
面白くない以前に、作品としてアンバランスなのだと -
「ガンダム」は冨野が作品世界、人間ドラマに傾注したかったから、兵器の設定とかは他のスタッフに一任して、分業がうまく機能したんだな
そのガンダムに熱狂した連中が兵器に興味を持ち、「自分たちもつくろう」と考えるまでは悪くない
問題なのは兵器の設定、戦闘シーンが主になり、作品世界や人間ドラマが従になったと
実際の軍でも技術など専門スタッフは戦略に口出ししないという不文律があるのに、専門スタッフが戦略に関与しておかしくなるというダメの典型例になってしまった -
>>252 >専門スタッフが戦略に関与しておかしくなるというダメの典型例
「作家に相応の知識がないと書けない」という意見は多いが、半分だけ正解
コア読者の琴線に触れる知識が豊富だと、彼らが熱狂的に支持してくれる
ところが触れない知識がどれだけ多くても、支持しないどころか、「そんな知識は無駄」と無碍に切り捨てられる
佐藤大輔のシミュレーションを防衛研究所研究員が「読めない」といったように、研究者とかが書いても見向きもされない可能性すらある
歪な知識の持ち主が熱狂的な読者になり、作家をチョイスするのだから、彼らの知識のアンバランスさが作品世界にまで投影されちゃうのだと -
「架空戦記が嫌い」なのではなく、「架空戦記が嫌いな人間の集まる場となったから、嫌い」なんだよな
「興味本位の歴史改変」はともかく、架空戦記に集まる作家、読者は必要以上に現実社会から疎外されていると感じている
自分たちの恨み辛みを作品に投影し、「自分たちが中心となった世界」を構築しようとしている
(立ち上げにオウムと関係した人物が関与しても、おかしくはない)
彼らと似た価値観の持ち主以外には爽快感が感じられない、「少数の人間しか共鳴できない大衆小説」だと
社会もおかしいが、アンタたちが疎外されているのは、こんな小説に集まるアンタたちがおかしいからでしょうに? -
小説だから大和が空を飛ぼうが、キャタピラ履こうが構わんけど
「とんでも系シミュレーション小説」と名乗ってるが、シミュレーションなんて言葉を取っ払って、ただの「妄想系娯楽小説」でいいじゃね?
というか作家の青山智樹、ブレーンの松田孝宏は、大和ミュージアム館長戸高一成の舎弟でしょ
戸高は「さすがにふざけ過ぎ、戦没者に失礼」とは言わなかったのかね
なによりミュージアムに出入りしてたら、普通の神経では「書かないでおこう」と思うはずだが
そこに気が回らないから、20年以上戸高が歴史偽造と関係してたことを見抜けなかったんだろうに -
>>249 〉境界線がその場その場で変わる
そんな超兵器、できるわけないやろ→小説なんだから、出てきて何が悪い
その超兵器が海戦で大活躍→正確なシミュレーションに基づいている
超兵器が大活躍するなら「シミュレーションではなく、娯楽小説」でいいし、正確なシミュレーションをしたいなら「超兵器は不用」でいいのにさ
ところが「荒唐無稽なシミュレーションが正確だ」と妙な論理論法をふりかざし、得意顔になる
このおかしさに気づかない連中は、社会から嫌われても当然だろうに -
俺も強度のコンプレックス、疎外感は持ってるけど、まず同じような価値観の人間とだけつるみたいとは思わない(面倒だし、つまらん)
また自分の価値観が世界、社会の中核になってほしいとも思わん(それはそれで息苦しい)
コンプレックスも疎外感が昇華して諦観、達観になったから、知識以前の段階で架空戦記を受け付けられない
読める読者は、その域まで達してないのだろうな
自分と同じ価値観の人間と集まり、それが世界、社会の中核になってほしい
実現した仮想世界に没入し、優越感に浸っている
オウムと大して変わらん -
>>153 そ、本来「結果」と「過程」は別であるもの
「日本が勝つ、負ける」のどっちでもよく、「過程がしっかり描かれているか、否か」で判定されるもの
ところが「娯楽小説なんだから、日本が勝ったほうがいい」が目的となった
「史実を少し弄ったら、どうなったのか」から、「日本を勝たせるには、史実をどれだけ弄ってもいい」に変容したんだな
防衛研究所所員が頭を抱えた、佐藤大輔の「マイナスの要素が、すべてプラスになっていたら」もその好例
過程なんて、どうでもいいんだわ(細かい記述に喜ぶか否かが、オタと一般客の差異
娯楽小説なんだから、日本が勝つに決まってる結末は悪いとは言わんけど、それを「シミュレーションに基づいている(小説)」と称するのは人並みの羞恥心、歴史や研究家への敬意のある人間には書けないし、読めないよと
ガサツな人間しか集まらないから一般客には売れないし、専門家も見向きもしないだけ -
たしか荒巻義雄の「紺碧の艦隊」初版が23000で、50刷ぐらい出た
その荒巻も、シリーズが伸びるに従って展開がグタグタになり、末期は初版30000が履けなかったと聞く
90年代は大手で20000弱、中堅で10000前後、弱小で8000ぐらい
ただアフガン侵攻に便乗した霧島那智の「アフガン」は、コンビニ配本もしたので30000ぐらい刷ったとの噂
しかし内容がお粗末過ぎ、返品が90%を超えたと
今は大手で10000、弱小で2000行くかどうか
作中で連戦連勝するのに、現実世界では負け続けなんだよなあw -
>現実世界では負け続け
俺も現実世界では負け続けだけどさw
作家、読者の「本当の俺はこんなんじゃない」という恨み辛みが、作品世界の中に投影されるから、「面白いつまらない」以前に読むのがしんどい
現実社会で大逆転するため地道な努力するとか、「所詮現実なんてこんなもの」という諦めの境地に達した人間には読めないんだな
努力は面倒、達観に達しない、そのくせ社会の中心に立ちたいって思い上がりを持った人間しか、手に取らないのだと
そんな人間が2000から10000もいるのは、現実の日本が病んでるんだよなあ -
>>233 >「紺碧の艦隊」が、転世=タイムスリップ(縦移動)とパラレルワールド(横移動)を同時に行う、禁じ手を使ってしまった
さらに「歴史改変」(斜め移動)も
普通のSFではタイムスリップ、パラレルワールド、歴史改変の「どれか」を行うのだが、「全部のせ」しちまったんだな
「タイムスリップしたパラレルワールドの歴史を改編する」のだから、何が起こってもおかしくないわけで、「おもしろいつまらない」以前にしらけてしまう -
>>261 「全部のせ」しちまった
ラーメンで喩えると、メインがチャーシュー(タイムスリップ)なのか、味玉(パラレルワールド)なのか、ネギ(歴史改変)なのかブレブレだと
そもそも本体のラーメンの麺(戦闘シーン)、味付け(人物描写)、スープ(作品世界)のすべてが貧弱で、それを誤魔化すための「全部のせ」だったと
軍事知識の有無以前にまともな作家、専門家は書こうとはしないし、常識ある読者ほど早く見捨てるだけのこと -
不細工な女の子でも、大幅に整形すれば表向き美人にはなれる
「美人になってモテモテになりました」のは結構だが、事細かく誰とどんな交際をしたかを細かく話されても、聞くほうが辛くなるだけ
架空戦記も同じで、まだ「超兵器ができて大逆転しました」で済めばいい
事細かく「戦略がこうなって」と話されると、正しい間違いではなく、聞くのが辛い
個人的に整形に1000万かけた女の子は知っているが、たしかに別人のように美人になって、男からモテモテになった
だが親御さんが呆れてしまい、実家には帰れなくなったそうだ -
40年代の経済成長、工業化と輸出大国に変貌するには実現するため、「日本は戦争で負けたが、個々の兵士や兵器は優秀だった」という神話、伝説が必要だった
それが大和神話、零戦伝説のはじまりなんだな
「大和と零戦だけ書いていれば、食うに困らない」と某戦史研究家が口にしたそうだが、客観的な戦史研究がなおざりになった
そんな戦史に過剰な反応したのが、社会からの疎外感を持っていた連中だった
方向は正反対だが、医療、教育といった高度経済社会を支える=直接恩恵を受けない職種の人が、左翼史観に傾いたのと共通(担当編集者の父親が左翼系平和運動家なのも首肯できる
彼らがバブルと真珠湾半世紀に反応し、フィクションのなかで「自分たちが中心の世界」を実現しようとしたわけ
「紺碧の艦隊」冒頭でクーデターが起きたのも、擬似国家がつくられたのも、参考資料がオウムと一緒だったのも、納得できるんだな
書くのも読むのも自由だが、連中にここまで洞察する力もないわけで -
シミュレーション…特定少数の専門家向け、正しければ面白くなくてもいい
娯楽小説…不特定多数の一般読者向け、面白ければ正しくなくてもいい
そもそも方向性が正反対なのに、「シミュレーション小説」でくくってしまった
そのうえ「シミュレーションとシミュレーション小説」、「娯楽小説とシミュレーション小説」の境界線は明示しなかった
結果娯楽小説家がシミュレーションという専門家の領域を土足で踏み荒らしたどころか、陵辱し尽くすと「娯楽小説です」と荒らしたまま逃げちまった
心ある専門家はもちろん、普通の作家もいい気がしなくて当然だと
架空戦記を書く作家が普通の小説を書いても売れなかったのは、こういう配慮がなかったからなんだがな -
>>245 自分たちは「専門家に匹敵する知識の持ち主」と売り出し、他の作家を「軍事知識がない」と軽蔑する
そのくせ知識で勝ち目のない専門家には「知識があるだけで想像力がない」とこき下ろす
暗に自分たちは「知識、想像力を兼ね備えている」といいたいんだな
しかし普通の作家は軍事知識がなくて当然だし、専門家は小説的な想像力を必要としない
結局相手の戦えないところで「戦え」と強要しているだけ
卑怯卑劣である以前に、最低限の常識すら理解できていないようだ
そんなことだから「一般人の読まない娯楽小説、専門家が見向きもしないシミュレーション」を書いてるんだよ -
荒巻義雄が「紺碧の艦隊」の1巻を刊行した際、古参読者数人が考証ミスやストーリーのおかしさを列挙し、「こういうものを出しては恥になります」と注意したそうな
荒巻は感謝したどころか、好調な売れ行きを傘にかけ、古参読者を排除して賛美する読者ばかり重用した
作中に「旧日本軍首脳はイエスマンばかり集めた」と批判しておきながら、自分も同じことをしていたんだな
面白いつまらない以前の問題だと -
何だSFキチガイの笠原明知か?
「阿蘇要塞1995」の笠原明知少尉と呼んだ方がいいかなあ?
君が元荒巻義雄の要塞シリーズの大ファンで実名で要塞シリーズに出てること
阪神大震災の被災者でそれで作中で地震を起こした荒巻氏を逆恨みしてる事
同じ架空戦記を逆恨みしてる君と同じ神戸在住の阪神大震災被災者の北村賢志とつるんでる事
みんな知ってますよ(笑) -
君も北村もミリタリー業界から抹殺されてそれを僻んでることくらい業界では有名ですからね
最近では戦史ライターの神立尚紀氏を誹謗中傷してる、と
https://twitter.com/koudachinaoki/status/170915255239704576 -
戸高一成が歴史偽造と関係しているどころか、オカルト界の黒幕と接点があるのを指摘されると、自称戦史研究家の神立尚紀とか困る人がいるみたいだなあ
戸高と架空戦記作家との親交はもちろん、盟友の原勝洋も真珠湾陰謀論者だしね
架空戦記と陰謀論とはほぼ等式の関係だと
「面白い小説を書くために陰謀論」を用いたのではなく、「陰謀論を広めるために面白い小説が必要だった」わけだ
日本の戦記研究者とやらは、誰一人としてこの暗部に踏み込めなかった
「事実」を書けば、おまんま食い上げだもんなw
架空戦記作家にしても、読者にしても陰謀論に弄ばれてたってことだ -
戸高が歴史偽装と接点があることが公言されれば、大和ミュージアムの信憑性もなくなる
それどころか売り出した故半藤一利=文藝春秋社の責任問題にもなりかねない
戸高の半世紀にわたる親友のところにオウムの麻原彰晃が出入りしていたのは有名な話だし、オウムが参考資料で用いた書籍を荒巻が絶讃した、文藝春秋が真珠湾陰謀論の書籍を出してたのも事実
文藝春秋社はマルコポーロ事件で世界的にミソをつけたが、その上塗りになりかねない
そりゃ日本のメディアは、全力を挙げて「事実」を隠すだろうさw -
戦史研究家とやらも、戸高に目を付けられたら仕事を干されるから、架空戦記にいいたいことがあっても口をつぐんできた
そりゃそれでいいんだが、「山本五十六は命、職を賭けてでも戦争に反対すべきだった」などと口にするのはどうなのかと?
自分たちはなにもせずに、山本を責めるのは卑怯でしょうに
自分も干されるのを覚悟で言うべきことを口にするか、干されるのが怖いなら口をつぐむかの二択しかない
まあなにもしない卑怯者ほど、批判したがるもんだw -
「紺碧の艦隊」を読んで左翼臭さが鼻についたが、担当編集者の芝田暁の父親、進午が共産党50年党員、有名な平和運動家だと知って納得したな
芝田進午と、戸高の御親友であるオカルト界の黒幕と接点がある
荒巻が作中で紹介した「広島、長崎への原子爆弾投下=人体実験説」を最初に唱えたのが黒幕さんの親友である新左翼系評論家で、芝田進午も著作でそれを引用している
左翼の広めたデマ、フェイクニュースを、出所若くして右や軍オタに広めようとした
これは読者に対する背信行為になりかねないのだが、戦史研究家も編集者も気付かないののだから仕方ないw -
「架空戦記がつまらない」以前に、「経緯があまりにもおかしい」
戸高、荒巻、檜山義昭、佐治芳彦、太田雅男(学研編集者)の共通した友人がオカルト界の黒幕で、佐藤大輔がデビューした大陸書房社長とも親交がある(大陸書店の「大陸」はムー大陸で、オカルト雑誌と同じ由来)
「考証が間違えている」「ストーリーがおかしい」「描写が荒い」といった些細な問題ではないんだな
戸高が関係してるのは公然の秘密で、戦史研究家も「おかしい」と思っても声を出さない
不快に感じる読者だけではなく、現在書いている作家たち、喜んでいる読者たちも含めて、全員が悲劇に陥りかねない危険性が隠れている
それでもいいのかと? -
オカルト界の黒幕さんは、そもそも偽情報を広めるために出版社を設立(戦後最大の偽書と呼ばれる「東日流外三郡誌」も刊行)
メディアミックス戦略を駆使し、SF作家、アニメ、コミックにも接点がある
戸高はその出版社から著書3冊を刊行している(国会図書館でも確認可)のに、その過去を隠している(刊行を口説いたのが黒幕さん、一時期霊能者としてテレビにも出ていた山本白鳥乃木神社宮司という怪しさw)
架空戦記を通じて、近代史の偽情報を拡散しようとしたという「筋読み」は、あながち間違いではなさそうなんだな(オウムが自衛隊員を勧誘していた時期とも同じ) -
しかし「事実」を闇から闇に葬ったほうが、「自分の利益」と感じる人たちがいる
直接的な恩恵を受ける戸高、間接的な恩恵を受ける架空戦記作家であり、神立尚紀のような戦史研究家だな
その一方で、自分たちが正当な研究家のような振りをして、「正しい歴史を学ぼう」なんて口にしてどうする?
読ま(聞か)される側も、評価される側もいい迷惑だ
「至誠に悖勿りしか、言行に恥づる勿りしか」という言葉もわからんのかと -
挙げ句は偽情報を流すオカルト出版社が、戸高が雇われ社長だった戦史出版社の経営権を買い取った(現在2社の住所、所在ビル、階数は同じ)
寄りにも寄って麻原彰晃の出入りしていた会社に譲渡する段階で、戸高という人物の怪しさが露呈してるのだがw
岩本徹三の「零戦撃墜王」をはじめとする戦史出版社が刊行した書籍が、文藝春秋社をはじめとして文庫化されているが、金の流れはどうなっているのかなぁ?
金の流れ、人脈ともに異常じみてるんだな -
架空戦記が好き嫌いとは別にして、「表には出せない」要素が多いんだな
だから一般人向けの娯楽小説として評価されないし、さりとて専門書にもなりきれない代物に堕している
胡散臭い作家、金儲け偏重の編集者、視野狭窄を起こした読者しか集まらない
それ以外の人間は、直感的におかしいと悟るんだろうな
「普通の読者にも読んでもらえる小説にしましょう」というごくごく普通の意見も、反対に封殺されしてまう
背景にオウムと接点がある人物が潜んでいても、おかしくはないわけでw
これはこれで、架空戦記にとっても「悲劇」なんだけどね -
これは書いてもいいのかな?
ある戦史研究家が某社から書籍刊行が決まったが、締め切り間際に戸高一成がオカルト出版社から書籍を出していたのを察知
担当編集者が戸高の担当者でもあり、「重大な隠蔽をしていた人物の著書を刊行するような出版社から、書籍を刊行することはできません」と詳細を語らず、刊行を断ったそうだ
その研究家1人にペナルティを負わせて事件が落着したかのように見えたが、数ヶ月後に戸高が経歴偽装していたことを編集部が知った
誰も戸高を責めなかったのを見た元編集部長が、「一番チャラいと思っていたヤツが真っ先に責任を取り、大言壮語してた連中がなにもしないとはどういうことだ」と声を上げたんだとか -
>>279 個人名を特定された事情通がいらっしゃったようだけど、上の事件ぐらいは当然御存知ですよねw
ペナルティを食らった戦史研究家は、「事実を公表するのか、隠蔽するのか」で悩み、隠蔽に荷担するするぐらいなら、干されるほうを選んだと
戦史出版社は「隠蔽」を選択し、読者に偽情報を流しながら、今日も「正しい歴史を学ぼう」と薄っぺらい言葉を吐いているw -
オウムの麻原が出入りしていた出版社の社長と親友の戸高氏、指摘できない戦史研究家、架空戦記作家が何を書こうが、心に響かないんだよなあ
前者は重要な問題を隠しているし、後者は気付かないか、見て見ぬ振りをするだけw
嘘は書き放題だし、チェック機能は働かない
そんな人間たちが戦史を調べる国こそ、異常な国家でしょうにw
ちなみに出版社には編集者が23人しかいなかったそうだから、戸高と麻原は「面識があった」可能性まで否定できない
国家転覆テロの主導者とお友達の、歴史博物館館長ですかw -
これは書いておいたほうがいいかな?
戸高を史料調査会に誘った同会会長の関野英夫(海兵57期)氏は、佐藤大輔の架空戦記を「読めない」といった親族の防衛研究所研究員を、防衛学会に誘ってるんだな
つまり研究員は戸高と同門の先輩で、しかも本流だということ(護衛艦隊司令の北村謙一氏、「世界の艦船」誌にも寄稿してた筑土龍男氏とも親交があり、3人が存命中なら、戸高は直立不動のはず)
「戸高が正しい」なら、「研究員は、もっと正しい」w
研究員はすでに死去しているが、戸高と同門だと知ったら、「関野さんも悲しんでいただろう」といっただろうな
関野さんにも経歴を隠していたなら、戸高は天性の詐欺師だよなあ -
>防衛研究所研究員
面識のできた元自衛隊将官は「将官のみ閲覧可のレポートで読んだ」と親族を知っていた
架空戦記を刊行した出版社から著作を出した人だから、信憑性が高いなw
史料調査会とも接点があった人で、戸高の経歴をプリントした見せたら、「これは」と絶句していたな
「胡散臭い男だとは知っていたが、ここまで胡散臭かったとは」とも
戸高は、思っていた以上に多くの人たちの信頼を裏切っているのだと -
>>275 >架空戦記を通じて、近代史の偽情報を拡散しようとしたという「筋読み」は、
あながち間違いではなさそう
出版社は歴史偽造に荷担していたことになり、信用問題となる
不快だった読者はもちろん、楽しんで読んでいた読者たちもいい迷惑だろう
調子こいて参入した作家にしても、知らず知らずのうちに自分の経歴に傷を付けていた
安っぽいカタルシスの代償として、あまりにも大きな負を抱え込んだ
書いている作家、楽しめる読者は、ここの部分に無自覚すぎる -
>>284 信用問題
中公新書から「陰謀論」、「歴史修正学」が刊行されたが、担当編集者は両書の著者に「うちから出したベストセラー小説に、陰謀論や歴史修正学が使われていたんですよ」と伝えたのかな?
どちらの著者も、伝えられたら、いい気はしないと思うけどな
新書や著者の信憑性までなくなるから、事実を公表して謝罪しなさいよと -
そうそう。荒巻義雄は「旭日の艦隊」で起こったばかりの阪神淡路大震災を使ったが、東日本大震災は使わなかったのは何故?
「小説だから、阪神大震災を使ってもいい」のであれば、「小説だから、東日本大震災も使ってもいい」ことになる
ところが荒巻は小説を刊行しなかったばかりか、中公HPに東日本の被災者への悔やみの言葉が掲載されたが、阪神淡路を使ったことへの謝罪も何もなかった
作家がいい加減な話ではなく、編集者まで異常なのかよ -
>>286 >編集者まで異常なのか
荒巻の担当編集者だったNは、もう1人を伴って、神戸で被災した筒井康隆氏の自宅を訪れるため、新大阪駅から8時間ほど歩いたんだな
被災を目の当たりにしているのに、「旭日の艦隊」作中に神戸の地震が書かれて、何も感じなかったのかね?
読者が被災して死んだか、寒空に震えているとは思わなかったのかな?
いや読者でなくても、まだ仮設テントにいる人たちが、「旭日の艦隊」を手にしてどう感じるかは思いも寄らなかったのかと
こういう無神経な編集者みたいな連中が、戦争でインパールのような作戦を起こすんだよ -
>>285 戸高って人は陰湿なんだよなあ
・自分がオカルトと接点のあることを知っている架空戦記作家、編集者
・自分がオカルトと接点があることを知らない架空戦記作家、編集者
・自分がオカルトと接点があることを知らない戦史研究家、編集者
の3種の人たちに、違う情報を流していた
自分が情報を独占しながらうまく情報を切り分けることで、対立させたり共闘させたりで、3者を掌の上で操ろうとしたんだな
最後に自分にとって一番都合のいい派閥につき、残り2者は見捨てようとした -
>>288 ところが戸高が思いも寄らぬ、計算違いが発生した
・自分がオカルトと接点があることを知っている戦史研究家
が登場したんだな
ここで前述の3者を集め、この派閥に総攻撃を加えたと
多勢に無勢でタコられたが、心ある人間は、いずれこの派に転向するだろうね
戸高自身が違うことを口にしていたのだし、小さな疑念が大きな亀裂を生むだろうさ
いや戸高に普通の感性があれば、ここまで凝った隠蔽策はとらないってw -
神立尚紀って人も、最近精神病じみてるなあw
百田との喧嘩なんて、訳がわからないw
「架空戦記は許さない」と著書に書いておきながら、架空戦記の生みの親である戸高一成から仕事をもらっていたのに、戸高と架空戦記が接点があることは読者に伏せていた
戸高と架空戦記との接点を指摘されたら、見苦しい逆ギレだもんなw
戸高と架空戦記の関係を指摘されたくなければ、「許さない」と書いたのは撤回する
撤回できないなら、戸高に追求するの二択しかないでしょうに
八尾の少し先に、近鉄電車から檻付きの病院が見えるから、2度と出てくるなよ -
>>288 >>290 >「架空戦記は許さない」と著書に書いておきながら
戸高の意を察して、「自分の読者に架空戦記への憎悪をもたせる」が、「戸高が関係していることは触れない」
ところがこういう姑息な手を打つ人間ほど、意外と本質は見抜けない
20年以上つき合っていながら、戸高が歴史偽造に関与していたことには気付かなかったんだな
しかも神立は、オウム取材中に出された飲料を口にして、全身が痺れたんだよなw
これは災難だとしても、飲ませる指示を出した麻原と戸高が面識のある可能性が高いのも知らなかったのは、ジャーナリストとしてどうなのよ? -
>>291 早い話、神立は戸高に取り入ろうとしたから、真相を見抜くのを放棄したんだ
上手く覆い隠しながら自分の読者まで騙そうとしていたから、自分も戸高に騙されたわけだったとw
いい迷惑は、神立の読者だろうさ
信じていた神立が騙そうとしていたばかりか、神立ちが信じていた戸高まで神立を騙していたんだから、読者たちは「2度」騙されたことになる
ノンフィクション作家たちが、読者を騙してどうする?
というかさ、たかがフィクションなのに、どうして架空戦記は人を騙したり、不幸にしようとするのだ?
その段階で、どこかズレてるとしか思えんのだわ -
>>292 >どうして架空戦記は人を騙したり、不幸にしようとするのだ?
>その段階で、どこかズレてるとしか思えんのだわ
「好き嫌い」「面白いつまらない」「正しい間違い」ではなくて、ここなんだよ
多少荒唐無稽でも間違いがあっても許すから、せめて「人を傷つけない、不快にしない]ぐらいはできないのかと
作家、編集者、読者たちが「人を傷つける、不快にする」ことで優越感を誇示しようとするから、「読みたくない、評価したくない」んだわ -
>>294 >「人を傷つける、不快にする」ことで優越感を誇示しようとする
編集者が小学校時代、身障者や知恵遅れの子をいたぶっていたというのはよく理解できる
フィクションの世界で完結するならともかく、後知恵で史実と対比するのは止めろよと
自分より弱い相手にしか、強さを誇示できないんだな
作家も読者も、似たような人間しか集まらなくなるw
ますますパイは小さくなるのに、自分たちだけで「俺たちは優秀」と自己陶酔に浸るなんて、滑稽にもほどがあるだろうに
同級生氏が「あいつに、まともな小説を編集できるとは思えない」と呆れていたぞ -
>>282 戸高は有能な司書だったかも知れないが、必ずしも有能な研究者ではなかった
傍流にいたわけで、本流に対する強い憧れ、羨望があったのだろうな
怪しい作家たちと集まって陰謀論に荷担し、既成の研究者たちを貶めようとしていたんじゃないのかね(東北の石器捏造と同じパターン)
そうして作家、読者たちの負の感情が共鳴し合うから、作中で騙したり、傷つけたり、不快にしたりということができてしまうんだな
ここは否定とか批判じゃないよ
そんな小説、読んでて楽しいか? 悲しくないか? 辛くないのか? -
俺も強度の負の感情を背負っているのは否定しないがw、共有することはできなかった
研究員氏から「架空戦記で一時的に劣等感を解消しても、長期的には何の解決にもならないぞ」といわれたほうが腑に落ちたわ
好き嫌いではなく、「生理的に合わない」のだろうw
劣等感を覆い隠しながら、架空戦記のなかで「俺たち優秀」と似たような連中と群れるより、劣等感を受け入れながらどうするかを思索するほうが向いていただけだと
それと自分はもちろん、並みの戦史研究家や架空戦記作家より圧倒的に優れた人間を知っていたから、劣等感を受け入れる以外の選択肢がなかったんだなw -
>否定とか批判じゃないよ
架空戦記に限った話ではないが、「好き」なのが悪いのではなく、「好きだから深く読み込んで矛盾点に気付き、それをいかに克服するか」まで行かないんだな
そこまで達する読者がいれば、「すげえな」と賞賛するしかないじゃないのw
ところが「好きなら問題点は見えないはずだ」となる(編集者は「買ってくれれば、読まなくてもいい」w)から、話がおかしくなる
「愛読者ほど深く読まない」という頓珍漢な事態となり、小さな矛盾がやがて大きくなる
「愛する作品」を、愛読者がダメにしてどうすんだと? -
>>297 >否定とか批判じゃない 「愛する作品」を愛読者がダメにしてどうすんだ
突き詰めれば「架空戦記が好き」なのではなく、「架空戦記が好きな俺が好き」ってこと
「俺はこの作品が好き→沢山の人に読んでもらおう→そのためには矛盾を解消しよう」(たとえ架空戦記が嫌いでも、この考えを否定したり、批判するヤツはおかしい)ではなく、「俺が好きな作品には矛盾がない→気付く者は異端者だ」という解釈になる
前者は「自分たちが世間に合わせよう」だが、後者は「世間が自分たちに合わせろ」というカルト的な解釈になってしまう
これじゃ、とても多くの読者を集められないじゃないか -
>>299 >とても多くの読者を集められないじゃないか
「偽情報を広める」のが架空戦記の真の目的だと仮定すれば、下手に広い層を狙うより、固定した読者層を狙い撃ちしたほうが有効なのかもね
作家や読者の劣等感が、偽情報や陰謀論と共鳴、共振し合い、いつしか歪んだ優越感に転じ、異常性を強めていく
内容、集まる読者、構造のすべてが「カルト」に酷似するのだがな
書いてる作家、読んでる読者、売ろうとする編集者、みんなそれでいいのか?
俺がこんなことを書くのも妙だが、強くこういいたい
「早くそこから逃げろ。被害者は、最小限で食い止めろ」 -
>>299 戸高の御親友は、俺たちが想像できないクラスのヤバい人だぞ
正直なことを書くが、俺が勝てるとはとても思えないクラスの「異常者」(日本最高レベルのサイコパス)だ
そんなんと心中して、どうすんだよ
恥ずかしがらなくてもいいよ、みんな、命が惜しいだろう?
俺はお前たちがどれだけ嫌いでも、別に命まて奪おうとは思ってないからさ
ところが相手は、「何人死のうが、知ったことではない」と平然と言い切れる人間だぞ
嫌いな人間の忠告を聞いて命だけでも確保するか、何時どんな形で裏切るかわからない人間に命を委ねるのか
悪いことはいわんから、架空戦記作家、編集者、読者は「早くそこから逃げろ」 -
>>301 >日本最高レベルのサイコパス
そんなのと戸高が接点がある段階で、おかしいんだ
というかそういう人物と接点のある(半世紀近い交際、書籍3冊刊行、雇われ社長だった会社を譲渡)戸高を、人として信用できるのかと?
在籍した史料調査会、昭和館、呉市=大和ミュージアム、交友のある戦史研究家、架空戦記作家、出版社の誰1人として気付かなかったのだから、全員に洞察力がなかっただけではなく、隠蔽工作も万全だった模様だ(見破った人はすげーな)
ホント、みんながみんな不幸になるだけぞ
それでもええんか? -
>日本最高レベルのサイコパス
何も問題がなければ、戸高もカミングアウトすればいいのにね
国会図書館、大宅文庫などの記録で、どうやっても過去は消せないんだしさw
戸高も相応のサイコパスってことだろうな(そうでなれば、凝った隠蔽工作はしない)
そんな人たちが背後に隠れてる架空戦記が、多くの人の心を打つことなどできるはずがない
つまらないとかそういう問題ではなく、架空戦記は根本がおかしいのだと
関係してる人を不幸にしても、別に不思議な話ではないんだな -
〉日本最高レベルのサイコパス
学研はともかく、徳間や中公といった出版社、編集者まで、「こいつについたほうがトク」判断したのだろう(徳間編集者、故芝田暁の父親と接点があった可能性はある)
ただ表に立てると問題になるので、上手く伏せようとした(神立が戸高と架空戦記との接点を、読者に隠したのと同じ)
しかし相手は一枚上手で、「架空戦記で陰謀論を広める」という真の目的は隠蔽したんだな
やはり神立と同じで、読者を騙そうとしたから、自分たちも騙されたと
結局読者は、二重三重に騙されてた訳だ
やはり架空戦記は、人を不幸にしてしまうんだ -
>>303 〉徳間編集者、故芝田暁の父親と接点があった可能性
荒巻義雄は「紺碧の艦隊」で再三に渡って「原爆投下は米人体実験」説を唱えていたが、芝田進午も同様なことを書いていた
翻って誰が最初に人体実験説を唱えたかを調べたら、昭和40年代前半に評論家の太田龍がいいはじめたようだ
その太田のお友達が、戸高の御親友なんだなw
芝田進午は共産党50年党員、太田は新左翼で、御親友は共産主義者青年同盟の活動家ってつながりだ
左翼の広めた言説を、出所を明らかにしないまま、軍オタなどに広めようとした訳だと
架空戦記の作家、読者も、このぐらい知っておきなさいよ -
こうした関係が見えてくると、「紺碧の艦隊」も新たな解釈ができる
1巻冒頭で起きるクーデターは、共産革命ではないのかと
これだけ左翼人脈が隠れていたら、そうも疑いたくなるw(「米をやっつけるのが痛快」という共産党支持者の愛読者もいた)
史実とは別形式の全体主義国家を志向した訳だし、論理論法にも強烈な違和感を覚えた
また刊行少し前の89年選挙では旧社会党のマドンナ候補が躍進したが、素人目線の改革なんて左派のお家芸だもんな
一見右のように振る舞いつつ、本質は左志向ではなかったのかと
超科学、技術を持った左系の思考で動く日本が、米をやっつけて世界を主導する作品世界を構築しようとした訳だな -
読者たちの喜ぶストーリー展開をしながら、陰謀論や偽情報を散りばめ、おかしな方向誘導しようとしたんじゃないか?
戸高の親友の出版社に出入りしていた麻原彰晃が、ちょうど同じ時期に自衛隊員を勧誘して、クーデターを企てたんだしさ
擬似国家の形成、陰謀論などへの傾倒、クーデターと、架空戦記ブームを巻き起こした「紺碧の艦隊」とオウムの接点も多い
芝田も雑誌のインタビューで、「真面目な読者が多い」と答えていたし(俺は真面目じゃなかったから助かったのかな?)
架空戦記作家はもちろん、好きな読者も、一度最初から精算すべきだろうに
ホント、こんな小説と心中して、どうすんだと -
もう一点書いておこうか
米を席捲したQアノンと、「紺碧の艦隊」や荒巻との接点も意外多い(影の世界政府、地震兵器など。後者は太田龍も信者)
そもそも荒巻が絶賛した米の歴史修正主義とQアノンは、遡れば米の極右なんだな(その極右団体が刊行した書籍を戸高の親友が買い漁り、日本で「超訳」して販売している)
おまけにQアノンの首謀者とされるアトキンス親子は、一時期札幌市郊外に居住していた
荒巻の事務所へは、地下鉄で乗り換えなしで行けたとw
荒巻とアトキンス親子との接点は見えないが、心あたりのある人物が1人いる
その推測が的中していたら、もはやシャレでは済まなくなるぞ(正直外れてほしいが) -
戦史研究家とか戦史の専門出版社も、すべてではないが、薄々「架空戦記はおかしい」と察していたのだろう
ただ踏み込んで内情を探られると、金や人間関係といった自分たちのおかしさまで触れられかねないわけで、グレーゾーンのままにしておきたかった
架空戦記批判をした人たちを干したのは、架空戦記のためではなく、自分たちを守るためだった訳だ
そのおかげで好意がないはずの架空戦記を守るという、頓珍漢なことをしでかしたんだな
結果架空戦記だけではなく、自分たちの信用まで落としかねないことをしてしまった
日本が戦争に負けたのは、こういう人たちが「戦史を学ぼう」と口にできるからなんだなw -
〉〉306 こんな小説と心中してどうすんだ
一見簡単に渡れそうな底無し沼みたいなもんで、渡り切れると思ったら、脚が抜けなくなる。作家も読者も編集者も、みんな不幸になるだけ
「自分たちに洞察力がなかったばっかりに、こんな小説を書いて(読んで、編集して)ました。「早く逃げろ」といってた貴兄を信用せずに、申し訳ありませんでした」
と真摯に詫びてくれりゃ、俺は怒らんよw(腑は煮え繰り返っているが、我慢しましょ)
責任をとなきゃならんのは、初期から関係していた作家と編集者でしょうに
あとは1人でも多く抜け出したら、それに越したことはないわな
犠牲者は、少ないに越したことはないんだしさ
詫びを入れたくないから、座して死を待っても、仕方ないでしょ
命あってのなんとやらじゃないかw -
戸高や御親友は意図的に、他の架空戦記作家や編集者は無意識のうちに、読者たちに「味方だ」と振る舞いながら、危険な方向に誘導している
俺は「お前らは嫌いだ」と公言しているが、読者たちが謝ってから逃げるのであれば、一切攻撃しないと確約している
「裏切りかねない味方」と「約束を守ろうとする敵」、どっちが読者思いなんだろうねw?
架空戦記ごときと心中しても仕方ないって
人生、もっと楽しいこともあるんだしさ
謝るのは一時的な恥でも、助かるにこしたことはないよw -
そうそう、故安倍晋三応援団長として健筆を振るっていた産経編集委員の阿比留瑠比は、荒巻の大ファンと公言して記事も書いてたな
取材の際、担当編集者の故芝田暁と顔合わせしたはずだが、極左の息子(徳間の前は親のコネで就職した共産党系の青木書店で勤務で、最終役職は朝日新聞出版販売マネージャー)だと気付かなかったのかな(後の安倍晋三応援団長と共産党系平和運動家の息子の2ショットってのもW)
こういうところで安倍氏は純粋な右ではなく、リベラルの極右だと感じるんだわ(「紺碧の艦隊」の大ファンの国家議員もいたそうだが、もしや安倍氏?)
右の人は左の手法が嫌いで、不利になっても使わないように心がけるが、リベラルは「効果があるなら使えばいい」って安易に考えている
「紺碧の艦隊」を右の人は嫌いなのは、そこはかとない左臭さを感じたのだとすれば、阿比留氏が気付かなかったのは氏が右なのではなく、やはりリベラル極右支持なんだからだと -
架空戦記大好きな皆さんは、このくらい知ってて当然だよねw
敵対しているはずの右(戦史出版社、研究家)と左(左傾の平和運動家)は、オカルトと架空戦記という迂回路を使って接点を持っていた
表向き対立しているようで、裏では利害調整をしてたんだな。早い話がプロレス顔負けの八百長、茶番劇じゃないか
架空戦記批判をしていた人は、知らず知らずのうちに、この暗部を突き止めたんだな
事実を開示して世の審判を仰ごうとしたら、味方であるはずの人たちが、厄介払いと後ろから撃ちはじめた訳だ
いい迷惑は事情を架空戦記の読者、事情を知らない戦史の研究家、読者であり、平和運動家たちだった
みんながみんな、いらぬ情報に踊らされていたのだと -
戦いは不可避な時はともかく、しなくてもいい時はしなきゃいいだけのこと
架空戦記は正確なシミュレーションを読ませるのでも、人間ドラマを魅せるものでもなく、いらぬ戦いを起こすための火種だった訳だ
最初はオカルト人脈の作家が火をつけ、参入した作家や読者が後を続くのを見ながら、戸高をはじめとする仕掛け人はほくそ笑んでいた
事態が混乱すればするほど、出所のわからない偽情報や陰謀論が広まりやすくなる
既成の権威は地に堕ち、傍流の人間が成り上がれるチャンスでもある(左翼革命そのものじゃないか)
出版社も儲かるし、左翼系平和運動家もヒートアップするからな
いらぬ対立、混乱、騒乱は、戸高の親友さんがオカルト出版社を設立するときの目的でもあったしさw
架空戦記を批判してた人は真相に気付き、混乱を収束させようとしたのは、この人たちには都合が悪かったんだろうさ -
そういや戸高の親友が変名で書いた「日本のピラミッド」(佐藤大輔がデビューした大陸書店刊行)は、途中でギブアップしたな
日本にピラミッドがあったかどうかはともかく、中盤で「ピラミッドはあった→奴隷制もあった」となって、先に進めなくなった
オカルト、陰謀論や川口浩探検隊wでも使われた手法で、最初は「かも知れない」という弱い推測でネタを撒く
徐々に「だろうか」という強い推測+「なのだろう」という弱い断定が増え、最後は「なのだ、である」という強い断定に変化することで、読者を意図的に誘導していく
「ピラミッドが存在したか否か」が主題だったのに、いつしか「奴隷制もあった→解放運動もあった」とズレてきて、読めなくなったんだな
そもそも「ピラミッドがあったかどうか」が立証できないのに、どうして「奴隷制や解放運動があった」と断定できるのかと
戸高も「邪馬台国はエジプトだった」って本を出してるし、とても凡人には理解できんよw -
戸高の御親友について詳しいのは、現在作家橘玲氏が編集長を務めていた「宝島30」
元部下だった原田実氏、親交のあった作家の朝松健氏が生々しい証言をしている
売れる前の爆笑問題の連載があったので2人の記事も読んでおり、「架空戦記も、こういう人物が背後にいそうだ」と警戒してたら、戸高と親交があったのを知って直感が的中してたので、全身に悪寒が走ったな(ご本人だった、接点は戸高だったという思いも寄らぬ2点で)
原田氏は著作で戸高が邪馬台国研究をしていることを記述してるし、「と学会」会員で横山信義と親交がある。朝松氏も複数の架空戦記作家と交友があり、皆さん戸高→親友ルートに気付いててもおかしくないんだがw
深く掘り下げなかったのか、見て見ぬ振りを続けていたのかは知らんけど、最終的に不利益を被るのは読者だと
作家が情報を開示して読者が引っかかれば読者の自己責任だが、作家が情報を秘匿して読者が引っかかれば、作家が責任を負わなきゃならない -
繰り返すけど、頭を下げて許しを請うなら、俺は叩こうとは思わない
架空戦記がおかしい方向に進んでいると知って逃げようとするなら、最低限のスジさえ通せば、逃げる方向の指示ぐらいしてもいい
ただまあ、作家と編集者の大半は手遅れだろうな
それほど染まってないかキャリアが浅い、読者のうちの2〜3割はなんとか助けられそうだが、後は望み薄だ
多く見積もって、数百人ってところかね
それでも無為な玉砕をするより、まだマシな救出劇だろうさ
しかし「嫌い」と公言する人間が助けの手を差し伸べ、「好き」いってる連中がレミングを指揮するなんて、架空戦記というジャンルの小説は異常だよなぁw -
架空戦記好きの人たちは、これぐらい知ってるよねw
戸高の親友が1976年に「地球ロマン」というオカルト雑誌の編集長になり、その愛読者が荒巻義雄
1979年に「迷宮」編集長となり、2号に寄稿したのが檜山良昭で、3号に戸高の連載予告が載った
戸高との接点は1978年頃で、戸高が調べていた明治〜大正期の異端学者、木村鷹太郎の記事のため、会ったそうだ
この辺りは、戸高の一冊目のオカルト書、「世界的研究に基づける日本太古史」付録の小冊子に書かれている(20代の戸高の写真も掲載されており、将棋の谷川浩司九段と似てる)
「迷宮」は3号で休刊し、戸高の原稿は発表されなかったが、親友が学研から刊行される「ムー」編集顧問になったのも一因だっと模様
そして「ムー」の企画を提出したのは、初代副編集長となった太田雅男で、学研が架空戦記を刊行したときの編集総責任者
偶然の一致にしては、出来過ぎている -
ついでに戸高と親友がはじめて会った席に同席してたのが、藤沢児玉神社宮司の山本白鳥
80年代前半に美人超能力者としてテレビにも出ていたが、裏で画策してたのが親友さん
愛人関係という説もあったが、その辺は興味がない(親友の奥さんは大本教開祖出口王仁三郎の孫で、息子は法政大で学生運動指導者)が、実は山本白鳥とは小さい縁があった
山本は「カルト資本主義」でも少し触れられていたが、プロレスラーの鈴木みのるが一時傾倒していた(怪我と離婚問題で神経を病んでたそうで、出身も横浜で接点がありそう)
鈴木の先輩と面識があり、「カルト資本主義」のことを漏らしたら、「該当ページのコピーをくれ」と頼まれた
次回会った際に手渡すと、黙読した後に「機会があったら、鈴木に事情を聞く」とだけいわれた
その後どうなったのかはこっちも怖くて聞かなかったが、山本白鳥の名前を聞いて遠い記憶を思い出したわな -
ざっと書いただけでも、架空戦記にはヤバい問題が山積している
悪いことはいわんから、作家も読者も早く見切って逃げたほうがいい
勇気ある撤退は何も恥じることはないし、責める人もいない
オカルト業界の黒幕と称された人、その人と親交を持てる人なんか、どうせアンタたちを裏切るんだ
相手は常軌を逸したサイコパスだから、どこでどんな手を使ってくるかは予測できない
というか人を騙すことに、良心の呵責も感じない人だぜ
今から逃げても手遅れの人もいるだろうが、犠牲者は1人でも少ないほうがいいんだよ
何度も繰り返すが「早く逃げろ」としか、伝えられる言葉はない -
偶然戸高の経歴を知ったことで著作の刊行を諦めた戦史研究家は、「戸高を黙認して著作を刊行しても、読者を裏切ることになる」と追い詰められてたそうだ
最終的に「読者を裏切るぐらいなら、自分がペナルティを負う」という苦渋の決断を下した
結果被らなくてもいい泥を被ったが、戸高や見て見ぬ振りを続ける連中に強烈な意思表示をしたんだな
出版社はそいつ1人に責任をなすりつけて解決を図ったが、後日戸高の偽装を知って全員が驚愕
しかし張本人には誰も何も言えず、別件で会社を訪れていた元編集長が事情を聞いて、「責任を負わなくてもいいヤツに負わせ、負わなきゃならない人ヤツを見逃して、恥ずかしいとは思わんのか」と激怒したんだと
これが戸高であり、戸高の周囲にいる人間の正体だわな -
「戸高は悪くない」というなら、「オカルト本3冊刊行」「その出版社に、オウムの麻原が出入り」「自分が社長だった会社の権利も譲渡」と公式プロフィールに書いてもいいってことだね
そんな人間が館長の博物館に、誰が行きたいと思いますか?
表だって本当のことを書けないってのは嘘をついてる訳で、これは「悪いこと」だねw
戸高は大和搭乗員をはじめとする全戦没者はもちろん、大和ミュージアムに誇りを持つ呉市民、全国来場者やスポンサーといった人たちを裏切ってるんだよな
これも「悪いこと」だよね! -
史料調査会と接点のある人に聞いたところ、アテネ書房から刊行された3冊を含む数冊は、会の承諾を得ずに戸高が無断刊行したのだと
旧海軍将官をはじめとする首脳部は、「十分な報酬を払えない我々も悪い」「経歴に傷をつけるのは可哀想」とかなり甘い訓告、戒告で終わらせた
そして戸高の給与も解決するために、後継者のいなかった今日の話題社の雇われ社長を用意したんだな
ところが戸高は、その今日の話題社の経営権を、オカルト出版社に譲渡した
もちろん史料調査会には「自分がオカルト本3冊を刊行」「創業社長は共産主義者同盟の活動家」「オウムの麻原が出入りしてた」は一切触れないままだ(事情を知っていたら、会の大半が譲渡に反対したのは間違いない)
どれだけ多くの人の信用信頼を踏みにじってんだよ -
あえて誰とは書かないけど、これぐらいは知っておきなさいよw
荒巻義雄が売れはじめたら、突然人格が変わったそうだ
もともと穏やかな性格だったのに、某漫画家氏が証言しているように、某所で突然「俺は神だ」と叫んで周囲がドン引きしたとか
万能感で満たされたことで、賞賛する人しか周囲に置かなかった
いまで喩えるならプーチンみたいで、独裁者みたいに振るまっていたそうだ
善意の指摘まで悪意としか受け止めなくなり、挙げ句は苦言を呈した読者をわざわざ作中で侮辱したり、送付された同人誌の作品で用いられた手法を無断で使用したとか
現在と違って反撃手段を持たない読者に対して、作家が一方的に嫌がらせをするのはどうなのかと? -
そういえば架空戦記を批判していた神立尚紀も、人が変わったそうだね
イベントか何かで会った人が、「あんなに尊大な性格なんですか」と尋ねてきたよ
荒巻と神立の方向性は反対だが、他者に恐怖感を与えるほど思い上がった振る舞いをしているという意味で、共通していたりする
そんな人たちが戦史に集まり、自浄作用が働かないのだとしたら、それこそ異常者の集団だねw
とてもまともな研究、洞察ができるとは思わないし、俺もお付き合いを遠慮するよ -
>>322 >アテネ書房から刊行された3冊を含む数冊
実は戸高が関係したこれらの書籍、御親友の出版社が刊行しているオカルト本と同じつくりになっている
「版権の切れた書籍、史料」を集めて製本し、高額で販売する
違うのは製本がしっかりしているのと、積極的なメディアミックスを展開しない(オカルト出版社は簡易製本の本を、メディアメックスを用いることことで多大な利益を上げた)ってところで、本質は瓜二つだと
偶然にしては似過ぎだから、戸高がオカルト出版社の手法を真似たんだろうな
「手法を真似る」のは商売だから致し方ない部分はあるが、やはり問題のある出版社と戸高が接点があるのは、おかしいんだな -
>>323 まだ続きがあったw
97年に謎本が刊行されたが、紀伊國屋級札幌本店で立ち読みした荒巻は自分の気付かなかったミスまで指摘され、店内に引き渡る奇声を発してその場で失×と脱×
この話を聞いたのが中央公論の販売担当で、東京に戻って本社の編集部に伝えると、担当を含む編集者たちは一斉に歓声を上げたw
みんな荒巻の振る舞いが怒り心頭に達してて、批判してるはずの謎本を「よくここまで調べたな」と絶讃
その勢いで文壇バーに繰り出し、荒巻の悪口に花を咲かせたんだとさ
これが真相らしいけど、編集部こそ精神異常者の巣窟だねw -
>>323 >>326 他人様を揶揄するなら、まず自分が同じことをされたらどう感じるかぐらい考えるものだね。それこそ「正常な神経の持ち主」ならw
信用していた相手に善意で行ったことを、相手の一方的な誤解から徹底的に責められたら、どんな気持ちになるかな?
「お前が悪いんだ」「悪意なんてありませんよ」「うるさい。ベストセラー作家の俺様が、間違えるはずがないだろう」
何度もこんなことをいわれたら、重度のトラウマを負ってもおかしくないね
それこそ「たかが小説」なんだから、作家がそこまで読者を追い詰める必要があるのかと
善意の指摘を悪意あるクレームだと勝手に誤解した挙げ句、読者への報復まで実行してしまう作家って、完全な精神異常者、人格障害者でしょ?
そんな作家に、人を幸せにする小説なんて書けるわけがないでしょ
残念だけど、架空戦記って「人を幸せにしない小説」なんだよ -
>>327 架空戦記って「人を幸せにしない小説」
担当編集者を含め左翼人脈が見えることから、「紺碧の艦隊」冒頭のクーデターは共産革命ではないかと指摘したが
表向きはさておき、実情はロベスピエール的な恐怖政治であって、少しでも異論を唱えたり矛盾を指摘すれば、即断頭台行きなんだよな(道徳警察ってあったなw)
行き着く果ては反知性主義であり、荒巻への個人崇拝であって、現実世界で荒巻の人格がおかしくなり、編集者たちまで呆れたのも首肯できる
それこそ「たかが娯楽小説」なんだから、そこまでする必要もない
なにより人並みの知性と感性を持ち合わせていれば、この作品世界に浸って楽しめるとは感じないね -
「架空戦記を批判する」=「嫌いなんだろう」という単純な等式は成立しない
問題は「なぜ嫌いになったか」であるとともに、嫌いの底には「悲しい、辛い、やりきれない」といった複雑な感情が流れている
単純な解釈をする人は、そこまで読み解かない(架空戦記も深く読み込んでいない)
作家も読者も「いい小説を作ろう」と協力し合うのは大衆小説の理想型であり、最高な形の作家と読者の関係なんだな(批判する人はいますか?)
ここを目指していたのであれば、俺も架空戦記の読者を続けていただろうし、何より今日のような無惨な売れ行きにはなってなかっただろうね -
ところが荒巻が個人崇拝を指向したことで、事態がおかしくなった
売れ行きに胡座をかいて「作品世界、ストーリー構築に一切問題がない」と思い上がり、自分より知識のある読者、好きだからこそおかしさに気付く読者を目の仇にしだしたんだな
どれだけ悪意がなくても、正しくても、自分に楯突く者は敵認定して追い出し、従順な読者だけで周囲を固めた
「旧日本軍の過ちを研究した」といいながら、やっていることは瓜二つという末期的な状況を呈した
フィクション内での連戦連勝はともかく、作品の矛盾も噴出して読者も徐々に離れ、最終的にはジリ貧、ドカ貧の実売に陥った -
荒巻も編集者も、初期に耳の痛い苦言を受け入れていれば、最悪の状況は回避できたかも知れない(それこそ「荒巻義雄が「紺碧の艦隊」開始前にタイムスリップした」というシミュレーション小説を書いたらどうだろう? 「今度は違うぞ!」)
離れた読者も、最後までついた読者はもちろん、我が儘につき合わされた編集者や漫画家といった関係者は、全員「幸福になれた」とは言い難い
荒巻自身だって数億は手にし、長者番付に名前は載ったが、作家としての評価が上がったとは言えない
ブックオフでは「まったく売れません」と買い取り拒否された伝説まである
やっぱり架空戦記は「人を幸せにしない小説」なんだよ -
「紺碧の艦隊」の売れ行きを見て参入した作家、編集者たちは「売れた要素」は見ても、「売れなくなった(将来的に売れなくなる)要素」は直視しなかった
「売れそうな作品世界、展開、キャラ、兵器」といった戦術的なテコ入れを図ったことで特定少数の読者の囲い込みには成功した反面、大局的、戦略面での失敗は学ぼうとはしなかったんだな
結果「多くの人に読まれる大衆小説」を放棄した=大衆小説として失敗であることを認めたってことになる
パイが益々小さくなり、今日の「なろう系」では作家と読者が相互承認し合う場に成り下がったわけだ -
批判でも批難でもない意見だけど、1度作家、編集者、読者たちは立ち止まって「どうして架空戦記が売れなくなったのか」を真摯に考えるべきではないかな?
「批判するヤツが悪い」「読まない読者には知識がない」といった、そんな単純な原因ではないはずだよ
まず現在でも読んでいる人の意見を横に置いて、知識があるのに読まない人、離れていった読者から聞き取り調査をしたらどうだろう?
いや。もしそこまでできる人たちが集まっていれば、なにも俺にいわれなくても、とっくの昔にやっていて、すでに手を打っているという逆説に陥るんだよな
だからこそ架空戦記が残念な作家、編集者、読者が相互承認し合う場になってしまったんだよな -
>>332 >多くの人に読まれる大衆小説
大衆小説は多少荒唐無稽でも、ご都合主義的な展開でも許される
しかしだからこそ「正確なシミュレーションではありません」と公言しなければならないという問題に帰結するんだな
「荒唐無稽な小説が、シミュレーションとして正確」ということなんて、ありえないんだ
故にまともな神経を持っている作家、専門家、編集者は、娯楽小説を{シミュレーション」と題して売れないし、「シミュレーション小説」なんて誤解を招く言葉は使えない
結局架空戦記に参入する作家、専門家、編集者は、「まともな神経の持ち主ではない」ってことになってしまう -
親族の防衛研究所研究員も「俺たちクラスのシミュレーションは、一般人が読んでも面白くもなんともない。また「娯楽小説を書け」と言われたら、どれだけでも荒唐無稽な話は書ける。しかし荒唐無稽な小説を「シミュレーション」として売ることはできないし、「防研に務めているから正確です」なんて言葉は、口が裂けてもいえないね」
これが「まともな神経の持ち主」なんだろうねw
架空戦記作家は、「自分たちの振る舞いを、専門家や他の作家がどう見ているか」ということに気付いていない
だからこそ自分たちが作家としても専門家としても中途半端な立ち位置にいると現実すら、理解できていないのだろう -
自称ジャーナリストで戦史研究家wの神立尚紀だがw
戸高一成とは90年代前半に出会っていて、筆名で架空戦記を書いていただけではなく、複数の作家たちを援助していたことも知っていたはずだ
しかし自著などで架空戦記を批判しておきながら、戸高には一言も追求ばかりか、関係していることを読者にも開示しなかった
他方オウム事件取材で少量の毒を盛られて数日寝込んだそうだが、戸高が歴史偽造に関係していたこと、オウムの麻原が出入りしていた出版社から著作を出した(親友の創業社長は、事件直後に東京地検特捜部から任意聴取)ことには、まったく気付かなかった
なにがジャーナリストだ? -
神立は大和ミュージアムの零戦修復費の不正疑惑が出たときも、真っ先に逃げ出した
「俺は日本で、世界で一番零戦を調べている」と公言するなら、どうして不正疑惑追及の先陣を切らなかったのだ?
戸高は史料調査会、昭和館、呉市と転職した際、「オウムの麻原が出入りしていた出版社から歴史偽造本を刊行した」のを伏せ続けた
経歴偽装に相当するかは別として、企業などが経歴偽装を警戒するのは、何度も騙し行為を行う危険性が高いからなんだよな
火のないところの何とやらで、経歴を隠した戸高に不正疑惑が出てもおかしくはないんだ -
>>333 人間的に嫌いなのは別にして、賞賛すべき行為を行った人に賛辞を送るのは、何も恥ずべきことではない
だから架空戦記の作家、編集者、そして読者たちが少しでも改善しようとする意思を見せてくれたら、俺は「あんたたちを見直したよ」と拍手を送る
それどころか「すぐに結果は出ないだろうが、根気強く続けていれば、事態は絶対よくなる。そのまま続けてくれ」と応援してもいい
架空戦記の作家、編集者、読者はもちろん、否定派の人は、これがおかしな行為だと思うのか?
「おかしい」と感じるのであれば、その人たちこそ異常極まりない -
「架空戦記は荒唐無稽だから許さん」という短絡的な批判をしたいのではない
いわゆる単純な批判派も問題の本質を見誤っており、「荒唐無稽な娯楽小説を、シミュレーションと名乗ったり、誤解させるような書き方を止めてくれ」ってのが主題になるはず
そこで止まってくれれば架空戦記の存在は認めてもいいわけで、止まらないから論難を吹っかけるのだと
ここが架空戦記作家、愛読者と批判的な人たちとの、いい落としどころだと思うんだがね
別に両者が仲良くする必要はないにせよ、「お互いに不毛で余計な戦いは回避して、そのエネルギーは別のところに注力しましょう」って呼びかけなんだけどねえ
ところが関係者のなかに、両者の対立を求めている人がいるのだろうな
その人が一方で架空戦記作家を、もう一方で批判派を焚きつけている -
>>339 おかしな話だが、架空戦記作家、読者と単純な批判派とは思考が似ている
架空戦記作家、読者は架空戦記をただの小説ではなく、個人崇拝、相互承認の場だと考えている
だからこそ自己の正当性を求めるため、常に「叩くべき敵」を必要とする
単純な批判派も同じで、架空戦記を「叩くべき敵」と認定することで、やはりそれを承認などにつなぎたいわけで
俺は別に戦いを求めているのではなく、「架空戦記作家、編集者、読者たちが引くべきところで引いてくれたら、存在は容認してもいい」だけ
つまり両方から、「叩くべき敵」に見えちゃうんだろうねえw -
>>340 >両方から、「叩くべき敵」に見えちゃうんだろうねえw
架空戦記の擁護派、否定派のどちらも「相手は俺と同じ思考をし、同じところを目指しているはずだ」と思い込んでいる、
つまり思想では対立しているのに、思考は同じで、意外と噛み合っちゃうんだなw
「思考が違う相手は、目標や目的も異なる」ということを理解できないわけで
「どちらも停戦したほうがトクですよ」と呼びかけても、「うるさい。お前はそれで何らかの利益を狙っているのだろう」と勘ぐってしまう
こうして不毛な争いは止まらず、それをほくそ笑んでる人がいるわけで -
>>339 >対立を求める人がいる
カオス、混乱を収める、避けるのではなく、継続して悪化するほうが利益になると考える、死の商人みたいな人なんだな
この立場の人にとって「収める、回避しようとする人」は自分のコントロールが効かない敵で、反対に架空戦記作家や批判派は「扱い易いコマ」に過ぎないのだと
一方で複数の架空戦記作家のデビューを援助し、自分も執筆ながら、他方では講演会場などで「あんなものを読んでいるようでは」としたり顔で苦言を述べるという、正反対の言動ができる戸高一成さん
大方あんたが黒幕で、オウムをはじめとする問題の糸を引いた親友、武田崇元氏の手法を真似たんしょ? -
>>342 >あんたが黒幕
大木毅をはじめとする門下の作家、表向き批判をしている神立尚紀たちは、双方とも戸高が歴史偽造に関係していたことを見抜けなかったからな
親交の長い彼らですらダメなんだから、他の架空戦記作家や読者、神立の読者や批判的な大半の読者は、誰一人として想像すらできなかったのも仕方ない
普通の研究家だったら、こんなことに労力を割くのも面倒なのに、平然と30年近く続けられた戸高は、やはりどこか怪しいわけだと -
>>342 >思想では対立しているのに、思考は同じで、意外と噛み合っちゃう
「紺碧の艦隊」の担当編集者の父親が共産党系の著名な平和運動家だったことにも、架空戦記の作家や読者も批判派も気付かなかったね
両者ともに左系の平和運動(家)を毛嫌いしているはずなのに、見抜けなかったいうのは、やはり「思考が似ている」わけで
だからこそ変に噛み合った状態で、仲良く喧嘩できるのだとw -
>>339 いい落としどころ
「架空戦記はあくまで娯楽小説であって、私たちは正確なシミュレーションをしていません。専門家、専門書を楽しむ読者の領域は一切侵害しませんので、私たちの領域も認めて下さい」
こう宣言すれば、多少荒唐無稽でも間違えていても免罪になる
作家も読者も、「小説を書いてます、読んでます」と胸を張ればいいではないか
「領域を侵害しない」と顔を立ててくれた相手を、専門家やその読者たちも批判できない(「シミュレーションではない」と口にする相手に、「シミュレーションとして間違えている」という批判は成立しない)
相手が頭を下げて教えを請うてくれば、きちんと教えれば小説にも反映されるという、好循環に入る
すぐ仲良くする必要もないが、不要な戦いをする必要なんてないでしょうに? -
>>342 戸高が「両者に顔の効く専門家」であれば、きちんと橋渡ししてたはずなんだがねえ
双方に違うことを述べて戦いを煽る段階で、専門家以前に人としてどうなのか?
そして両者を何故戦わせたいのかと?
また大木、神立をはじめとする数人は、戸高が立場に応じて正反対の言葉を述べているのに気付いていたはず
どうしてそれを黙認していたのか?
取り巻く面々のこうした胡散臭さが架空戦記の怪しさであり、好きになれない理由でもあり、多くの人からの承認を得られない要因なんだろうな -
あくまで推測だが、戸高は親友の武田と謀って、「太平洋戦争をモチーフにした娯楽小説」を「専門的なシミュレーション」のように偽らせつつ、内部に陰謀論やフェイクニュースを混ぜ込むことで読者をおかしな方向に誘導しようとしたんだな(戸高の1冊目の著書刊行と同じ時期に、同じ武田が経営する出版社に出入りしていた麻原彰晃も、架空戦記と同時期に信者獲得を活発化させているし、同じような主張をしている)
武田と親交があり、おっちょこちょいでもあり、軍事の知識が少しあった荒巻義雄に白羽の矢が立ち、「紺碧の艦隊」を立ち上げさせた(奇しくも徳間担当編集者の芝田暁の父進午は、武田の友人でもある太田龍と面識があった模様)
狙いが的中してベストセラーとなった反面、小さな齟齬も目につきはじめた -
売れ行きに気をよくした荒巻が自己崇拝路線に転換したため、武田と戸高のコントロール下脱してしまった
ここでコントロールの効き、且つオカルトとの関係に気付かない戸高門下生を投入することで補強したのだろう
他方戸高とつながりがあり、やはりオカルトとの関係に気付かない神立などに批判させ、「毒消し」というか本当の目的を隠そうとした
ところがオウム事件が発生し、東京地検特捜部から任意聴取を受けた武田が活動休止
そして批判本も刊行され、オカルトとの接点を指摘されたわけだ -
批判本の著者たちを上手く介入して取り込もうとしたが、戸高がオカルト本を刊行していただけではなく、武田とあることまで感づかれた
零戦復元費や資料無断刊行といった金、人脈にまで踏み込まれたんだな
著者たちが情報の開示を求めたが、自分も大和ミュージアム館長に内定していたこともあり、厄介払いとして抹殺しようとしたわけだ
この時点での戸高の狙いは、自分がオカルトと架空戦記に関与していたのは黒歴史だから、その過去まで消し去ろうとした -
つまりデビューさせた作家、ついて行った読者たちは、邪魔な存在に成り下がったのだと
自分は架空戦記からフェードアウトしつつ、彼らに残務処理を押しつけ、頃合いを見て「あんなものを書いて、読んでいるようでは」と切り捨てようと考えた
「自分は戦史研究の第一人者であり、架空戦記のような娯楽小説とは一切接点がありません」と逃げ切ろうとしたのだろう(神立は戸高の意図を察したか、架空戦記を批判していながら、戸高と架空戦記の接点を巧みに隠している)
自分の利益を守るため、作家や読者の梯子を外そうとしたわけだ(これでも架空戦記にしがみつきますか?)
これはもう陰謀論顔負けの陰謀だねw -
>>339 >>345 いい落としどころ
一方では「架空戦記はシミュレーション(を基にした小説)ですから、間違えていません」
他方では架空戦記はシミュレーション(を基にした小説)ではありませんから、間違えてもいいのです」
同じ小説なのにまったく正反対のことを書けば、読者が混乱してもおかしくはない
「読者が混乱しないよう配慮したのに、勝手に読者が混乱した」なら、読者の自己責任
しかし「十分配慮したとは思えない」のであれば、読者は責任を問われず、作家や編集者の責任になるはず
ところが、どうして架空戦記の作家、編集者、熱狂的な読者は「読者の自己責任」と切り捨てようとするのでしょう?
そして正反対の立場で架空戦記を批判する人たちも、この件については同じ考えなのはどうしたことでしょうか? -
結局架空戦記に関わる人も批判派も、どこか似た思考なのでしょうな
些細末端は理解できても、事態の本質を見抜く力は欠落しているわけで
だから双方に接点のあり、対立を煽っていた戸高がオカルトと密接に関係していたことに、双方とも気付かなかったわけで
架空戦記で混乱した読者が「自己責任」であるなら、戸高に騙されていた自分たちも「自己責任」なのでしょうか?
それでは自分たちも、大したことがない人間だってことですね -
書籍などで架空戦記を批判していた人は、「なにかおかしい」と煽る人の存在に気付いたんでしょう
その人たちは、架空戦記が「ただのフィクション」から暴走するのを食い止めようとしたわけで
ここで奇妙なことが起き、批判しているはずの人たちが、「架空戦記問いう小説そのもの、大半の読者に責任はない」「便乗した作家、編集者、熱狂的な読者には責任はあるが、免罪される部分もある」と、対立している相手の擁護したほうが「大きな利益になる」と転換したと
ところが架空戦記に集う人たち、単純な批判をする人は、この意図を察することができなかった(だからこそ架空戦記に耽溺したり、薄っぺらい批判をしてしまう) -
人や金の動きに気付き、対立の早期解決と利害調整に乗り出した批判派を、対立激化を望んでいた戸高には怖く感じたのだろうな
対立する連中はどっちも馬鹿wだから、両者をうまく煽ることで批判派の調停をぶち壊しそうとした
批判派を葬ったことで、自分の人脈がバレる危険はなくなり、自分は架空戦記からフェードアウトを図りながら、大和ミュージアム館長の椅子と「戦史研究の第一人者」の称号を確定させようとしたわけで
つくづく胡散臭い野郎だと -
>>352 どこか似た思考
>>353 意図を察することができなかった
架空戦記批判をした人たちは、力及ばず事態の沈静化、正常化に失敗した
それを見た架空戦記作家、編集者、読者と安物の批判派は、対立しているはずなのに「そら見たことか」と同じように嘲笑したわけで
なんかヒトラー暗殺に失敗した人たちに向かって、「あいつらは馬鹿だなあ」、「俺なら上手くできたのに」といいながら、自分たちはヒトラーを止めようとはしなかった
「だって失敗して、粛正されたら怖いじゃないですか」という言葉を、平気で口にできるんだろうなぁ -
>>352 どこか似た思考
架空戦記に限らず、軍事の本がダメダメなのはこういうところなんだろうな
「自分(たち)の利益」が最優先になって、「全体の利益」には目が向かない
「利己的な動き」を考えるばかり連中が集まって、「利他的に動ける」人間がいない
いたらいたで「どうせ腹の中は、俺たちと同じだろ」と誤解し、自分たちの立場を危うくすると集中砲火を浴びせて沈黙させる
それで新規読者の開拓ができなくなり、「なんで売れないだろう」と首をひねるか、「俺(たち)の優秀さについてこれない」と自己陶酔に陥るわけで
ああ、つまんないw -
たとえどれだけ嫌いな相手であっても、不利益を被る必要ないときだってある
「そこは回避したほうがいい」と指示したのにそれでも突っ込んだのなら自己責任だが、相手が不要な不利益を被る姿を見てほくそ笑むのは、本当に性格が悪い
そういう人間ほど自分が不利益を被ったら、「知っていたなら、どうして回避の指示を出さなかったんだ」と逆ギレするんだな
指示したらしたで、どうせ「あいつなんか信用できるか」と無視するんでしょうに
そんな心理の人たちが軍事や戦史に興味を持つから、多くの人が見向きもしなくなるのだが -
架空戦記作家や読者、神立などの批判派ならとっくの昔に知っているだろうが
大和ミュージアム建設の話が起きた頃、呉の平和団体が反対運動を起こそうとしたところ、横槍が入ったのだと
懐柔を企てたのは芝田進午広島大学名誉教授
名高い平和運動家であるとともに、息子暁は「紺碧の艦隊」担当編集者
平和団体は折れたのだが、芝田と息子、そして戸高との関係には気付かなかったらしい
早い話が、芝田進午に裏切られてたってことだ
反対運動の是非はともかく、怪しい人脈に振り回されたのは右系だけではない
左にも、味方を後ろから撃つ人間がいたわけだ -
神立だって何度も裏切りをしてるからな
坂井三郎がネズミ講に関与し、複数の零戦パイロットの資産に損害を与えたのは事実であり、この部分の坂井の擁護はできない
しかし神立は坂井が物故する直前まで「先生」とすりより、死んだ直後から「あの野郎」と遺族が驚くほど豹変したのはどういうことかと
坂井から離れたければ、生前から少しずつ距離を取ればいいだけのこと
死んだタイミングを見計らって敵意を剥き出しにし、挙げ句はネズミ講とは関係のない娘さんにまで「詐欺師の娘」と毒づくのは、人としてどうなのか? -
進藤三郎さんの件にしても、神立の言動はおかしい
進藤さんが架空戦記に無断で氏名を使われ、憤っていたことをSNS上で伝え、「架空戦記は許せない」と書いたまでは問題ない
しかし広島在住の進藤さんが生前に会うとき、また亡くなった後の墓参りの前後、大和ミュージアムに立ち寄って「架空戦記の生みの親」である戸高一成と会っていたのだろう?
これは架空戦記を嫌っていた進藤さんに対して、非礼というものではないか
また自分の読者には、戸高が架空戦記と関係していたことは一切触れなかった
これでは読者にも嘘をついていたことになる -
大方神立は、戸高に対して架空戦記の批判派の情報を流していたのだろう
架空戦記の批判派まで、裏切っていたのだろうな
しかし神立はそんなセコい手を打つからこそ、戸高が歴史偽造書を刊行し、麻原彰晃と接点があったことには気付かなかった
神立はオウム取材の際、弱いの毒を盛られた飲料を口にした翌日全身が痺れて動けなかったそうだが、自分を殺す命令を出した麻原と戸高は同じ零細出版社に出入りし、担当編集者まで同じだったんだな
その件が露呈した後も戸高との交際を斬らないのだから、想像を絶するほどの無神経なのか、よほどの利益、旨味でもあるのだろうさ -
結局神立は架空戦記を批判していたが、核心部は上手く避けていた
ジャーナリストと自称していたくせ、戸高が関係していたという真相には触れなかった
自分の読者、架空戦記の読者の双方に「俺は架空戦記と戦っている」と見せながら、裏では利権確保に奔走してたんだな
これがジャーナリスト、戦史研究家の姿であるなら、情けないにもほどがある
あけすけに書いてしまえば、架空戦記を仕切っていた戸高も、最初から「少しでも架空戦記を良くしよう」という気すらなかったのだろう
かなり表現的には問題はあるとして、戸高はさながらプロレス顔負けの、架空戦記をめぐる「台本」を書いていて、作家、編集者、読者、神立のような批判派を操っていたと -
架空戦記批判の本を出した人たちはそこに気づき、「さすがにやり方がひどすぎる」と声を上げたわけだ
戸高は真相がバレると自分の信用問題にも発展しかねないので、作家、編集者、読者と手なずけた批判派を煽って、その人たちを黙らせようとした
真相の究明、正確な情報の開示ではなく、大規模な隠蔽を図ったわけで
個々の作品がどうこうという問題ではなく、こんな胡散臭い連中が集う架空戦記が、面白くなるはずなんてないね
面白いつまらない、正確不正確という問題以前なんだよ -
戸高が変名で架空戦記を書いていたり、弟子を売り込んだ是非は問わないとして
「戦史、艦船研究の第一人者」と称されるなら、率先して交通整理役を買って出てくれよと
「こういうことはしないほうがいい」とか少し釘を刺すだけでも事態が変わっていたのに、そういうことはまったくしなかった(大和が空を飛ぶのは娯楽小説として構わないが、弟子の青山が書いたのを大和ミュージアム館長が咎めなかったのは、さすがにいかがなものか?)
そのくせ別の場では、「ああいうものを読むのは」としたり顔で批判するというさながら二重人格的なことをしていた(架空戦記を批判したはずの神立も、戸高のこうした不可解な動きにはスルー)
これでは戸高が混乱を煽った黒幕と疑われても仕方ないわけで -
架空戦記の歴史を遡ると、大衆小説ができた経緯と絡んでくる
正当な文学史ではまったく触れられない(文学として認知されていない)、むしろ社会学史的なテーマだったりする
一九世紀中期に英で大衆小説が成立したが、これにも複雑な要素が絡んでいる
同時期に普墺戦争、普仏戦争が起こり、欧州での戦いが懸念されたこともあって初期の架空戦記が登場した
この後も断続的にブームが起こるのだが、だいたいある種のパターンが見受けられる
最初に非主流派の軍人、政治家が、「自分の政策を無視すると、危機が起こるぞ」と警告する
それを一般大衆に広めようとするため、「小説化」するんだな -
それがベストセラーになると、軍備拡張計画や外交政策に波紋を来す(19世紀末から20初頭の英でも2、3度起きた)
同時に柳の下を狙ったバチモン小説が溢れるのも、人間の性ってものでw
はじめは「こうなったほうが、もっと危険だ」とブームをつくったものよりさらに衝撃的な展開にするが、それでは客も飽きてしまう
今度は「こうすれば安全だ」「仮想敵をやっつけて万々歳」的な、主流派が喜ぶ展開に変容するんだな -
架空戦記が登場する90年代まで、こういうことが世界で繰り広げられたんだな
日本でいえば、80年代初頭の「ソ連軍、北海道に侵攻」なんかが好例だったりする
種明かしを最初にするなら、どこまでソ連軍が北海道を侵攻することを計画していたかなんて、少なくとも日本人は誰も知らなかった
イワンロゴフ級揚陸艦2隻が太平洋艦隊に配備されたのは80年代中期で、しかも大きさは米の半分弱で、大部隊の輸送なんてできるはずがないのだが
もともと「北海道に侵攻」と最初に書いたのは、英陸軍大将でNATO軍副司令官を務めたジョン・ハケットの「第三次世界大戦」
ところが王で刊行されたオリジナル版には、そんな記述は一切なかった -
どうしてそんな奇怪な出来事が起きたかというと、ハケットは「有事にNATO軍は機能しない」という警鐘を込めて「第三次世界大戦」を執筆した
あくまで主戦場は欧州であって、極東ではなかったと
ところが日本の版権を獲得した二見書房編集部が、「それでは日本で売れない」と極東、日本での戦いを盛り込むようハケットに要請したんだな
ハケットは欧州の事情には明るくても、極東はそれほどでもなかったようで、日本語版を読んでも「付け加え感」が拭えなかったw
「どうして極東で戦端が開かれるのか」などの記載はなく、地理や天候といった要素の書き込みも不足してるのに、日本でも売れてしまったと -
売れ行きに気をよくした編集部は、「第三次世界大戦シリーズ」と銘打ち8~10冊刊行した(全部目を通した俺も暇人だが)
挙げ句は「北海道ではなく、新潟から東京だ」という極端なものまで出て、途中からはドリフの「盆回し」の曲が頭で鳴り響いたよw
「どうして攻めてくるのか」という要素が粗雑なのに、「ともかく北海道にソ連軍が攻めてくる」という戦術面だけは緻密だというアンバランスさ
挙げ句は日本全土が占領され、「かわいそう」という読者のリクエストにお応えして、豪につくった亡命政権が奪還作戦を決行するという展開w(面白さ優先の娯楽小説なのか、正確なシミュレーションなのかわかなくなったという、架空戦記と同じ沼に落ちた)
当時の読者もさすがに飽きたのか、ブームは23年で収束したが -
ただ「ソ連軍が北海道に攻めてくる」という傷は、意外と小さくなかった
80年代中期からの防衛政策が北方優先になり、バランスを欠く要因になったんだな
ソ連は「警戒すべき敵」ではあったが、「そこまで警戒せねばならなかったのか」だと
それこそ今日の視点で検証しなければならないのだが、それをしないのが未来志向だと勘違いしている人も少なくないわけでw
まあ架空戦記を書く作家、読む読者たちも、本当に学ばねばならないのは戦略とか戦術ではないはず
過去の架空戦記作家、読者がどのような過ちを犯し、どんな影響を残したのかを真摯に調べるべきなんだな
もっともそれができないから、今日架空戦記を書けるし、読めるのだろうが -
>>369 >第三次世界大戦シリーズ
著者名が「久留島竜夫と軍事研究グループ」で、まったく手がかりがない
幹部自衛官が書いたとは思えず、編集者が書いたアウトラインを作家かライターが起こしただけの代物としか思えなかった
これも「架空戦記あるある」で、ブームの発端はまともな人が書き、徐々に信憑性のない人が乗っかかり、内容が低下していく一方だと
悪貨が良貨を駆逐してしまうわけで -
>「架空戦記あるある」
第一次大戦前の英でも「独と開戦」という架空戦記が溢れたが、はじめは元軍人が執筆していたのに、だんだん信憑性のない作家がかきはじめ、内容も荒唐無稽になっていった
何冊も書きまくった架空戦記作家は、wikiなどで調べても経歴がはっきりしなかった
彼は本当に開戦になったとき、「ドイツ兵が自分を殺しに来る」という妄想にとらわれて、ロンドン警視庁に保護と警備を求めた
応対した副署長が「そんなに怯えるなら、どうして戦争を煽る本を沢山出したのだ」とブチ切れ、保護もせず護衛もつけず、そのまま追い出したのだと -
ともあれ80年代中期には「ソ連軍北海道侵攻」とともに、SFやオカルトブームも沈静化
「次のブーム」が求められており、太平洋戦争開戦半世紀と絡める動きが出ても不思議ではない
それらが合わさったのが、90年代初頭の架空戦記だったわけで
ただそれら表向きで、裏ではオウムのように現状に不満を持つ者が、世紀末に向けての武装革命を狙っていた
架空戦記を使って陰謀論、偽情報を垂れ流し、賛同者を増やそうと画策していてもおかしくはないのだと
なにより戸高の御親友である武田崇元は元学生運動家で、80年代オカルトブームの立役者でもあり、メディアミックスでSF作家、編集者と親交があり、挙げ句は戸高が雇われ社長だった今日の話題社を吸収合併したわけで、「ことを起こす動機」はあった -
まず「要塞シリーズ」を出していた荒巻義雄に白羽が立ち、親交のある武田が戸高を紹介したのではないか(徳間編集者の芝田暁の父進午と評論家の太田龍は親交がありそうで、太田と武田は学生運動時代からの友人でもある)
また既成の歴史学者に反発心を抱く檜山良昭と武田とは接点があり、武田と戸高はこのツートップを売り出そうと画策したのではないか…という仮説は、あながち外れているとは言い難い
架空戦記の立ち上げにはオカルト人脈と左翼人脈が隠れているのに、読者がそれを見抜けなかったのはともかく、参入した作家、編集者まで気付かなかったとはね -
現状に不平不満を持つ作家が、同様に不平不満を持つ読者向けの小説を書き、そこに陰謀論や偽情報を混ぜ込むことでおかしな方向に誘導しようとした
「紺碧の艦隊」冒頭にクーデターが起きたように、最終目的は同じ参考資料を用いていたオウムと同様の武装革命だという推測も、あながち暴論ではなかろう
早い話が「面白い小説を書くため、陰謀論などを用いた」のではなく、「陰謀論を広めるため、面白い小説が必要だった」わけだ
最初は上手くことが運んだが、荒巻の自己神格化、参入した作家の質的低下、批判本の刊行など懸念材料が発生
とどめだったのは、95年のオウム事件だろう -
武田の経営する出版社に麻原彰晃が出入りしていたことから、武田が事件直後に東京地検特捜部から任意聴取を受けたのは公然の秘密
以降2~3年ほど、武田は活動休止に追い込まれた
大元締めが動けなくなったことで、統制ができなくなったのだろうな
また戸高が大和ミュージアム館長に内定したのもこの時期で、戸高も架空戦記から離れるタイミングを図り出した
一番売れている荒巻をはじめ、好き放題しだした作家たちによって質的低下の歯止め目が効かなくなり、読者も開きはじめた
作品内では毎回連戦連勝なのに、現実ではジリ貧からドカ貧に陥ったという矛盾で -
断定的に述べてしまうのであれば、作家や読者が自尊心を満たすため「ただの娯楽小説ではない」と口にしたのが、架空戦記の間違いだったわけだ
何度も書いたが、このおかげで「ただの娯楽小説」に戻る道もなくなり、さりとて専門家が読むに耐えうる「シミュレーション」に進むこともできなくなったと
ただの娯楽小説を書けない作家が妙な自己ブランディングを図ったことで、進退が窮まった
「俺たちはただの娯楽小説を書いているのであって、シミュレーションなどできません」とカミングアウトしていたほうが、まだよかった訳だ(「シミュレーションをしていない」と宣言している相手に、「シミュレーションになっていない」と批判するのは、明らかに批判側がおかしい)
「作家としての戦略」を間違えた作家たちが、「戦略」を口にするのだから、滑稽さが倍加するw -
>妙な自己ブランディング
「ただの娯楽小説」とすれば、架空戦記作家やシミュレーション小説などと恥ずかしくて名乗れないw
口にできる段階で、作家としてどこかおかしいのだと
というか「普通の娯楽小説」を書いても評判にならない作家が、架空戦記に群がったわけで
「普通の作家」と無理に差異化を図り、自分(たち)の優越性を誇示したかっただけなんだな
つまり架空戦記が「普通の娯楽小説」になってしまえば、他の作家たちも参入できることになり、自分たちの優位さが喪失しかねない
裏を返せば、架空戦記とは普通の作家にとって、それほど魅力のないジャンルだってこと -
そんなことで架空戦記作家、編集者、そして読者は、「架空戦記をよくしよう」という意思が乏しかったんだな
「自分たちにとっていいもの=いい架空戦記」という短絡的な等式となった結果、平素侮蔑しているはずの「ただの娯楽小説」をもっと先鋭化したものと化した
他の作家や専門家を攻撃することで、安住の地を獲得しようとしたんだろうな
その結果双方から白い目で見られたのだが、「自分たちは悪くない。理解しない周囲が悪い」と責任を転嫁するのだから、余計に売れなくなる
批判本を書いた人たちは間違いやおかしさだけではなく、「そんなことでどうするの」と本質的な矛盾まで指摘したわけで
むしろ批判派のほうに、架空戦記への理解と愛情を感じるんだがw -
整理すると、こういうこと
・武田崇元、戸高一成 大元締め、元締め
ほぼ全体像を知っている。架空戦記を使って陰謀史観、フェイクニュースを広めようとした
戸高は大和ミュージアム館長内定とともに離脱
・荒巻義雄、檜山良昭、佐治芳彦、大田雅男(学研編集者)
戸高がオカルトと関係していることを知っている
陰謀史観、フェイクニュースの信者でもある -
・参入した作家、編集者
戸高とオカルトとの関係はおろか、架空戦記と関係していることも知らない(況や武田の存在など
陰謀史観、フェイクニュースを信じているわけではないが、売れるなら使っても構わない
・読者
武田、戸高、オカルトとの関係など知らない
陰謀史観、フェイクニュースを信じているわけではないが、「自分(たち)は引っかからない」という根拠のない確信だけはある -
・神立尚紀、軍事本の編集者、読者
武田、戸高、オカルトの関係は知らない
架空戦記に陰謀史観、フェイクニュースが使われていても、問題視していない(問題に気が付いていない
・架空戦記批判の本の著者
武田、戸高、オカルトの関係を察知
「架空戦記に陰謀史観、フェイクニュースを使うべきではない」と声を上げたため、他の全員から疎まれる -
整理すると構図が見えてくる
もともと架空戦記批判本の著者は、初期の架空戦記作家=戸高がオカルトと関係しているのを知っていた層を攻撃していた
しかし知らべるうち、戸高とオカルトとの接点まで知ってしまった
この段階で、「架空戦記がおかしくなったのは、おかしな人脈がいたから→排除すれば、再生できるかも」と考えた
ところが察知した時点で、武田、戸高は脅威に感じたわけだ
今まで隠してきたおかしな金、人の動きがあることまで、批判本の著者は調べはじめた思ったんだな(歴史博物館館長が歴史偽造運動参加していたことは、大スキャンダル -
元締めの戸高は、自分や周辺の利権を守るため、作家や編集者、読者、そして神立などまで動員して批判人の著者を黙らせようとしたわけだ
無論動員した連中は自分とオカルトの関係など知らないし、何より洞察力など持ち合わせていないw
著者たちを葬った後、上手く架空戦記との縁を断てば、自分の「戦史、艦艇研究の第1人者」の称号は守られる‥という読みだった
著者たちの仕事を干したり、子飼いに批判させたりと散々痛ぶったはずだが、戸高の予想以上に批判本の著者は調べ、推測も的中してたんだな
事実がバレていけば、少しずつだが離反者も出てくる
そりゃ麻原彰晃と接点があったことを隠していた人なんて、信じられないわなw -
突き詰めれば、「いい架空戦記」の共通した定義がなかったんだな
もともと「娯楽小説なのか、シミュレーションなのか」がはっきりしなかったうえ、読者は「自分の価値観に合えばいい」、作家と編集者の大半は「売れればいい」という状態だった
おまけに批判派にしても「とにかくけしからん」(そのくせ頭目の神立は元締めの戸高と交際)だけで、「どうしてこうなったのか」「どういう方向に進むべきか」には誰も気が回らなかった
混沌は、「架空戦記を使って陰謀史観やフェイクニュースを広めよう」と画策していた大元締め、元締め、初期の作家と編集者には好都合だったと -
ここで批判本の著者たちが、混沌を整理しようと試みたわけだ
ところが整理され、秩序が回復すると、どの派閥にとっても都合か悪い
集中砲火を浴びせて黙らせようとしたんだな -
結局批判本の著者たちだけが、「どうしておかしくなったのか」に踏み込み、元締めや大元締めの正体を暴露したわけだ
大半の作家や編集者、読者は、元締めが戸高だったことはおころか、戸高と接点のあったオカルト界の黒幕が大元締めだったことなど知らなかった
安易に参入し、浮かれていた自分たちが騙されてたと知ったんだな
批判派、他の軍事本の編集者にしても同じで、大半の批判派も架空戦記の読者たちと同じだった
神立や軍事本の編者者は戸高が元締めだったのは知っていたが、大元締めは知らなかった
結果的に自分たちも読者を騙すことに荷担していたわけで、公的にバレるとスキャンダル、信憑性の低下にもなりかねないわけだ -
戸高も戸高だが、戸高の師である福井静夫も胡散臭い
終戦のどさくさで、佐世保工廠にあった軍艦の設計図を「自分が責任を持って秘匿する」と言い切って自宅に運んだ
終戦後に防衛庁に返還すればよかったものの、半ば私物化して丸をはじめとする雑誌に貸し付けて小遣いを稼いだ
多少は仕方ないとして死ぬまで続け、死去とともに返還せずに戸高に譲渡
それが大和ミュージアムに所蔵されているという…盗癖は師弟間で伝染するのですなぁw
その福井の弟子だから、誰も戸高の首に鈴を付けようとしなかったと
そして戸高がオカルト、歴史偽造と関係していたのも、誰も気付かなかった -
架空戦記自体の問題はともかく、戸高なんかが上り詰められた、軍事本業界がおかしかったわけだ
戦後日本が軍事を考えるのがタブーだったから、身障者や知恵遅れを虐めていた編集者みたいに、人間性に問題がある連中ほど群れたんだな
読者も同様で、一枚上手の神立とか、さらに上手の戸高みたいなのが幅を効かせたわけだ
架空戦記に突かれるような隙をつくっていたのは軍事本業界であり、その界隈の人たちが「日本人は平和ボケ」と口にするから話がおかしくなる
自分たちも、「平和ボケの日本」のなかでしか生きていけなかったのだがな -
「日本太古史」+「戸高一成」で画像検索すると、「戸高一成著 木村鷹太郎小伝」が出てくる
神立大先生は、これでも別人、あるいは問題ないと言い張るのかな?
超古代史研究者のサイトを調べると、「小伝」に掲載されている40年前の戸高の写真まで掲載されているのだがな
戸高が古代史の研究をしていたのはいいが、「歴史偽造運動の一環だった」「麻原彰晃が出入りしていた出版社から刊行した」ことが問題なのだと
前者は戸高の研究はおろか、大和ミュージアムの信憑性にもつながる
後者は重大テロ事件の首謀者と面識があったことは、人としてどうなのかと
なにより「問題ない」なら、隠す必要もないのだが -
>>390 >「問題ない」なら、隠す必要もない
普通に考えれば、戸高自ら公式HPなどにカミングアウトすればいいだけ
それを呉市市長など関係者たちが容認すれば、誰もそれ以上追求できない
結局戸高が呉市に転籍する際、職務経歴書を提出しなければならないが、そこに「歴史偽造運動に関係していました」、「著作を刊行した出版社に麻原彰晃が出入りしていました」と記載していれば、問題にもなっていないわけで
現在でも過去を必死に伏せ続けているのだから、記載していなかったのですなぁ
歴史博物館館長として、戸高に信憑性があるのかと -
軍事本業界は、戸高が実質的に架空戦記のプロデューサーだったのを知っていたが、「大人の事情」で伏せていたのだろうな
ただその戸高が歴史偽造と関係していたことは、極々少数しか知らなかった
編集者の大半は騙されていたのだが、行きがかり上、騙した戸高を守らなければならないと
ここで話がおかしくなり、騙していたはずの戸高が不問で、「騙されている」と声を上げた架空戦記批判書の著者たちが干された
それだけではなく軍事本の読者、架空戦記の作家は戸高と編集者に2度、架空戦記の読者に至っては戸高と編集者、作家に3度騙されてたってことになる
いくらなんでも、これはひどすぎるだろうに -
小説のなかに陰謀論やフェイクニュースが混ざっていても、「これはフィクションですから、よい子の皆は信じないでね」としてりゃ構わんさ
ところが「ただの小説ではない、シミュレーションを基づいている」とか大口を叩き、背後ではガチガチの陰謀論者の影が透けて見えるってのは、さすがにどうかと
挙げ句は「間違えれば、読者の自己責任」で切り捨てようとする
「読者が間違えないよう作家、編集者が誘導したのに、それでも読者が間違えた」なら読者の自己責任だろうが、間違えるように誘導した連中がそんな言葉を吐くなよ
たとえ読者がどれだけバカが揃っていようが、金を払ってくれるお客さんなんだから、騙すのは良くないだろうに
というかそんな品性だから、自分たちも騙されたんだろう
それとも「作家と編集者の自己責任」なのかね? -
小説に限った話ではないが、フィクションなんてのは作り手(作家、編集者)とお客さん(読者)との信頼関係の上で成立するもの
「作家のウソはフィクションの中だけで完結する=現実世界に影響を及ぼさず、読者の財産、価値観などを侵害しない」という前提があって、はじめて「楽しいフィクション」になる
架空戦記の初期の作家のように、陰謀論などと密接な関係のある人脈とつながっているのであれば、「面白いつまらない」以前に「安心できない」んだよね
挙げ句は「歴史を学ぼうとする真面目な読者」、「学者など専門家は信用できない」といい気にさせたうえで陰謀論、偽情報を広め、最後には「騙されたら読者の自己責任」と切って捨てる姿勢はどうなのかと? -
奇妙な展開になるが、初期の架空戦記の作家や編集者は、読者の味方のように装いながら、裏では読者を騙そうとしていた
対して批判本の著者たちは、架空戦記を批判しつつ、読者には「そっちの方向に進めば騙される」と警告を発していたことになる
つまり読者の味方が騙し、敵が守ろうとするという倒錯に落ち込んだんだな
結果的に読者が選択したのは、「騙している味方」だったわけだが -
何度も書いたが「架空戦記が嫌い」というより、「架空戦記に集まっている人間が嫌い」なんだよなぁ
普通シミュレーションは専門家ぐらいしかできないものだし、軽々しく「できます」と口にできる人間は信用できない
「できないのが悪い」のではなく、「「できる」と口にするのが悪い」わけで
「シミュレーション小説」と、シミュレーションと小説の区別がつきにくい冠を付けておいて、最後の最後には「間違えたら、区別できなかった読者が悪い」と突き放す
「小説として面白い、つまらない」ではなく、普通の作家はこんな詐欺みたいな騙し方はしないだけの話
こんなことをする作家たちが、面白い小説を書けるとは思えないんだな、 -
逆説めいた表現になるが、まともな作家やシミュレーションができる人ほど、軽々しく「できます」と口にしないほうがトクなことを理解している
「この小説はシミュレーションではありませんし、私もしていません」と一言入れただけで、多少のミスは許されるばかりか、批判的な意見を封じることができる(「やってません」と公言している人間に、「やってないからダメだ」という批判はできない)
シミュレーションができなくても恥ずかしくはないが、できないくせに「できる」と言い切るほうが恥ずかしい
架空戦記には「まともではない作家」ばかり集まるのだから、質的向上など望めなくても当然だと -
そういう意味で、架空戦記とプロレスは似てるんだよな
プロレスも「格闘技、スポーツ」なのか、「ショー」なのかを曖昧にしたことで一般客が離れ、特定ファンしか見なくなった
低迷から上向きになったきっかけが、米の大手団体が「ショーであって、格闘技、スポーツではありません」とカミングアウトしてからだったわけだ
架空戦記も「シミュレーション」なのか、「娯楽小説」なのかを曖昧にするのではなく、「娯楽小説であって、シミュレーションではありません」とカミングアウトしたほうがトクなんだがなぁ -
結局普通の小説を書いても売れない作家たちが架空戦記に集まり、普通の作家たちに向かって「俺たちのほうが優秀だ」と妙な自己ブランディングを図ろうとしたから、「シミュレーション」という言葉から離れられないのだろう
そうした貧相な精神、性根だから、バックにおかしな人脈がいたことにも気付かないし、作家としてダメであるって証拠なんだけどな
自分と作品に自信があれば、胸を張って「シミュレーションなんてやっていません」と断言できるはずなんだがなあ -
>>398 >架空戦記とプロレスは似てる
批判側も似てるんだよな
プロレス批判派は「プロレスは八百長、台本がある」と言いたがるが、それをもって「プロレスラーは弱い」と結びつけてしまう
「八百長、台本の有無」と「プロレスラーが強い、弱い」とは別問題なんだが
翻って「架空戦記は荒唐無稽」と批判するが、娯楽小説が荒唐無稽なの当然のこと
むしろ「荒唐無稽な娯楽小説を、シミュレーションと偽る」ことのほうが重要な問題であることに気付いていない -
>>399 >>400 >「八百長、台本の有無」と「プロレスラーが強い、弱い」とは別問題
「軍事知識のある作家が書いた、荒唐無稽な小説」にしてしまえば、何も問題はないんだよな
しかしそんな小説が書ける作家ほど、「シミュレーションなんてやっていません」と言い切ったほうが利益になることを理解しているわけで
また史実を改変する理由も必然性も(SF、ファンタジーでも問題は)ないことまでわかるわけで
やはりそこまで踏み込めない作家たちが、面白い小説も正しいシミュレーションも書けるとは思えないんだよなあ -
山田風太郎さんの武芸帖シリーズは荒唐無稽だけど、司馬遼太郎さんに匹敵するほど調べてたっていうからな
架空戦記も、武芸帖の方向に向かえばいいんだよ
それで「荒唐無稽」と批判されたら、作家は「最高の荒唐無稽を見せてるんだ」と嘯けばいいんだしさ
そこまで吹っ切れれば、自分たちから「シミュレーション」なんて言葉は言えなくなる
そんなに難しいことではないはずなんだがなあ -
>>397 >シミュレーションができなくても恥ずかしくはないが、
>できないくせに「できる」と言い切るほうが恥ずかしい
>>399 >作家としてダメであるって証拠
戦略の基本は、「できないこと」を認めたうえで、「できること」に全力を投入する
シミュレーションができないなら、する必要はないのだと
しかし「娯楽小説」が書けるなら、そこに全力を投入しなさいよ
それすらできないのは作家としてダメである以前に、人としてどうなのかって話なんだが -
読者も作家同様に「シミュレーションなど読んでません」と公言したほうが、架空戦記の存在理由と価値がはっきりする
少し戦略的な撤退をしたほうが、批判派も気を悪くしないし、双方ともに大きな利益を得られるのだが
結局「シミュレーションができる、世が世ならば専門家になれた」という思い込みが強い作家、読者ほど架空戦記に集まる
自意識も強烈だから、「少し引く」ってことができないんだろう
そんなことだから新規読者も増えず、「優秀な俺たちは理解できないのだろう」とカルト的閉塞状況に陥る
陰謀史観、フェイクニュースを広めたい連中には、都合のいい場なんだろうさw -
別にフィクション、娯楽小説なんだから、どんな超兵器が出てこようが、どんな無茶な展開でも構わんさ
ただ正々堂々と「シミュレーションではありません」と言い切れば、何の問題もないわけで
シミュレーションなのか娯楽小説なのか、中途半端なことはするんじゃねえと
「娯楽小説ではなく、シミュレーション」、「シミュレーションではなく、娯楽小説」とダブスタを使った挙句、「間違えたら読者の自己責任」と責任をなすりなさんな
お客様に対する、最大の侮蔑だぞ(ここに気付かない、架空戦記の読者も読者だが)
この程度の意識の作家に、「面白い娯楽小説」も「正しいシミュレーション」も書けるとはとても思えんのよ
逆に言うなら意識の高い作家が集まっていれば、ブームはなかったかも知れないが、凋落も回避できていただろうね -
>404 >少し戦略的な撤退
「シミュレーションなどできません、していません」としておけば、「シミュレーションになっていない」という批判はできなくなる
自分たちも「荒唐無稽な娯楽小説」に全力を注げるから、批判派と争うことがなくなるんだな
仲良くなることはないが、戦いがないに越したことはない
また自分たちが譲ったのだから、批判派に教えを請うても失礼にはならない(頭を下げた相手を無碍に扱えば、批判派の株も下がる)
双方が、共存共栄を図ればいいだけなんだがなあ -
ブームをつくった荒巻義雄をはじめ、架空戦記には病的に自己愛が強く、自己評価の高すぎる連中が集まり、エンターティンメントの名を借りた自己崇拝や相互承認を行う場所と化してしまったんだな
そんな連中は共感とか相手の気持ちを慮るなんてできないわけで、「間違えていますよ」と教えてくれた読者の善意も踏みにじるっても当然だと
一時的に売れても、新規読者は増えないし、古い読者も減っていくだけ
作品内では日本が連戦連勝でも、現実世界の負け犬が集まっているだけに過ぎないわけで -
頭の弱い読者ほど、「批判派はシミュレーションとフィクションの区別がついていない」と言いたがるが、大前提が違うんだな
批判的な人は「シミュレーションとフィクションの境界線をはっきりさせておこう」と口にしているわけで、「誰でも区別できるようにしておこう」(それでも混乱したら、混乱したヤツが悪い)ってこと
ところが読者は、「俺は区別できるんだから、境界線は曖昧でいい」といっている
境界を曖昧にしたがるのは「娯楽小説をシミュレーションとして売ろう」という作家、編集者の思惑であって、それに協力して喜んでいるだけ
曖昧だからこそ勘違いしてしまう読者も出るわけだし、陰謀論やフェイクニュースの温床になるって怖さを理解できていない -
普通の作家と読者は「境界線をはっきりさせよう」だが、架空戦記の作家と読者は「曖昧でもいい」という差異があると
前者の作家は「読者を守ります」と宣言しているのに対し、後者の作家は読者と親密であるのに「間違えたら、読者の自己責任」と自分の逃げ道を最初につくっている
これが架空戦記作家が、普通の小説を書いても売れなかった、評価されなかったという原因なんだろうな
無論そこに気付かない架空戦記の読者も、普通の小説から排除されても当然で
そんな連中同士が相互承認しあって、傷をなめ合っているだけなんだな -
まあ百歩譲って、相互承認はまだいいんだよ
しかし相互承認し合う場が、シミュレーションでなくても、歴史改編を行う小説でなくてもいいってことなんだな
普通のファンタジー小説の中で、相互承認し合ったって、部外者は不快にならないさ
しかし他の作家や専門家を侮蔑したり、作中で史実の人物を評価すんなよと
自分たちを必要以上に高く見せるため、他者を貶めるのはよくないだろ
こういう手法を使いたがる人間ほど、自分が貶められると過剰反応をするんだな
共感能力が欠落しているんだろうに -
やっぱり架空戦記は「つまらない小説」というより、「面白くならない小説」のほうが妥当なんだろうな
「面白いが、正確ではない娯楽小説」と「正確だが、面白くないシミュレーション」は別物なんだから、同じ作品のなかで同時に達成することなど不可能、
「どちらがいい、悪い」ではなく「どちらかしか選択できない」わけで、そのなかで全力を注入するのは悪いことではない
作家が娯楽小説を選すれば、「多少間違えているかも知れないが、最高の娯楽小説を展開します」と宣言すればいいんだ
娯楽小説として完成度が高ければ、専門家も批判のしようがないしな
ところが「最高の娯楽小説」を書けない作家たちが架空戦記に集まり、「ただの娯楽小説ではない」、「シミュレーションができる俺たちは、他の作家より優秀」と土俵をすり替えているだけだと -
そこを見抜けない特定少数の読者が集い、作家を崇拝するか、相互承認することに満足してしまう
娯楽小説としてはつまらないし、シミュレーションとしては正確ではない代物ばかりが濫作されると
いつしか「作家の崇拝、相互承認」が最重要課題になり、「多くの人が共感する小説」、「少数の専門知識を持つ人が読む専門書」などどうでもよくなったわけだ
歴史や戦略の見直しはできるのに、小説としての根本の部分は見直せないというお粗末さだから、読者が増えることもないわけで
「歴史や軍事の知識がないのは平和ボケ」といいたがるが、知識のない人たちのほうが常識を持ち合わせてたってことだね -
>>411 >「どちらかしか選択できない」
「面白いが、正確ではない娯楽小説」と「正確だが、面白くないシミュレーション」を一つの小説のなかで達成することは不可能
なにより同時に達成しようとすれば、双方の責任まで背負わなきゃならない
「とにかく架空戦記は許さん」的な批判は別にして、一方の責任だけ負えばいいわけ
ところが架空戦記作家はそこがわからないから、「両方できます」と軽々しく口にできると
結果どちらの責任も負わない、負う気がないのだから、小説としてもシミュレーションとしても半端なものしかできないんだな -
言い方を変えるなら、小説=作家としての責任も、シミュレーション=専門家としての責任も負う気がない
そのくせ「多少間違えても許される」作家の特権、「正確なものを書いている」専門家としての特権の双方が欲しいんだな
どちらの責任は問われないが、どちらの特権もものにできるなんて、そんな都合のいいことなど起こるはずがない
架空戦記がつまらなくなっても、致し方ないんだ -
>>414 >どちらの責任は問われないが、どちらの特権もものにできる
ここは彼らが忌み嫌う、平和主義者の論理論法と似ている
高度消費経済を維持するには、治安機能としての高い軍事力が不可欠になる
平和主義者が軍備をなくそうとするのは自由だが、彼らは現在の高度消費経済が維持できることにまったく疑念を抱いていない
恩恵を享受するための責任感、出血を理解しようとせず、消費経済と平和の恩恵を同時に享受できると信じているから、彼らの平和論に賛同する人がいないわけで
作家や読者がどけだけ架空戦記を絶讃しようが、立ち上げた編集者の父親が共産党系の平和運動家だったことに気付かなかった
ロジックが似ていると、かえってわかないんだよなw -
架空戦記には批判的な立場にいるが、別に「娯楽小説とシミュレーションを同時にしろ」なんて無理は言っていない
「どちらかが水準に達していればいい」だけの話なんだな
架空戦記作家は「両方できます」と公言しておいて、両方しないんだわ
だから無理して「両方できる」なんていわず、片方だけに全力を投入しなさいよと
そうなると、架空戦記を立て直す1番いい方法とは、「娯楽小説です」とカミングアウトするしかないわけで
その程度の作家しか集まらないのだから、架空戦記がつまらなくても仕方ないんだな
能力のある作家ほど正直にカミングアウトしたほうがトクだと考えるが、架空戦記作家は能力がないから、カミングアウトするのが損だと考えてしまう -
>>416 >能力のある作家ほど正直にカミングアウトしたほうがトクだと考えるが、
>架空戦記作家は能力がないから、カミングアウトするのが損だと考えてしまう
端的に言ってしまえば、架空戦記作家は「作家としての戦略が間違えている」んだな
軍事や歴史の知識、表現能力とは別の部分が欠落している作家なのだと
そんな作家たちが集まる小説なんだから、普通の作家たちが見向きもしなくても当然
架空戦記とは、普通の作家と読者にとって「魅力のない小説」なんだ
となると架空戦記を魅力ある小説にするには、架空戦記に集まっている作家、読者たちに退場していただくしかないのだと -
ちんちん
-
>>416 >別に「娯楽小説とシミュレーションを同時にしろ」なんて無理は言っていない
>「どちらかが水準に達していればいい」だけ
架空戦記の作家、編集者、読者は「娯楽小説なのか、シミュレーションなのか」をはっきりしないし、「いまはどちらなのか」もはっきりさせない
その場その場で「娯楽小説です」、「シミュレーションです」と使い分けているだけ
責任感、倫理観が欠落しているのだから、どっちつかずになっても当然
「作品内にご都合主義がある小説」ではなく、「ご都合主義の人間が集まった小説」というほうが適切だと -
馬鹿な読者がいて、「小説なんだから、日本が勝って当然。批判派は現実とフィクションの区別がついていない」と口にしていた
「勝って当然」なのは「娯楽小説の論理」であって、「シミュレーションの論理」ではないことに気付いていない
つまり「娯楽小説が悪い」のではなく、「シミュレーションを基にした娯楽小説と銘打つ」、「娯楽小説を、シミュレーションかのように偽る」ことが悪いのだと
読者が本当に娯楽小説とシミュレーションの区別がついていたら、「シミュレーションを基にした娯楽小説と銘打つ」、「娯楽小説を、シミュレーションかのように偽る」作家には釘を刺しているはず
その程度の読者しか集まらないのだから、架空戦記が娯楽小説としての地位を築けないし、シミュレーションとしてはまったく見向きもされないのだがな -
同じ作家(編集者)、読者が同じ架空戦記に対して「荒唐無稽な小説で何が悪い」、「荒唐無稽な小説ではない」と口走れるのだから、分裂症患者の集団ですかと
「荒唐無稽な娯楽小説だから、正確なシミュレーションなどしていない」
「正確なシミュレーションだから、娯楽小説的な荒唐無稽さはない」
という二つの選択肢しかない
どちらを選択するのも個人の自由だし、尊重されるものとして、「両方しています」は止めてくれ
できないことを「できる」と言い切るのは、結果的に「できない」ことを認めたようなもの
それが売れ行きが低迷している真因だと、理解してるのかね -
「一生懸命書いている作家に失礼だ」という馬鹿な架空戦記の読者からの擁護も聞いたが
それなら架空戦記作家が他の作家に向けて「軍事や歴史の知識がない」といったり、専門家に対して「想像力がない」と口走ったのはどうなるのだと
他の作家も専門家も、どちらも一生懸命やってるんはずでしょ?
自分たちが相手に噛みつくのはいいが、相手が自分たちに噛みつくのはダメなのか
架空戦記作家は二言目に想像力と言いたがるが、他の作家や専門家の気持ちを理解する想像力はないのかね -
>>421 >「荒唐無稽な娯楽小説だから、正確なシミュレーションなどしていない」
>「正確なシミュレーションだから、娯楽小説的な荒唐無稽さはない」という二つの選択肢
何度も書いているが、「荒唐無稽な娯楽小説」が悪いのではない
「荒唐無稽な娯楽小説を(書いている作家を)、シミュレーション(ができる専門家)のように偽る」のが悪いのだと
(娯楽)小説は「多少のウソは許される」ものだとして、「絶対についてはならないウソ」もなければならないわけで
読者(お客さん)をミスリードする、偽情報や不安を与えるのは、面白いつまらない以前に、絶対にしてはならないこと
架空戦記の作家、編集者は平気でできてしまうから、架空戦記は娯楽小説でも、シミュレーションでも評価されないんだ -
>>423 フィクションの中のウソはまだ許されるが、外側のウソは許されないことが多い
そのうえ作家、編集者が「引っかかったら、読者の自己責任」と転嫁するのもよくない
作家、編集者が「読者が引っかからないよう全力を尽くした」のに読者がウソを信じたら、読者の責任だとして、自分たちが誤誘導したら、責任は自分たちか負うものだろうに
また架空戦記の読者は、自分たちに過度な責任を負わせようとする作家、編集者がまともなものを書けるとでも思っているのか
架空戦記の作家、編集者、読者は揃いも揃って頭が悪いのか -
「歴史改変自体悪い」という単純な批判派はいるが、「歴史改変SF」と架空戦記は微妙に違うんだよなあ
歴史改変SFは「改変が主、戦いは従」、架空戦記は「改変が従、戦いが主」
前者は「史実をいじった結果、史実とは異なる戦いが起きる」だが、後者は「史実とは異なる戦いを起こしたいから、史実をいじる」
前者は戦いに至るまでの過程、経緯を重視するが、戦闘自体は重要ではない
対して後者はあくまで戦いがメインなのだから、過程や経緯は重要ではないのだと
似て非なるものなんだが、この辺りをきちんと押さえている人もいないんだよなあ -
よく書くなら架空戦記は歴史改変SFの戦闘部分を特化させたもので、悪く書けば換骨奪胎化させたもの
「史実とは異なる戦闘をさせる」是非は別として、そのために史実をいじるのだとすると、本末転倒というか因果の逆転になりかねない
ましてや「戦闘させる」が前提にあるのだから、その目的達成のために歴史をいじる行為を「歴史改変のシミュレーションとして正しい」というのはどうかと
答え(戦闘)に合わせて問題(経緯、過程)をつくったようなもので、仮に正しかったとしても意味がないんだよな -
>>426 「シミュレーション小説は、シミュレーションではない」という名言wを聞いたことがあるが、ある意味正しい
「シミュレーション小説≠シミュレーション」ってことだ
そうだとすると、シミュレーション小説を「シミュレーション」と名付けて売っている作家、編集者は矛盾しているとw
作家、編集者が自分たちのつくったルールすら守れないんだから、架空戦記がまともになるはずもないんだな
またここに気付かない読者も、情けないってことだ -
それこそ故佐藤大輔と霧島那智の知識、表現力は雲泥の差であるのに、両者が同じ架空戦記というジャンルを名乗れるというおかしなことで
普通に考えれば能力がある側が「ない連中と同じに見られたくない」と出て行くか、ない側が「名乗るのはおこがましい」と引くかの二択なんだよな
裏を返せば架空戦記はジャンルとしての基盤があやふやなんだから、専門知識や表現力の有無なんて実は意味がない
架空戦記の内側から見れば両者の差は大きいが、外から見ればさほどではないと -
>>428 >架空戦記はジャンルとしての基盤があやふや
是非は別として、作家=小説と専門家=シミュレーションの中間、緩衝地帯に入り込んだんだな
両者との境界線をはっきりさせたうえで、内部の土地を耕すのに終始していれば、架空戦記には何も問題はなかった
ところが内部を豊かにするのではなく、「作家は知識がない」、「専門家には想像力がない」と両者に喧嘩を吹っかけて、自分たちの領土を広げようとしたわけだ
それだけではなく、荒らすだけ荒らしたら「責任はありません」と自分たちの領土に引き下がるという、簒奪行為に終始しただけだった
まともな作家、専門家、そして読者が相手にしなくて当然だよ -
それこそ架空戦記にまともな作家が集まっていれば、他の作家とも専門家とも友好関係を結ぶ戦略を選択したはず
不要な戦いは避け、自国を豊かにすれば(品質の高い作品を書けば)いいだけだもんな
質が上がれば自分たちの存在価値も上昇し、批判も回避できる
その戦略を選ばなかった段階で、架空戦記の作家、編集者、読者は「戦略を知らなかった」ってことになってしまう
ブームの時に調子こいて領土を広げたリバウンドが、目も当てられない惨状だと
作品などで「戦略」と書いておいて、自分たちは戦略を知らなかったなんて、シャレでは済まない -
もう残された手は、「架空戦記はシミュレーションではなく、娯楽小説です」と正直にカミングアウトするだけなんだな
「シミュレーションをしていない」と宣言し、娯楽小説に全力を注げば、多少の荒唐無稽も許されるんだし
しかしその代償として「俺たちは少し知識があるだけの作家に過ぎない」と割り切らなきゃならないし、他の作家に「知識がない」とか専門家に「想像力がない」と暴言を吐いたことを謝罪しなさいよ
架空戦記作家と読者は「俺たちこそ優秀」というつまらん自意識にこだわるから、少し撤退することで戦線を再構築する気もないんだよな
もはや「戦略を知らない」のではなく、「語る資格もない」ほうが適切だと -
>>429 >「作家は知識がない」、「専門家には想像力がない」と両者に
>喧嘩を吹っかけて自分たちの領土を広げようとした
ニワトリとタマゴの問題で、そういう作家、小説だからこそ、陰謀論やフェイクニュースが入り込む余地ができたと
確固たるものがある作家は、他者に喧嘩を売る必要もないし、だからこそ陰謀論などが入り込む隙間も与えない
まともではない作家ほど架空戦記に参入してしまうわけで、面白くなることなんかないんだよ -
架空戦記の質的向上を図るには、既成の架空戦記に関係した作家、編集者、読者がいなくなったほうがいいw
知識の多寡ではなく、常識的な判断ができる作家を集めるのが先決だと
そして「娯楽小説か、シミュレーションかを曖昧にする」のも止めて、「荒唐無稽だが面白さを優先した娯楽小説か、正確だが面白さがないシミュレーションか」の二択に徹する
売れそうな展開、目先の派手さを追うのではなく、地道にやり直そうよと
もっともここまでの惨状からV字回復できるような見通しを持つ作家がいれば、既成の架空戦記になびくことなんかないんだよな -
>>427 >「シミュレーション小説は、シミュレーションではない」という名言w
たしかに「ノベルズ」という形態なんだから、シミュレーションではなくて小説なんだよな
しかしだからこそ、「シミュレーション小説を、シミュレーションとして売るのは良くない」ことになってしまう
また「シミュレーション小説とシミュレーションは別のものなのだから、シミュレーション小説の作家、読者はシミュレーションを理解できるわけではない」んだよな
ところがシミュレーション小説の作家、読者は、都合に応じて「別のもの」、「同じもの」と使い分けるところが嫌らしい -
>>434 >シミュレーション小説の作家、読者は、都合に応じて
>「別のもの」、「同じもの」と使い分ける
そこが架空戦記の嫌らしさなんだよな
普通の作家、専門家は、たとえ自分たちが不利になっても「娯楽小説」、「シミュレーション」のどちらかしかしない
一方の恩恵と責任は選択するが、もう一方は最初から「してません」と明言して放棄する
架空戦記作家、読者は「どちらもできます」と両方の恩恵は得ようするが、責任について果たす気がない
知識や技術の問題ではなく、意識の問題なんだな -
一般大衆向けの娯楽小説と専門家向けのシミュレーションの「どちらが良い悪い」ではなく、どちらを選択するのも自由
一方を選択した以上そちらの恩恵を得られ、責任を追わなければならないが、もう一方の責任は果たさなくてもいいし、恩恵も享受できない
娯楽小説を選択すれば、多少の間違いも想像力の名の下に許されるが、より多くの人を楽しませる責任が生じる
反対にシミュレーションの正確さは果たさなくても構わないが、専門家としての評価は受けられない
他方シミュレーションは専門家としての評価を受けられるが、正確なものを書く責任を伴う
しかし間違いは許されず、多くの人を楽しませることをしなくてもいい -
対して架空戦記の作家、読者は「間違いも認めてくれ」「専門家と同等の評価をくれ」と両方の恩恵をほしがる
そのくせ「多くの人が読む娯楽小説」、「専門家向けのシミュレーション」を書こうという責任を果たす気がない
正反対の戦略目標を同時に達成するというそもそも無理なことをしているのだから、破綻しても仕方ないわけで
単純に「つまらない」ではなく、まともな作家は書かないし、読者も読まないだけ -
荒巻義雄、檜山良昭など初期の架空戦記作家は、わざと架空戦記と歴史改変SFとの差異を設けなかった
そのうえ架空戦記とシミュレーションとの差異もつけなかったという、立ち上げ段階で2重の曖昧さがあったわけだ
間違えても「小説だから許される」「知識のあるヤツは頭が固い」、少し正しいことを書けば「ただの小説ではない」、「知識のないヤツは危機感がない」と正反対のことを口走れる
そして曖昧だからこそ、故佐藤大輔と霧島那智が共存できるという珍妙な事態が起きたんだな
さらにややこしいことに、架空戦記を批判していた批判していた人たちの大半も「曖昧さ」を認識できていなかった
「間違えているから許さん」的な論調で、本当の問題はそこではないことに気付かなかったんだな -
架空戦記は曖昧なんだから、実態がないのだと
「いまは娯楽小説」、「いまはシミュレーション」と作家、編集者、読者は都合のいい側につくことしか考えないから、どちらにしても積み上げはできない
娯楽小説としては面白くなくなるから一般読者は見向きもしないし、シミュレーションとしても専門家から評価されるはずがない、中途半端な代物に堕してしまう
「架空戦記はつまらない」というか、構造的につまらないものかできないんだな
架空戦記ブームとは混乱であり、カオスだったわけだ -
「架空戦記を面白くしよう」とするなら、構造面から見直すしかないのだが、架空戦記作家、編集者、読者にそれができる人材が揃っていない
それこそ「本当に戦略を理解できる人間ほど、架空戦記など書かないし、読まない」という逆説に落ち込んでいるわけでw
売れそうな展開、キャラクターや架空兵器を登場させるという戦術的な手しか打てないから、ジリ貧からドカ貧に陥った
皮肉めいているが、架空戦記批判の本を出した連中ほど、架空戦記の問題点を直視していたんだな
「好きだから欠点が見えない」架空戦記作家、読者とは違い「欠点が見えたから嫌いになった」のだと -
架空戦記批判をした連中は構造的な問題に踏み込み、元締めが戸高一成と突き止めた
結局架空戦記を批判的に語っていたはずの戸高が、裏でブームを煽っていたのだと
批判的な言説をしていた神立尚紀はもちろん、複数の戦記本編集者なども知っていながら、知らぬ顔を決め込んでいたんだな
ところが想定外の事態が発生した
戸高はオカルト本3冊を、歴史偽造書を出している出版社から刊行していただけではなく、創業社長と荒巻、檜山が面識があることまで、架空戦記批判をした連中は嗅ぎつけた
これはごく少数しか知らない話で、神立や戦記本の編集者はもちろん、架空戦記作家、編集者の半数、架空戦記の読者、批判的な人間は誰も知らなかった -
戸高とオカルトとの関係は、架空戦記側では「戸高、荒巻、檜山と一部編集者」は知っていたが、「過半の架空戦記作家、編集者」と読者は知らなかった
通常の戦記本では「戸高と極少数の関係者」は知っていたかも知れないが、「大半の作家、編集者」と読者には伝えられていなかった
両者の下っ端同士が架空戦記を通していがみ合っていたが、プロレス顔負けの展開で、上層部はつながっていたんだな
架空戦記批判本の著者は両方にとって不都合な真実を暴いたわけで、敵対しているはずの両者が手を組んで、集中砲火を浴びせて黙らせたわけだ -
どうやら架空戦記側の問題でもなく、戦記本側にも多大な問題があったわけだ
というか問題があったからこそ架空戦記に侵食されたわけで、ニワトリとタマゴだな
戦記本も架空戦記も構造的な問題があるからおかしくなったわけで、そこから目を逸らしている限り、良くなるはずがない(歴史偽造本を刊行する出版社に、経営参画していた戦記出版者を譲った人が「第一人者」と崇める段階でw)
現状で既得権益を得ている人が一定数いるから、改革なんてできないんだよな
それも人の業といえばそこまでだが、改革をできない人ほど「旧日本軍の人事システムの欠陥は…」と真顔で言いたがるから困るわけでw -
架空戦記の読者にとって「いい架空戦記」とは「自分の価値観に合わせてくれるもの」なんだな
シミュレーション、歴史改編SF、大衆小説とは別の価値観なのだと
「大衆小説としての架空戦記」の是非と別として、大衆小説では「より多くの人の価値観に合わせる」のが目的なのに、「自分の価値観に合わせろ」と強弁する
それを窘めると、「お前も俺たちと同じで、自分の価値観に合わせてもらいたいだけなんだろう」とキレてくる
お話しができないというか、「そもそも大衆小説を理解できているのか」という話なんだが -
>>444 >架空戦記の読者にとって「いい架空戦記」とは「自分の価値観に合わせてくれるもの」
>シミュレーション、歴史改編SF、大衆小説とは別の価値観
「いいもの=俺(たち)の価値観に合ったもの」「悪いもの=価値観に合わないもの」であって、「価値観から外れているけど、いいもの」や「価値観に合っているけど、悪いもの」が存在しない
些細末端は細かいものを要求しているが、実態はつまらないんだなw -
>>446 つまり「いい作家=俺(たち)の価値観に合ったものを書いてくれる作家」「悪い作家=価値観に合わないものを書く作家」になる
これはある意味、大衆小説の究極進化形ってことだな
普通の大衆小説は「より多くの人が理解できる小説」だが、架空戦記は「極少数しか理解できない大衆小説」になるわけだ
知識や感性があるから楽しめるわけではなく、集まっている読者たちと同じ価値観を有していなければ楽しめないわけで
そんなものが存在すること自体滑稽なんだがw、それに輪をかけておかしいのが、その程度の大衆小説を専門家の専任事項であるはずのシミュレーションに置き換えて、おかしいとは感じない無神経さだとww -
>>446 >知識や感性があるから楽しめるわけではなく、集まっている読者たちと同じ価値観を有していなければ楽しめない
専門家に匹敵する知識を持つ人、多くの小説を読んできた人が、架空戦記を楽しめるわけではないんだな
故佐藤大輔なら佐藤に、霧島那智なら霧島に集まる読者たちと同じ価値観を有していなければ楽しめないのだと
たとえ知識や感性が読者たちより優れていても、価値観が違う人間は弾かれてしまうわけで
同じ価値観を有する読者たちが、作家を含めて相互承認し合うのが、架空戦記の正体なんだな
百歩譲ってそれも許すとして、どうして相互承認するために歴史改編をしなければならないのかが理解できんのよ
ただのファンタジーで止めたところで、悪いわけではないはずなんだがな -
>>447 >どうして相互承認するために歴史改編をしなければならないのかが理解できん
太平洋戦争の敗戦は最大級のミスが積み重なったわけだから、「当時の指導者よりもうまくできる」という思い上がりが、作家と読者にあるのだろうさ
しかしそれは現実世界で上手くいかない作家、読者の恨みつらみが共鳴し合って、1番ひどい失敗をした人間を比較対象として選んだだけに過ぎない
現実に評価を受けている作家、専門家ほど、架空戦記を書かないしな
だからこそ架空戦記の作家、読者は、普通の作家や専門家を敵視してがるのだと
面白いつまらない以前に、架空戦記は小説としてどこかズレてるんだよな -
>>448 >太平洋戦争の敗戦は最大級のミスが積み重なった
「俺(たち)は絶対ミスしない」と思い上がっている作家、読者ほど架空戦記が集まるわけだ
だから「作中にミスがあるはずがない」という意識になるし、仮にあったとしても自分たちが有利になるよう合理化してしまう
改善の余地がまったくないわけで、どれだけ壮大なストーリーにしても、積み重なったミスが自分たちの頸を締め、最終的に破綻を来してしまう
「ミスしました、改善します」でいいと思うんだけど、そんな素直な言葉が吐けない人しか楽しめないんだな -
>>449 >「ミスしました、改善します」
架空戦記の作家、読者たちの内部から自己改革しようという声も上がらない
架空戦記に限らず、ミスを認めたうえで改善しようとする人がいれば、その人(たち)を強く責めたいとは思わない
素直にミスを認め、よりよくしようと努力する人(たち)は人間として信頼できるし、彼(ら)が好きなものは簡単には批判できない
つまり改善を試みる人が一定数いれば、架空戦記もここまでの惨状にはならなかったってことになるわけだ
自分(たち)の改善すらできない人(たち)が、歴史の改編なんてできるのかと? -
>>450 >架空戦記の作家、読者たちの内部から自己改革しようという声も上がらない
単純に「歴史を弄っている、間違えているからけしからん」的な人たちも、この辺りには意外と理解していない
架空戦記が「好きか嫌いか」は嗜好の問題で済むが、「好き」といっている連中は、まず他の史料はおろか「好きな作品」ですら、それほど深く読み込んでいない
だからこそ「ミスに気付かない」し、ミスがあったとしても直面するのではなく、「自分(たち)に都合が良いよう合理化しようとする」
そんな意識だから、「自分(たち)で改善しよう」とは試みないし、「他者に責任をなすりつけようとする」
こういう作家、読者が架空戦記に集っていることが、本当は問題なのだと -
>>451 こういう作家、読者が架空戦記に集っていることが、本当は問題
「よくしようとした結果、失敗した」なら多少許される部分もあるが、そもそも「よくする気がない=自分たちに合わせろ」なんだよな
他方批判的な人も「けしからん」といってるだけで、「では、どうすれば良くなるのか」という提言はしていない
どっちも噛み合わない意見を主張しているだけw
「いい架空戦記ができる土壌をつくりましょう」といったのは架空戦記批判の本を出した人たちだけだったわけで、なぜかそこで噛み合わない人たちが連合を組んで、彼らを葬ろうとしたんだなw
架空戦記の作家、読者も大概だが、実は批判している人も同レベルだったと -
>>452 >架空戦記の作家、読者も大概だが、実は批判している人も同レベル
架空戦記の作家、読者は「歴史改変(SF)小説の定義を、自分たちの望む方向にすり替えた」
架空戦記批判派は「そもそも歴史改変(SF)小説を認めない」
話が噛み合わないまま、いがみ合ってたわけだ
批判本を出した人は「架空戦記は、歴史改変(SF)小説になっていない」と当然の主張をしたわけで、両方から叩かれたんだな
しかしそんな両者だから、双方の元締めが同じ戸高一成だと気付かなかった
両方から叩かれた著者たちだけが真相を見抜いたんだから、なんだかなぁ -
東北旧石器の捏造についての本を読んだけどさ
早くから疑念を抱いていた考古学者が複数いたのに、信奉者が学会から干した
偽造が判明した後、干した考古学者は「Fに騙された」とは言ったが、干した学者たちに謝罪しなかったんだと
干された学者たちは考古学会に嫌気がさしちまったそうだ
架空戦記批判をした人たちも、同じように嫌気がさしたんだろうなあ
第1人者が一方で架空戦記を煽り、他方では批判していたという二重人格
おまけに誰1人として、その人物が歴史偽造運動に参加していたことには気付かなかったわけだし -
・歴史改変SFは「歴史が改変されたときの人間ドラマ、ストーリー性」、シミュレーションは「正確さ」が中心だが、架空戦記は「架空の戦闘とその結果」が中核
・歴史改変SF、シミュレーションは「最小限しか歴史をいじれない」が、架空戦記は「どれだけいじっても許される」
・「タイムスリップもの」に限定されるが、歴史改変SFでは「タイムスリップした主人公たちが歴史を改編するのを苦悩、逡巡する」架空戦記では「さも当然、必然かのように改変する」
「好き嫌い」「いい悪い」「認める認めない」は別として、歴史改変SF、シミュレーションと架空戦記は似て非なる存在 -
>>455 >歴史改変SF、シミュレーションと架空戦記は似て非なる存在
違い、差違を最初から明確にしていれば、「架空戦記が好き嫌い」といった個人的感情は別として、「どこをどう直すべきか」の争点もはっきりした
ところが問題なのは、まず架空戦記側(作家、編集者、読者)が、「自分たちこそ歴史改変SF、シミュレーションの主流である」と振る舞った
「亜流、傍流」と認識していれば、他の作家や専門家とも折り合いを付けられたのに、「本流」と名乗ったことで双方に余計な喧嘩を吹っかけたんだな -
続いて架空戦記の定義を曖昧にしたことで、責任の所在も曖昧になった
是非は別としてシミュレーションは「正確ならば、面白くなくてもいい」、娯楽小説は「」面白ければ、正確でなくてもいいと正反対の存在で、同一作品で二つを達成することなど不可能
まともな作家、専門家なら「どちらか一方を頑張ります(もう一方はできない、しないので許して)」で済ませるのに、架空戦記に集まる作家、専門家は「どちらもできます」と口にするくせ、どっちつかずのものしかつくれない
作家、専門家としての責任を放棄したわけだ -
>>457 >作家、専門家としての責任を放棄したわけだ
無論他の部分の責任まで放棄してしまう
娯楽小説なら、作家は読者が誤った知識、考えを受け取らないよう配慮するのが当然
十分な配慮をするのが作家の責任で、それでもおかしな方向に進んだら読者の責任と区分しておくもの
架空戦記では作家、編集者は配慮しないばかりか、そこに気が回らない読者しか集まらない
普通の読者なら「作家、編集者は配慮が不十分→読者を嘗めているのか」と怒るが、架空戦記の読者は作家、編集者の手抜きを賛美する
結果おかしな学説などへの免疫がない読者ほど、架空戦記に集ってしまう -
そして架空戦記側ではなく、批判的な戦史愛好者側の問題
前述したように架空戦記側(作家、編集者、読者)が、歴史改変SF、シミュレーションの亜流、傍流であるはずの架空戦記を主流かのように偽った
ところが批判側も、「偽った」ことに気付かなかった
つまり「架空戦記を認めない」のではなく、そもそも「歴史改変SF、シミュレーションを認めていなかった」
架空戦記を批判していながら、問題の本質を取り違えていたわけだ
極論すれば双方とも「俺(たち)の意見をすべて認めろ、一切妥協しない」と叫んでいたわけで、戦いを治める気もなかった -
唯一戦いを治めようとしたのが、架空戦記の批判本を出した著者たちだけだった
架空戦記側に「横暴だから、多少撤退しなさい」とはいったが、最小限の生息地は確保して、まともな架空戦記が誕生する素地は残そうとした
架空戦記側は「そんな領地、自治権などいらん」と騒ぎ、架空戦記を殲滅したい批判派は「架空戦記の味方をする気か」と怒ったんだな
和平交渉はぶっ壊れ、好き放題の権利を主張した架空戦記は見る影もなくなるばかりか、まともな戦史研究が進んだわけでもなかった
誰も得をしない戦いが行われていたわけだ -
唯一利益を得たのが、架空戦記には批判的な発言をしつつ、裏で作家たちをプロデュースした戸高一成だな
当初は架空戦記を使って陰謀論、フェイクニュースを広めようとしたが、自分が大和ミュージアム艦長に内定すると、一転して架空戦記との関係を闇に葬ろうとしたわけだ
対立していたはずの肯定派、批判派のトップが同一人物で、実態を知っていたのが極々少数の関係者だけだったと
ところがその関係者ですら、戸高が陰謀論と接点があったことには気付かなかった
戸高は、戦史研究を自分の掌の上で操ろうとしていたわけだな
しかし、世の中は戸高の思い通りには進まない -
ものは言い方なんだな
例はジャニーズ、AKB、韓流ドラマ、オタアニメのなんだっていい
「世の中的には評価されていませんけど、俺、好きなんだよね」と下手に出てくれば、常識的な考えを持っている人なら、どれだけ嫌いであっても、相手の存在まで否定しようとはしない
「俺が好きなんだから、いいものだ。お前も見ろ」と高圧的に出られたら、誰だって反発したくなる
架空戦記も同じで、作家や読者たちが「歴史改変SFの亜流、傍流。なんちゃってシミュレーションですが、俺は好きなんです」といってくれれば、どれだけ嫌いでも存在は認めてもいい
しかし「架空戦記を理解できないヤツは頭が悪い」と口にするなら、こちらの存在を軽視したことになるので、全面戦争になっちまう -
初期の段階で作家たちが「引き目」の言い方をしていれば、架空戦記にはまだ救いがあったんだろうね
ところが荒巻はSF作家界、檜山は歴史研究家の傍流で、本流に対する恨み辛みが強かった
口調が攻撃的になるばかりか、「自分たちこそ本流」と名乗りたかったわけだ
作家の攻撃性と、現状に不満を持つ読者の恨み辛みが共鳴したんだな
そういうことだから、陰謀論やフェイクニュースが住み着く土壌にもなったんだと
架空戦記の内容以前に問われなければならないのは、まず群がった人たちだった -
ところが架空戦記側だけを追求すれば済む問題でもなかった
批判派は架空戦記どころか、「とにかく歴史を弄るのは許さん」で歴史改変SFやシミュレーションまで認めていなかった
だから「架空戦記が、歴史改変SFやシミュレーションの本流だと偽った」ことを問題視しなかったわけで
結局「俺の好きなものはすべて認めろ、嫌いなものはすべて認めない」という本質的な部分は、対立するはずの架空戦記側と同じだったんだな -
野球で喩えるなら、社会通念というか、多くの人たちが反応できる共通認識としてのストライクゾーンがある一方、個人の好み的な「好きなコース、嫌いなコース」がある
「ストライクゾーンに入っているが、嫌いなコース」もあれば、「ゾーンには入っていないが、好きなコース」があっても許される
そこを「まあまあ」と収めるのが、大人ってものなんだがな
架空戦記に限った話ではないが、「共通認識としてのゾーン」と「好き、嫌いのコース」とを混同している人がいかに多いことか -
架空戦記が大衆小説であるなら、作家はまず「共通認識としてのゾーン」に投げなきゃならない
入っていれば、その後は「好き、嫌い」の問題になる
ところが作家がゾーンに投げ込む気がないのだから、「好き、嫌い以前の問題」になってしまうんだよな
厄介なことに好きな連中は「俺は好きだ」、嫌いな連中は「俺は嫌いだ」と叫んでるだけで、作家がゾーンに投げていないことを問題視していないのだと
双方が冒頭から誤認しているのだから、議論をいい方向へ積み上げることもできないわけで -
>>464 >「俺の好きなものはすべて認めろ、嫌いなものはすべて認めない」
>という本質的な部分は、対立するはずの架空戦記側と同じ
両方の親玉が戸高一成だったことに、どちらも気付かなかった
考え方が似ているから、錯視を起こしていたわけだ
そのくせ、自分たちを騙していた戸高に怒りを向けることもしない
どっちもどっちで、性根が腐っている
そしてそんな連中ほど、「旧日本軍の人事は」などと得意げに語るんだよなあ -
架空戦記が娯楽小説であるなら知識のある人、ない人を問わず楽しませるもの
シミュレーションであるなら、専門家を納得させるべきもの
どちらでもなく、作家と読者が「自分たちは優秀だ」と自己神格化、相互承認の場になったわけで、娯楽小説としてもシミュレーションとしてもつまらなくなるんだな
百歩譲ったとして、架空戦記を書く作家、読む読者たちが「俺たちは亜流、傍流」と立場を弁えていれば、まだ救いがあった
ところが「自分たちこそ本流、認めない人間は亜流」といいはじめたから、話がおかしくなった -
>>463 >荒巻はSF作家界、檜山は歴史研究家の傍流で、本流に対する恨み辛みが強かった
そもそも架空戦記とは、娯楽小説として多くの読者を楽しませるものでもなかったし、シミュレーションとして専門家を納得させるものでもなかった
知識や感性の有無ではなく、作家と同様な恨み辛みを抱く読者しか共感できないんだな
娯楽小説でも、シミュレーションでもない存在ってわけで
ところが批判的な言説を述べる人も、そこまで踏み込んで考えていたのでもなかった
たんに「間違えている」で留まっててて、それ以外の問題を理解してなかったんだな -
だから架空戦記を批判していたはずの自称ジャーナリストが、架空戦記の批判本を堕した人を批判するという頓珍漢な事態が起きた
批判派と愛好者という水と油の関係がタッグを組み、批判本の著者を叩いて喜んでいるなんて、常人には理解できない
おまけに親玉が同じ戸高一成だということに、どちらも気付かなかったというお粗末さ
双方ともいいように操られていたのに、それを指摘してた著者を吊るし上げている
怒りの矛先を戸高に向けるのでもなく、自分たちを恥じるのでもないんだな
この程度の人間しか戦史に興味がないのだから、日本の戦史研究なんて大したことがない -
>>470 自称ジャーナリストさんもずいぶん変わった人でw
・平素から「俺が日本で一番零戦について調べている、愛している」と公言
・そのくせ大和ミュージアムの零戦修復費に疑惑が出ると、「知らない、わからない」を連発(調べるのがジャーナリストの仕事では?
・また「架空戦記は許せない」と発言
・ところが戸高一成が架空戦記と深く関与していたことは、読者には一切伝えず
・その戸高が歴史偽造に関与していたことを指摘されると、突如逆ギレ
・おまけに戸高がオカルト本を出した出版社に、別件の取材で自分に毒を飲ませる指令を出した麻原彰晃が出入りしていた(社長がオウム事件直後に東京地検特捜部から任意聴取を受けた)ことには沈黙(戸高が麻原と面識があった可能性まであるのだが
ジャーナリストはもちろん、読者たちも架空戦記を笑う資格がないってことだなw -
>>471 自称ジャーナリストさんをはじめ「戸高と歴史偽造は無関係」とは口が裂けてもいえないよ
国会図書館の蔵書検索を当たれば、戸高が関与したオカルト本が3冊出てくる
「ムー1982年12月号」(学研)と「禁断の超歴史超科学」(新人物往来社)の目次が画像検索で見つかれば、戸高の名前が掲載されている
おまけに『トンデモ偽史の世界』(楽工社)という書籍に、戸高が邪馬台国研究家だったことが記されている
著者の原田実氏は、戸高がオカルト本を出した出版社に勤務していた編集者(任意聴取された創業社長からのパワハラで退社)だから、間違えているはずがないんだわ -
自称ジャーナリストさんをはじめ、架空戦記批判をする人たちも批判すべきポイントと批判しないポイントがズレてるんだよな
作家が意図して史実と違うことを書いたり、ボーンヘッドした部分などは注意をするだけして、許してやればいいのに、そこを追求して鬼の首を採ったかのように振る舞う
そのくせ娯楽小説をさもシミュレーションかのように偽る部分は、問題視していない
読者に混乱を与えかねないし、自分たちが好きなはずの史料の信憑性まで低下するのだが
そのうえ戸高人脈とフェイクニュースがつながっているのには、誰1人として気付きもしなかった -
架空戦記の問題点は、娯楽小説とシミュレーションとの境界線を曖昧にしたうえで、陰謀論やフェイクニュースを混ぜ込むところなんだが
「間違えても許される娯楽小説」なのか「間違えていないシミュレーション」なのかを判別できなくしたところに、「史実」と作家の「意図的な間違い」、「無意識な間違い」が混入するので、よほど注意しなければ読者が何を読んでいるのかがわからなくなる
陰謀論、フェイクニュースにとって絶好の隠れ家なんだよな
ここを追求できない批判派は、愛好者と本質は同じで、「知ってる、知らない」しか興味かがないのだろう
だからこそ両者の親玉が戸高であることすら、察知できないのだと -
架空戦記を書<く作家、読む読者たちに「いい小説を書いて(読んで)いる」という誇りがあれば、胸を張って「シミュレーションはしていません」と言い切れるはずなんだね
そこまで言い切れるのであれば、他の作家、専門家や読者たちと争う必要もないわけで
架空戦記の質が低いのは、作家や読者が「シミュレーションです」とズレたことを口走るのが原因だと
しかし批判派の人にしても「シミュレーションになっていない」と怒ってるだけで、「いい小説にしましょう」とはいってないんだね
両方に妥協できる余地があったのに、どちらも気付かなかったし、検討しようともしなかった
そして両方の元締めである戸高もそこを調整すればいいのに、それすらしなかった
つまり元締め自身、「いい小説」をつくろうとする気がなかったわけだ -
普通なら「どこがどうおかしい→どのように改善すべきか」という議論になる
ところが架空戦記の作家、読者は「俺たちが好きなんだから、おかしいところはない」
批判派は「俺たちが嫌いだから、改善しなくてもいい」
議論は噛み合っていないが、「架空戦記が良くならない」という意味では噛み合っているw
かつてどこかの国が戦争でボロ負けしたが、同じような議論を辿ったのだろうな -
大衆向けの娯楽小説なら、知識のある人、ない人のどちらにも受け入れてもらうため、基準としての仮想のストライクゾーン的なものがある
基準があって、はじめて「個々の好みのコース」が意味を持つ
ゾーンに入っていれば好みの問題であり、自分の好きなものもあれば、嫌いなものがあっても許される
また多少ゾーンの外側に自分の好みがあったとしても、対極側に外れた人の好みを批判することはできない
翻って架空戦記が好き、嫌いなのは、それぞれの好みに過ぎない -
ところが架空戦記で問題なのは、好きな人が「自分の好み>一般的な基準」という解釈をしたんだな
ストライクゾーンから外れていても、自分が好きなコースであれば許すとした
この考えは大衆向けの小説であることを否定したばかりか、「自分たちこそ基準である」と宣言したわけだ
もはや好き嫌い、面白いつまらないではなく、これじゃまともな人は読まない
批判本を書いた人たちは、ここを指摘しようとしたんだな
大衆小説は「自分の好み<一般的な基準」なんだから、まず一般の人向けの基準に向けて投げましょうよと -
しかし厄介なことが起きてしまった
架空戦記を嫌っている人が一定数いたのに、彼らの考えは「自分の好み>一般的な基準」で、実は架空戦記が好きな人たちと同じだった
彼らは彼らで、「自分たちの好きなコースに投げろ」と要求していたんだ
つまり架空戦記が好きな人、嫌いな人は好みが違うだけで、本質に違いがなかった
両者は対立している反面、自分たちの好みより一般的な基準を優先する批判本の著者は、共通の敵だったんだな
批判本の著者を追い落とす意味で共闘し、失脚させたのはいいが、架空戦記が良くなったわけでも、社会から軍事関係書への理解が高まったわけでもなかった -
架空戦記が好きな人たちにとって、良い架空戦記とは「自分たちの我が儘、言い分がすべて通る小説」
嫌いな人たちは「嫌いなんだから、良くなる必要はない」
これでは「良くしよう、改善しよう」という流れが起きるはずもないし、「いいものをつくろう」と声を上げた人を両方が総出で潰すw
これはもう架空戦記の問題ではなく、軍事に興味を持つ人たちの精神がおかしいってことだな
そんなことだから架空戦記の生みの親が裏では批判しているのに、好きな側も嫌いな側も気付かないし、文句もいわない
おまけに歴史偽造と関係していたことも、見て見ぬ振りなんだよ -
・専門家向けのシミュレーション
・コアなSFファン向けの歴史改変小説
・ライトなSFファン、軍オタ向けのファンタジー
・一般向けの娯楽小説
「どれがよくて、どれが悪い」ではなく、どれを好きになろうが個人の好み
しかし「ファンタジー、娯楽小説」を「シミュレーション、歴史改変小説」かのように偽るのはよろしくない
架空戦記がダメなのは、この禁じ手を打ったことなんだな
「これはファンタジー、娯楽小説であって、シミュレーション、歴史改変小説ではありません」と正々堂々逃げていれば、まだ救いはあった
ところが「ファンタジー、娯楽小説」の手法で「シミュレーション、歴史改変小説」をやろうとしたばかりか、自分たちが主流派だと名乗ったことで混沌が起きたんだ -
つまり歴史家、作家で主流になれなかった人間が架空戦記に集まり、「自分たちこそ主流」と偽情報を流してしまったんだな
架空戦記を熱狂的に支持するのは、このトリックを見破れなかった読者たちだと
主人公がタイムスリップ、もしくはパラレルワールドに流れ着く話だと、普通の小説だと「主人公たちが、いかにして価値観の違う世界の人間と理解し合うか」が主題になるのに、「ともかく理解し合った=超科学や知識で屈服させて、さらに敵国と戦う」という、壮大なのに薄っぺらい展開になってしまう
現実の世界で、自分たちが他の人たち=主流派を納得させられなかったのを棚に上げてるだけとしか思えないんだな -
ところが架空戦記に批判的だった人が、「シミュレーション、歴史改変小説、ファンタジー、娯楽小説」の区別がついていた訳ではなかった
ともかく「歴史改変は許さん」だけに過ぎなかった
架空戦記の作家、読者とは「好き、認める」と「嫌い、認めない」だけの対立だから、「架空戦記を良くしよう」という方向には向かなかったわけだ
唯一「良くしよう」に近い方向を示したのが批判本の著者たちなのに、敵対していたはずの架空戦記と作家と読者、批判派はなぜかタッグを組み、潰してしまったんだな -
結局架空戦記と作家と読者、そして批判派の主張は「俺が好きなものはいいもの」という意識が強すぎるんだな
世の中には「俺は嫌いだが、いいもの」もあれば「俺は好きだが、悪いもの」もあることを理解していない
また後者の存在を認めれば、「俺は嫌いだが、相手が好きなもの」も或る程度は認めなければならなくなる
作家、読者と批判派の論争は「どちらがどれだけ好きか」の競い合いに過ぎず、「より良くする」という方向には進もうとはしない
対立しているようで、根っ子は意外と近いところにいたりする -
架空戦記に限らず、「なにかをより良くしよう、改善しようとする」なら、まず現状の把握、整理からはじめなければならない
批判本の著者たちはそれをしていたら、架空戦記の生みの親が戸高一成に気付いたばかりか、オカルトや歴史偽造運動との接点まで見つけたんだな
「架空戦記が好き嫌い、正しい間違えている」ではなく、それ以上の大きな問題を孕んでいたことまで察知した
これが批判本の著者と、架空戦記作家、読者、そして批判派との大きな差異だったわけで -
大和が空を飛んでも、三段飛行甲板の空母が合体しても別に構わない
小説なんて荒唐無稽なものなんだから、「荒唐無稽だ」と批判しても意味がない
論点はそこではなく、「荒唐無稽な小説」を「シミュレーション」、もしくは「シミュレーションに基づいてる」といっても許されるのかなんだが
読者が喜ぶ荒唐無稽な小説を書くのは悪いことではないとして、その小説を「シミュレーション」と呼ぶのは、あまり気持ちのいいものではない
まずシミュレーションをする専門家とその読者に失礼だろうに
続いて架空戦記の作家、読者が他の作家や読者に対して「お前たちはシミュレーションができない」と優越感を誇示するのも失礼極まりない
多少間違えている云々ではない話なんだが、批判している人たちもわかっていない -
架空戦記作家が「私たちはシミュレーションをしていません」と書いておけば、多少荒唐無稽な話でも、批判派も許さなければならないはず
荒唐無稽な小説と正確なシミュレーションが、うまく共存共栄すればいいだけなんだよな
架空戦記作家、読者に些細な気配りができないばかりか、批判派の人たちも論点がずれているから、つまらない戦いが継続されてしまう
そういう場所だから、陰謀論やフェイクニュースの温床になるのだが -
>>486 >大和が空を飛んでも、三段飛行甲板の空母が合体しても別に構わない
とてもではないが、専門家がするシミュレーションではないw
だから「シミュレーションではなく、娯楽小説です」と胸を張ればいいんだよな
しかし娯楽小説だとしても、史実を改変したり、実在の国家、人物を使う必要もないんだな
架空の文明を立ち上げるとか、宇宙戦争ものにするとか工夫すればいい
それで批判する人がいればアタマがおかしいwが、そういう工夫もしないのは作家や読者に問題がある -
繰り返されているが、「シミュレーションが理解できる作家、読者」ほど、「シミュレーション小説という言葉は使えない」という逆説に陥ってしまう
「正確だが、面白みのないシミュレーション」と「面白いが、正確ではなくてもいい娯楽小説」とは方向性が反対
理解できている作家、読者は二つを同時に達成することはできないことを知っているが、できない作家、読者ほど無理に達成しようとしてドツボにはまる
結果架空戦記は「シミュレーションとしては不正確で、娯楽小説としてはつまらない」ものしかできなくなる -
>>489 >方向性が反対
反対なんだから、どちらが優れていて劣っているという問題ではない
むしろ「娯楽小説で何が悪い」と割り切って、荒唐無稽を極めるのも立派な戦略
「シミュレーションはしていません、できません」と断言できる作家は、専門家や他のジャンル作家と敵対する必要がないことまで理解できている
それができる作家が架空戦記を書いていれば、まだ救いがあった
ところが架空戦記に集った作家たちは、専門家や他の作家と戦っても勝ち目がないくせに、優越感を振りかざそうとするから、できもしないシミュレーションを「できます」と言いたがる -
>>490 「娯楽小説で何が悪い」と割り切って、荒唐無稽を極めるのも立派な戦略
批判派は「荒唐無稽な娯楽小説はケシカラン」だが、それはそれで言い過ぎ
本当に重要なのは、「荒唐無稽な娯楽小説に、シミュレーションという冠を付けても許されるのか」という問題
SFやファンタジーならどれだけ荒唐無稽でも許されるのだし、「シミュレーション」とつける必要は乏しい
歴史を改編しなくてもいいし、実在の国や人物を使う必要もないし、なにより史実の人物を作中で批判しなくてもいい
節度を守っていれば、多少の荒唐無稽は許容されるべきであり、批判派の主張は横暴
もっともできもしないシミュレーションをできるかのように偽る架空戦記の作家、読者もおかしいのだが -
架空戦記の作家と読者たちが娯楽小説なのか、シミュレーションなのかという境界線を曖昧にし、その場その場で有利な側につこうとする戦略は姑息
しかし問題の本質を理解しようとせず、「とにかくけしからん」的な対応をした批判派も、どこまで架空戦記作家や読者を責められるのかと
互いに「自分の好みのものをつくれ」と騒いでいるだけで、利害調整を行う気もなかった
唯一調整を試みたのが批判本の著者たちで、ブーム時に横暴だった作家や読者たちを諫めようとしたのに、作家や読者はおろか、事態を理解していない批判派まで一緒になってその流れをぶちこわした
おまけに架空戦記と批判派の頭目が同じ戸高一成だったのを指摘されると、戸高が自分たちを騙していたのに起こるのでもなく、自分たちの無能を顧みることもなかった -
架空戦記への批判とかじゃなくて
架空戦記に参入した作家たちが軍事専門家、歴史家、SF作家の狭間の土地、緩衝地帯を、地道に開拓していれば何も問題はなかったんだよ
ところが荒巻義雄、檜山良昭といったブーム初期の作家は劣等感に苛まされていたから、人気になるや周囲に喧嘩を売り出し、事情がわからない後発作家、読者もそれに乗っかかった
架空戦記の土地こそ広がったが、荒廃しただけで、何も残らなかったんだな
「戦略、戦術」と叫んでいた作家や読者のすることかよと
「好きか嫌いか」の二択ではなく、これでは「好きになれない」んだよ -
野球の比喩だと「架空戦記が好き=認める」「嫌い=認めない」という単純な問題ではない
作家が完成度の高い娯楽小説にしようという意思が見えるのに、好きになれなければ、「娯楽小説のストライクゾーンには入っているが、個人的には嫌いなコース」であり、「自分が嫌いでも、認めなければならない」
反対に自分が好きでも、一般受けしないもの=「個人的には好きなコースだが、娯楽小説のストライクゾーンから外れている」のは、「自分が好きでも、認められなくて当然」
好き、嫌いの二元論の人は、意外とここを理解していない -
翻って架空戦記では、作家が完成度の高い娯楽小説にしようという意思が見えてこない
作家や読者が「娯楽小説ではなく、シミュレーションだ」「知識や想像力のない人間には読めない」と口にするんだから、一般受けするほうがおかしいでしょw
娯楽小説のストライクゾーンに入れる気がないのだから、自分たちが認められないのも受け入れないと
しかし架空戦記の作家がストライクゾーンに投げ込もうとしているなら、今度は批判派も受け入れましょうよ
ゾーンに入っているのに、自分が嫌いなコースだから「ダメなもの」と判定するのは、それはそれでよろしくない -
大和が空を飛ぶとか、三段飛行甲板の空母が合体するとかは問題の本質ではないんだな
作家が「シミュレーションではなく、娯楽小説です」と断り、作中で実在の国家や人物を登場させず、史実の人物の批評などを入れなければ、批判派の人たちも架空戦記(作家、読者)を許してあげましょうよ
しかしシミュレーションと呼べる設定、展開ではないうえ、作中に実在の国家や人物を登場させたり、史実の人物の批評を入れるのは、架空戦記側も控えなさいよ
互いにルールを守ってうまく棲み分け、共存共栄すればいいだけ
不要な戦いをして、どちらも力を削ぎあってどうするのだと -
>>496 >問題の本質ではない
大昔のSF作家たちの対談が載った本に、星新一さんだったかが「新人賞の原稿を読んだとき、惜しい作品があった。発想も文章も最高なのに、最後が夢オチだったので、選外佳作にも残らなかった」と話したら、小松左京さんたちが「最後は夢オチに限定して、どうやって話を紡ぐかという新人賞があってもいい」と提案していた
「大和が空を飛ぶとか、三段飛行甲板の空母が合体する」を、どうすれば達成できるかという展開を読者に納得させながら読ませるのが、小説の醍醐味なんだがな
批判派は「荒唐無稽」と安易に切り捨てるし、架空戦記の読者は「かったるい部分を切って、活躍するところだけ読みたい」というから、架空戦記は広がりがなくなり、貧相なものばかり増殖した -
「荒唐無稽が悪い」のではなく、むしろ最後まで荒唐無稽で突っ走ればいい
批判する人間もここは怒るところではないし、許してもいいんだよ
しかし「荒唐無稽」を売りにするなら、口が裂けてでも「シミュレーション」と口にするな
「荒唐無稽だから、多少間違えても許して下さい」「シミュレーションなんだから、他の小説より正確だ」という使い分けをするから、架空戦記がつまらない
小説とシミュレーションの恩恵はどちらも欲しいが、どちらの責任も取りたくない
そういう品性の作家が面白い小説を書けるはずがないし、そこを「おかしい」と感じない読者にまともな感性があるとは思えない
「荒唐無稽なシミュレーションが正確だ」なんて、精神がおかしくないと読まないぞw -
「嫌いだ、間違えている」と批判している人も、「シミュレーションなのか娯楽小説なのかを曖昧にしている」ことの重要性を理解していない
まず作中で、史実の人間を批判するのはどうか
作家、読者たちは「小説、専門家ではないのだから間違えてもいい」といいながら、史実の間違えた人を責めるのは、読んでて気持ちが悪い
自分たちは外交の第一線に立たず、政治家や外務官僚を批判する平和運動家と同じだ
だいたい荒巻義雄は、阪神淡路大震災の2ヶ月後に「神戸で地震を起きた」小説を刊行したが、作中でどれだけ復興が進もうが、刊行は早過ぎないか?
仮設住宅にも入っていない人がいる時期に小説で地震を使った作家が、どうして史実の政治家、軍人を批判できるのか
「自分たちは小説だから許してくれ」といいながら、その小説のなかで他者を批判するのは、人の道から外れている -
>>499 >「シミュレーションなのか娯楽小説なのかを曖昧にしている」ことの重要性
次いで専門家、他の作家を批判するのはよくない
架空戦記作家の書いているのは、「シミュレーションみたいな小説」
しかしシミュレーションには「擬態」の意味があり、「擬態の擬態」に過ぎないんだな
「シミュレーションみたいな小説」は誰も批判できないが、それを「シミュレーション」と称するのはいけない
だから架空戦記作家は、「専門家みたいなことはしていても、専門的なことをしているわけではない」
ここで止めておけばいいものの、(専門家になれなかった)檜山良昭は専門家批判を行う
「専門家には想像力がない」と口にするが、専門家の必要とする想像力と作家も想像力は似て非なるものであることを理解していなければ、檜山が専門家になれなかったのは当然のこと -
また他の架空戦記作家たちは、他の作家に対して「軍事や歴史の知識がない」「現実社会の小さな事件を書いているだけ」と嘲笑していたが、他の作家は軍事や歴史の知識を必要としない世界の話を書いているのだから、何を責めているのやら
ここで架空戦記作家たちの姑息さ、狡猾さが見えてくるが、専門家には「小説」で、作家には「専門知識(書)」で戦おうとしている
普通は専門家を相手にするなら専門知識、作家には小説で戦うもの
相手と同じ土俵で戦って、相手に対して優位に立つのではなく、「相手が立つ気のない土俵に上がれ」と誘っているだけ
そんなことだから、架空戦記作家はシミュレーション(専門家)としても小説(作家)としても評価されないんだよ -
そして買ってくれる読者にも失礼
「シミュレーションなのか娯楽小説なのか、曖昧な架空戦記の構造」は、その場その場で都合のいい側につくことができる
どれだけ読もうが、なんの積み上げもないんだな
ただ「今シミュレーション、今小説」と使い分けていたら、どっちなのかわからなくなる
架空戦記の是非とは別に、「読者に余計な混乱、ストレスを与えない」のが大衆向け小説というものの鉄則であるはず
「いらぬ混乱が生じる可能性が高い」架空戦記は、もうその段階で「小説としておかしい」
そのうえ戸高一成。荒巻、檜山、太田雅男(学研編集責任者)がオカルト、偽史と接点があることから、偽史やフェイクニュースの温床となりかねない -
>>502 >買ってくれる読者にも失礼
ここで混乱に輪をかけるのが、批判している人たちの態度
「読者の自己責任」と切り捨てるので、結果的に架空戦記の作家、編集者の肩を持つことになっているのに気付いていない
たしかに作家や編集者が読者に誤解を招かないよう努力していたら、読者の責任になるが、努力していなければ読者を擁護し、作家や編集者を叩くべきなのだが
「架空戦記が嫌い」なのはともかく、本質が何かわかっていない
「嫌いだからなくなればいい」という考えだから、「別に正常化しなくてもいい」になってしまうんだな
これはこれで問題でしょうに -
俺は架空戦記も、架空戦記の作家も編集者も読者も嫌いだけどね
しかしだからといって「架空戦記の作家、編集者が読者を騙してもいいか」「騙される読者は自己責任だから、切り捨ててもいいか」とは別問題だと思うけどね
「平然と読者を騙す作家、編集者」、「騙されていることに気がつかない読者」が、ダメな架空戦記が溢れる要因のひとつなんだから
「騙さない作家、編集者」と「騙されていたことに憤慨する読者」が増えれば、少しはマシな事態になるはずだけどね
批判する人たちは良化しようとせず、「あいつらはダメだ」と鼻で笑っているだけで、事態はなんの進展もしていない
結局そんなことだから、戦史研究自体も進展しないし、社会からの共感を得られないんだろうけどさ -
>>504 >そんなことだから、戦史研究自体も進展しないし、社会からの共感を得られない
架空戦記に「許さない」と立腹していた神立尚紀にしたところで、仕事をもらっていた戸高一成が架空戦記の生みの親であることを、自分の読者にも隠していた
神立に騙された神立の読者は、「自己責任」なのか?
おまけに戸高が歴史偽造に関与していたこと、神立自身の命を奪おうとしたオウムの麻原と接点がことは、他者が暴露するまで神立は知らなかった
戸高に騙されていた神立は、「自己責任」なのか?
そして神立自身、神立の読者と架空戦記の読者に、どれだけの差があるというのか? -
神立や独視野の批判派が、架空戦記をどれだけ嫌いでも構わない
しかし架空戦記の作家や編集者に騙されていた読者に手を差し伸べれば、自分も困ったときに他者から手を差し伸べられるってだけのこと
神立や批判派が架空戦記の読者を見切ったのだから、自分たちも見切られただけだろうに
神立や批判派と架空戦記の読者の違いなんて、実は小さなものに過ぎない
そもそも歴史博物館の館長が歴史偽造に関与している段階で、日本の戦史研究なんて意味も存在理由もないんだよ -
荒巻義雄や檜山良昭がどんな主義主張を持とうが構わん
しかし戸高一成ともども、ムー編集顧問で悪名高い八幡書店社長と親交があるのはどういうことか(おまけに学研が架空戦記を刊行した際の編集総責任者が、ムー創刊に関与した太田雅男という一致まで)
佐治芳彦も八幡書店と関係してるし、柘植久慶も陰謀ビリーバーと、偶然の一致にしてはおかし過ぎる
特定の主義主張で凝り固まった作家が集まったジャンルなのだから、架空戦記でおかしいものができても当然だよなw
ここに気付かず参入した架空戦記作家、編集者、喜んでいた読者たちも無能揃いだが、ここまで踏み込まずに批判していた連中も似たようなものだ -
初期の架空戦記作家は「読者をおかしな方向に誘導しよう」
後発参入の作家は「とにかく売れればいい」
読者は「俺の価値観に合った作品がいい作品」
批判派は「嫌いなんだから、良くならなくてもいい」
全員「架空戦記を良くしよう、健全化しよう」という意思がないんだなw
これでいいものができれば、奇跡ってものだw
「架空戦記がつまらない」というか「面白いものができる要素がない」
唯一良くなる条件は、既成の架空戦記作家、編集者、読者、そして批判派が全員揃っていなくなることだw -
架空戦記が嫌いな人が無理に好きになる必要もないし、好きな人が嫌いになる必要もない
ただ双方が「どこまでなら批判を我慢できるか」「どこからが批判されるか」を摺り合わせたほうがいい
それができれば、まだいい作品ができる余地が残されている
批判派は「すべて認めない」、愛読者が「すべて認めろ」と叫ぶだけだから、妥協点もできず、まともな作品もできない -
別に架空戦記の読者が、架空戦記を好きでもいいんだよ
だけど「俺が好きだからいいジャンル、小説」とは口が裂けてもいわないでくれ
歌がヘタなアイドルをどれだけ好きになろうが構わないが、「俺が好きだから、歌がうまい」といわれれば、いわれた相手も腹が立つ
それと同じで、「ひどいジャンル、小説家も知れないけど、俺は好きなんだね」といってくれれば、架空戦記が嫌いでも許せるんだわ
そうした配慮ができない連中が架空戦記の愛読者だから、架空戦記が嫌いなんだ -
荒巻義雄、檜山良昭という劣等感に凝り固まった作家であり、フェイクニュースや陰謀論に染まった関係者が多いから、架空戦記は専門家や他の作家を挑発したんだな
そうすることによって作家と同じように劣等感を持つ読者たちを集め、偽りの優越感を抱かせつつ、一方では金を巻き上げ、他方ではフェイクニュースや陰謀論を植え付けようとしたんだな
読者ことなんか、先行した作家や編集者たちはもちろん、後発組も何も考えてなかった
早い話が、馬鹿にしてたんだな
面白いとかつまらないとかではなく、救いがないんだよ -
>>511 >救いがない
ある意味、架空戦記の読者は被害者でもあるんだな
俺は架空戦記の読者たちは嫌いだし、頭も悪いとは思っているが、だからといってトドメを刺すのは気が引ける
ところが批判する人と「嫌い、頭が悪い」の部分は共通しても、「騙されている被害者」という認識がないんだな
批判派は、読者たちを簡単に切って捨ててしまう
しかし戸高一成が一方で架空戦記を煽り、自らも執筆しながら、もう一方では平気で貶めていた
それを見抜けなかった批判派も頭が悪く、騙されていた被害者だったわけだ
だから俺は、「批判派も嫌い」なんだ -
「架空戦記はシミュレーションではありません。娯楽小説ですけど、俺は好きだから許して下さい」と架空戦記の作家、読者が頭を下げてきたら、どれだけ架空戦記が嫌いでも俺はその作家、読者の権利は認めてもいいし、批判する人たちにも「頭を下げてるんだから、許してあげなさいよ」といえる
しかし「架空戦記はシミュレーションで、理解できる俺は頭がいい=できない連中は頭が悪い」と口にするから、「それは言い過ぎ」と批判派以上に不快なんだな
佐藤大輔のファンだったか「理解できる人間は自衛隊幹部学校クラス」と称していたが、お前は幹部学校に通ったことがあるのか?w -
荒巻義雄、檜山良昭といった初期の作家が「シミュレーションなのか、娯楽小説なのか」を曖昧にしたままブームをつくり、後発作家や読者が「おかしい」と思わないまま乗っかかったから、確固たる基盤ができなかったんだな
そもそも初期の作家に、まともな小説を書こうとする意思があったかすら怪しい
戸高一成を含め、八幡書店の武田崇元人脈なんだから、「フェイクニュースを広めるための小説」だったという疑いまである
「シミュレーションみたいな小説」(このコンセプト自体は悪くない)を、「シミュレーション(の本流)」とすり替えることで、読者に偽情報を刷り込むのが真の目的だったのだろう
ここを見抜けない架空戦記作家、編集者、読者、そして批判的な作家、読者たちは、全員揃って頭がいいとは思えないね -
架空戦記を完全否定する人は、「幻の英本土上陸作戦」のような専門家が行ったシミュレーションを小説的描写を入れた作品、「SSGB」「高い城の男」「鉄の夢」のようなSF、「鷲は舞い降りた」「ナバロンの要塞」「女王陛下のユリシーズ号」みたいな小説まで否定しかねいからな
「架空戦記への否定批判」が、それらの小説の否定や批判にまでつながるのは絶対におかしい
というか架空戦記は、あくまでそれらの小説の亜種亜流なのだから、作家や読者が「亜種亜流だけど、好きだから認めて下さい」と頭を下げてくれば、そこは許してやるべき
しかし「俺たちが主流で、他の小説が亜種亜流だ」と決めつけることに立腹しているのだと、はっきりさせないと
「好きだから全肯定、嫌いだから全否定」では、架空戦記の作家、読者と似たようなもの -
戸高一成が架空戦記を執筆していたのは自由だとして
戦史研究の第一人者を自任するwなら、好き勝手する架空戦記作家たちを止めるべきだな
ましてや荒巻義雄、檜山良昭と接点があるのだとしたら
そのうえ戸高と学研の編集責任者がムーでつながってるのだから、架空戦記とオカルト裏人脈とつながっているのは間違いない
暴走する作家、読者たちを止めようとしない戸高、そしてその戸高を諫めない軍事系の出版社
複数のセーフティネットが機能しなかったのだから、軍事出版社も架空戦記を責める資格などあるまい -
米英の小説は、最終的に自分たちが勝ったから、日本の架空戦記のように自分たちが有利になるように弄る必要はない
娯楽小説なんだから、「多少」史実を弄るのは仕方ないだろうな
ただ史実の日本と米の国力には格段の差があったから、日本を勝たせるために史実を弄りまくならければならない
「弄りまくった世界のシミュレーション」がどれだけ正確だろうが意味があるとは思えないし、娯楽小説としてもカタルシスを感じられない
どう頑張っても中途半端な代物しかできないわけだ -
「フィクション、小説だから許されるウソ」と「許されないウソ」があるんだよね
多少の荒唐無稽さは許されてもいいし、必要以上に咎めるのは気が引ける
しかしそれを「シミュレーション」と呼んでもいいかといえば、それは違う
架空戦記への違和感は、そういう部分なんだね
下世話な喩えだと、不細工な男が「もっと顔が良ければモテただろう」と考えるのは、わからんでもない
しかし「どれだけモテたかをシミュレーションしてみよう」と口にすれば、そういう考えだからお前はモテないのだと
架空戦記が好きなのは個人の自由だとしても、シミュレーションができる人ほど、「シミュレーションをしています」とは言えないんだな -
>弄りまくった世界のシミュレーション
「歴史を弄るな」ではなく、「弄る上限がない」んだな
プチ整形とフル整形の違いというか
フル整形は合併症のリスクもあるし、下手したら実家に帰れない、同窓会にも出られないってことまである
架空戦記も歴史を弄った後のリスクまで書けば、それはそれで面白いはず
しかしそもそもそういう着眼点があったり、読者に読ませる描写ができる作家は、架空戦記なんて書く理由がないんだよなあ -
「つまらない」より「面白くならない」のほうが適切なんだよな
「歴史を弄った結果、架空の戦闘が起こる」のではなく「架空の戦闘を行わせるために歴史を弄る」という本末転倒の考えだから、作品に広がりができない
というか広がりを求めていない読者しか読まないわけだからストーリー展開、人物描写などは二の次になる
大和が空を飛ぶとか三段式空母が合体するなんて。出オチのコントだもんなw
もっとも人の好きな「娯楽小説」にケチを付けるのは良くないのだが、その「娯楽小説」をシミュレーションとすり替えるなよ -
オカルトと関係のある架空戦記作家、編集者「にとってのいい架空戦記」…陰謀論や歴史偽造を混ぜながら、売れる作品
関係のない架空戦記作家、編集者…ともかく売れればいい
読者…自意識が満たされる展開
架空戦記に批判的な人…とにかく嫌いだから、いい作品など存在しない
架空戦記を出していない専門家、出版関係者…自分たちのほうに流れればいい
架空戦記批判本の著者…まず娯楽小説かシミュレーションかをはっきりさせる。前者ならより多くの読者の趣向に耐えられる作品、後者は専門家の精査に耐えられる作品 -
全員のベクトルが違うのだから、連係して「いい作品をつくろう」という流れが生じない
玉石混淆というより、石が入り込むのを止められないわけで、「知識や表現力がなくても書ける作品」が溢れてしまう
さらに娯楽小説とシミュレーションの境界線を曖昧にしたことで、「石の作品群」が専門家のシミュレーションと同格になってしまう
架空戦記の質的低下だけではなく、シミュレーション=専門家の質的低下まで招いた
つまるところもともと軍事の専門家が質が高くなかった(知識の有無以前に意識が乏しく、さらに社会的認知も低い)から、架空戦記なんかが入り込む余地を与えたんだな -
架空戦記側にしても、「より売れる=読者受けする作品」が優先されるため、「歴史を弄ることで何かを表現しよう」という作家ほど書き辛くなり、やはり意識の乏しい作家たちが集まるんだよな
そうした様々な要素が合わさったことで、もともとつまらない架空戦記がさらにつまらなくなったw
他者がどう感じるかという意識などないから、軽々しく「シミュレーション」と名乗ることで専門家の領域を侵食
返す刀で「娯楽小説ではない」と口走り、今度は他の作家たちの機嫌を悪くする -
専門家も作家も立腹させていることに気付かないのだから、まともな洞察力なんて期待できない
架空戦記側と反架空戦記側の頭目が戸高一成だと気付いたのは少数だけで、作家や読者と嫌いな人の双方が、戦う必要のない戦いをしていた
割を食らったのが架空戦記批判を出した人たちで、双方から敵認定されたことで干されたんだよな
彼らは「いい架空戦記をつくりましょう」と提唱していたわけだから、中立的視点で戸高やオカルト人脈を暴き、便乗した作家や編集者、読者たちはもちろん、反架空戦記側の人たちの目を覚まさせたのに゛ -
「架空戦記が嫌いなのか」といわれると、辛いものがあるな
「鷲は舞い降りた」「ナバロンの要塞」ホーンブロワーも架空戦記といえば架空戦記だし
「戦国自衛隊」のようなタイムスリップ、「SSGB」のようなパラレルワールドもののSFが嫌いというわけでもない
しかし荒巻義雄の「紺碧の艦隊」、檜山良昭の「大逆転」とかになると、「面白いつまらない」以前についていけない
まずあれだけ史実を弄る必要があるのかという必然性が、まったく感じられないんだよな
そのうえ設定は壮大なのにドラマ、展開、人物描写は薄っぺらい
さらに「シミュレーション」と銘打つのだから、作品世界に入る前に白けるんだな -
>荒巻義雄の「紺碧の艦隊」、檜山良昭の「大逆転」
「紺碧の艦隊」はSFだが、「大逆転」はスペクタル小説なんだよなw
「SFは子供っぽい」という偏見はあるが、ただ大人の読書に絶えられない作品が多いだけの話
しかし「紺碧」にしても「大逆転」にしても、まともな人生経験を経た大人の読書に、とても耐えられるとは思えなかった
架空戦記に「SF」とつければ、「子供っぽく感じられる」ので外したみたいだが、まともな読書をしている人は読まないし、普通の作家、専門家も書かないわけだし
「架空戦記がつまらない」のは、「つまらない人間が書き、読んでいる」からなんだろう -
歴史のシミュレーションが存在するなら、「正しい間違い」を判定する前に「間違う要素」を減らしたほうがいい
それには「歴史を弄る箇所を少なくする」、「弄る規模を小さくする」、「弄った後の期間を短くする」の3点が必須
ところが史実の太平洋戦争における日米の国力差は段違いであり、「日本を勝たせよう」とすると「弄る箇所を多く」、「規模を大きく」、「期間を長く」と正反対のことをしなければならないんだな
つまり架空戦記を成立させるには、「間違う要素を多くしなければならない」というシミュレーションとして本末転倒なことをしているわけだ -
架空戦記の編集者が「シミュレーション小説は、シミュレーションではない」との迷言を吐いたそうだが、ある意味正しいw
「いいシミュレーションにしよう」という意思を、自ら放棄しているのだからな
それはそれでいいとして、そうなると架空戦記に「シミュレーション」と銘打てる作家、編集者は自己矛盾している
「シミュレーションではない」、「シミュレーションです」と正反対のことを平気で口にできるのは分裂症だよ
シミュレーションができる専門家はもちろん、できない普通の作家、そして両者の読者だって、こんな作家や編集者、読者たちと同格にはなりたくはないだろうさ
「架空戦記が面白い、つまらない」以前の問題なんだよな -
>>527 >「正しい間違い」を判定する前に「間違う要素」を減らしたほうがいい
佐藤大輔の「逆転!太平洋戦争」だったか、一読して拭き出したもんな
真珠湾攻撃の項で「日本軍のマイナスの要素が、すべてプラスに転じていたら、どうなっていただろう」と設定の説明で、先を読めなくなった
この条件なら霧島那智や谷恒生、志茂田景樹が書いても「日本が勝つ」になるというか、それ以外の解を出すことは不可能に近い
常識的な人なら、「こんな設定のシミュレーションをする意味などあるのか?」と考えるはず
佐藤の信者は「どこが間違えているか、言ってみろ」と息巻くが、佐藤の解も計算もすべて正しいとして、「式が間違えている」というか、「賢い人ほどしないシミュレーション」なんだな -
>>529 比喩は良ろしくないが、全然モテない男がいたとする
「俺の顔が少し良ければ、収入があれば、学歴があれば、スポーツ万能なら、性格が良ければetcもっとモテだろう」と夢想するのは、別に悪くはない
しかし「マイナスの要素がすべてプラスになったと仮定して、どれだけモテたかをシミュレーションしてみよう」と口にすれば、まともな人間は引くだろうね
どんなにモテない男でもモテるのは間違いないとして、それをどれだけ細かく説明されても苦痛以外の何物でもないw
「シミュレーションが正しい、間違い」以前に、「そんなシミュレーションをするような人間性だから、モテないんだろう?」って話なんだわ
「必要のないシミュレーション」がどれだけ正確、緻密だろうが、意味がないんだ -
架空戦記の作家にせよ読者にせよ、「シミュレーションができない」のが悪いことではない
できないのに、できるかのように振る舞うのは、みっともないから止めろって話なんだ
それこそできなかったら、てきないで、「俺たちは娯楽小説を書いてる、読んでる」と胸を張ればいいだけなんだし
つまり「シミュレーションはできるのに、架空戦記作家のように「できる」とアピールしない専門家」、「できないから、「できません」と口にできる作家」のほうが正直なんだ
裏を返せば、専門家にも作家にも勝てない架空戦記作家だからこそ、「できる」と強弁するしか打つ手がない
専門家や作家は、架空戦記作家のようなしょーもない手を打つ労力を仕事に注ぐから、なおさら差が開くってことだな
結局専門家や作家の戦略ができないのが、架空戦記作家だというわけだ
散々作中で「戦略」と書きながら、「現実での戦略」が間違えてるんだわ -
単純な架空戦記批判ではないんだよな
シミュレーションならシミュレーション、娯楽小説なら娯楽小説のどちらを選択するかは、作家であり読者の自由だから尊重される
しかし「どちらかに決め打ちしてくれ」ってことなんだわ
シミュレーションと名乗るなら専門家の土俵で勝負すべきだし、それには娯楽小説的な要素を削ったほうがいい
娯楽小説と銘打つなら多少のご都合主義、間違いも認める反面、「専門家に匹敵する」云々とは口にするな
ところが架空戦記作家と読者たちは都合に応じて「シミュレーションです」「娯楽小説です」と使い分けるから、好き嫌い以前の「評価したくない」なんだと -
架空戦記作家たちより知識のある研究者、専門家は、クオリティや責任が問われるから、軽々しく「シミュレーションする」とは言いにくい
反対に知識はなくても、常識を持ち合わせている作家や読者は、「専門家の専任事項に立ち入るべきではない」と弁えているから、やはり「できます」とはいえない
「シミュレーションができる」と断言する架空戦記作家、読者は、仮に多少の知識はあったとしても常識が欠落しているわけだ
架空戦記を「シミュレーションなのか、娯楽小説なのか」を曖昧にしたがる姿勢も、常識に乏しいからなんだな
「つまらない」のは、こういう人たちが集まっているから「よくなるはずがない」んだよ -
「小説ですから、シミュレーションはしていません」とカミングアウトすればいいんだよ
これなら多少荒唐無稽でも、無理解な批判を封じられるんだしさ
作家と読者の「シミュレーションができる」という妙な自意識が、架空戦記の可能性というか、広がりを閉ざしているんだよな
できないこと、しないことを決めて、できることに全力を投入するのが戦略の基本なんだが、架空戦記の作家や読者たちほど実践していないわけだ
この程度の矛盾にすら気付かないのだから、オカルト人脈とつながっていることに気付くはずもないさ -
プロレスの比喩があったけど、台本や八百長があったとしても、「プロレスラーが弱い」ことにはならないんだよな
強いレスラーが台本や八百長に則ってもいいのだし、仮に台本や八百長がなくても弱い人の試合なんて見たくもないw
プロレスが格闘ショーでも構わないが、「スポーツ、格闘技ではない」という線引きが必要だという話
架空戦記も、荒唐無稽な娯楽小説でいいんだよ
知識や筆力のある作家が、面白おかしい話をかけばいいんだからね
ただそんな作家は架空戦記を書くことに誇りを持っているから、胸を張って「シミュレーションではありません」と言いきれるってこと
つまり能力のある架空戦記作家、読者は娯楽小説とシミュレーションとの明確な境界線を設けようとするが、能力のない作家や読者ほど曖昧にしたいんだ -
能力のない作家や読者は、明確な境界線のない曖昧な状況の中でしか戦えないんだな
作家には「知識がない」、専門家には「想像力がない」と貶め、「自分たちは両方ある」と優越感を誇示しようとする
しかし裏を返せば、架空戦記作家は作家には小説で、専門家には専門知識で勝てないわけ
相手の戦う気がない土俵を無理矢理設定し、「ここで戦えないのは卑怯」と叫んでるだけね
そんなに作家に勝ちたければ完成度の高い作品を書くべきだし、専門家には一目置かれるような研究をすればいいのに、どちらもできないw
架空戦記がつまらない以上に、書く作家や読める独視野の人間性がつまらないんだ -
単純に「架空戦記が嫌いって話」じゃないんだよな
架空戦記が専門家が行うシミュレーションに匹敵するなら、娯楽小説的な要素が入り込む余地なんて残されていない
反対に娯楽小説としての面白さを極めようとするなら、シミュレーション的な縛りを外したほうがよいってだけのこと
このダブルバインドを理解していない人ほど、架空戦記を書いたり読んだりできるわけなんだな
分裂症的な世界観になるから、知識の有無とは関係なく、読めない人が出てくるんだ
そして作家も読者も矛盾を解消せぬまま、優越感を誇示して攻撃的に他者に接する
誰がそんなもの、読めるのだとw -
荒巻義雄、檜山良昭とかがブームをつくったが、約30年誰も根本的な矛盾に手を付けようとはしなかった
ろくに基盤を構築しなかった作家、読者たちが史実の人物を評するのはもちろん、まともなシミュレーションや小説が書ける、読めるとは思えないんだね
「架空戦記がつまらない」のは、「作家、編集者、読者がつまらない」だけなんだ
しかし状況を改善しようとする作家、編集者。読者がいれば、架空戦記が復活する可能性がない訳ではない
そして復活を阻害しているのは、現役の架空戦記作家、編集者、読者たちなんだよな
彼らが揃っていなくなれば、まともな架空戦記ができるかもしれないけどねw -
架空戦記がシミュレーションであるなら、娯楽小説の是非は別として、一般読者受けする要素は不要になる
反対に娯楽小説であるなら、多少の間違いや荒唐無稽さは許されるとして、今度はそちらに制約を及ぼすシミュレーションの要素を外したほうがいい
シミュレーションと娯楽小説のどちらを選択するのも個人の自由として尊重されるが、同時に行うのはダブルスタンダードなんだな
架空戦記は一方で「ただの娯楽小説ではなく、シミュレーション」となり、作家や読者は他の作家や読者を「知識のない人間には読めない」と口汚く罵る
ところがもう一方で「シミュレーションではなく、ただの娯楽小説」になって、今度は専門家や読者を「知識はあっても想像力がない」と馬鹿にしていたわけよ -
作中にも登場する航空戦艦や潜水戦艦とかのパラドクスに陥るんだな
航空戦艦→架空戦記作家、読者は、普通の戦艦→他の作家や読者に対して、「飛行機を積んでいない→知識がない」というが、相手は知識を必要としない小説を書きたい、読みたいのだから、なくても当然のこと
ところが空母→専門家や読者に対すると、今度は「飛行機は多いが、砲戦には弱い→想像力がない」と争点をずらして自己の優越感を誇る
専門家や読者は小説的な想像力を求めていないのだから、これまたなくても当然なのだが
つまるところ航空戦艦は戦艦には砲戦→作家には小説で負け、空母には艦載機→専門家には知識で負けるってことなんだなw
そんな詭弁を用いるより、自分の砲戦能力を上げる→面白い小説を書くか、搭載機を増やす→専門書を出すかの、どっちかをしなさいよと -
単純に「架空戦記が嫌い」ではなく、多少荒唐無稽でも間違いがあっても許すから、「シミュレーション(小説)という言葉は使うな」って話なんだよね
ダブルスタンダードを30年も放置できる作家、読者たちに、歴史や文明、国際政治なんかを考える能力があるとは思えないんだな
まず作家や読者がダブルスタンダードを解消する意欲を見せないと、架空戦記が社会から認められることなんてないだろうね
そしてそんな作家、読者たちだからこそ、バックにオカルト人脈がいたことに気付きもしないんだ
少しのギャラと不釣り合いに肥大化した自意識を満たすため、歴史偽造の片棒を担いでいたわけだ
ああ情けないw -
単純な批判をする人は「架空戦記は娯楽小説だからイカン」だけど、反対に言えば「娯楽小説として許されることを守っていればいい」ってこと
専門家に匹敵するシミュレーションをしているとか、作中で史実の人物を批評するとかをしないのであれば、好き嫌いは個人の自由だとして、「存在しても許される」んだよな
娯楽小説として守るべき一線を越えたから架空戦記は叩かれるべきなのに、叩いている人たちほどズレている
どれだけ架空戦記を読んでも心に響かないが、批判をしている人たちの批判も同様に心に響かない
架空戦記の悲劇は、作家、編集者、読者だけではなく、叩いている人たちの質も低いのだと
それはつまり、軍事に興味を持つ人全体の質の低さまで物語っているわけで
架空戦記が娯楽小説ならそれでもいいが、せめて質の高い娯楽小説になればいいだけ -
そもそも論だと、架空戦記の定義自体を曖昧にしていたから、書く作家、読む読者だけではなく、嫌いな側まで混乱を引き起こしたんだよな
一方で冒険小説の流れを汲む「史実は大きく変わらないが、架空の戦闘が起きた」小説があり、他方にSFを源流とした「史実と違う歴史になった」小説がある
どちらがいい悪いではなく、両者は「どちらもいい」で、これが広義の架空戦記なんだな
そしてブームになった狭義の架空戦記とは「史実を変えるために架空の戦闘が起きる」、「架空の戦闘を起こすため、史実を弄る」という、両者を掛け合わせた小説だな
俺自身は広義の架空戦記は好きだけど、狭義は「うーん」という立場だ
後者の架空戦記は嫌いとか存在を否定する以前に、「当事者が「主流ではない」と自覚しているのであれば、存在は許さなければならない」って考えだな -
ところが架空戦記作家、読者はもちろん、嫌いな連中は対立しているはずなのに、広義と狭義の架空戦記という存在を考えていないという意味で、共通していた
両者は狭義の架空戦記が、架空戦記の主流だと勘違いしているんだな
架空戦記の作家や読者は、自分たちこそ主流だと自認しているから、「主流ではない」という意見を述べる人間を撃破したいし、架空戦記嫌いの人間は「嫌いなのに、理解を示すとはケシカラン」と叩きたいわけでw
つまり両者とも、「好き嫌い」とは言いつつ、他者に納得できるよう伝えられない
そのうえ定義を曖昧にしたまま、意見を述べようという早急さ、軽薄さという意味で同じなんだと -
定義=シミュレーションと娯楽小説との境界線を曖昧にしたまま架空戦記のブームが起きたから、しっかりとした根を張らなかった
そして作家、読者はもちろん、反対派もその部分に触れようとしなかったから、一過性のブームで終わっても当然だと
「架空戦記の定義」がないわけだから、「いい架空戦記」なんてできるはずがないからなw
作家、読者は自分たちの欲求が解消されればいいだけだし、反対派は「とにかくよくない」と騒ぐだけだから、いいものをつくる流れなど起きるはずもない
というか定義を構築できない作家、反対派を含めた読者に、歴史や文明、国際政治を語る資格なんてないでしょうに
太平洋戦争当時の指導者たちが馬鹿揃いなら、80年近くたってるのにこの程度の作家、読者が揃っているようでは、日本人は何も学ばなかったってことだねw -
① 架空戦記はシミュレーションであり、娯楽小説です
② 架空戦記はシミュレーションですが、娯楽小説ではありません
③ 架空戦記はシミュレーションではありませんが、娯楽小説です
④ 架空戦記はシミュレーションでも、娯楽小説でもありません
どれを選択するのも自由だけど、架空戦記作家、編集者、読者ははっきりさせないとw
①は正反対の方向性のものを、ひとつの小説で表現するのは不可能だし、④は「だったら、あんたは何を書いて(読んで)たの?」ってことになる
②なら専門家の評価を受けるべきだし、③は多くの読者に読ませわけだから、少数の読者向けの内輪受けなんて書けないよねw
(狭義の)架空戦記は、残念だけど「いいもの」なんてできないんだな -
ブームをつくった荒巻義雄、檜山良昭、その後便乗した作家や編集者たち
裏で画策していた戸高一成、戸高の腹心の大木毅、それに読者たち
さらに批判的な言動をしていた神立尚紀、他の戦史研究家といった面々の誰1人として「架空戦記の定義、境界線」には気付かなかった
定義という土台がまともにないのに、巨大な構造物を建てられるはずもない
「架空戦記がひどい」のは架空戦記作家、読者の質の低さだけではなく、「いいものをつくりましょう」という方向に持って行けなかった戦史研究家たちの質の低さまで意味している
引いては質の低い架空戦記作家、読者に侵食されるほど、戦史研究も弱かったわけだ
戦史研究が貧弱だからこそ、薄っぺらい架空戦記しか書かれないという逆説が成立するんだな -
難しい話でも何でもないんだけどね
いわゆる架空戦記アンチの人は「とにかくけしからん」だけど、そんなことはどうでもいい
架空戦記が娯楽小説なら、娯楽小説でもいいんだ
しかし作家も読者も、どうせなら少しでも質の高い娯楽小説を書き、読みましょうよ
娯楽小説は多少間違えてもいいものだから、「シミュレーションだから間違えていない」と自称するのはマッチポンプになるじゃないのと
「シミュレーションをしています」といったり、「シミュレーション小説」という紛らわしい名称を付ける必要はまったくないんだよね
つまり作家や熱狂的な読者ほど、架空戦記を質の高い娯楽小説にする気がないのだから、架空戦記がつまらなくても当然なんだな
裏返しに言うなら、架空戦記の質を高めようとするには、既成の作家や読者はもう必要ないってことなんだわ -
架空戦記を専門的にするには、娯楽小説的な要素は徹底的に排除しなければならない
反対に娯楽小説として面白くするなら、足かせになりかねない専門的な要素を削ったほうがいい
どちらを選択するのも作家、読者の自由だとして、どちらを選択するの?と
作家、編集者、読者がこの二律相反する問題から眼を背けたままブームを迎えたのだから、まともな感性の持ち主ほど放逐されたんだな
というか、そもそもオカルトと関係した特殊な人脈の作家たちが重用されていたから、異常な作品ばかり出されたんだわ
「つまらない」のばなく、「面白いものができない」構造になっているわけで -
別に娯楽小説を書く、読むのは個人の自由だし、法律に違反しているわけではないからね
誇りを持って娯楽小説を書いている、読んでいると胸を張ればいいんだわ
しかし娯楽小説を、シミュレーションと偽るのは良いことなのかと?
架空戦記作家、読者の能力を上げ底するのはともかく、読者が「専門家がしているシミュレーションは、この延長線上にある」と勘違いする
あるいは架空戦記作家、読者が他の作家と読者に対して、「シミュレーションができない、していない」と侮蔑的な言説をするのは、一般常識的によろしくないでしょうに
その程度の常識すら弁えない作家、読者たちが高度なシミュレーションはもちろん、平均的な娯楽小説を書ける、読めるとは、とても思えないんだね -
・作家が「シミュレーションはしていていません」と明言する(「シミュレーション小説」といった紛らわしい名称は使わない)
・誤解を招くような内容を書かない(「騙されたら読者が悪い」以前に、「読者が誤解しないよう工夫する」のが先)
・他の作家、専門家、両者の読者たちに対して攻撃的な言説を述べない
・作中で史実の人物を批判しない(あくまで作中で完結する批判に止めておく)
こうした条件を満たしてくれるなら、架空戦記も「あり」だろう
これならアンチにも「まあまあ、彼らもわかってるんだから」と宥めることができる
他者から指摘される前に、自分たちで熟慮しない架空戦記作家、編集者、読者が揃っているから、架空戦記が嫌いなんだよ -
「いい架空戦記」という者が存在するなら、まず最初に確固たるテーマが必須
続いて「人間ドラマ、ストーリー展開」、「歴史改変」、「架空の戦闘(兵器)」といった要素が、有機的に連結、連動していなければならない
ただ壮大なドラマ、改変ほどつなげるのが難しくなるので、風呂敷をあまり広げないほうがまとめやすくなる
ところが架空戦記の作家はテーマを設定できない、ドラマの描写や展開が弱い(それらができるなら、「普通の小説」でも成功していたはず)
読者もそうした部分を読み解けないうえ、改変や戦闘や兵器といった部分にしか興味を示さないから、必然的に歪な作品ばかり乱発されたわけだ
さらに情けないことに、アンチもここを指摘することがなく、ただ「嫌い、間違えている」を連発していたんだな -
・シミュレーション 正確さが最優先で、人間ドラマやストーリー展開、カタルシスなどは不要
・歴史改変SF 人間ドラマやストーリー展開が主で、正確さやカタルシスは従
・娯楽小説、ファンタジー カタルシス、人間ドラマやストーリー展開、正確さという優先順位
架空戦記を分類すればこの3種になるはずで、「どれが優れている、劣っている」ではなく、それぞれ目指すべき方向性が異なる
どれを選択するのも作家、読者の選択に委ねられるが、1つの作品で2つ以上を兼ねることは不可能で、「どれか」を選択しなければならない
ところが架空戦記作家、熱心の愛読者ほど「曖昧」にしたがるのだから、架空戦記全体の方向性が定まらない
架空戦記とはその程度の作家、読者たちが群れるジャンルの小説なのだから、質的向上など望めないのだと -
狭義の意味での架空戦記に1番近いのは「娯楽小説、ファンタジー」だな
架空戦記作家、編集者、愛読者、そしてアンチまでが「架空戦記とは、そういうものだ」と決めつけたことで、本来架空戦記の持つべき可能性まで閉ざしたのだと
そのうえ「娯楽小説家の書く娯楽小説、ファンタジー」を、あたかも「専門家の書くシミュレーション」と同一、匹敵するものと誤誘導した
なにも「娯楽小説、ファンタジーが悪い、劣っている」のではなく、これはまともな感性を持ち、教育を受けた娯楽小説、ファンタジーの作家や読者ならば絶対にしない行為
なによりこういうことをする作家、読者を注意しているもの
違反行為をする、見逃す作家、読者たちが、「専門家に匹敵するシミュレーション」などできるはずもないし、娯楽小説やファンタジーを理解しているかすら怪しい -
架空戦記のアンチは、愛読者を悪し様に罵るけど、好きになること自体は悪くない
むしろ本当に架空戦記が好き、愛しているなら、きちんと深く読み込んでいるべき
読んで矛盾点を見つけ、作家や編集者に「これはアカンでしょう」と釘を刺せる読者がいれば、アンチも怒れないんだよね
ところが読み込む能力がない、読んでいてもおかしさを感じない、おかしさを感じても訂正を求めない読者が揃っているから、架空戦記の質が低下したわけで
「好きだから良くならなくてもいい」読者が力を持ち、「良くしよう」という読者を作家、編集者とともに放逐したんだな
架空戦記の質的向上が望めないのはともかく、その程度の作家、編集者、読者が史実の人物や組織をあれこれ批評するなよ
自分たちこそダメ組織の典型例じゃないか -
檜山良昭は歴史学者への劣等感剥き出しだし
荒巻義雄は膨大な知識を有しているが、それほど深い知識はない
また風呂敷の広げ方は上手いのだが、途中で畳めなくなるという決定的な弱点がある(中途完結のシリーズが多い)
そして絶望的なことに、2人に共通するのは人物描写が致命的なまでに浅いんだな
2人の作家としての特性が架空戦記に合っていた、あるいは架空戦記という小説の特性に2人が合致したというか、ニワトリとタマゴ的な関係なんだわ
そんな2人がブームをつくり、ベストセラーを出したから、後発の作家、編集者、読者、そしてアンチまでが「架空戦記とはこういうもの」と決めつけてしまった
架空戦記の広がり、可能性を閉じたわけだから、質の高い架空戦記など望めないわけで -
>>555 >愛読者を悪し様に罵るけど、好きになること自体は悪くない
「おかしさに気付かない」「文句をいわない、従順な」「黙って買ってくれる」読者という、3流の作家や編集者ほど好みそうなタイプなんだな
そのくせ内面は意外に傲慢で、「世の中が俺に合わせろ」という思考
特定少数の趣向に合わせた娯楽小説なんて、大衆向け小説として失敗だということにすら気付いていないw
そういう性格だから、作家や編集者に「真面目、向学心がある」と言われると舞い上がってしまう
これはカルト集団で新参者を集めるために使われる手法と同じなんだな
つまり向学心があっても、多少不真面目な人間のほうが、おかしさに気付くわけでw -
荒巻義雄 『小樽湊殺人事件』 : さよなら、荒巻義雄
荒巻、89にもなって、とんでもないことをしまちったな -
広義の架空戦記
・専門家の行ったシミュレーションに、作家がストーリー、人物描写を加えた「幻の英本土上陸作戦」
・歴史改変SF 「SSGB」、「鉄の夢」、「戦国自衛隊」
・史実を可能な限り改変せず、架空の戦闘が起こる 「鷲は舞い降りた」、「ナバロンの要塞」、ホーンブローワーシリーズ、「銀鯨作戦」、「虎口からの脱出」
狭義の架空戦記
・史実とは異なる戦闘が起こり、日本が勝つことが望ましい
・日本を勝たせるために大幅に史実を弄る
・作家、編集者、読者が「シミュレーションをした」と言い切る
・「専門家は知識はあるが頭が柔軟でないため、想像力に乏しく」「普通の作家は現実世界しか描けず、知識や危機感に乏しい」ため、「架空戦記の作家と読者は、柔軟な思考と知識、危機感を有しているので優秀」と自賛する -
・狭義の架空戦記作家と読者 「柔軟な思考と知識、危機感を有している」と自賛できる
・架空戦記アンチ 「スペック等が間違えている」「史実の人たちに失礼」「荒唐無稽」と架空戦記を敵視する
ところが両者は対立しているが、「架空戦記とは狭義だけ」という認識で一致しており、「広義の架空戦記」は理解していない
・第三勢力 狭義の架空戦記は嫌っているが、広義の架空戦記を否定しているわけではない(作品世界の構築などができていれば、多少荒唐無稽なものも容認する)
アンチは「すべてなくなれ」だが、第三勢力は「良質なものができればいい」と異なる
そのためアンチから見た第三勢力は「味方のように見えるが、架空戦記に理解を示す裏切り者」という認識で、「架空戦記とは、自分たちの求めるもの以外存在しない」と考える架空戦記作家、読者から見れば「理解できない存在」
そのため架空戦記作家、読者とアンチは対立しているが、第三勢力を叩くためなら共同戦線を張るという、珍奇な事態が起きている -
・架空戦記が娯楽小説であるなら、専門的な描写は最小限にしたほうが望ましい(最低限の部分さえ押さえていれば、多少の間違いも容認しなければならない
・架空戦記の読者は、「もっと専門的な描写を増せ」と作家に要求する
・編集者も「売れる層」に合わせるため、作家に読者の要求を伝える
・ところが、あくまで「専門的な記述を増やした娯楽小説」であって、必ずしも「専門書」ではない(作家に専門書を書く能力、読者に読む能力はない
・そうして「シミュレーション小説」から「シミュレーション」、「専門的な記述を増やした娯楽小説」が「専門書に匹敵する」とすり替わってしまう
・「庇を借りていたのに、母屋を乗っ取る」という状況に陥る -
・他方架空戦記アンチは、架空戦記の読者以上に「専門的な描写」にこだわる(娯楽小説であることを理解できていない
・(娯楽小説なのに)「専門書ではない、間違えている」という頓珍漢な批判をする
・そして第三勢力は、「架空戦記は(娯楽小説なんだから)、娯楽小説としての完成度を高めましょう」「だからこそ「シミュレーション」のように、専門書のように振る舞う必要はない」と指摘する
・第三勢力の主張は、(すり替えることで)既得権益を得ている架空戦記作家、編集者、読者はもちろん、アンチにも理解されない
・敵対しているはずの架空戦記作家、読者とアンチが手を結び、第三勢力を袋だたきにする
・第三勢力は退場するが、架空戦記の生みの親である戸高一成が、一方ではアンチを煽っていた=親玉は同じであることを発見(敵対していた両者が手を結べたのは、意識が意外と近いことを裏付けた
・問題は「架空戦記の退潮」ではなく、「軍事に興味を持つ人たちの意識の低さ」だったと -
「架空戦記をよくしよう」という流れが起きていたなら、戸高一成は荒巻義雄などと親交があったことを隠しているが、真っ先に行うべきなんだよな
裏で架空戦記をプロデュースしていたのはともかく、ひどい架空戦記が市場に溢れるのを黙って見ているのは、やっぱりおかしい
戸高が動かないからアンチの神立尚紀とかも声を上げないし、神立の下にいる連中も動かないわけで
他方架空戦記作家側にしても、質が下がれば自分たちの価値も下がるのに、やはり戸高が動かないから作家、読者の自浄も働かない
結局誰も「おかしい」とは感じなかったんだな
プロデューサーが質的低下を容認しているのだから、勘のいい人間がいれば「何か隠している」と察したはず
それがなかったのだから、架空戦記作家、読者側もアンチも大したことがなかったんだな -
「戦史に興味を持つ人が増えるため」に架空戦記が刊行されたのであれば、あまりに荒唐無稽な展開に走れば、戸高がブレーキをかけてなければおかしい
戸高が荒唐無稽なものを容認していたのであれば、「興味を持つ人の増加」なんてどうでもよかったのだろう
では架空戦記の目的がなんだったのかと推測すれば、戸高人脈の流れから、「太平洋戦争に於ける偽史、陰謀論を広める」だったわけだ
荒巻のように史実の説明の中に偽史、陰謀論を混ぜ込んでも、普段から小説を読み慣れていない読者は、「どこまでが史実、どこからが虚構」の区別がつかなくなる
知らず知らずのうちに読者を偽史、陰謀史観に染め上げるのが、架空戦記の真の目的だったわけだ -
もう一点、八幡書店創業社長の武田崇元が、戸高が雇われ社長を務めていた今日の話題社を吸収合併したというのも理由だろう
今日の話題社が過去に出した戦記の権利を有していれば、まず再刊で多少の権利費がもらえる
普通の出版社からオカルト出版社に、合法的に金が流れるんだな
さらに八幡書店が今日の話題社名義で太平洋戦争の偽史、陰謀論を広める著作を刊行すれば、誤った歴史観を広めることもできたわけだ
ところがこの目論見は、95年3月にオウム事件が起きたことで、麻原と関係の深い武田が謹慎になり、吸収合併の日時が遅れて不成功に終わったのだろう
もっとも架空戦記作家や読者、そしてアンチはここまで読み切れないだろうがw -
映画「男たちの大和」から大和ミュージアムの建設、館長内定があり、戸高がオカルトに関与していたのと同様、架空戦記に関与していたのが黒歴史になったんだな
自分が関係していたのを隠しながら、フェードアウトを図ったんだと
プロデューサー的役割だった戸高が真っ先にトンズラしたのだから、架空戦記の迷走が顕著となった
というかそもそも戸高、作家、読者たちに「どういうジャンルに育てたい」という明確な方向性がなかったというべきだろう
「荒唐無稽な娯楽小説」と「シミュレーション」という正反対のものを1つに押し込もうと試みた挙げ句、胡散臭い歴史観や陰謀論、おまけに読書の願望、欲求を混ぜ込んだごった煮になったのだから、整合性などなかったんだな
おかしな話だが、辛らつな批判をした架空戦記批判本の著者たちのほうが、架空戦記を再生するヒントを持ち合わせていたのに、アンチと一緒に葬ってしまったんだ -
「間違えても許される、荒唐無稽な娯楽小説」と「間違いのない、正確なシミュレーション」は正反対だが、どちらを選択するは作家、読者の自由
しかし架空戦記は、正反対のものを1つに押し込もうとしたから、破綻する以外の選択肢はなかったんだな
もし再生するなら、「小説」と「シミュレーション」との明確な境界線を敷くしかなかった
ただそれをすれば胡散臭い歴史観や陰謀論を広めたい作家、専門家たちに匹敵すると思いたい作家や読者には不利益だから、曖昧な状況で止めたかったわけだ
自ら再生の道を塞いだ連中が、戦略を語ろうとするのだから、なにをか況んやだと -
架空戦記作家、読者も馬鹿だが、さらに事態を悪化させたのが架空戦記アンチだな
神立尚紀とかの上部は、戸高一成がプロデュースしていたことを知っていたのに、わざと自分の読者には伝えなかった
架空戦記を叩きながら、戸高には火の粉が飛ばないよう配慮していたわけだ
戸高は戸高で両者を煽りながら、大和ミュージアムの館長に内定した自分を守るためにフェードアウトを図った
ただ全員に想定外だったのは、架空戦記批判本の著者たちが、戸高がオカルト史観と接点があることを見つけ出した
架空戦記が「面白い小説」、「正確なシミュレーション」を提供するのではなく、オカルト史観や陰謀論を広めるために使われた可能性を示唆したわけだ
おまけに架空戦記作家、読者、アンチはもちろん、専門誌を含む戸高を担当した書籍編集者たちが、全員見抜けなかったんだな -
このまま行けば、戸高と先行した架空戦記作家たちの逃げ得になり、架空戦記作家と読者、アンチとその読者、戸高の担当編集者は、そして告発した批判本の著者が皆損をする
不正義がまかり通るのを黙ってみているのは個人の自由だとして、そういう人間が「旧日本軍の指導者は、人事システムは」と知った顔をして欲しくないなあ
旧日本軍より遙かに小さな問題を改善しないのだから、無能加減は似たようなものだと
どのみちこんな人たちは、戸高や架空戦記の問題が公然となったらなったで、「俺は知っていたぜぃ」と自慢するもんだし
坂井三郎がネズミ講に関与していたのはともかく、生前に親交があるときは伏せておき、死んだら掌を返すように批判しはじめた前科のある神立も、いざとなれば戸高を裏切って自分だけは助かろうとするのだろうなぁ
戸高、神立、作家、編集者たちの動きを見ていたら、こういう連中ほど旧日本軍でも出世できたのだろうとつくづく感じるよw -
別に好きなのは、個人の自由なんだからいいんだよ
問題はそこじゃなくて、好きだったらおかしいところに真っ先に気づけよ
好きな人間がちゃんと読み込み、おかしいところを作家、編集者に伝えることで、少しでも改善しようという意思が見えてこなかった
自分たちは改変、改善された世界の話を読んであーだこーだいってたくせ、自分たちが自分たちの好きなものを改善しないのはどういうことかと
まったく改善されなかったから、売れ行きも低下したんだろうに -
>>570 >好きだったらおかしいところに真っ先に気づけよ
架空戦記とオカルト人脈の接点も、批判本の著者より先に、架空戦記の読者たちが見つけてもおかしくはないんだよな
同時に、アンチ架空戦記派もそこに気付かなかったのはどういうことかと?
どちらも「架空戦記をちゃんと読んでいない」うえ、他の事件や事象に関する知識、洞察力もなかったってことになる
どっちもどっちだから、戸高一成が両方のトップで、双方を煽ってたのも気付かなかった
架空戦記の作家、読者も愚かだが、アンチもいい勝負だろうに -
架空戦記の作家、読者は「好きだから、いいところしか見なかった」
アンチは「嫌いだから、悪いところしか見えない」
批判本の著者は「好きだけど、悪いところも見えた。嫌いだけど、いいところも見えた」
架空戦記の作家、読者とアンチの心理は裏表の関係で、だからこそ戸高がトップだったことも見破れなかったし、対立していながら批判本の著者を叩くときは共闘できたのだと
もはや架空戦記だけで終わる問題ではなく、こういういい加減な連中が戦史に興味を持つから、まともな戦史研究ができないってことなんだよ -
架空戦記の質を高めるのは、架空戦記の読者のみならず、アンチも同意するはずなんだが、どういうことが質を高くしようという運動は起きなかった
要因は、まず架空戦記が爆発的に流行した反面、誰も定義づけをしなかった
次いで作家、編集者、読者、そしてアンチの方向性がバラバラだったんだな
初期の作家、一部の編集者は、架空戦記を用いて陰謀論や偽史を広めることしか考えていなかった
是非はともかく外連味たっぷりの話で世の注目を集めるのは、目的ではなく、手段だったわけだ -
ところが後発の作家、編集者は、外連味たっぷりの話(亜種が火葬戦記)を売ることが目的だったから、先発組とは似て非なる方向性だった
また架空戦記の読者も2分でき、火葬戦記を読むような読者は、まともな考証、描写、ストーリー展開などを求めていない
他方オタク気質の読者は、自分の価値観に合ったものしか求めていないから、大衆小説なのに多数派受けしないという矛盾した存在を求めてしまう
最後にアンチは、「ともかくけしからん」だけしか見ていないので、良質化しようとする方向には進まない
そして後発組、読者、アンチは、全員先発組の目的を見破れなかったんだな
こんなバラバラな状況で、まともなものができるわけがない -
仮に現時点で架空戦記の再生を行うには、まず定義づけから手を付ける必要がある
定義とともに禁忌、禁止事項を決めることで、自分たちの享受できる権利、責任を有する部分をはっきりさせるべき
それを守れる作家、編集者、読者だけが、次の世代に残っても許されるのだろうな
ところが架空戦記に集まる作家、編集者、読者、そしてアンチは、こういう地道な手を打つのが苦手だったりする
「××になっていれば、どうした」は考えられるが、「××にするためには、どうする」は考えられないんだよな
つまり虚構の中のシミュレーションはできても、現実世界で有効な手段を講じることができない連中だと
結局架空戦記に意味がないというより、集まる連中に生きている意味すらないんだと -
知識の有無はともかく、架空戦記の読者は「俺たちの求める展開にしろ」と要求している
それは「娯楽小説」としてはもっともなんだが、客の嗜好に合わせる「シミュレーション」なんてものは存在しない
娯楽小説を楽しむ自由は誰も侵害できないが、娯楽小説をシミュレーションとすり替える権利も誰も有していない
つまるところ架空戦記の読者は知識以前の部分が欠落しているわけで、「質の高い架空戦記」をできないようにしているんだな
ここを直視しない限り、支持を受けている故佐藤大輔や横山信義、受けていない霧島那智や故谷恒生の差など、それほど大きくはない -
結局架空戦記の読者は「俺の求める話がいい架空戦記」と、架空戦記の可能性を自分たちで閉じている
反対に架空戦記アンチの言い分にしても「いい架空戦記などありえない」といってるだけで、どちらも「より良い方向に向かおう」とはしていない
「質の高い架空戦記を」という方向性は、架空戦記の読者の一部とアンチの何割かが共闘できるはずなんだがな
それまで阻害されているのは、架空戦記だけでの問題でもなさそうなんだな
戦後の平和主義のリバウンドで、軍事に興味を持つ人に歪んだ価値観の持ち主が増加した訳だ
そんなことだから「紺碧の艦隊」の担当編集者の父親が共産党系の平和運動家
架空戦記に批判的な言動をしていた戸高一成が架空戦記の生みの親で、偽史運動や陰謀論と密接に関係していたことに、誰も気がつかなかったわけだ -
「質の高い架空戦記」って、軍事や歴史の知識を大量にぶち込めばいいってものじゃない
それ以前の問題として、まず作家が「どの方向性に進むか」を示すべき
専門家と同じ土俵で戦いたいなら、「シミュレーションです」といえばいい
人間心理を描きたいなら「歴史改変SF」でいいし、読者にカタルシスを与えたいなら「娯楽小説」でも何も悪くない
ところが刊行されている架空戦記は、どの方向に進みたいのかが不明瞭なんだな
アンチはとくに「娯楽小説」を目の仇にしているが、そこが本質ではなく、「娯楽小説をシミュレーションにすり替えている」ことが悪いのを理解できていない
すり替える架空戦記側も悪いが、アンチがすり替えることをおかしいと感じないのもまたダメダメってことであって
なにより戸高一成、大木毅といった「専門家」が、自分の職域を荒らされているのに苦言を述べないのもどうなんよと -
>「娯楽小説」でも何も悪くない
誇りをもって読者に娯楽小説を提供しようとする作家なら、自分の書いた娯楽小説を「シミュレーションに基づいています」なんて口にする必要がないのも理解している
むしろ「最高の娯楽小説を提供してやるぜぃ」と大見得を切ったほうが清々しいし、いらぬ誤解を避けることもできる
そしてそこまで言いきれる作家は、知らないことがあれば、専門家やアンチにでさえ、きちんと頭を下げて教えを請えるってもの
「娯楽小説だからイカン」ではなく、「質の高い娯楽小説」にすればいいだけのこと
結局架空戦記を書いている作家は、娯楽小説ですら嫌いみたいなんだよな
だから変なブランディングをするし、引くべきところで引かないし、素直に頭を下げることもできない
そんな娯楽小説家を小馬鹿にするアンチも、似たようなものなんだよなぁ -
「娯楽小説としての架空戦記」を突き詰めれば、実在の国、軍隊、人物を使う必要すらないんだな
架空の星の架空の文明で、架空の国同士による戦いにしちまえばいいってこと
「荒唐無稽だからダメ」ではなく、「荒唐無稽が許される設定」にすればいいのにね
行き着く果てはファンタジーになるし、それで読みたい人は読めばいいんだから、アンチのような批判は激減する
架空戦記をおかしくしているのは「シミュレーションのように偽る」とともに、「第二次世界大戦を逆転する」という縛りなんだと
架空戦記作家、読者、編集者、そしてアンチが、作品世界の広がりが限定していることをおかしいとすら感じていない
そりゃつまらなくなるはずだよw -
>「シミュレーションのように偽る」とともに、
>「第二次世界大戦を逆転する」という縛り
日米の国力差は圧倒的なんだから、日本を勝たせようとすれば、必然的に荒唐無稽な状況設定にならざるを得ない
「荒唐無稽だからダメ」というのは単純な批判だが、作家や読者が「娯楽小説だ」と言い張るなら、必ずしも悪いとはいえない
しかし娯楽小説の権利は認めるとしてもだ、娯楽小説を「シミュレーション」というのは止めてくれよと
知識とか描写力以前の問題なんだけどな
架空戦記作家は普通の作家を「軍事知識や危機感がない」と軽蔑するが、娯楽小説をシミュレーションとすり替える連中より、常識や良識があるってことなんだがな
なにより「荒唐無稽なシミュレーション」がどれだけ正確、緻密だろうが、何の意味も持たないw -
故佐藤大輔の「逆転!太平洋戦史」は、第1話の真珠湾攻撃の途中で読む気がなくなった
日本の攻撃が不徹底に終わった要因を書いた後「マイナスの要素がプラスになっていれば」という文を読んで、完全に先を読む気が失せたわ
佐藤の信者は「どこが間違えているのか、いってみろ」と息巻くだろうが、「間違えていないのがおかしい」んだよな
「マイナスの要素がプラスになっていれば」、佐藤だろうが霧島那智だろうが、結末は日本の大勝利になるだけの話
仮に佐藤と霧島那智に差があるとすれば知識、描写力だろうが、反対に考えれば佐藤ほどの力がある作家なら、「こんなシミュレーションはしない」ってこと
この文章を真顔で書いた段階で佐藤はおかしいし、それをおかしいと感じない信者も同類に過ぎない -
アメリカ人が、佐藤のロジックを使ったシミュレーションを刊行したと考えてみればいい
アメリカにとって不利な状況を書き連ねた後、「マイナスの要素がプラスになっていれば、真珠湾攻撃の結末はどうなっていたかをシミュレーションしてみよう」と書かれたら、どのように反応するのかと?
「史実よりアメリカが有利になる」だけの話だが、それを「素晴らしい」「理解できない人間は頭が悪い」「理解できる人間は、自衛隊幹部学校に行ける」と言うのかな?
また大嫌いな平和運動家たちが「マイナスの要素がプラスになっていれば、非武装中立は達成できる」と宣ったときも、絶讃しなければおかしくなる
佐藤に知識、描写力があるのは否定しないとして、シミュレーションをする能力があるかには疑問符がつく -
飲み屋やファミレスなどで「宝くじの一等が当たったら」という典型的な馬鹿話をするが、別に金融とかの知識がないまま、あれが欲しい、こう使いたいと口にするのは自由
どれだけ非現実的だろうが余計なツッコミを入れないのが、暗黙のマナーってものだ
佐藤のシミュレーションは、そんな場で「日銀の利率が、東証の平均値が、米の雇用率が」と知識を並べ立て、「こう運用すればどれだけ儲かる」と得意げに述べているようなもの
信者は「佐藤は総研の研究員クラス」「どこが間違えているのかいってみろ」というだろうが、佐藤の見通しが正しいかどうかは別として、常識のある人はそんな場所でそんな話を真顔でしないだけ
佐藤と信者には知識、描写力とは別の、何かが欠落しているとしか思えなかった -
常識を持ち合わせている作家、専門家は、「娯楽小説を、シミュレーションと銘打って売ってくれ」と依頼されたら、「他の専門家、読者に失礼」と断るもの
たとえ読者から「知識がない」などと批判されても、多少読者が喜ばせることより、誤解させないことが本当の読者サービスだと信じている
架空戦記を書く作家、専門家は反対で、「喜ばせる>誤解させない」なんだな
突き詰めれば「読者が誤解すれば自己責任」で切り捨て、自分を守ろうとしている
その考えは作家はもちろん、人としてどうなのかと
軍事知識の有無と関係なく、多くの読者が架空戦記に見向きもしないのは、直感的に架空戦記のおかしさを察知しているからなんだろうな
反対に架空戦記の読者は、おかしさを察知するための常識が欠落しているのだと -
>佐藤にシミュレーションをする能力があるかには疑問符がつく
歴史のシミュレーションで「史実と違っていたらどうなったか」を考えるのはいいとして、「(日本が勝つなど)求められた結末にする」のを考えるのとは違う
「状況設定→シミュレーション→結末」が普通なのに、「結末→状況設定→シミュレーション」になっているんだな
佐藤信者は「どこが違うかいってみろ」というが、佐藤の結末やシミュレーションが間違えているわけではない
「そのシミュレーションって、専門家はもちろん、常識ある人がするものなんですか?」って話なんだな
それこそ「マイナスの要素がプラスになっていたら」、佐藤信者たちが軽蔑する霧島那智や故谷恒生がシミュレーションしたとしても「日本が勝つ」だけの話
佐藤と霧島、谷との違いがあるとすれば「知識量、描写力」であって、本質は大差がないってことになるわけだ
「結末が最初に決まっているシミュレーション」にどれだけ知識を詰め込み、正確で緻密な描写をしようが、まともな専門家、知識がなくても常識のある人は読まないんだよ -
>(日本が勝つなど)求められた結末にする
娯楽小説であれば、結末が決まっていてもおかしくはない
つまり「娯楽小説家が、娯楽小説のルールに従って、娯楽小説を書く」のであれば、何等問題はない(架空戦記アンチはここを責めるが、それは筋違いな批判ってもの)
また「専門家が、専門書のルールに従って、シミュレーションを書く」、「娯楽小説家が、専門書のルールに従って、シミュレーションを書く」のもおかしくない
問題は「娯楽小説家が、娯楽小説のルールに従って、シミュレーションを書く」というのは、どうなのよ?ってこと
たとえ作家に専門家に匹敵する知識があろうが、正確で緻密な描写があろうが、根本がおかしければ何の意味もないんだけどな -
「架空戦記は娯楽小説なのだから、日本が勝つのは当たり前だ」という意見は、なにもおかしくない
しかしその架空戦記=娯楽小説に「シミュレーション」と銘打つ、あるいは「シミュレーションに基づいています」という一文を入れたり、「この小説を読んで歴史や国際政治を考えましょう」、「読者は歴史や国際政治を考えている」というのは、どこか変でしょう?
架空戦記作家や読者たちは「俺たちは史実、現実とフィクションは区別できている」と口にするが、「シミュレーションと娯楽小説の区別」は曖昧なんだよなw
架空戦記が娯楽小説ならそれはそれでいいが、「シミュレーションはしていません」、「歴史や国際政治を考える人は、こんな小説を読みません」と言い切ってこそ、「現実とフィクションの区別ができている」と口にできるものだよ -
>「シミュレーションと娯楽小説の区別」は曖昧
現実とフィクションの区別がついている作家、読者なら、「娯楽小説とシミュレーションをきちんと分けましょう」と宣言できる
それをしたうえで、「私たちは娯楽小説を書いて読んでいる」というのであれば、世間様に恥じることはないし、誇りをもって胸を張ればいい
もし批判してくるアンチがいれば、絶対にそいつらのほうが頭がおかしいw
しかし「娯楽小説とシミュレーションはついているから、わざわざ口にする必要がない」と考えているのは、アンチを批判する資格はない
架空戦記の作家、読者たちは内心で「自分たちは専門家に匹敵する、普通の作家や読者と違う」と思っているが、そこまでの能力もないから、わざと区別を曖昧にし、都合によって使い分けてるんだよな -
そんな卑怯卑屈な人間が集まれば、架空戦記の質が高くなるはずもない
架空戦記がつまらないのは、架空戦記に集まる人間がつまらないだけのこと
そして卑怯卑屈な人間の巣窟だから、オカルトや陰謀論の温床になっているわけだ
霧島那智や故谷恒生とかを「トンデモ、火葬」と笑っていたが、自分たちも「トンデモ」に騙されてたのだから、いい勝負だなw
「架空戦記が好き」といってたくせ、どうして深く読み込めないのかなぁ?
神立尚紀をはじめとする架空戦記アンチも、似たようなものだな
架空戦記の作家、読者を馬鹿にしておいて、戸高一成が架空戦記の黒幕、仕掛け人であるばかりか、歴史偽造と関係していたのを見抜けなかったのだから、架空戦記作家、読者を批判する資格もあるまい
オツムの足らない同士で、仲良く喧嘩してりゃいいw -
プロレスの比喩があったが、プロレスが嫌いな人の批判は「八百長だからダメだ」
だけど興業なんだから盛り上げる必要もあるし、段取りを決めておいたほうがレスラーも安全だということを理解していない
プロレス自体は好きだけど、違和感を持っている人は「八百長は構わないが、スポーツ、格闘技とはいわないでくれ」って批判になる
架空戦記への批判も相似形で、アンチは「架空戦記は娯楽小説だからダメだ」
架空戦記批判本の著者たちは若干違って、娯楽小説であることは容認している
だからこそ「シミュレーションと名乗らなくてもいい」なんだな
アンチよりも理解を示しているが、娯楽小説をシミュレーションとすり替えることで自己ブランディングを図っていた架空戦記作家や読者には、アンチ以上に著者たちのほうが憎らしいわけだ -
「架空戦記はシミュレーションではなく、娯楽小説」、「架空戦記は娯楽小説ではなく、シミュレーション」とダブスタを使うことを心の拠り所にしていた架空戦記作家、読者には、「どちらかはっきりさせましょう」という意見は自己否定につながるんだな
他方アンチは、批判本の著者たちが一定の理解を示していることに不満を抱いた
また神立などアンチを煽っていた人間は、戸高が二股かけていることを悟られないよう誘導していたわけで、敵であるはずの架空戦記作家や読者と著者たちを叩いたほうが得策だと思ったのだろうな
斯くして敵同士が手を結び、調停しようとした人間を追い出したのだから、よくなるものもなるわけがないとw
架空戦記がつまらないのは、アンチも含めてダメだったわけだな
旧軍の劣化コピーのようなダメ組織ってことだ -
「シミュレーション小説」という言葉を発明したのは荒巻義雄が「紺碧の艦隊」を出したとき
それまでは「シミュレーションみたいな娯楽小説」だったのが、「娯楽小説のルールでシミュレーションを行う→その小説を、シミュレーションをしたかのように見せる」という手法に変換したんだな
まともな作家、専門家は「どちらかをする」だったのに、「あたかも両方している」かのように自己演出することで、両者よりも優れているかのように読者を偽った
しかし実態は「正反対の方向性のものは、同時にできない」ので、「どっちつかずの代物に終わった」
古くからの荒巻の読者たちはこの状態を察知し、荒巻に止めさせようとしたが、引っかかった読者が意外と多かったので自信を付けた荒巻が、読者たちを粛正したわけだ
結果読者たちの見通しのほうが正しく、常識ある作家、専門家、読者は見向きもしなくなり、未だに気付かない作家と読者が細々と続けているのだと -
架空戦記作家、読者側もアンチ側も、本質を全然理解しないままいがみ合っている
「架空戦記は娯楽小説なんだから、日本が勝つのは当たり前」という架空戦記側の意見は正しく、怒っているアンチ側は100%おかしい
しかし「娯楽小説である架空戦記」を「シミュレーションと銘打つ」、あるいは「基づいている」とつけてもいいのかは、また別の問題
自分たちが「娯楽小説だ」と断言した以上、「シミュレーション」をつければダブスタに陥ってしまうわけで、ここを見て見ぬ振りする架空戦記側もおかしい
「小説を売るためなんだから」という意見もあるようだが、作家がウソをついても許されるのは「小説の内側」だけ
作家に限らず、俳優や手品師は「内側」でウソをつくのは許されても、「外側」でつくのは許されないという不文律がある(どれだけでもウソをつけるのだから、見る側も安心できなくなり、フィクションまで楽しめなくなる)
そこを破ってしまう作家、気がつかない読者が架空戦記に集うのだから、架空戦記かつまらなくても当然なんだな -
何度か書かれているが、「架空戦記はシミュレーションではなく、娯楽小説です」と言い切ってしまったほうが、架空戦記にとっても有益なんだよな
「できないことが悪い」のではなく、「できません、していません」と宣言したほうが清々しい
シミュレーションという制約から離れれば、その分ストーリー展開、描写に傾注できる
また「荒唐無稽で多少間違えています」と述べたわけだから、「間違えてる、ケシカラン」という批判は意味をなさない
なにより自分から弱みを晒したのだから、専門家やアンチに「わからないから、教えて下さい」と頭を下げて教えを請えば、心ある人は指導してくれる
できない作家は淘汰されるだけだし、少なくても現在より質的向上を望めるだろうさ
架空戦記側もアンチも、どうしてここで妥協しないのか? -
行き着く果ては、架空戦記側もアンチも、架空戦記の質的向上を求めてないってことだ
もはや「架空戦記がつまらない」のは、アンチも含めた日本の戦史研究家全体が異常な集団ってことなんだな
第一人者wの戸高一成が一方で架空戦記を生んだのはともかく、質的に低い火葬戦記が出ても止めようとはしなかった(大和が空を飛ぶ架空戦記を書く作家と平然と話していたそうだが)
戸高は他方で、「架空戦記の質は低い」としたり顔で語っていたというが、ここまでくれば分裂症か二重人格だな
そのうえ双方で戸高の下にいた人間は、誰1人として歴史偽造に関与していた戸高の過去には気付かなかった
架空戦記の質が低いのではなく、戦史研究を取り巻く現状の質が低いし、誰も質的向上を望んでいないんだなw -
>「シミュレーション小説」という言葉を発明したのは荒巻義雄
シミュレーションは「つまらなくても、正確ならいい」、娯楽小説は「不正確でも、面白ければいい」
軍事知識や描写力の有無はともかく、普通の作家、専門家は矛盾することを理解しているので、「どちらかしかしない」
棲み分けしたことで争点がなく、両者は戦わなくても良かったし、共存共栄が図れた
荒巻義雄は「俺は両方できるし、読者も両方理解できる」と「俺たちは優秀」と煽ったんだな
ところが2つの目標を同時に達成することは戦略として破綻しているわけで、「これはシミュレーション」、「いや娯楽小説」と都合良く使い分けるようにした
結果「無能だからどちらもできない」ことを露呈したわけだが、3流作家や自意識が高いくせに読み込めない読者の琴線に響いた
シミュレーションと娯楽小説をその場その場で使い分ければ、他の作家や専門家に勝てると錯覚したわけだ -
実際には作家相手に専門知識、専門家相手には想像力と戦いをずらしただけで、「戦って勝った」のには気付いていなかった
作家に勝ちたければいい小説を書く、専門家に勝ちたいなら正確なシミュレーションをすればいいのに、どちらもできないだけに過ぎないと
架空戦記のアンチはこの矛盾を突けばいいのに、「些細末端が間違ってる」とかこれまた本質とはずれた追求をする
娯楽小説に多少の間違いはつきものなんだから、それを許しておかないと「すべての娯楽小説は…」ってことになってしまうんだがな
挙げ句は両方とも、架空戦記の背後に陰謀論が見え隠れし、第一人者とされる歴史博物館館長が歴史偽造に関与していたことにも気付かなかった
この程度の人たちが戦史に興味を持つ国なんて、戦争に勝てるはずがないわなw -
「作家が、シミュレーションのルールに則ってシミュレーションを書く」のは、何も悪くな
い
また「作家が、娯楽小説のルールに則って(シミュレーションのような)娯楽小説を書く」のも悪いことではない
しかし架空戦記は「作家が、娯楽小説のルールに則って(シミュレーションのような)娯楽小説を書き、それをシミュレーション(小説)と称する」なんだな
これは「作家が、軽々しく専門家の職域に侵入してもいいのか」、「架空戦記作家は専門家や他の作家に挑発的な言葉を述べるが、許されるのか」「読者が混乱したら、誰が責任を負うのか」という3つの問題を孕んでいる -
・作家が、軽々しく専門家の職域に侵入してもいいのか
架空戦記作家は「架空戦記は娯楽小説だが、シミュレーションに則っている」「シミュレーションに則っていないから娯楽小説」というダブスタを恒常的に使い分けている
そもそも「専門家、シミュレーションのルール」に従う気がないのだから、職域を荒らすのが悪いとは思っていない
・架空戦記作家は専門家や他の作家に挑発的な言葉を述べるが、許されるのか
同様に、他の同業者へのリスペクトの念も持ち合わせていない
専門知識や表現技術の有無以前に、人として重要なものが欠落しているとしか思えないんだな -
・読者が混乱したら、誰が責任を負うのか
そんな作家たちだから、応援してくれる読者を守る気すらない
編集者ともども表紙などに「シミュレーション」と入れておいて、「間違えたら読者の自己責任」ってのは、やはり人としてどうなのかと
架空戦記のアンチは「間違えている、犠牲者に失礼」というが、それより「娯楽小説を、シミュレーションと偽る」ほうが大きな問題なのに気付いていない
プロレスの台本、八百長は必要悪で、それ自体は責められないが、「八百長や台本のあるプロレスを、他のスポーツと同等に扱うのは妥当なのか」ってのに近い
架空戦記が荒唐無稽な娯楽小説であっても誰も否定はできないが、「荒唐無稽な娯楽小説を、シミュレーションと呼ぶ」のは、やはりイカンのだと -
アンチの論理は「架空戦記は荒唐無稽だからケシカラン」だが、娯楽小説が荒唐無稽で何が悪いのか
むしろ荒唐無稽な娯楽小説を書こうとする作家は、胸を張って「娯楽小説だから、シミュレーションではありません」と言い切れるだろうに
そう断言すれば専門家や他の作家にも失礼ではないし、読者が誤解することもない
そこまで配慮した作品は無碍に批判できないし、それでも嫌いなら読まなきゃいいだけ
ただ余計な誤解を招く火種はなくなったんだから、アンチも怒らなくてもいいわけだし、作家が頭を下げて教えを請うてきたら、丁重に応対するのが大人の対処ってもの
架空戦記作家が少し機転を効かせれば、世間の自分や架空戦記を見る目も変わるんだがね
もっともそれができないから、架空戦記を書いてるわけなんだがw -
>分裂症か二重人格
戸高一成がオカルト研究してたのは御愛敬として、昭和館図書部長、大和ミュージアム館長の要職を務めている以上、人事担当者に一言伝えておくのが礼儀ってものだろう
1度だけならうっかりもありうるが、2度も伝えていなかったら確信だろうに
一方で架空戦記の立ち上げを行い、もう一方ではしたり顔で苦言を述べてたってのも、あり得ない話じゃないな
サイコパス臭がするのは気のせいかw
戸高の師である福井静夫も、終戦のどさくさで軍艦の設計図を私物化し、戦後雑誌などに小出しにして小遣いを稼いでたしな
史料調査会で資料を私物化していた戸高に手癖の悪さが伝染しただけではなく、互いにサイコパス的なところがあったから師事できたのだろう -
架空戦記の読者で、戸高の紹介から編集者、戦史ライターになった某も小学校時代に知恵遅れの同級生を執拗に虐めていたそうだし
見かねた同級生たちが、「自分が虐められたら、虐めも止めるだろう」と虐めたら、自分の所行を棚に上げて同級生たちを逆恨みしてたんだよな
「架空戦記は許さない」と公言していたくせ、戸高が架空戦記に関与していたのはひた隠しにしていた神立尚紀も、坂井三郎が存命中はもみ手をしてすり寄ってたのに、死んだら掌を返して、娘さんまで「犯罪者の娘」と罵倒したとか
戸高の周囲にいるのは、全員精神に問題があるのか?w -
1 法律にかなって規範に従うことができない、逮捕に値する行動を繰り返す。
2 自己の利益のために人をだます。
3 衝動的で計画性がない。
4 喧嘩や暴力を伴う易刺激性、攻撃性。
5 自分や他人の安全を考えることができない。無謀。
6 責任感がない。
7 良心の呵責がない。他人を傷つけてもいじめても物を盗んでも気にしない。責められれば正当化する
戸高や周囲の人間に、1以外がほぼ合致するのは偶然かね?
むしろ「類友」じゃないのかね? -
荒巻義雄、檜山良昭も含めた戸高人脈って、全員程度の差こそあれ、サイコパス的な要素が強いんだよな(武田崇元氏に至っては、日本最高ランクw)
良心、共感性の欠落であり、自己中心的な行動で周囲を混乱に陥れてしまう
架空戦記が評価されないのは、シミュレーションとしても小説ししても完成度が低いからなんだが、小説だけに限定すれば、ここが問題なんだろうな
読者に間違えた知識を誘導しても、「読者の自己責任」と自己正当化を図り、簡単に切り捨てられるのは良心の欠落
共感性に乏しいから、魅惑的なストーリーにならない(人間心理を理解できいてるとは思えない)
狂信的な読者は作家たちと同様にサイコパス的な要素を持っているからであって、作家と一緒になって「理解できないのは頭が悪い」と口走れるのは、自己中心的だからこそだと
結局軍事知識などじゃなくて、それ以前の問題なんだよなあ -
もっとも坂井三郎にしたところで、サイコパス臭はしてたけどなw
日本の戦史研究がおかしいのは、サイコパス的な人間が主流を占めたことで、常識人や一般人を閉め出してしまった要素もあるんだろう
そこに戸高が陰謀論、オカルト、歴史偽造という要素をぶち込んでカオス化させ、その世界観を水で薄め、一般人に広めようとしたのが架空戦記だったわけだ
たとえ軍事や歴史の知識がなくても、常識のある人間は「おかしい」と気付くわな
ブームが長続きしなかったのは、クオリティが低い作品が増加したのもあるが、それ以前に常識のある人間が反応しなかったからだと
一般人はそれでいいとして、そうなると正面から抗戦しなかった戦史研究家とかがいかにだらしなかったのか
戸高が歴史偽造に関係していたのを何十年も見破れなかった連中が、「正しい戦史を学びましょう」なんて言葉を述べる資格はない -
>戸高人脈ってサイコパス的な要素が強い
荒巻義雄の外伝で作家デビューしたのに、裏で散々馬鹿にしていた大木毅
戸高人脈と関係してるかはしらんが、やはり荒巻の尽力でデビューしたのに、裏では「と学会」の面々と悪口をいってたという横山信義
また荒巻が批判本で散々叩かれたのを聞いて快哉した中央公論社編集部
父親が有名な平和運動家なのに、架空戦記をプロデュースした故人の徳間編集者
麻原彰晃が空中浮遊した写真を掲載したムーの編集長で、学研が架空戦記を刊行した際の編集総責任者
全員サイコパス的な要素があるなw
こんな人たちに一般受けする小説、専門家が評価するシミュレーションを書いたり、編集する能力なんてあるのか? -
>荒巻義雄の発明
架空戦記が娯楽小説なら、それはそれでいいんだがな
普通の作家、専門家が書くなら、「正確なシミュレーションではありませんが、面白い娯楽小説を書きます」と口にするもの
反対にシミュレーションどたすれば、「娯楽小説としては面白くありませんが、正確なシミュレーションにします」というはず
シミュレーション小説って言葉は便利で、都合のいいときは「正確なシミュレーション、面白い娯楽小説の両方ともしています」
破綻しはじめると「シミュレーションではなく、娯楽小説」、もしくは「娯楽小説ではなく、シミュレーション」になる
挙げ句は「どっちもしてません」ってことになるんだなw
」 -
そもそも娯楽小説は「面白ければ、間違えてもいい」、シミュレーションは「正しければ、面白くなくてもいい」という正反対の存在
どれだけ素晴らしい作家、専門家であろうが、1つの小説で同時に2つの要素を満たせるはずがない
軍事知識の有無以前に、常識を持ち合わせている作家、専門家ほど一方を選択し、他方は切り捨てるという判断をする
「娯楽小説が低俗、シミュレーションが高尚」という問題ではなく、「一方しかできない」と見極めるのが作家、専門家の戦略ってものだ
つまり「どちらもできます」と大見得を切った架空戦記作家は、作品内で散々戦略と口にしながら、自分は実践できていないってことになる
つまらないのは、当然の帰結だよ -
>1つの小説で同時に2つの要素を満たせるはずがない
別の言い方をすれば、正確なシミュレーションと面白い娯楽小説という2つの責任を果たせるはずなんてないんだよ
どちらかが水準点に達していれば誰も批判はできないし、してはならないんだよね
架空戦記作家は「どちらもできる」といいながら、どちらの水準点にも達していない
作家、専門家としての戦略が根本的に間違えているのだから、知識や技術という戦術で補えるわけなんかない
「つまらない」のではなく、「面白くなる要素がない」
むしろ正々堂々「私はシミュレーションなどできませんし、してません。その代わり面白い娯楽小説を書きます」とカミングアウトすれば、多少の荒唐無稽も許されるんだけどね -
とどのつまり「シミュレーション小説」という荒巻義雄の発明は、娯楽小説家が娯楽小説という戦場で戦うのを放棄したってこと
普通の作家と戦っても勝ち目がないから、シミュレーションという言葉を使って、「俺たちは専門家に匹敵する知識がある」と土俵をすり替えたんだな
普通の作家は、娯楽小説という土俵で戦うのを想定しているから、別に専門知識があろうがなかろうが関係ないのだが、「戦えないから、俺たちより劣る」と優越感に浸った
反対に専門家に対すると、今度は土俵を「娯楽小説」にすり替え、「娯楽小説の間違いを指摘するのはお門違い」、「我々は専門家よりも想像力がある」といいはじめる
一見架空戦記作家は作家と専門家の双方に勝っているようだが、実際は両方の戦っている土俵から詭弁で逃げているだけに過ぎない
そこを読み解けない作家、読者ほど集まり、絶讃するのだから、完成度が高まるはずがなくても致し方ないわけで -
>両方の戦っている土俵から詭弁で逃げているだけ
囲碁の名人の前では将棋で戦い、将棋の名人の前では以後で戦うという感じだな
どちらの名人もアマ数段クラスの実力があり、もし双方でアマ4、5段を持っている人がいれば勝つ可能性はある
しかしそれだけの実力のある人なら、「自分は囲碁、将棋の名人に勝った。俺は2人より優秀」なんてことはいわない
たとえ自分が負けても、囲碁の名人には囲碁で、将棋の名人には将棋で戦ってこそ意味があることを悟っている
対して架空戦記作家は「作家には専門家ルール、専門家には作家ルールで戦え」といってるようなものなんだな
結果として作家には小説の出来で負け、専門家からはまったく評価されないシミュレーションを書き殴っているだけなんだが -
架空戦記の作家、編集者、読者、そしてアンチに共通するのは、「娯楽小説が好きそうではない」んだな
作家、編集者、読者は「俺たちは、本当は娯楽小説なんかの枠に収まらない人間」という変な自覚がある
だから「ただの娯楽小説ではない」と口にできるのだろうな
アンチはアンチで、「娯楽小説は、専門書より落ちるもの」という意識がある
そうした要素はもろちんあるとして、対象が違うんだから、そこまで露骨に出さなくてもいいw
架空戦記が娯楽小説なら、まず「娯楽小説の水準点」に達することが最重要課題で、その意味では全員が連係できるはずなのに、それぞれが明後日のへ方角を向いているから話がまとまらない
それじゃダメじゃん(by古今亭昇太)なんだがなぁ -
娯楽小説のどこが悪いんだろう?
「シミュレーションのほうが一段上」だと見下しているくせ、専門家から見向きもされてなければ意味がない
架空戦記作家、読者たちにシミュレーションなんかできる能力なんてないんだから、全員「シミュレーションではありません」とカミングアウトすればいいのにね
そう断っておけば荒唐無稽な兵器が登場してもおかしくはないし、アンチが批判しても相手のほうが頭がおかしいだけw
「荒唐無稽な娯楽小説」を「正確なシミュレーション」とすり替える手法は、どっちつかずの出来にしかならない
この程度の道理のわからない作家、読者たちは、戦略なんて考える資格も能力もないんだけどなぁ -
娯楽小説とシミュレーションの境界を設けないことと、作家や編集者と読者の責任の境界線を設けないのとは同じなんだな
普通の作家や専門家は「娯楽小説を書きますから、シミュレーションの責任は負いません」「シミュレーションを書きますから、娯楽小説の責任は負いません」と自分のすること、しないことを明確に区分する
それはすなわち「しないことの責任は取らない」という声明でもあり、混乱したら読者の責任だと伝えている
対して架空戦記作家は最初に「両方しています」といい、破綻が見えはじめると「今は娯楽小説」「今はシミュレーション」と使い分け、最終的には「どちらもしていない」ことが暴露される
この構造は読者に必要以上の責任を負わせているのだが、読者は嬉々として「間違えたら読者の自己責任」と作家、編集者と同じ言葉を吐く
自分たちに損害を負わせようとする相手を擁護して、どうするのだと? -
架空戦記作家も作家、読者も読者だが、批判する側もこの件についてば対立しているはずの作家や読者と同調するという異常な展開で
「個々の間違えている箇所」が問題ではなのではなく、「間違える構造」が問題なのだというのを認識できてないんだな
読者に必要以上の責任を負わせる構造の小説は、陰謀論やフェイクニュースの巣窟になる危険性が高い
事実荒巻義雄が、自分が得意げに引用した書籍は米の反社会的団体が刊行し、オウム真理教も機関誌で使っていたのを知って公的な場で失禁したそうだが、著者が間違えたことまで「読者の責任」になるのはおかしい
読者を守るためにも、作家、編集者と読者との責任分担が必要なのに、批判側まで「セーフティガードは不要」と口にしているのだから、アンチも架空戦記作家、読者を馬鹿にはできんだろうに -
架空戦記が評価されないのは構造的な危険とともに、アンチも含めた取り巻く人たちの無自覚、無神経ぶりなんだな
「日本人は平和ボケだが、俺は危機感がある」と得意げに語っているくせ、「紺碧の艦隊」の担当編集者の父親が共産党系の平和運動家
おまけに黒幕の戸高一成が歴史偽造と接点があったことには、戸高から仕事をもらっていた神立尚紀、戸高の高弟になる大木毅も気付かなかった
さらに「歴史のイフ」を語りたいなら、作家や読者たちが現状を改善、再生すればいいのに、そういう流れすら起きない
小説のなかで大戦略、大勝利と語ってるのに、現実世界ではなにもしないのかと?
ここまでくれば「平和ボケ」の亜種しか読まない小説であって、まともな評価など受けるはずがない
仮に軍事知識がゼロでも、まともな人間性と常識を持ち合わせた人間のほうがマシだ
ああつまんないw -
普通の作家、専門家は自分の読者を守るためと、自分自身を守る意味で、「自分が負うべき責任」と「読者が負うべき責任」の境界線を引こうとする
境界線の内側については自分が責任を負うが、予防線を張った外側で読者が混乱した場合は、読者が責任を負ってくれと
対して架空戦記は「娯楽小説とシミュレーション」の境界線がないから、「作家が負うべき責任と読者が負うべき責任」の境界線もないんだな
作家も読者も「今は娯楽小説」、「今はシミュレーション」とその場その場で使い分けていたから、「どこまでが作家の負うべき責任か、どこからが読者の負うべき責任か」が明確ではない
さらに作家、編集者は狡猾で、「読者は優秀なので、読者の判断に委ねます」と一見理解のある言葉を吐くが、実態は自分たちが負うべき責任を読者に丸投げしたわけだ
勘の鋭い読者なら憤慨するものの、架空戦記の読者たちはそこに気付かないw
作家や編集者たちは読者を馬鹿にしているのに、言葉の真意を理解できぬまま真に受けてしまったんだよなw -
ちょっとした作家のミスはともかく、荒巻義雄のように信憑性のない歴史書を紹介された場合まで、「信じたら読者の責任」になるのはどうかと?
ましてや荒巻がこの件を暴露されて失禁したそうだが、引用した作家まで騙されていたことまで「読者の責任」になるのは、おかしいのではないか?
「作家の負うべき責任、読者の負うべき責任」が明確ではなければ、読者が必要以上の責任、負担を負わされるという不利益な事態ににるんだよな
それこそ「たかが娯楽小説」で、読者かこんな責任を負う必要なんてないんだわ
架空戦記批判本を書いた人たちは、こうした架空戦記の構造まで踏み込むことで、読者が不利益を負う必要はなく、作家や編集者が負うべきだと糾していた
架空戦記を批判してはいたが、読者の利益、権利を守ろうとしていたのに、読者たちは真意を理解できず、「俺たちの好きな架空戦記を批判するのは許さん」とキレたんだなw
そしてその姿を見てほくそ笑んだのは、読者を騙していた作家と編集者だったわけで -
架空戦記の構造的な問題に踏み込んだのは批判本の著者たちだけで、架空戦記の読者はもちろん、アンチもそこは理解できなかった
問題なのは「個々の間違い」てはなく、「どうして個々の間違いが起きたか」という構造的な部分なんだと
「娯楽小説とシミュレーションの境界線を設けない」から「作家(編集者)と読者の責任分担が曖昧」になる
そこに陰謀論、フェイクニュースが入り込んだら、収拾のつかない事態となって当然だと
「面白い、つまらない」「正しい、間違い」「好き、嫌い」とは別の次元の問題が起きているのに、愛読者側も批判側も気がつかないというバカバカしさ
そのくせ批判本の著者叩きには連係ししたばかりか、元締めの戸高一成が歴史偽造に関与していたのには作家や戦史研究家も見抜けなかったお粗末さw
負ける組織ってのは、こういう人たちの集団なんだろうな -
架空戦記の作家、読者、そしてアンチが「架空戦記の内容を信じたら、その読者の自己責任」と言いたいなら、それでいい
では「自分たちも、戸高一成が歴史偽造に関係していたことを見破れなかった」のも、自己責任になるんだな?
今後の人生、この件で侮辱されても甘んじて受け止めろよ
作家もバカ、読者もバカ、おまけに批判している連中までバカなんだから、架空戦記がよくなるわけなんてないだろ?w -
>架空戦記は「娯楽小説とシミュレーション」の境界線がないから、
>「作家が負うべき責任と読者が負うべき責任」の境界線もない
是か非かは別として、架空戦記は「シミュレーション、小説」と大別でき、さらに小説は「歴史改変SF、カタルシス解消の娯楽小説」と区分できる
ひとつのジャンルの中に三つのジャンルがあるのだから、普通の作家、専門家なら「どれをします、残りはしません」と宣言する
娯楽小説が悪いとかの話ではなく、「他はしません」と宣言すれば、娯楽小説に全力を尽くせばいいだけだし、その部分の出来しか評価されない
そこでもし「シミュレーションとして間違えている」と批判するヤツがいれば、そいつのほうがアタマがおかしいw
これが普通の作家、専門家の戦略なんだな -
対して架空戦記作家は、1つの作品で「シミュレーションも娯楽小説もできます」と口にしてしまう
2つの戦略目標を同時に達成しようという二兎追って状態になり、「いまはシミュレーション」「いまは娯楽小説」と事態を取り繕うが、結果としてどちらもできなくなる
そのくせ2つできるなら、2つの責任まで負わなきゃならないんだが、「どちらの責任も負いたくない」のだから、シミュレーションとしても娯楽小説としてもどっちつかずになる
専門家も一般人も見向きもしないのは、当然の帰結ってわけだな
行き着く果ては作家、専門家としての戦略を間違えている人間ほど架空戦記に集まり、作中で「戦略」と大言壮語してるだけなんだと -
結局架空戦記を再生するのには、作家は「シミュレーション、歴史改変SF、娯楽小説」のどれか1つだけ選択して、そのなかで高水準のものを書くしかないわけだ
それこそ無敵の潜水戦艦空母をつくるまえに、まず高水準の潜水艦、戦艦、空母のどれか1つを建造しなさいよと
その程度の道理もわからない人間が架空戦記を書き、読む、そして批判するわけだから、面白くないものが出来ても当然なんだわ
娯楽小説を書きたかったら、それはそれでいいから、「シミュレーションをしてます」「この小説を読んで歴史や国際政治を学びましょう」「他の作家や専門家は頭が悪い」なんて口にすんなよな
まともな娯楽小説を書けない作家が、編集者と一緒に変なブランディングをして、それをおかしいと感じない読者たちと自己承認し合ってるだけだよ -
>2つできるなら、2つの責任まで負わなきゃならない
誰も「2つの責任を負え」なんて無理は口にしてないんだけどねぇw
娯楽小説なら娯楽小説、シミュレーションならシミュレーションのどちらかの責任を負えばいいだけ
たとえ娯楽小説であっても、自信と誇りを持って書いていれば、それはそれで素晴らしいことではないのか?
つまり「娯楽小説の責任を負います」と断言できる作家は、胸を張って「シミュレーションはしていません」と言い切れるってこと
これを批判するヤツがいれば、そいつは確実にアタマがおかしいw
しかし娯楽小説を書いているのに、「シミュレーションをしています」と口にできる架空戦記作家は、娯楽小説の責任を負う気がないってことだな
「娯楽小説の責任を負えない作家」が、どうして面白い娯楽小説を書けるのか? -
なんか架空戦記作家って、娯楽小説が好きじゃない気がするんだよな
「俺は娯楽小説なんか書くような作家ではないんだ」という引け目、劣等感があるから、「ただの娯楽小説ではない」「シミュレーションをやっている」と口にし、挙げ句は同業者や専門家を批判する言動をしてしまう
その意味では架空戦記の読者はもちろん、架空戦記に目くじらを立てて批判するような連中も同じだったりする
「娯楽小説は、他の小説や専門書より劣っている」という意識が強いんだな
しかし娯楽小説とそれらは別の存在なんだし、質を高い娯楽小説ができれば共存できるはずなんだけどね
結局のところ質の高い娯楽小説を書けない作家、読めない読者、理解できないアンチが質の低い架空戦記に群れてるだけだと -
「情報量が多い、間違いが少ない」から「いい娯楽小説」というわけじゃないんだよな
極論すれば、人間ドラマや引き込まれるストーリーがあれば、娯楽小説は「多少間違えても許される」はず
ところが人間ドラマやストーリー展開で同業者と勝負できない作家たちが架空戦記に集まり、シミュレーション小説と勝手にジャンルを立ち上げ、「俺たちは他の作家より情報量が多い」と戦いのルールまで変えてしまった
そしてその部分を理解できない読者が「この作家は情報量が多い少ない、間違いが多い少ない」と同調し、アンチは「間違えてるからケシカラン」と異論を挟んだ
その結果、「より質の高い娯楽小説を求める」という本質から外れた議論になってわけだ
問題はそこではなくて、知識がないならなくてもいいから、専門家の領域に土足で踏み込むような「シミュレーション小説」なんて言葉を使うのを止めて、質の高い娯楽小説を書きませんか?ってことなんだよな -
極論すれば、人間ドラマやストーリー展開が優れていれば、大和が空を飛ぼうが、三段飛行甲板の空母が登場しようが、「読める小説」になる
知識量や間違い云々ではない部分が問われなければならないはずなんだがね
ところが人間ドラマ、ストーリーが書けない作家たちが架空戦記に集まり、知識をひけらかして奇をてらおうとするから、出オチのコントみたいになるのは必然でw
また愛読者もアンチも、人間ドラマもストーリーも読んでないってことだな
全員が末節しか見てないから、「どうしておかしくなるのか」という構造的な問題には踏み込めない
そこを追求しようとした批判本の著者を、敵対している同士が一緒になってリンチしたののも、やはり必然だったわけだ -
>人間ドラマやストーリー展開が優れていれば、大和が空を飛ぼうが、
>三段飛行甲板の空母が登場しようが、「読める小説」になる
普通の小説だったら、作家が訴えたいテーマ、ドラマがあって、戦略とか兵器はそれを補完するための存在なんだな
対して架空戦記は「こんな兵器が出て、格好良く勝って欲しい」がメインになり、ドラマやストーリーはそれを補完するための存在で、テーマ性は希薄になる
普通の小説と目的、目標が正反対なのだと
架空戦記の愛読者は「知識量が多い少ない、間違いが多い少ないから、この作家は…」と評価したがるけど、本当に見なければならないのはテーマ、ストーリーと知識がリンクしているか否かってところだったりする
上手くリンクしていれば多少知識量が少なくても、間違いがあっても読めるはずだし、反対に知識が多くて間違いが少ないからといって、読めるわけではなかったりする -
>知識が多くて間違いが少ないからといって、読めるわけではなかったりする
水野俊平さんが「野平俊水」名義で出した韓国のトンデモ本の紹介に、日韓が戦う架空戦記が載っていた
軍事マニアが書いていたのでやたらめったら兵器の描写は詳しいのに、登場人物たちが「どうして戦争しなければならないのですか?」と会話していたのだと
架空戦記に集まる作家は、やはりどこかおかしいんだよなw -
>普通の小説だったら、
架空戦記が普通の小説なら、ストーリーに合わせた戦略になり、兵器が登場する
作家は知識の有無以上に、適切な選択が問われると
航空戦ならミッションの内容、敵との距離、考えられる反撃、機体の搭載量、ハードポイントの数などの諸条件から最適な選択をすればいい
対して架空戦記は戦略、兵器が主でストーリーやドラマ性が従
作家は「知識がこんなにあるぞ」をひけらかし、アンチも含めた読者もそこに反応する
ストーリーや人間ドラマとかは二の次で、必然的に薄っぺらいものになる
これでは「小説を書きたい」という作家、「読みたい」という読者が集まらなくても当然 -
>ストーリーや人間ドラマとかは二の次
水準並みのドラマ、ストーリーを構築できない作家が架空戦記に集まるわけだ
そしてそういうものを求めていない読者と、相互承認し合っているだけ
こう考えてみると知識のある故佐藤大輔と、ないので酷評される霧島那智が、同じジャンルで共存しているのが納得できそうだな
本来佐藤ほどの力があれば、「質の低い作家たちとはやってられない」と架空戦記というジャンルから飛び出るはずだし、力量のない霧島なら「同じ土俵に上がるのが恥ずかしい」と逃げ出してもおかしくはない
また佐藤に本当に力があれば、他のジャンルの小説の読者、専門家まで引き込めたはずなのに、それもできなかった
佐藤と霧島を架空戦記の指標で考えれば大きな差があるが、小説全体として考えてみればほとんど差がないことになる
両者が架空戦記で共存できるのは、架空戦記が明らかに他の小説とは異質な存在だからなんだな
つまり知識の差、描写力なんて、架空戦記には必要ないのだと -
>架空戦記が普通の小説なら、ストーリーに合わせた戦略になり、兵器が登場する
あくまで人間ドラマ、ストーリーが主だから、改変は小さい、少ないほうがいい
最も効率的な部分だけ改変したほうが、作品を構築するのが楽だと
反対に架空戦記は、戦略や兵器が主になるから、改変は大きく、多くてもいい
無論小説だから誰も悪い、おかしいと口を挟めないとしても、大きく沢山弄れば、それだけ齟齬も生じやすい
なにより「小説だから許される」のはともかく、「その小説をシミュレーションと呼んでも良いのか?」という部分には引っかかりを感じる
「これだけ弄った世界のシミュレーションが正しい」といわれても、何の意味もないんだよなあ
別に正しくなくてもいいんだが、それをいってしまえば、「シミュレーションができる」という作家の売りがなくなってしまうんだよな -
>人間ドラマ、ストーリーが主だから、改変は小さい、少ないほうがいい
知識量の有無とは関係なく、普通の小説では改変が小さい、少ないほうが合理的に作品世界が構築できるというのは「作家の戦略」なんだな
改変を大きく、多くする架空戦記の構造は、普通の作家から見ればまったく理解できないし、興味もないってこと
つまり架空戦記は、小説として異質な作品構造をしていることになる
架空戦記作家は他の作家を悪くいいたがるし、作中では「戦略」を語っているのに、自分たちは「小説、作家の戦略」を理解できていない
そして読者はおろか編集者、そして批判するアンチ側も、意外とそこを理解できていない
さりとて専門家が行うシミュレーションとも構造が違うわけで、よく書いてもどっちつかず、悪く書くなら存在理由がないわけで -
>「作家の戦略」
「専門家の戦略」も、改変は小さく少ないほうが間違う率が小さくなる
やはり「改変を大きく、多くする架空戦記の構造」=「架空戦記作家の戦略」は異質なんだな
改変を大きく、多くすること自体が目的になってしまい、人間ドラマ、ストーリーは従の扱いになり、小説としての幅の広がりがなくなる
さりとて間違う率も高まるのだから、シミュレーションとしての出来も悪くなる
普通の作家、専門家は方向性こそ違うが本質が似ているからこそ、敵対する必要もない
そして両者とも、「現状の架空戦記」には何の魅力も感じないわけで
しかし架空戦記作家は、両者と方向性が違ううえに本質からかけ離れているので、「作家は知識がない」、「専門家は想像力がない」と攻撃するわけだと -
「娯楽小説なんだから、間違えてもいいではないか」という反論には一理ある
しかし「架空戦記は娯楽小説なのか、シミュレーションなのか」という堂々巡りに落ち込むんだな
「架空戦記は娯楽小説もシミュレーションもしています」→「娯楽小説だから間違えてもいい」→「では間違えていないシミュレーションではないんですね?」→「そんな追求をしなくてもいい」→
再び「架空戦記は娯楽小説もシミュレーションもしています」→「シミュレーションだから間違えていない」→「では間違えてもいい娯楽小説ではないんですね?」→「そんな追求をしなくてもいい」→
「8の字型」の負の螺旋に落ち込んでるわけだ -
>「8の字型」の負の螺旋
「シミュレーションではなく娯楽小説」、「娯楽小説ではなくシミュレーション」と2つを使い分けているうち、どっちがどっちかわからなくなったんだな
「作中にご都合主義がある小説」ではなく、「構造そのものがご都合主義の小説」ってことね
つまり力量がないどころか、責任感すらない作家や専門家が架空戦記に集ったわけだから、質が高くならないのは必然なんだな
反対に言えば、負の連鎖を断ち切る覚悟がない限り、架空戦記の再浮上なんてあり得ないわけで
「小説ですのでシミュレーションの正確さはありません」「シミュレーションですので小説的な面白みはありません」と正直に言い切れる作家、専門家以外は、本当の意味で架空戦記を書いてはならないんだな -
>小説ですのでシミュレーションの正確さはありません
娯楽小説に自信、誇りを持っている作家、読者ほど、堂々と言い切れるはずなんだがな
それこそ「格闘技ではなく、プロレスをしたい」と言っている人に、「プロレスは八百長だ」と批判しても意味がないwのと同じで、「娯楽小説を書きたい作家、読みたい読者」に「シミュレーションではない」と批判しても意味がないw
つまり架空戦記作家が「娯楽小説です」と断言すれば、ルールと土俵は娯楽小説に確定するのに、娯楽小説が嫌いなのかw、娯楽小説では他の作家に勝てないからなのか、「娯楽小説ではない」と口にするから、話がややこしくなっちまう
結果まともな作家、専門家、そして読者ほど「娯楽小説とシミュレーションの境界線」を設けようとする
境界線のなかで娯楽小説に高じるのは何も悪くないし、誰も批判できない
しかし境界線の重要性を理解できない架空戦記作家、読者は大したことがないんだなw -
「架空戦記を書くな、読むな」といっているのではなく、「どうせなら質の高いものを書け、読め」といっているんだよな
では「質が高くならない要因はどこなのか」はなんなのだと?
作家のスキル面と読者の読解力の不足、読者が自分の要求を求めすぎるという要素はあるが、気になるのは「本質まで踏み込む力がない」
これはアンチ架空戦記側も同じで、だからこそ批判本を出した著者たちに対して、対立しているはずなのに共闘して葬ろうとしたわけだ
研究家や軍事雑誌とかか架空戦記について踏み込んだ批判をしないってのも、やはりなにかおかしい
架空戦記をプロデュースした戸高一成に、みんなが遠慮。忖度しているとしか思えないんだな -
プロデューサーである戸高が「質の高い架空戦記を求めなかった」としか考えられないんだわ
一見逆説的なようだが、質の高い娯楽小説は多少間違えても許される反面、間違いの内容、間違え方といった部分への風当たりは強くなる
専門家を含めた多くの読者が読むのだから、作家側もその当たりに腐心するわけだ
ところが質の低い娯楽小説は、「どうせ間違えている」との目こぼしを受ける
間違いの内容、間違え方なんて読者は気にとめないし、そこまで読み解く力もないw
質の高い娯楽小説だからこそ「シミュレーションではありません」と断言できるが、質の低い架空戦記では作家や読者が「シミュレーションです」と言い切れてしまうのだと -
架空戦記の構造は、陰謀論やフェイクニュースが繁殖しやすい環境なんだな
読者の要求に合わせた話を提供し、「ただの娯楽小説ではなく、シミュレーションです」とブランディングしながら、要所でルーズベルト陰謀論をはじめとする胡散臭い説を混ぜ込んでいく
読者は「現実とフィクションの区別はついている」と自覚しつつ、フィクションに混ぜ込まれた陰謀論などを見抜く力があるわけではない
こうして読者をライトに洗脳していくのは、オウムをはじめとするカルト団体の技法
そして戸高が、オウムの麻原が出入りしていたオカルト出版社から著書を3冊刊行し、今日の話題社合併まで関係しているのだから、疑われても仕方ない
軍事雑誌や神立尚紀をはじめとする研究者も忖度して見逃したか、架空戦記作家や読者と同様に踏み込んで解読できなかったのだろう -
>質の高い架空戦記を求めなかった
「娯楽小説とシミュレーションとの間に境界線を設けなかった」も同様
まともなプロデューサーは境界線を設けることで作家の力を割く、読者がいらぬ誤解を避けるなどを考慮する
ましてや戸高自身表では専門家側にいるはずなのに、専門家の信憑性を落としてどうするのと?
もはや戸高の過去がオカルトライターで、陰謀論や歴史偽造と接点があったことと関連しているとしか思えないんだよな
架空戦記の目的が「読者に歴史への理解を深める」、「娯楽を提供する」ではなく、「歴史偽造を広める」ほうがしっくりくる -
>神立尚紀も忖度して見逃した
芸プロの男色問題と同じだろうさ
神立は坂井三郎がネズミ講に関係していたのを知っていながら、死ぬまで報道しなかった
死んだ直後に掌を返したことで、坂井の娘さんが驚愕したんだな
戸高の件も同様で、神立は戸高が架空戦記に関与していたのを知っていながら、読者たちの前では知らない顔を決め込み、架空戦記を批判する言説を並べていた
戸高から仕事、故半藤一利などのコネを回してもらっていたから、「事実」を述べられなかったのだろうな
戸高との関係を保つため、架空戦記を批判していながら、批判本の著者を叩くという珍奇な動きをしたわけだ
ところが戸高は神立の予想を超える詐欺師だったうえ、神立の洞察力も素人以下だった
神立は戸高が歴史偽造に関係していたばかりか、自分に毒物を飲ませたオウムの麻原と接点があったことにも気付かなかったんだ -
>結果まともな作家、専門家、そして読者ほど「娯楽小説とシミュレーションの境界線」を設けようとする
>境界線のなかで娯楽小説に高じるのは何も悪くないし、誰も批判できない
「俺は娯楽小説を書いてますから、シミュレーションはしていません。専門家、専門書の領域は浸食しません」と宣言すればいいだけ
それでも批判するなら、そっちのほうがバカなんだよw
決められたルール、土俵のなかで全力を尽くせば、誰も文句はいわないんだな
できもしないシミュレーションを「してます」と口にし、専門家や他の作家を貶めることで自分の価値を上げようとするくせ、娯楽小説としても大して面白くないから、架空戦記が嫌いなんだよ
シミュレーションなんてしなくてもいいから、最高の娯楽小説を書くことに力を割けって -
普通の作家、専門家
「娯楽小説を書いています」、「シミュレーションを書いています」と区分する
→選択したほうに全力を尽くさなければならないが、もう一方の責任は免除
架空戦記作家
「シミュレーション小説を書いています」
→「シミュレーション小説は娯楽小説ではなく、シミュレーションです」、「シミュレーション小説はシミュレーションではなく、娯楽小説です」と使い分ける
→その場その場で使い分けるから、どちらも責任を感じず。全力も尽くさない -
広義の架空戦記
・シミュレーション
・小説・歴史改変SF
・娯楽小説・(歴史改変のない)冒険、アクション小説
・(歴史改変のある)狭義の架空戦記
「どれがよくてどれが悪い」ではなく、すべてジャンルの違うもの
書く&読む自由、権利は認められても当然
しかしだからこそ「狭義の架空戦記」を「シミュレーション」と名付ける、もしくは「シミュレーションに従っている」と口にしても良いのかと?
「ジャンルが違う」のだから境界線を設ける必要があるのに、架空戦記の作家、編集者、そして読者ほど境界線を否定したがるのはどういうことか? -
架空戦記への批判とかではなく、「娯楽小説とシミュレーションとの境界線を設けよう」ってことなんだな
作家、編集者、読者が「(この)架空戦記は娯楽小説です」とカミングアウトすれば、
・多少間違えても許される=「正しいことを書く」というシミュレーションの責任は追求されない
・専門家、他の作家への侮辱にならない=敵とともに批判が減る
といったメリットがある
できないシミュレーションを「できる」と見栄張るより、「できません、しません」と撤退することで、できる部分に注力したほうが作品の質も上げられるのに
軍事、外交の戦略以前に、「作家としての戦略」を見誤っているとしか思えない -
>カミングアウト、メリット
・読者が、「娯楽小説なのかシミュレーションなのか」混乱せずに済む
架空戦記作家が「娯楽小説をシミュレーションと偽る」ことで利益を得るのは、
・専門家、他の作家に優越感を誇示する
ぐらいなんだな
この程度の優越感で満足できるのだから、作家としての志が低い連中しか集まってこない -
「太平洋戦争で逆転した=日本が勝つ」ほうが売れ行きが上がる
→史実の太平洋戦争では、日米の国力差は圧倒的だった
→娯楽小説なんだから、多少荒唐無稽でも構わない
→原形をとどめないほど、史実を弄っても許されるだろう
→しかしそれでは、「ただの娯楽小説」と軽蔑されるだけ
→「ただの娯楽小説ではない」ことを強調するため、「シミュレーション(小説)」と銘打つ
→さらに作品、作家に箔を付けるため、「専門家に匹敵する能力」などとつける
→読者を意図的に混乱させたのに、「混乱した読者の自己責任」として切り捨てることで、作家と編集者が保身に走った
斯くして「3流作家の書いた娯楽小説」と「専門家の書いたシミュレーション」との境界線が喪失した -
「架空戦記が好きか嫌いか、いいか悪いか」の単純な2択ではなく、娯楽小説とシミュレーションがうまく棲み分けできればいいだけなのにね
常識を持ち合わせていれば、境界線を明示すれば済むだけのこと
ところが架空戦記作家、編集者、読者は、境界線ができれば他の作家、専門家そして読者に自分を誇示できなくなるので、境界線が曖昧のほうが有り難い
他方アンチ架空戦記派は、境界線を設けるという発想には至らない
敵対しているはずの両者なのに、境界線を設けようとした架空戦記批判本の著者を叩くときには共同戦線を張ったという異常さ
境界線は双方にメリットがあるのに、戦いの継続を望んだんだな
そのくせ戸高一成が両方に荷担していたのには、どちらも気付かなかったというお粗末さw -
「シミュレーションをしたように見せた娯楽小説」は、小説としてセーフ
しかし「娯楽小説に「シミュレーション」、「シミュレーションの結果」とつける」のはアウトのはず
ところが架空戦記作家、読者は「自分たちはシミュレーションができる」と専門家の領域を侵食したがっているし、架空戦記に批判的な読者は娯楽小説全般まで叩こうとする
両者が利害を調整して、境界線を敷けないんだな
本来ならば両方に顔の利く戸高一成が率先して整理しなきゃならないのに、なにもしないのは。混乱が広がるのを楽しんでいるとしか思えない
おまけにオカルト、陰謀論と接点があるのだから、「架空戦記はオカルト、陰謀論を広めるためのツール」と誤解されても仕方ないわな -
>娯楽小説なんだから、多少荒唐無稽でも構わない→原形をとどめないほど、史実を弄っても許される→「ただの娯楽小説ではない」ことを強調するため、「シミュレーション(小説)」と銘打つ
軍事知識や表現力の有無とは関係なく、まともな作家、専門家はこんなオーダーを受けない
まずシミュレーションをする専門家と、それを読みたい読者に失礼と感じる
ついで「シミュレーションができない」と他の作家を酷評するのは、他の作家、その読者にも失礼だろう
そして自分たちの読者が誤解、曲解してもいけないという、配慮もある
ほいほい「シミュレーションをしています」と口に出せる作家は、周囲にいらぬ敵をつくっているのに、それすら気付いていない
多少軍事や歴史の知識はあるかも知れないが、常識が感じられない -
>まともな作家、専門家はこんなオーダーを受けない
逆説的だが、能力のある作家、専門家ほど「シミュレーションではありません」「シミュレーションはしていません、できません」と口にできる
正直に述べることで余計な責任は回避できるし、批判も封じられ、自分の能力を「フィクション」に全振りできる
「してません、できません」と断っている作家に、「していない、できないとはケシカラン」と批判するヤツがいれば、真性の馬鹿なんだしさw
架空戦記が娯楽小説であるなら、作家はここまで言い切ったほうが賢いんだな
ところが架空戦記に集まる作家、専門家は度胸なし、根性なししか揃っていなかったw
「できる」と他の作家との差異化を図ったのに、かえって無能さを暴露しちまったわけだ -
>能力のある作家、専門家ほど「シミュレーションではありません」「シミュレーションはしていません、できません」と口にできる
架空戦記が娯楽小説であるなら、作家、編集者、読者は「シミュレーション小説」というブランドに固執する必要はないんだな
ブランドを外せば。「太平洋戦争を逆転する(シミュレーション)」をしなくてもいい
架空の世界、架空の登場人物が戦争をする小説にすればいいし、その世界のなかで戦艦が空を飛んでも、3段飛行甲板の空母が合体しても許されるんだが
「荒唐無稽が悪い」のではなく、「荒唐無稽が許される世界を構築する」のが娯楽小説家の腕の見せ所じゃないのかな?
架空戦記に関係している連中がここに気付かないのも妙な話だし、架空戦記を批判する側もこちらに誘導してやればいいのに、それさえしないとはね -
「架空戦記が好きか嫌いか」とは違うんだよな
・架空戦記は「シミュレーションなのか、娯楽小説なのか」の境界線を設ける=「娯楽小説が悪い」のではなく、「娯楽小説をシミュレーション(に基づいた)」というのが悪い
・「娯楽小説=シミュレーションではない」なら、「シミュレーションはしていません」と明言する(読者を混乱させない)
・他の作家、専門家、読者に喧嘩を売るような言説はしない
これらを守ってくれるなら、「好き嫌い」ではなく、「存在は否定しない」
しかしこういう部分に無頓着な作家、読者が集まるから、架空戦記が嫌いなんだな -
・荒巻義雄が「紺碧の艦隊4」で絶讃した「操られたルーズベルト」(プレジデント社)は、オウム真理教の機関誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」No.6でも絶讃
・荒巻、檜山義昭、日向仁=大和ミュージアム館長戸高一成の共通の友人が、オカルト出版社八幡書店創業社長の武田崇元
・武田の経営する出版社に麻原彰晃が出入り
・武田はオカルト雑誌ムーの編集顧問
・麻原は、武田の紹介によってムーでライターデビュー
・麻原が空中浮遊した号の編集長太田雅男は、武田とともにムー創刊の企画書を提出
・太田は、学研が架空戦記を刊行した際の編集総責任者
架空戦記とオカルトの関係は根深い -
・荒巻は「紺碧2、4」で、「原爆投下米の人体実験説」を引用
・同説を最初に用いたのは、革命運動家だった評論家の太田龍
・太田はイルミナティ陰謀論に傾倒したが、荒巻も同調
・太田と同調していたのが、武田崇元
・また「原爆投下米の人体実験説」を引用していたのが、共産党系の平和運動家だった芝田進午
・芝田の息子暁が徳間書店。幻冬舎在籍時、「紺碧」の担当編集者
「架空戦記が好き」なのは個人の自由だが、どうしてここまで読み込まないのか?
オカルト、左翼人脈が背後に隠れているのだがな -
「紺碧」が刊行されたのは90年でバブル末期
架空戦記ブームの大きな要因だった太平洋戦争開戦半世紀とは別に、武田が仕掛けた80年代のオカルトブームが退潮期に入っていた(ムー創刊が79年、武田と戸高が出会ったのも同時期で、戸高のオカルト本1冊目刊行が83年3月)
ちょうどこの時期に流行してたのが、日渡早紀の「ぼくの地球を守って」(86年開始)
荒巻が「紺碧」で転世という概念を使ったのも、この影響だろう
おりしも同時期のムー通信欄では、「前世の記憶のある者」を集うのが流行していた
そしてそのなかに、勢力を拡大しようとした「オウム(84年設立、87年宗教法人登録)のサクラ」が混ざっていたんだな
麻原がいつから武田の元に出入りしていたのは不明だが、空中浮遊した写真を掲載したのが85年10月号
戸高が出入りした時期ほぼ被っているわけで、2人に面識のあった可能性は高い -
さてムー通信欄で「前世の仲間探し」の掲載が中止になったのは88年6月号
「オウムのサクラ」が通信欄に出稿or出稿した相手に連絡を取り、勧誘につなげていたことが問題になったんだな
号は不明だが麻原もムーから出禁になり、武田とも疎遠になったらしい
しかし勧誘がなくなったわけではなく、武装革命を推進するため、現役&退役の自衛隊員
に接近し、95年の事件へとつながったわけだ(事件直後に武田が東京地検特捜部から事情聴取され、一時期ムーからも距離を置いた)
もともと武田も武装革命論者であり、急進化先鋭化したのがオウム=麻原だったと
荒巻の参考資料とオウムが被ってても、おかしくないってことだ
架空戦記とオカルトの関係は、意外と根深かったりする -
>「好き嫌い」
別に架空戦記が「好き」であっても問題はないんだな
ただ「好き」だったら。ちゃんと読み込んで批判派よりも先におかしさや矛盾点に気付き、改善するよう作家や編集者に伝えろよって
「好きだ」とはいっているくせ読み込まないし、他の知識もないから、おかしさや矛盾点に気付かないし、作家や編集者に伝えることもできない(伝えたところで、作家や編集者は改善しないだろうが)
「好きだから、ちゃんと読まない権利がある」という頓珍漢な話になっちまうんだよな
こんな言葉を吐かれると、本当に好きかどうかすら疑わしい -
しかし、批判派も批判派でおかしい
戸高一成が架空戦記作家を何人もプロデュースし、自らも執筆していたことが暴露されても、架空戦記を批判していたはずの神立尚紀は戸高を批判すらしなかったばかりか、神立の読者も神立を批判しないんだな
神立の読者は、「戸高と架空戦記は無関係」としたい神立にミスリーディングされてたのに挙げ句戸高が歴史偽造に関係していたことまで指摘されたのだから、神立も戸高に騙されていたわけだから、神立の読者は神立と戸高のダブルで騙されてたってことになる
もはや神立や神立の読者が、架空戦記の読者を批判する資格なんてあるのか?
愚かさ加減は、似たようなものではないかと -
架空戦記作家側
・戸高一成と初期の作家、編集者の一部が陰謀論に傾倒
・大半の作家、読者は気付かず
架空戦記批判側
・戸高と架空戦記が密接な関係なのに、神立尚紀は読者は伝えず
・神立は、戸高と陰謀論のつながりに気付かず
・大半の読者は、戸高と神立に騙されていたことになる -
架空戦記が「好き嫌い」「間違い正しい」という問題ではないのだと
好きな側も嫌いな側も、どっちも騙されているってこと
本来ならば騙していた相手を糺弾すべきなのに、どちらもそれをしなすばかりか、共闘して騙されていることを指摘した批判本の著者たちに怒りの矛先を向けている
もうこうなると「架空戦記が好きな愚か者」と「嫌いな愚か者」という違いでしかない
こんな人間たちしか戦史に興味を持たないばかりか、誰1人として戸高や作家たちを注意しないのだから、日本の戦史研究はオワコンだとw -
>架空戦記とオカルト
・戸高一成との共著の多い原勝洋、柘植久慶はルーズベルト陰謀論者
・荒巻義雄が「帝国の光」で紹介した「秀真伝」(ホツマツタエ)の解説書を八幡書店から出したのは、ベストセラーズから架空戦記を出している佐治芳彦
・荒巻が中公から「アトランティス大戦」を出したが、アトランティス大陸については八幡書店からも刊行有り(八幡書店のパブリシティ?)
・八幡書店創業社長武田崇元と昵懇の仲で、武田が筆名で数冊著書を刊行したのが倒産した大陸書房
・大陸書房出身だったのが、故佐藤大輔(中央公論が創刊すぐで力のなかったCNOVELSに、大陸書房出身の作家を引き入れて強化した模様)
胡散臭さ満点w -
高度商業社会、消費社会を運営するには安全保障=軍事、防衛が必須
ところが左翼系平和論者は、安全保障抜きでも成立できるという無理難題を唱える
行き着く先は「世界が自分たちの平和論に賛同すれば可能になる」という思い上がりなんだな
しかしそんな平和論と対極的な架空戦記なのに、あり得ない状況設定が成立した場合のシミュレーションなんて口にしたがる
意外とやっていることは同じなんだな
どちらも架空戦記ブームを立ち上げた編集者が平和運動家の息子だというのに気付かないのも、偶然の一致ではないのだろうさ -
このコメント欄、1人必死な方がいますね
-
架空戦記作家と編集者の本音は「読者なんて馬鹿だから、どれだけ騙しても構わない」
読者は本当に馬鹿だからw、騙されているのにも気付いていない
そのうえ架空戦記を批判している側も「騙される側が悪い」と、なぜか敵対する側の肩を持っている
回り回って、架空戦記が好きな読者、嫌いな読者、そまうえ作家と編集者の大半までが騙されているという末期的状況に陥っている
これで「面白い」、「沢山の人が感動する」のはもちろん、「正確な」架空戦記なんかできるはずがないだろう? -
架空戦記が好きなら好きでいいんだよ
どうして「好きな」連中が、「ブームを立ち上げた担当編集者が、共産党系の平和運動家の息子」なんて致命的なことに気付かないんだと?
「好き」だから深く読み込み、矛盾に気付き、それを是正しようと働かないのか?
好きな人間が気がつかないなら、「その程度の好きさ」ってことなんだがな
というかその程度のこともできない人間だから、「あそこでこうなっていたら」とか「旧日本軍の人事システムがー」と言いたがるw
「日本がどうして負けたか」ってのは、架空戦記を巡る異常な展開をみればよくわかるw -
架空戦記の作家、編集者。読者は本当に馬鹿なのか?
あのベストセラー手がけた敏腕編集者はなぜ2年で自分の出版社をつぶしたのか?
>芝田暁(あきら)さんは、エンターテインメント系の伝説的な編集者だ。
>「芝田」と聞いてマルクス主義者で哲学者の芝田進午を思い浮かべた人もいるだろう。
>芝田さんはその息子である。
>芝田さんの快進撃は続く。荒巻義雄『紺碧の艦隊』シリーズをヒットさせ
ブームを造った作品は分裂症的な世界観なのだから、ジャンル全体が破綻するのは必至なんだと -
>分裂症的な世界観
左翼系平和論は「高度商業主義の恩恵は受けるが、代償としての安全保障は行わない」
架空戦記は「「専門家と同等のシミュレーションができる」と公言するが、専門家と同じ責任は果たさない」
どちらも「権利、恩恵はくれ。責任、義務は果たさない」
相互に批判したがるが、していることの本質は同じ
「自分の主張に世界が合わせろ」といっているのに等しい
だからどちらも、世間から見放されているのだがな -
架空戦記の問題点
・是非は別として、「シミュレーション」、「歴史改変SF」、「エンターテインメント」と3つの方向性に大別できる
・普通ならば作家、編集者は「この作品は、この方向で進みます」と宣言する=境界線を設ける(方向性を認めない読者は、この時点で読まなくてもいい)
・ところが作家、編集者はどの方向に進むかをぼかす
・そもそも方向性など決めておらず、「すべてできるかのように振る舞う」(他の作家との差別化を図る)→その場その場で「いまは××」と切り替える
・専門知識云々ではなく、作家と一緒に「切り替えられる」読者は読めるが、「切り変えられない」読者には読めなくなる
・しかし相互の矛盾が共鳴し、作品の存在理由を根底から破壊する
・故に「架空戦記はつまらない」のではなく、「構造的に面白くできない」 -
・「エンターテインメント、娯楽小説」が、お客様=読者の求める方向性、結末に至るのはやむを得ない部分もある
・また「太平洋戦争で、日本が勝って欲しかった」、「日本にとって、正しい戦争だった」と読者が感じるのは、必ずしも悪いことではない
・しかし架空戦記の作中に、ルーズベルト陰謀論など検証不可能な説を混ぜ込むのは、小説としてのモラルに反するのではないか?
・さらに、普通の小説では作家は「読者が間違えないよう」配慮するものだが、架空戦記では「読者が間違うよう」に誘導している
・作家、編集者は、自分たちの責任を果たす気がないのに、「間違えたら、読者の自己責任」と切り捨てるのは如何なものか? -
・架空戦記の魁となった「紺碧、旭日の艦隊」を書いた荒巻義雄は、オカルト雑誌「地球ロマン」の熱狂的読者だった
・同時期に「逆転シリーズ」を出した檜山義昭は、オカルト雑誌「迷宮」に寄稿している
・呉市海自歴史博物館館長の戸高一成は「日向仁」の筆名で架空戦記を執筆していた
・また戸高は「迷宮」に連載予告が掲載され、オカルト雑誌「ムー」1982年12月号に「邪馬台国はエジプトだった」を寄稿
・さらにオカルト出版社八幡書店からオカルト本3冊を刊行
・戸高が経営参画していた戦記専門出版社今日の話題社は、97年頃八幡書店に吸収合併されている(現在2社の住所、ビル、階数は同一)
・「地球ロマン」と「迷宮」の編集長、「ムー」の編集顧問、八幡書店の創業社長は武田崇元(洋一)という同一人物 -
・架空戦記の魁となった「紺碧、旭日の艦隊」を書いた荒巻義雄は、オカルト雑誌「地球ロマン」の熱狂的読者だった
・同時期に「逆転シリーズ」を出した檜山義昭は、オカルト雑誌「迷宮」に寄稿している
・呉市海自歴史博物館館長の戸高一成は「日向仁」の筆名で架空戦記を執筆していた
・また戸高は「迷宮」に連載予告が掲載され、オカルト雑誌「ムー」1982年12月号に「邪馬台国はエジプトだった」を寄稿
・さらにオカルト出版社八幡書店からオカルト本3冊を刊行
・戸高が経営参画していた戦記専門出版社今日の話題社は、97年頃八幡書店に吸収合併されている(現在2社の住所、ビル、階数は同一) -
・「地球ロマン」と「迷宮」の編集長、「ムー」の編集顧問、八幡書店の創業社長は武田崇元(洋一)という同一人物
・武田の指示で「ムー」創刊の企画書を書いたのが、太田雅男
・太田は戸高の寄稿ではムー副編集長、オウム真理教設立前の麻原彰晃=松本智津雄が空中浮遊した写真などを寄稿した際の編集長
・学研が架空戦記を刊行した際の編集責任者
・武田とともに「ムー」創刊を手伝ったのが、元SFマガジン編集長の南山宏
・南山の実弟が、架空戦記を刊行している作家の森詠
・佐藤大輔を含む武田の影響の強かった大陸書房からノベルズを出していた複数の作家は、倒産後に中央公論社に移籍 -
・武田は東大時代、共産主義者同盟の活動家だった
・当時「学生運動家のバイブル」と呼ばれた書籍を数多く執筆していたのが、広島大、法政大教授で共産党50年党員で有名な平和運動家の芝田進午
・芝田の息子、暁が徳間書店在籍中に担当したのが荒巻義雄の「紺碧の艦隊」
・「紺碧の艦隊」作中で「原爆投下は米の人体実験」という説が紹介されているが、芝田進午も同調していた
・日本で最初に「原爆投下人体実験説」を述べたのは、左系評論家の太田龍
・太田に多大な影響を与えたのが、武田という関係 -
知恵遅れの同級生を虐めていた架空戦記の関係者(名前は特定しているが伏せる)が、小中9年間一緒だった同級生にどう言われていたか
「同級生はおろか、教師も引くほどの陰湿なイジメをしていた
同級生が相談して「自分が虐められたら、どう感じるかわかるだろう」と虐めはじめると。教師も黙認していたが、あいつは中学卒業まで自分が虐められている理由がわからないまま、同級生や教師を逆恨みしていた
そんなヤツが小説を書いたり、編集していたりしてるの? 出世したねw
他人の気持ちを一切理解できなかったまま中年になり、社会に出たヤツが関係した小説なんて、まともなものができるとも思わないよ」
これが架空戦記の正体だよw -
架空戦記を立ち上げたのは政治的バイアスのかかった連中で、読者に陰謀論など怪しい説を植え付けようとしていた
同級生虐めをしていた関係者のように初期にハマった読者は、目先の新しさに引かれ、本質を見破れなかった…早い話がバカ揃いwだった
戸高とかには、そういう読者を作家デビューさせたり、出版社を紹介して手駒にしたかったわけだ
騙されているのにも気付かず、進んで自分の分身になってくれるのだからね
逆説的な話になるが、高度なシミュレーションを行うのに必須の洞察力のない連中を揃えたほうが、架空戦記=シミュレーション小説には良かったのだと
結果「娯楽小説としてつまらない、多くの読者を獲得できない」、「シミュレーションとして、専門家は見向きもしない」という代物が溢れたわけで -
「ムー 1982年12月号orNo.25」で画像検索すれば、目次右の段上から3番目に「邪馬台国はエジプトにあった !? 戸高一成」が
「八幡書店公式HP 星座とその神話」で検索しても、戸高の名前が出てくる
wiki、国会図書館蔵書検索などを総合して、戸高と「80年代オカルトブームの黒幕」である武田崇元との関係は明白
武田と荒巻義雄、檜山良昭との接点も見つかり、架空戦記とオカルトはもちろん、陰謀論やフェイクニュースとのつながりまで見えてくる
ところが虐めをしていたヤツをはじめ、架空戦記作家としてデビューした連中は、誰1人として見破れなかったんだよなあw
一般人以下の洞察力も持ち合わさない人間が、作家として面白い作品を書くどころか、専門家と同じ土俵でシミュレーションができるはずがない -
・シミュレーションは「正しければ、面白くなくてもいい」、娯楽小説は「面白ければ、正しくなくてもいい」であり、「2つを同一作品に混ぜることはできない」ことは普通の専門家、作家は理解している
・架空戦記作家は、この絶対的なルールを理解できていないから、専門家、作家の相手にならない
・ところがこれを認めたくない=自分たちのほうが優秀だと思っているから、架空戦記でシミュレーションと娯楽小説を同時に行おうとする
・当初は綻びが見えないが、顕著になってくると「この作品は娯楽小説」、「シミュレーション」とその場を取り繕う
・矛盾が臨界点に達すると、娯楽小説にもシミュレーションにもなっていないことが判明する
・軍事知識などがなくても常識のある読者は早めに逃げるが、知識があっても常識を持ち合わさない読者を道連れになる
・こうして架空戦記は、より少数の読者しか理解できない作品になり、専門家も一般読者も見向きしなくなる -
架空戦記を立て直したいなら、「娯楽小説なのか、シミュレーションなのか」をはっきりさせるのが先決なんだな
シミュレーションをしたいなら、普通の読者を切り捨ててでも専門家の土俵に上がり、そこで自分たちの能力を見せるしかない
ところが架空戦記なんて書く作家、読む読者はチキン揃いwだから、そこまでの度胸はない
それなら「シミュレーションではなく、娯楽小説です」とカミングアウトするしかない
だけど架空戦記の作家、読者はつまらんプライドだけは持っているから、自ら弱みを見せる素直さも持ち合わせていないときたもんだ
自分たちで、自分たちの好きなものを衰退させてるんだな
結局架空戦記を再生する一番の方法とは、作家と読者たちに退場していていただくしかないのだと -
・知恵遅れの同級生を執拗にいじめていた
・あまりのひどさに、他の同級生が止めさせようとそいつをいじめた
・そいつは自分が「何故いじめられているのか」をまったく理解できず、同級生たちを逆恨みしていた
この架空戦記関係者には、決定的なまでに共感が欠落している
よく考えてみれば、架空戦記も「共感」が欠落しているという共通項がある
架空戦記作家や読者は、自分たちが平素小馬鹿にしている他の作家、専門家、読者たちが「どう見ているか」について理解しようとしていない
「知識がない、想像力がない」と他者を切り捨てることで自分たちを高めているつもりだが、専門家より知識はないし、他の作家や読者ほどの常識を持ち合わせていない
自分たちを評価してもらいたいなら、他の作家や専門家にも理解してもらえるよう腐心するはずなのに、それすら理解できていない
共感力が欠落した作家、読者が「俺たちはもっと社会から評価されるべきだ」と集まっているだけなんだよ -
「自己評価ほど頭が良くなく、共感力がない=社会に恨みを持つ」人間って、ある意味カルト集団にとっては絶好のカモなんだな
普段は集金マシンであり、自発的に教義を広げてくれ、有事にはどれだけ死んでも構わない一兵卒として扱える
「戸高一成が、麻原彰晃の師と呼ばれる人物と半世紀以上交際している」、「その人物と、荒巻義雄、檜山良昭も交際している」「荒巻が作中で絶讃した書籍が、オウム機関誌でも使われていた」という事実を鑑みて、架空戦記は「純粋な娯楽小説」と呼ばれるより、「オカルト史観を広めるための娯楽小説」と呼ばれても仕方ないと
著者紹介で「専門家に匹敵する知見の持ち主」とか書かれているが、熱狂的読者を含めて誰1人として見抜けなかったとしたら、てめえらの看板が泣くぞw -
>共感力
自分たちがしていることを、他者からされたらどう感じるのだろうね?
「日本にとってマイナスの要素がプラスになっていたら、真珠湾攻撃はどのように展開していたのか」と故佐藤大輔は書くと、狂信的読者たちは絶讃した
ならば米で「米にとってマイナスの要素がプラスになっていたら、真珠湾攻撃はどのように展開していたのか」という書籍が出されたら、どう反応するかな?
ロジックはまったく同じなのだから、佐藤と同様に絶讃して「理解できない読者たちは頭が悪い」とでもいうのか
「米で売るためなんだから、仕方ないだろう」と納得するのか
少なくとも「不愉快」とか、「シミュレーションとしておかしい」といったリアクションはしてくれるなよw -
同じロジックを、韓国人がどうなのかな?
「韓国にとってマイナスの要素がプラスになっていたら、韓国は日本を植民地にしていたのかも知れない。では、どのように展開していたのかをシミュレーションしてみよう」
佐藤とまったく同じロジックを使って、韓国で売ろうとすれば、当然こんな文章になるはずだ
このシミュレーションを理解できる人は、知的レベルが高いのかな?
自分たちがやられて嫌なことは、他人にもしないだけの話でしょうに
「日本が米にしてもいい」のに、「日本が米韓にされた」ら嫌だと感じるのはおかしいぞと -
「相手が荒唐無稽なシミュレーションをしてきたら、日本はもっと荒唐無稽なシミュレーションを出して応戦すればいい」と反論するなら、それこそ「血を吐きながら続けるマラソン」ってもんでしょうに
現行の架空戦記は、シミュレーションとしての意味がないばかりか、娯楽小説としてもどーなのよってことなんだな
外国が日本を馬鹿にするような小説を出したとき、日本が胸を張って反論するには、日本でもそんな小説を出すのを控えようってことなんだがね
人並み以下の共感力しか持たない読者たちには、何を言っても無駄か? -
>自分たちがしていることを、他者からされたらどう感じるのだろう?
「小中学生時代の架空戦記関係者が、知恵遅れの同級生をいじめる」のは「いい」が、「見るに見かねた他の同級生たちが、関係者をいじめたのは「悪い」
「日本で、米人が読んだら不快になる小説を出す」のは「いい」が、「米韓で、日本人が読んだら不快になる小説を出す」のは「許さない」
これがおかしいと感じない架空戦記の作家、読者には、自分たちが書く、読む架空戦記を他の専門家や作家とその読者が読んで、どう感じるかも理解できないだろうなあ
「歴史のIFを考える」想像力の前に、「周囲が自分(たち)をどう見ているか」という
想像力を養えよ -
>自分たちがしていることを、他者からされたらどう感じるのだろう?
作中の歴史改変も同様
タイムスリップした現代人が、太平洋戦争時代の人間に対して「戦争に勝たせてやる」とお節介を焼くのは、「いいこと」なのか?
いうことを聞かない過去の人間は、「ダメ」なのか?
それこそもし現代日本に未来からタイムスリップしてきた人間が現れ、「中国との戦いの勝ち方を教えてやる」といわれたら、架空戦記の作家や読者は信用してその通り動くのかな?
作家や読者に知識があったとしても、洞察が薄っぺらいんだよね -
>自分たちがしていることを、他者からされたらどう感じるのだろう?
荒巻義雄が、阪神淡路大震災の2ヶ月後に発売した「旭日の艦隊」の作中で「突然神戸で地震が起こった」という展開にしたが、被災地の読者がどう感じるかを考えなかったのか?(荒巻は、被災地に住む筒井康隆氏をはじめとする作家に悔やみの手紙を送ったそうだが)
「小説だから、地震が起きてもいい」というなら、どうして東日本大震災の2ヶ月後には「突然仙台で大地震が起こった小説」を刊行しなかったのだ?
「東日本は自分も被災したから出さないが、阪神淡路はしなかったから出してもいい」というのは、大したご都合主義じゃないか
ウソかホントか荒巻は東日本直後に新シリーズを出す予定だったが、自分が作中で阪神淡路を使った以上、東日本も使わなければならなくなる=非難が来るのを恐れて出さなかったという噂まである
卑怯もここまでくれば芸術だね -
ブクオフに行ってノベルズの棚を見たら、見覚えのあるタイトルがあった
奥付を確認したら「初版2023年11月25日」
その前に寄った大手書店で平積みになっていた本が、売上票付で売られていたのだと
このレーベルのシリーズ、10冊以上ブクオフに並んでいたが
架空戦記が売れているのであれば「やっかんでる」といわれても仕方ないが、ここまで売れてないのだからやっかむどころか、批判的な人間ですら悲しいよな
刊行されて3ヶ月もたたず、誰にも読まれずに古本屋に流れるのだから、もはやつまらないとかそういう段階の問題じゃない
架空戦記が好きな作家、編集者、読者たちが何も手を打たずに死を選ぶのならそれもそれでいいが、それなら史実について語るのは止めてくれ -
>ここまで売れてない
・ブックオフで「架空戦記は買い取りは拒否」(売り値がつかない)
・別のブックオフではワゴンに詰められ「架空戦記大量入荷1冊84円」
・古書市で「紺碧の艦隊、旭日の艦隊全巻セット(60冊強)」2000円
・新刊書店で刊行から半年以内の架空戦記(書店買い取り?)、レジ横で1冊100円セール
これが架空戦記への、社会的な評価なんだ
書いた俺に怒るより前に、「どう対応するか?」を考えるのが先じゃないか?
考えない作家、編集者、読者たちに、戦略なんて語る資格はないよ -
能登の地震が落ち着くまで自粛したが
荒巻義雄が「旭日の艦隊11」で披露した救援部隊の投入は、今回すべて否定されたじゃないか
たしかに「娯楽小説なんだから間違えてもいい」のだが、「間違えてもいい娯楽小説を、シミュレーションと名乗るべきではない」んだよな
ましてやそのような娯楽小説を、被災者が避難所にいる段階で流通してもいいのか?
「小説」はフィクションだが、「その小説を流通させる」のは現実の問題なんだよな
フィクションと現実の区別がついている人は「流通」を止めなければならないのだが、荒巻、当時の中央公論編集者、そして読者は誰も止めなかったじゃないか
おまけに「紺碧、旭日DVDボックス」の特典映像は「東日本大震災で復旧作業に従事する海上自衛隊」だが、紺碧の担当編集者の父親は反自衛隊の演説をした人
自衛隊まで騙していたら、救いがないよ -
>「娯楽小説なんだから間違えてもいい」のだが、「間違えてもいい娯楽小説を、
>シミュレーションと名乗るべきではない」
「架空戦記は間違えてるからダメ」という単純な批判ではなく、多少間違えたり、荒唐無稽でも構わないんだよ
ただ「間違えても許される」という娯楽小説の権利を行使するなら、「面白い娯楽小説を書く」、「「シミュレーションをしてます」とは口にしない」という責任を負いなさいよと
「間違えてもいい娯楽小説」と「正確なシミュレーション」を1つの作品の中で表現するのは無理なんだから、どっちかはっきりせんかい
架空戦記作家ははっきりできないから、「シミュレーションとしては不正確」で「娯楽小説としてはつまらない」という代物しかできないんだ -
>「間違えてもいい娯楽小説」と「正確なシミュレーション」を1つの作品の中で表現するのは無理
娯楽小説家が、娯楽小説のルールに則って娯楽小説を書くのなら、多少間違えても荒唐無稽でも許される
しかし娯楽小説家が「シミュレーションをしています」と口にした段階で、娯楽小説のルール、特権を放棄して、シミュレーションのルールに従うもの
「シミュレーションをしています」と口にしながら、「娯楽小説なんだから間違えても、荒唐無稽でも許される」と言い返すのはおかしいんだよな
またフィクションと現実の区別がついている読者ほど、作家のおかしさを追求するもんだよ
結局架空戦記の作家も読者も、世の中の最低限のルールすら守っていないわけだと -
もはや知識とか描写力とか以前の問題なんだな
霧島那智、志茂田景樹、谷恒生とか火葬、下層戦記と呼ばれる作家たちが、「この程度の知識で、専門家に匹敵するシミュレーションができるとは口にできません」といえば、多少間違えてたり、荒唐無稽の仮想戦記を出しても、読んで不快になる読者は減る
また知識のある作家なら、「自分たちの書いているものはシミュレーションではない」と理解しているはずで、同様に「この作品はシミュレーションとは呼べません」と口にできる
架空戦記作家と読者が引くところを引けば、「娯楽小説としての架空戦記」と「専門家の書くシミュレーション」は、うまく共存できたんだよ
共存できないのは、知識や技量以前の、常識が欠落していたわけだ -
架空戦記作家と読者に常識が欠落しているから、「シミュレーション小説」という半端な名称に拘るし、「シミュレーション小説とシミュレーションとの境界線」、「シミュレーション小説と普通の小説の境界線」を設けようともしない
境界線をつくらないのは、あったら相手の領土に侵攻できないからなんだな
「シミュレーション小説」を「シミュレーション」をすり替えることで、あわよくば自分たちが専門家の座を射止めよう
しかし「専門家としての責任は負いたくない」のだから、「小説」という逃げ道は常に用意しておく
そんなことだからシミュレーション小説は小説としてつまらないし、シミュレーションとして評価を受けることもない
裏を返せばまともな作家、専門家、そして読者は、シミュレーション小説なんて見向きもしないんだな -
>娯楽小説としての架空戦記
「架空戦記は、日本が勝つに決まっているんだ」と豪語した架空戦記の愛好家がいたが、これは「娯楽小説の論理」としては間違いない
しかし「最初から勝つに決まっているシミュレーション」なんて、存在するわけがないw
たとえ日本が負けても、得るものがあれば許されるんだよな
佐藤大輔の「逆転太平洋戦史」でも「日本を勝たせるためのシミュレーション」との記述があったが、結果が決まっているシミュレーションなんて聞いたことがない
「旧日本軍は目標と目的の違いを理解できていなかった」と書いていたはずの人間が、同様かそれ以前の過ちを犯してどうするのだ -
>「最初から勝つに決まっているシミュレーション」なんて、存在するわけがないw
それこそ防衛研究所や統合幕僚監部で、「最初から日本が勝つに決まっている、日米vs中戦のシミュレーション」の研究をやっていたら、どう感じるのだと
佐藤大輔の「逆転太平洋戦史」のように「日本を勝たせるためのシミュレーション」とあって、「日本にとってマイナスの要素が、すべてプラスになっていたらどうなるかのシミュレーション」を、防衛省や自衛隊の幹部が真顔でやっているのか?
知識量とか描写力以前の常識として、するはずがないだろう?
シミュレーションができる人間はもちろん、できなくても常識がある人間なら、シミュレーション小説という言葉が破綻しているのを理解できるんだよ -
架空戦記が「あたかもシミュレーションかのように演出した娯楽小説」だったら、架空戦記の作家、編集者、読者側から見て「ぎりぎりセーフ」
しかし「娯楽小説を、シミュレーションと言い切る」、あるいは「シミュレーションに基づいている」というのは「アウト」だと
架空戦記が好きな側、嫌いな側の双方が納得できる境界線を設けて、その内側で架空戦記が存在するのであれば、批判側も文句をいってはならない
しかし双方が境界線を設けようともせず、架空戦記側は境界線を越えてシミュレーションの領域を侵食しようとするし、批判側にも境界の概念がなく、存在しても許されるところまで批判するから、訳がわからなくなっている
そんなことだから架空戦記側も批判側も、煽っているのが戸高一成の一派であり、歴史偽造運動の影があることにも気付かない
架空戦記の貧相さは、戦史研究の貧相さとリンクしているわけだw -
「私の書いているものはあくまで娯楽小説であり、シミュレーションではありません」
もしくは「私にはシミュレーションをする能力があっても、この小説では使っておりません」
と作家が断言するのであれば、「架空戦記が好き嫌い」以前の問題として、作家には誠意があり、人間としても信用できる
そういう作家たちが架空戦記を書くのであれば、批判や否定したいとは思わないね
「娯楽小説をシミュレーションとすり替えて何が悪い」と居直るような作家は、知識とか技量ではなく、人としてどうなのよ?ってこと
そしてすり替え、居直りを助長する編集者、そういう部分が読み解けない読者が集まれば、必然的にひどい架空戦記しか生み出されないわけで -
「多少荒唐無稽でも、間違えても許される娯楽小説」と「間違いのないシミュレーション」を同じ作品で収めることは不可能でしょ?
作家の知識とか、表現技術以前の問題なんだけどな
「正反対の2つの要素を同時に達成しています」と口にできる作家が、「旧日本軍は2つの戦略目標を同時に達成しようとする愚を犯していた」と批判したって、自分も同じことをやっているんだから説得力がないんだよ
それなら「この作品はシミュレーションではありません、私はシミュレーションをしていません」とカミングアウトしたほうがいい
「シミュレーション」が娯楽小説としての面白さを阻害してるのなら、さっさと切り捨てたほうがトクなのにね
そこまで振り切れない作家たちだから、普通に娯楽小説を書いても、他の作家を凌駕する作品なんて書けるはずがないんだな -
>多少荒唐無稽でも、間違えても許される娯楽小説
娯楽小説に「荒唐無稽、間違いがある」のは問題ないとして、その娯楽小説を「シミュレーション」と名乗る、あるいは「シミュレーションに基づいています」というのは、架空戦記側がアウトだろうに
しかも作家が「この小説を読んで、歴史や国際政治を考えましょう」と口にしたら、精神を疑われても仕方ないぞw
作家が読者に娯楽小説を楽しんでもらいたいなら、「この作品を読んで歴史や政治を考えても意味がありません」と言いきれるだろうし、読者に歴史や政治を考えてもらいたいなら、作品のクオリティを上げるのが先決だと
また「フィクションと現実の区別がついている読者」ほど、寝言を口にする作家に注意できるはずなんだがな
この程度の道理も理解できない作家、編集者、読者しかいないから、架空戦記はどうしようもないわけでw -
「架空戦記は娯楽小説であって、シミュレーションではない」
それなら娯楽小説である架空戦記に、知識量や正確さを求めるべきではない
他の分野の作家と読者、火葬戦記の作家と読者に対して「知識がない」と蔑む理由もなくなる
「架空戦記はシミュレーションであって、娯楽小説ではない」
架空戦記がシミュレーションであるなら、読者たちより優れている専門家が評価するはずだが、まともに相手されていない
そもそも正反対の要素を持つものを、ひとつの作品で表現できるわけがない
どっちつかずになるのは必然で、知識の有無とは関係なく、常識のある読者ほど見向きもしなくなる -
プロレスの比喩があったが、エンタメやショー自体は何も悪くないんだな
ただエンタメ、ショーに「強さ」という要素を求めると、自己否定に陥ってしまう
強さを求めれば競技をする、見ればいいだけのことで、「強さ」と「面白さ」という正反対の要素を同時に表現するのは不可能なのだと
架空戦記がつまらないのは、作家、編集者、読者が不可能なことを求めているからなんだな
エンタメ、ショーに振り切るならそれはそれで尊重されるべきだとして、同時に「シミュレーションはしていません」と正直に語れば済むだけ
それでもガタガタ述べてくる批判派がいれば、正直頭がおかしいw
しかしカミングアウトできないのだから、架空戦記の作家、編集者、読者も反発できる義理などないわけで -
作家が「俺は架空戦記を、最高の娯楽小説として提供します」と口にできるなら、「正確なシミュレーションです」とは絶対に言えないんだな
是非は別として、娯楽小説なんて多少の不正確さが付き物なんだからさ
「正確なシミュレーションを読みたい人は、こんな小説を読んでも意味がないですよ」とまで言い切れるw
専門家とは方向性は違っても対立する必要がないし、避けたほうがトクと理解している
架空戦記作家は振り切れないくせ、「ただの娯楽小説ではない」と無理するから、どうしてもつまらなくなる
自分と作品の価値をあげて相手に認めさせるのではなく、同業者や専門家と敵対し、蹴落とさないと、自分たちの価値を高められない
というかその程度の人間性なんだから、普通の娯楽小説を書いても面白くできるはずがないw -
架空戦記が普通の娯楽小説だとしたら、まず根幹に「ストーリー、人物ドラマ」がある
それを表現するために「歴史改変」が起き、さらに保管するために「史実にはない戦い、兵器」が登場する
架空戦記がこうした構成だったら、改変、戦闘、兵器は補助的な存在なのだから、多少知識がない読者でも読むことはできる
「架空戦記はすべてダメ」と一律に批判するのではなく、こっちの方向に進むのは「あり」なんだよな
ところが架空戦記は、最初に「史実にはない戦い、兵器」があって、それを起こすために改変が行われ、最後に「ストーリー、ドラマ」をつくるから、普通の小説とは構成が反対なんだわ -
重厚なストーリー、ドラマがあれば、改変、戦闘、兵器は最小限でも小説は成立できる
架空戦記は改編、戦闘、兵器が主でストーリー、ドラマが従だから、小説として薄っぺらいんだな
紺碧の艦隊を例にすれば、主人公たちが改変を行うのと平行して、「どうして改変せねばならないのか」「なぜ同じ志を持った人間ばかり集まったのか」という作品世界を紐解いていくべきなんだな
荒巻義雄はこの部分を飛ばして「改変だ」と騒いだものだから、壮大な作品世界が単調で広がりも重みもなくなった
檜山良昭以降は「とにかくこうなったんだ」で押し切り、「同調できないなら読むな」となったわけだから、小説を読み慣れた読者ほど架空戦記を見限って離れたわけだ -
>紺碧の艦隊を例にすれば
古い読者数名は「こんな作品を出していたら、名声に傷がつきますよ」と荒巻を諫めたのだが、荒巻は耳を傾けるどころか切り捨てたんだよな
反対に自分と作品を賞賛する新しい、小説を読み慣れていない読者にターゲットを移した
それはそれでいいんだが、作中などで「旧日本軍はイエスマンばかり集めたから失敗した」「耳の痛い忠告は受け入れねばならない」と書いているのに、自分は批判している対象と同じことをしているのに気付いていない
ジリ貧からドカ貧になったのは、当然だとw -
>架空戦記は小説として薄っぺらい
野平俊水(水野俊平)の「韓国・反日小説の書き方」で、韓国の軍オタが書いた日韓が戦う架空戦記が紹介されていた
兵器なとの描写はやたら細かいのに、登場人物が「どうして日本と戦っているのですか」と話すシーンがあったとかw
普通ならまず「ストーリー、ドラマ」を最初に考え、次に「日韓が戦う理由」をつくり、最後に戦闘、兵器の描写となるはずなんだが
架空戦記(を書く人間の脳みそ)の構造は、世界共通なんだよなw
やっぱり「架空戦記がつまらない」のではなく、「架空戦記を書く(読む)人間がつまらない」んだよなあ -
>普通の小説とは構成が反対
>小説として薄っぺらい
つまりストーリーやドラマを構築できない作家ほど、架空戦記に適した作家はいないw
知識や描写とかは関係なく、ただただ一般読者には読めない、魅力がないだけなんだと
また一般読者に読んでもらいたい作家も、架空戦記を避けるってことだな
「知識がないから、普通の読者は読めない」と架空戦記の読者は言いたがるが、知識がある専門家も架空戦記には見向きもしないという現実から目を背けている
読者は作品だけではなく、周辺すら「読んでいない」んだよ -
普通の思考をした作家、読者だったら、「じゃあどうすれば、一般の読者に架空戦記を読んでもらえるか」、「自分たちが引き下がるところはあるのか」と考えるはず
架空戦記が嫌いな人を含めて、どこが問題なのかを突き詰め、逐一改善すればいいんだよな
やるだけやって失敗したって、誰も責めない
ところが作品とは正反対で、そこまで打って出る度胸、能力のある作家、編集者はいない
固定読者だけを相手にして相互承認をしあったところで、現状のジリ貧は打開できないのにね
そんな作家、編集者、読者が「高度な戦略」「一般人には理解できない」と口にするのだから、読んでいると恥ずかしくなるんだよw
架空戦記に関わるのは一般人以下なんだから、「一般人には理解できない」だけなんだわ -
>どうすれば、一般の読者に架空戦記を読んでもらえるか
故佐藤大輔が「逆転太平洋戦史」で用いたロジックを当てはめれば、架空戦記の異常性が際立つ
「現状で架空戦記は売れていない」のだから、普通の人は「どうすれば売れるのか」を考えるはず
ところが佐藤が使った論法は「マイナスの要素がプラスになっていたらどうなっていたか」であって、「架空戦記が売れる状況が整っていたらどうなるか」なんだな
つまり佐藤の論理は「架空戦記が売れる状況」なら使えるし、正しいのかも知れないが、「売れない状況」では何の意味もないわけだ
たとえ佐藤や読者に知識や表現(読解)力があったとしても、それらとは異なる部分で致命的な失策を起こしていると
これでは知識、表現力に問題のある霧島那智、志茂田景樹と大差はない -
「憲法9条の精神が世界中に広まれば、戦争はなくなる」のかもしれない
しかし憲法9条論者は「どうやって広めるか」という部分がおかしいから、精神は国内ですら広まらないわけだ
佐藤と信者の論理論法も似たようなものなんだな
「マイナスの要素がプラスになっていたら、太平洋戦争は逆転した」のかもしれないし、展開を予測した佐藤のシミュレーションも正しいのかも知れない
また佐藤の読者も「どこが間違えているのか、いってみろ」と息巻く
問題はそこではなく、「どうやったらその状況ができるのか」なのだが、そこを指摘すると「フィクションだろ」と口にする
「フィクションだから成立する設定をどれだけ緻密にシミュレーションしようが、意味がない」んだけどねw -
>フィクションだから成立する設定をどれだけ緻密にシミュレーションしようが、意味がない
普通のシミュレーションは「起こる確率が高い」ことから考えるので、どうしても大きな転換にはなりにくい
対して大きな転換が必要なフィクションでは、「起こる確率が低い」ことを考えるのは致し方ない
「起こる確率が低い」状況設定の小説に細かい専門知識や描写を入れるのはまだ許されるとして、「その小説をシミュレーションと呼んでもいいか?」「書く作家(読む読者)がシミュレーションを理解しているのか」は別問題なんだよ
佐藤ほどの知識、表現力のある作家、「佐藤を理解できる」と自負している信者なら、このぐらい理解していないとおかしいのだが -
架空戦記の発端となったのが荒巻義雄、檜山良昭というのも悲劇だったんだな
是非はともかく荒巻は膨大な知識は持っているとして、深みや重みはない
ニューウェーブSFにはじまって通俗推理、アクションと手を出すが、これといって代表作もなかった
対して檜山は歴史学会の異端、未練派の信奉者で指導教官と対立し、学者への道が閉ざされた
ふたりとも世の中、主流派に対する恨み辛みの塊で、架空戦記でその解消をしようとしたんだな
その意味で、「リアルなろう系作家」の魁だったわけでw
恨み辛みがテンプレになって、知識の有無は関係なく、共感できる読者だけが残って、できない読者は去って行ったと
「シミュレーション」でもないし、「普通の娯楽小説」でもないものができたんだな -
>フィクションだから成立する設定をどれだけ緻密にシミュレーションしようが、意味がない
「フィクションだから多少間違えてもいい」なら、佐藤大輔のファンは霧島那智、志茂田景樹を批判することはできなくなる
なにより「多少間違えてもいいフィクション」なのだから、「正確なシミュレーションに基づく必要もない」わけだ
それこそ佐藤であれ、霧島、志茂田であれ、「多少間違えてもいいフィクション」を書こうとする段階で「正確なシミュレーション」はしていないし、そこは誰も責められない
だからこそ「シミュレーションはしていません」と申告すれば許されるのに、全員「シミュレーションをしています」と口にするから話がおかしくなる
知識とか描写力とか、そういう問題以前なんだよな -
>「リアルなろう系作家」の魁
「架空戦記という娯楽小説が悪い」のではなく、「架空戦記を、品質の高い娯楽小説にしようとしなかったのが悪い」んだな
荒巻、檜山をはじめとする架空戦記作家たちは「品質を上げられない」から、「シミュレーション」という別のことをしていると、話をすり替えて主流派に勝とうとした
編集者、便乗した作家、驚喜した読者も、みんなそれに乗っかかったんだな
ところがそういう姑息な手段を弄するからこそ、彼らは「主流になれなかった」わけだと
娯楽小説に自信や誇りを持つ作家は「シミュレーションをしていない、できない」と胸を張れるが、持ってない作家ほど「している、できる」といいたがるという逆説に落ち込む
これが「つまらない」理由なのだろう -
「品質の高い娯楽小説」であれば、「多少のミス、不正確、ご都合主義な展開」も許される
架空戦記も、ここを目指せば良かったのよ
ところが「品質の高い娯楽小説」を書けない作家たちが架空戦記に集まり、自己正当化を図るために他の作家たちを追い落とそうとした
自分たちを普通の娯楽小説とは異なる、「ミス、不正確、ご都合主義な展開のないシミュレーションができる作家」として売り出そうとしたんだな
「いい娯楽小説が書ける、書けない」と「いいシミュレーションができる、できない」は別の問題なのに、すり替えたわけだ
このすり替えに気付かない読者ほど「新しい小説」「理解できる読者は優秀」と煽てられ、いい気になったと -
>品質の高い娯楽小説
架空戦記作家の大半 普通の作家を追い落とす手段
初期の架空戦記作家 陰謀論を広める手段
編集者 ともかく売れればいい
熱狂的な読者 自分たちの価値観に合致するもの
狂信的批判派 架空戦記が良くなる必要などない
普通の作家、読者 興味なし
みんながみんな方向性がバラバラだから、よくなるはずがないんだな
一番穏健で建設的なはずの「欠点を見つめて改善して、普通の娯楽小説にしましょう」という意見を述べると、敵視されて集中砲火を浴びせられると -
文藝春秋2024年5月号
・「私は学歴詐称工作に加担してしまった」
・大座談会 昭和海軍に見る日本型エリート 戸高一成
文藝春秋は都知事の学歴詐称は許さないが、歴史偽造書を出す目的の出版社から著書を3冊刊行した経歴を伏せたまま歴史博物館館長に転職した人物には不問なんだな
そのうえその館長を売り出したのは文藝春秋元編集長で重役だったわけで、編集長のお目々も節穴だったわけだ -
>歴史偽造書を出す目的の出版社
八幡書店社長武田洋一(崇元)と架空戦記の接点
・編集長を務めたオカルト雑誌「地球ロマン」の愛読者が荒巻義雄
・編集長を務めたオカルト雑誌「迷宮」2号に寄稿したのが檜山良昭
・「迷宮」3号に連載予告が掲載されたのが戸高一成=日向仁
・学研が架空戦記を出した際の編集総責任者の太田雅男は、武田の指示でオカルト雑誌刊行の企画書を上層部に提出したことムーが創刊(武田は編集顧問)
・武田と親交があった竹下一郎が大陸書房を創立し、武田は別名義で「日本のピラミッド」、「日本の宇宙人遺跡」を刊行
業績悪化で廣済堂出版の傘下に入り、ノベルスに参入した際に出入りしていたのが佐藤大輔 -
・80年頃から八幡書店に出入りしていたのが、オウム真理教教祖の麻原彰晃=松本智津夫死刑囚
・荒巻が「紺碧の艦隊4」で紹介した、米の反社会的極右団体が刊行した「操られたルーズベルト」のは、オウム機関誌でも参考資料とされている
・ルーズベルト陰謀論者には柘植久慶、戸高との共著の多い原勝洋もいる
・太田がムー創刊時の副編集長だった時期に、戸高の寄稿が掲載
・太田は一時期ムーを離れ、編集長として復帰した期間に「空中浮遊」を含めた麻原の寄稿が掲載
・荒巻が「紺碧4」で紹介した「広島、長崎の原爆投下は人体実験」説を最初に述べたのは、武田の親友でもあるベ平連活動家の太田龍
・太田の説を紹介したのは有名な平和運動家である芝田進午広島大学名誉教授で、息子が荒巻の担当編集者 -
こういうつながりが見えてくると架空戦記は楽しめないし、読めないんだな
「脳みそを空っぽにして楽しめる娯楽小説」であればこそ、「作中にバイアスのかかった歴史観を混ぜない」のがマナーってもんだよ
ここは「面白い、つまらない」という価値観の問題ではなく、「してはならない」という職業倫理の問題になんだな
飲食店員が手を洗わずに調理しているようなもんだ
架空戦記に参入した作家、楽しめる読者は、ここまで読み解いたかな?
読み解けもしなかった連中が、高度なシミュレーションはもちろん、多くの人が納得でくる小説を書く、読むなんでできるはずがない
というか「架空戦記が好き」といいたい連中ほど、この問題は深刻に受け止めるべきなんだがな -
>>721 個人情報ではなく、公的に開示されている情報として
戸高が厚生省傘下の昭和館に転籍したのが94~97年頃
オウムの地下鉄サリン事件は95年3月20日で、自分の上司には「オウムの麻原が出入りしていた出版社から82年、85年に著書を刊行していました」と報告するのがスジなんだな
また01年に3冊目を刊行する際にも、やはり報告するのが社会通念というもの
戸高は2回とも、報告は怠っていたのだろう
無論大和ミュージアム館長予定者に内定し、呉市に転籍する際の職務経歴書にも書くべきであって、呉市に提出していれば問題はない
ところがまともな自治体なら、歴史偽造書を主とする書籍を出すばかりか、国家テロとも関係のある出版社とつながりのある人物を、歴史博物館館長に選定するはずがない
以上から、戸高は「呉市に対して正確な職務報告をしたとは考えられない」ことになる -
>戸高は2回とも報告は怠っていた
もし戸高が、昭和館への転籍の際に「オウムの麻原が出入りしていた出版社から82年、85年に著書を刊行していました」と申告していれば、軽い譴責で済んでいたはず
そして在籍中の01年の著作は刊行されなかっただろう
しかし01年に著作が刊行されているのだから、転籍時、01年に「報告しなかった」と推測される
呉市への報告は「3度目」だから、当然「なかった」のだろうな
戸高の著作や発言、大和ミュージアムの信憑性は地に落ちたも同然だし、来館者、支援者、そして大和乗員をはじめとする全戦没者の信頼も裏切ったことになる
戸高の愛弟子である大木毅、吉田親司、松田孝宏、架空戦記批判をしていた神立尚紀などは、隣にいても気付かなかったのかな? -
武田崇元の奥さんは大本教教祖出口和仁三郎の孫で、二人の間にできた息子は中核派系の法政大文化連盟の活動家
(荒巻義雄、佐治芳彦の出身地である小樽には有名な大本教信者がいて、名前は艦隊シリーズの重要キャラと同じ「大高」だったりする」)
また武田は80年代オカルトブームの黒幕としても有名で、日本に騒乱を起こす目的でオカルト史観を広めるためにSF小説、コミック、アニメとの積極的なコラボを行っていた
大陸書房をはじめ、ノベルを出していた出版社と接点があったと考えられる
また荒巻が出した「帝国の光」ではイロハ以前にあったとされる古代文字が登場するが、八幡書店から解説書が出ているし、さほど評判にならなかった「アトランティス大戦」の舞台についての本も刊行している
荒巻は、武田=八幡書店のパブリシティをしていた可能性すらあるわけだ
架空戦記とは、一見「娯楽小説」のような振りをして、読者に誤った歴史観を植え付けようとしていたことまで考えられるんだよな
もっとも架空戦記の作家、読者なんて、使い捨てされる程度の扱いなんだがw -
〉脳味噌を空っぽにして楽しめる娯楽小説
ここまで振り切るには、中途半端なシミュレーションや歴史改変なんて不要なんだな
実在の国家や史実の人物を登場させる必要すらない
「1940年代の科学技術を持った、架空の文明の国同士の戦い」というファンタジーにしてしまえば、何も問題はないんだよ
3層式の空母、10万トンの戦艦、潜水戦艦でもなんでも出せばいいさw
これだけのフィクションを構築できる作家は「シミュレーションをしています」という言葉の虚しさまで理解できるし、他の作家や専門家を挑発するような愚も犯さない
やっぱり「架空戦記が悪い」んじゃなくて、ダメな作家、編集者、読者が集まったからダメなんだな -
別に架空戦記が好きでもいいんだよ
しかし問題が発覚したら、作家や編集者はもちろん、読者も善処、改善していかなけばならない
率先してそれだけのことをすりゃいいだけだし、それができりゃ、「好き嫌い」ではなくて評価してもいい
ところが作家、編集者、読者は何を見てたんだか
ブーム初期の作家たちと歴史偽造勢力に接点があったこと、荒巻の担当編集者の父親が共産党系の平和運動家だったことに、20年以上気づかなかったんだからな
問題が見えないうえ、改善する意思も見せないなんて、旧日本軍首脳部顔負けのいい加減さじゃないか
目先の問題に手を打てない連中に、戦略なんて語る資格はない
つーか、お前らみたいな人間のクズが旧日本軍首脳部に揃っていたんだよ -
公務員には職務専念義務があるから、国公立大学の教員が書籍を刊行する際には許可をとらなければならない
昭和館職員が公務員服務規程に触れるかどうかはわからんけど、国家テロの首謀者が出入りしていた出版社から書籍を刊行するばかりか、経営参画していた会社の権利を譲っていたってことは上司に報告するものだろうに
83、85年に戸高がオカルト本を出していたのは仕方ないとして、01年の本が刊行されたのはおかしい
報告していたら、昭和館は認めなかったはずだ
戸高は報告する機会は2度あったのに、2度ともスルーしたんだな
呉市への転籍は3度目だったのに、それすらしなかったと考えるのが妥当
館長のポストを用意してくれた呉市への恩義を裏切っていたんだ
そんな人間が、旧日本軍首脳部の愚を追求できるのか?
そして戸高が関与していた架空戦記が、まともなものになれるのかと? -
〉呉市への恩義を裏切っていた
零戦修復費、回天購入の疑惑も、あながちガセではなさそうなんだよな
戸高は史料調査会在籍時代にも部外貸し出し禁止の史料を無断で刊行し、印税を着服していたばかりか、複数の旧海軍将官が「薄給しか出せなかった我々にも責任があり、未来を閉ざしては可哀想」と庇ってくれた恩義まで裏切ってた
よくもまあ、まともな歴史家のふりができるものだ
師の福井静夫も、終戦のドタバタの際に佐世保で軍艦の図面を私物化し、戦後防衛省に返還しなかったうえ、出版社に貸し出しして小遣い稼ぎをしたって評判だ
戸高は福井に取りいったから、出版社もアンタッチャブルの扱いにしてしまい、つけ上がったんだろう
戸高を必要以上に持ち上げたから、舎弟たちはもちろん、出版社や同業者がオカルトと関係していたのも見抜けなかったし、関与していた架空戦記にもブレーキをかけなかったのだろうな
旧日本軍首脳部を批判したがる連中ほど、同じような過ちを犯していたとw -
本当に架空戦記が好きな作家や読者がいれば、まず「オカルト、陰謀論と手を切れ」っていうはず
それが架空戦記再生の第一歩なんだな
ところが接点に気がつかなかったばかりか、そういう当然の声すら起きない
その程度の作家、読者しか集まらない小説を、どうして一般人が読むんだ?
もはや知識の有無以前の問題で、作家と読者に常識がなく、一般人を惹きつける魅力もないんだ
「ただの娯楽小説ではない」といっているが、実態は「ただの娯楽小説以下」ってことだ
転生した世界を改変する前に、現実を少し改善したら?
そして「架空戦記を、普通の娯楽小説」にしたらどうだ? -
〉職務専念義務
戸高が架空戦記作家「日向仁」として活動していた期間は1994年2月から2000年11月まで
史料調査会離脱から昭和館の勤務までにすべての執筆作業を終えていたら問題はないが、やはり刊行するには昭和館の上司に報告する義務はあるだろう
戸高が「日向仁」としての報告をしていれば、小説の内容云々はともかく一応スジは通している
報告をしていないようなら、01年に「戸高一成 編纂」で刊行したオカルト本の報告なんかしていないだろうな
ましてや架空戦記はベストセラーズで、一応信用のある出版社だが、オカルト本を出した八幡書店にはオウムの麻原が出入りし、創業社長も任意聴取を受けたんだから、報告なんてできる訳もないがなw -
昭和館在勤時代の戸高が日向仁名義の架空戦記、01年に刊行したオカルト本を刊行することを上司、総務に報告していれば、戸高は報告義務を満たしている
しかしそれなら、オカルト本の刊行は止められていたはずだ
架空戦記もオカルト本も報告しなかったなら、完全に専念義務違反だな
架空戦記刊行は報告したが、オカルト本の報告をしていなければ、虚偽の報告をしたことになる
おそらく双方の報告はしたが、オカルト本の版元などについては正確なことを書かなかったのではないか
国家テロの首謀者が出入りし、東京地検特捜部から任意聴取を受けた創業社長と15年ほど親交があり、自分が雇われ社長だった出版社の権利を譲渡したと正直に書けば、賞罰こそつかないが、譴責は受けていただろうに
図書情報部長が歴史偽造書を数多く出す出版社と繋がりがあれば、昭和館の信用まで落ちるんだからな
無論呉市に提出した職務経歴書にも、都合の悪いことは伏せていたのだろう
自分個人はともかく、史料調査会、昭和館、呉市と大和ミュージアムの信用を下げてどうするのだと? -
架空戦記の作家、編集者、読者は、架空戦記の背景などを洞察しなかったのだろうな
「仕事がある、作家になれる」、「売れそう」、「面白い」と目先の事象に飛びついた
「なんか変だな、おかしいぞ」とは気が回らなかったんだろう
「紺碧の艦隊」の初期、史実の説明の部分に荒巻の自説が紛れ込むようになって、「おかしい」が疑念から確信になった
「小説の世界内の説明」、作家と読者の共通認識としての「史実の説明」は必須だとして、「作家の歴史観による説明」は存在しないほうが作品としてすっきりする
「なぜ荒巻が入れたのか、編集者が削除しなかったのか」がずっと引っかかっていたが、オカルト人脈と編集者の父親が共産党系の平和運動家が判明して納得できた
はじめから「読者が安心して楽しめる娯楽小説」を提供する気なんてなかったんだ -
〉読者が安心して楽しめる娯楽小説
兵器のスペックの間違いやご都合主義的な展開は、実は重要な問題ではない
一見楽しそうな展開のなかに、「史実の説明」のなかに出どころが不明瞭な「自説」=陰謀論を混ぜ込むから、よほど注意深い読者じゃないと、何がなんだかわからなくなる
おまけに「この作品は普通の娯楽ではない」「作家は知識、危機感がない」「専門家には想像力がない」と言い切り、「(この作品の)読者は向学心がある」と煽てる(オカルトや学生運動で勧誘のために用いられる手法)と、並の読者は悪い気はしないし、ますます傾倒する
最後に「間違えたら、読者の自己責任」と布石を打てば、自分たちは逃げ切れるって寸法だ
作家と編集者が読者を誤った方向に誘導しておいて、梯子を外してしまうんだな
ここまで見切ったら、架空戦記は「面白い、つまらない」「好き、嫌い」ではなく、「読めない」んだ
読者=お金を払って下さるお客様を、騙してどうするんだよ -
〉読者=お金を払って下さるお客様を騙してどうする
作家は、読者に心地よい嘘を提供しても、「誤った方向、思想に誘導しない」のが絶対条件だ
ルーズベルト陰謀論や原爆投下人体実験説などは、歴史研究者でも評価し辛いものなんだから、軽々しく触れないのが普通の娯楽小説家のマナーなんだがな
その一線を越えた段階で、架空戦記は「面白い、つまらない」「正しい、間違い」「好き、嫌い」以前の「安心できない娯楽小説」に堕してしまった
俺も架空戦記の読者はバカ揃いだと思うがw、だからといって「読者に安心できない娯楽小説を提供してもいいか」=「読者を騙してもいいのか」は別問題
自分が盾になって読者、お客様を守るのが作家の社会的責任ってものだろうに
ところが架空戦記の読者は真性のバカが揃っているからw、「自分たちを守ろう」とする人間より、「騙そう」とする作家に靡くんだよな -
〉自分が盾になって読者、お客様を守るのが作家の社会的責任
だからこそ架空戦記が普通の娯楽小説なら、作家は胸を張って「私はシミュレーションができません」、「私はシミュレーションができますが、この作品ではしておりません」と正直に申告すべきなんだわ
娯楽小説なんだから、演出上多少の間違いも必要不可欠だし、その部分の責任は作家が負う
しかしその娯楽小説をシミュレーションだと勘違いしたら、読者が責任を負いなさいとね
責任、役割の分担をはっきりさせて、みんなで楽しめばいいのさw
ところが架空戦記は「娯楽小説なのに、「シミュレーション」とすり替える」、「途中で出どころの怪しい説を混ぜ込む」うえに、「間違えたら読者の自己責任=作家が負うべき責任を読者に丸投げする」のだから、人並みの常識と読解力を持ち合わせた読者には「安心して読めない」んだよな -
武田崇元=八幡書店の方向性は偽史=デマを広めることで読者に「史実」を疑わせ、専門家の貶めることで、ゆくゆくは社会騒乱につなげようとするもの
「オカルトが悪い」んじゃなく、「オカルトを悪く使ってる」んだな
戸高一成、荒巻義雄、檜山良昭、佐治芳彦といった架空戦記作家と武田に接点がある以上、架空戦記も同じように使われていると考えてもおかしくはない
作家に面白おかしい小説を書かせる→シミュレーションなのか娯楽小説なのかをはっきりさせないくせ、ところどころに出どころの怪しい説を混ぜさせる→「専門家なんて知識があるだけで、想像力はない」と貶めつつ、「読者は向学心がある」と煽てる→読者にフィクションと現実、史実を混乱させるよう誘導しているのに、「混乱したら、読者の自己責任」と責任を丸投げして自分たちは逃げる
八幡書店のオカルト本で用いている手法のアレンジ版を、架空戦記で使ってるってことだ
結局「架空戦記は悪くない」が、「架空戦記を悪く使ってる」んだよな -
武田崇元=八幡書店とつなげりのある初期の架空戦記(作家)に疑いを持たない作家が次々と参入するとともに、一部の読者を作家としてデビューさせた
無論知識、表現力の有無とは別に、全員背後関係を見抜けなかったか、気づいても「黙ってたほうが自分のトク」と口をつぐんだ訳だ
「歴史偽造→偽史、陰謀論→架空戦記」という流れが公にならないまま、ブームを迎えたと
ここまでは大成功だったが、95年に突発的な事態が発生した
武田、八幡書店の手法をさらに先鋭化したオウム(麻原彰晃=松本智津夫)がテロを起こしたことで、武田が東京地検特捜部から任意聴取を受けたことで、数年間活動を停止
同時期に戸高も昭和館に移籍したことで全体を管理する人間がいなくなるとともに、知識や表現力のない作家たちまで参入したために質的低下を招き、一部の読者以外は見向きもしなくなったんだな
ともあれ背後関係を読み解く人間がいなかったので、架空戦記を使って歴史偽造、陰謀論を広めることに一定の成功をしたと思われた -
とくに戸高は半藤一利などとのコネができ、大和ミュージアム館長の座を射止めたことで「まともな歴史家」と社会的に認知されたのだから、オカルト、架空戦記との関係を黒歴史として葬りさりたかった
昭和館、呉市に「正確な記述をしていない職務報告書」を提出し、弟子たちに架空戦記を任せて出させつつ、他の場所では「あんなものを読んでるようでは」としたり顔で苦言を呈するという2股というか、姑息で分裂症的な手を打ったんだな
呉市、大和ミュージアムの来館者と関係者、そして架空戦記の作家や読者、批判的な戦記愛好者の全員をバカにした言動をとった訳だ
ここまで来ると戸高は歴史家以前に、人としてどうなのかって問題だ
そして戸高のおかしさを指摘できなかった架空戦記関係者と戦史関係者の双方も、人並みの洞察力があるのかと
旧日本軍の組織的欠陥を批判する前に、まず自分たちの無力さを呪えよ
批判する人間も含め、架空戦記の周辺にはまともな人間がいなかったのだから、「普通の娯楽小説」になれなかったんだな -
>架空戦記関係者と戦史関係者の双方も人並みの洞察力があるのか
「娯楽小説として許される間違い」と「許されない間違い」の2つがあるんだな
小説を盛り上げるための必要悪的な間違いもあるし、一時的な記憶違いというボーンヘッドもある
しかし架空戦記で本当に問われなければならないのは、「読者を意図的な方向に誘導するため、用いられたと思われる間違い」なんだよな
架空戦記の作家、編集者、読者たちは「小説だから間違えてもいいじゃないか」という態度だし、反架空戦記の側は前者のミスは追求するくせ、後者は意外と見逃している
どちらも問題の本質を理解していないと
だからこそ誰も架空戦記の背後にオカルト、偽史、陰謀論などの人脈が隠れていたのを気付かなかったわけで -
〉戸田は歴史家以前に人としてどうなのか
「日向仁」として架空戦記を書いてたこと事態、何も悪くない
しかし「戸高一成」として、架空戦記を批判するのはどうなのか?
半藤一利や秦郁彦との共著で、半藤と秦が架空戦記を批判していたのを、どんな顔で見ていたのだろう
「専門家の戸高一成」と「架空戦記作家の日向仁」という2つの人格を使い分けているようで、不気味だ
というか「専門家の戸高一成」だからこそ、シミュレーションと娯楽小説の区別、境界線を提示してくれればいいのだが、それをしないのだから、他の架空戦記作家たちとどう違うのだと
こういうところが、架空戦記の胡散臭さなんだよな
知識とか表現力以前に、「できないこと、してはならないこと」を明示するのが責任ある作家であり専門家なんだが、架空戦記作家は明示しないし、編集者や読者はおろか、批判派ですら指摘しない
質的向上をして読者が増えれば何も問題はないのに、全員がそこから逃げている -
〉「専門家の戸高一成」と「架空戦記作家の日向仁」という2つの人格を使い分けている
日向仁の活動期間は史料調査会退所後、昭和館勤務の初期だから、前者への報告義務はないが、後者にはある
ただ昭和館に報告したか否かは不明
報告していれば何の問題もないが、史料調査会の理事、司書が荒唐無稽な娯楽小説を書いていたら、上司も同僚もいい気はしないな
反対に昭和館での立場を固めるなら「日向仁」としての活動は伏せていたほうがいいが、それでは報告義務に抵触する
戸高の言動って二重人格というか、サイコパス的なんだよな
しかし何より、架空戦記って、そこまで恥ずかしい小説なのかよ?
架空戦記が「普通の娯楽小説」なら隠す必要なんてないし、胸張っていればいいじゃね?
架空戦記ブームの裏で動いていた人が、ことさら架空戦記との接点を隠そうとするのは、どう考えてもおかしい -
〉質的向上ををして読者が増えれば何も問題はない
架空戦記作家、編集者、読者の言い分は「俺たちが面白いと思うものがいいもの」だから、「一般読者は俺たちに合わせろ」という思い上がった考え
「普通の娯楽小説」であればまず一般読者に合わせるもので、その中に熱狂的な読者がいるものだが
そういう意味で、架空戦記は「普通の娯楽小説」とは違うんだな
対して批判的な読者は「嫌いなんだから、質的向上なんてしなくてもいい」という、これはこれでおかしな考え
両者は対立しているようで、実は話が噛み合っていないだけだと
「架空戦記が娯楽小説なら娯楽小説でいいが、ではどうすれば良くなるのか」という建設的な方向に向けようとする人がいれば、なぜか対立しているはずの両者が手を組んで抹殺しようとするw
そんな人たちだから、架空戦記も戦史研究も一般人は見向きもしないんだが -
〉戸高の言動って二重人格というか、サイコパス的
自分も架空戦記を書いてたくせに、「あんなものを読んでいるようでは」とどういう心理で吐き捨てられたのだろう
また架空戦記に批判的なことを書いた半藤一利、秦郁彦、神立尚紀などの前で、どんな顔をしていたのだろう
他方大木毅、吉田親司、松田孝宏らを架空戦記を出していた出版社、編集者に、どんな顔で紹介したのだろう
平然と正反対の言動ができるのだから人として信用できないし、著書や発言なども信用できなくなった
オカルト、歴史偽造以前の段階で、怖いというか不気味だ
そして半藤、秦、神立と大木、吉田、松田の立場は違うが、誰一人として戸高とオカルト、歴史偽造の関係は見破れなかったのかな
揃いも揃ってというかこの人たちの人を見る目、洞察力もまったく信用できない
架空戦記を書く側も書く側だが、批判する側も批判する側だ -
〉どんな顔をしていた
半藤、秦はともかく、神立、大木、吉田、松田といった面々は、戸高とオカルト、歴史偽造との関係が暴露されたことを知っているはず
大将が背信行為をしていたのを知って、どんな顔をしたんだろう?
戸高は一方で歴史偽造の一環として専門家の地位を貶めていたのに、他方で自分たちを専門家として売り込んでくれた
つまり彼らが専門家になったということは、それだけ専門家の地位が下がったことでもある
ガッチャマンの第一期の最終話だったかな。大ボスの命令で中ボスが地球を破壊するミサイルをセットしたとき、「はて、地球が破壊されてしまったら、私はどこを征服するのだろう?」と呟くシーンがあったが、それと相似なんだよな
彼らが専門家になれたのはもともと歴史偽造勢力が行なっていた専門家追い落とし工作の一部であって、専門家になれたと得意満面な彼らは、そこまで専門家の地位が落ちたという象徴でもなのだが
そして架空戦記肯定、批判の双方ともに洞察力皆無の連中が専門家の末席を占められたのは、歴史偽造勢力が勝利したってことまで意味する -
大木、吉田、松田、そして神立は戸高のケツ持ちをしたことで出版社などを紹介してもらい、専門家になれたと喜んでいるだろう
ところが歴史偽造勢力の真の狙いとは質の高い専門家を追い落とし、その座に質の低い人間を据えることで、一般人に誤情報を与え、ゆくゆくは社会騒乱につなげようというもの
ガッチャマンの中ボスと同じで、大ボスから統治を任されていたはずの土地を、知らず知らずの間に破壊する手助けをしていたと
つまり彼らは一見勝利したようだが、実態は何の意味もなかったんだな
何より質の高い人間なら、いずれ戸高と歴史偽造勢力との接点に気付くだろうから、戸高は気付きそうにないほど愚かで、仮に察知したとしても忠誠を誓いそうな人間を可愛がっていたわけだ
ここまでくれば馬鹿馬鹿しいを通り越して、もはや哀れ極まりない連中だな -
小学校時代に知恵遅れの同級生を執拗に虐めまくり、他の同級生たちが「自分が虐められたらどう考えるのか」と虐められたのに、その意味を察せずに同級生たちをずっと恨んでいたという架空戦記関係者の某
架空戦記作家と読者の集いで、読者から「架空戦記批判をどう捉えているのか」と尋ねられると、得意満面の顔で「架空戦記作家になれなかったヤツの僻み、逆恨みです」と答えたそうだがw
その架空戦記作家たちは、歴史偽造勢力のパシリをさせられていたんだがな
というか同級生たち=社会をずっと恨んでいた自分を含め、パシリになりそうな連中ほど架空戦記作家として抜擢されたんだが
自分を引き立ててくれた戸高は架空戦記との縁を少しずつ切ることで「普通の歴史研究家」に転身し、架空戦記の責任を実情を知らなかった自分たちに負わせようとしているのに、気付いていないのだろうな
つまり戸高が架空戦記作家に引き立てなかった人間ほど社会に恨みを抱いておらず、能力も高かったということだよ -
専門家であるはずの戸高が、別に架空戦記と関与しててもいいんだよ
しかしそれなら、戸高が率先して架空戦記の質的向上を図っているもの
架空戦記が荒唐無稽な娯楽小説であってもいいとして、荒唐無稽な娯楽小説=架空戦記をシミュレーションと言い換えるのを許すのは、専門家の地位を下げているのと同じなんだからな
自分がいるべき立場が貶められているのを見て、戸高が何も手を打たなかったのはおかしい
ましてや架空戦記作家に忠告できる地位にいるのにさ
そうやって架空戦記で専門家を貶めておきながら、専門家の集まりでは一緒になって架空戦記に苦言を呈するのだから、やはり戸高の言動は二重人格、サイコパス的なんだよな -
〉社会をずっと恨んでいた
架空戦記に共鳴するのは社会に恨みを抱く作家であり、読者なんだよな
自分たちが社会の中心に立てないのを、能力や人としての器の違いと認められないから、「改変する小説」で自分たちがトップに立とうとする
実力不足だったら、素直に「努力、改善しよう」とは思えないんだ
なろう系と同じで、「自分たちに優しい=都合のいい世界」なら自分たちの本来の能力が発揮できると思っている
佐藤大輔の迷言である「マイナスの要素がプラスになっていたら」、誰がやっても勝つだけなんだがw
本当に能力のある人は、「優しくない=都合の悪い世界」を少しでも改善しようと思うものだけどねぇ
その程度の作家、読者なんだから、架空戦記の裏の事情まで読み解くことができなくても当然だと -
社会、現状に恨みを抱いているからこそ、特定少数の読者が架空戦記に熱狂的になる
客観性や冷静さを欠いているから、歴史偽造や陰謀論を広めたい人間から見れば「いいカモ」だと
正しい間違い、好き嫌いではなく、この段階で架空戦記は「普通の娯楽小説」ではないんだな
娯楽小説には多少の嘘はつきものだが、作家はなんとかしてフィクション=救いのある嘘にしようとする
対して架空戦記作家は「ただのフィクションではない」と強調するから、嘘に救いがない
娯楽小説を「専門的なシミュレーションに基づく」と偽っているばかりか、読者を間違えるよう誘導しておいて、「間違えたら読者の自己責任」なんて作家としての責任放棄なんだが
ところが架空戦記の読者は、煽てられていい気になったものだから、どこがおかしいかも理解できていない
読者を騙していた作家にしても、黒幕が歴史偽造勢力と見破れなかったんだから、自分たちもいいように騙されていた
こんな構造の架空戦記が、面白くなるはずがないだろう? -
架空戦記作家は読者を騙しつつ、歴史偽造勢力には騙されていた
他方架空戦記に批判的なことを書いた神立尚紀も、自分の読者たちに戸高一成が架空戦記に関与していたことを隠していた
その神立も、戸高が歴史偽造勢力と接点があることには気づかなかった(おまけに自分に毒を盛ったオウム真理教とも)
阿川弘之、半藤一利、秦郁彦なんかも同じだな
戸高と架空戦記の関係を知っていたかは不明だが、架空戦記作家や神立と同様に歴史偽造との接点は知らなかった
また「紺碧の艦隊」に苦言を呈した平和運動家にしても、担当編集者の父親が有名な平和運動家だったことは知らされていなかった
あたかもミルフィーユのように、小さな嘘が積み重なっているんだな
たかが娯楽小説で、どうしてこんなに嘘が必要なんだ?
普通の娯楽小説とは思えない構造だから、架空戦記はつまらないというか、読めないんだよ -
>たかが娯楽小説で、どうしてこんなに嘘が必要なんだ?
大木毅は作家デビューを手助けした荒巻義雄のミスを酷評し、荒巻が「旭日の艦隊」を出した中央公論社のノべルス編集部は、販売部から荒巻が批判本を読んで取り乱したことを聞いて爆笑していた
その両者も、架空戦記と歴史偽造の関係を見破れなかったようだしな
ここまでくればつまらないではなく、もう痛々しいんだよな
作家は小説の中のなかで嘘をついても許されるから、もし小説の外側で嘘をついたら収拾がつかなくなってしまう
架空戦記は「ただの小説ではなく、シミュレーション(に基づいている)」と銘打った段階で小説の外側で嘘をついており、「普通の娯楽小説」にすらなっていないんだ -
なるほど、武田崇元の東大時代の同級生が康芳夫だったのか
康芳夫 -
康芳夫は「20世紀少年」に登場する万丈目胤舟のモデル
ノストラダムスの予言とされる川尻徹の「滅亡のシナリオ」、猪木VSアリ、謎の類人猿オリバーくんなどをプロデュース
事務所には三島由紀夫とともに自決した森田必勝、オウムの麻原彰晃も出入りしていた
また記憶が間違えていなければ、川尻の聞き手を務めた集英社の編集者は、落合信彦と柘植久慶を売り出した人のはず(2人の経歴の胡散臭さも類似)
陰謀論に染まった出版プロデューサーや編集者が、陰謀論に同調する作家(志望者)たちに、優先的に仕事を振っていたってことか
架空戦記もその流れに乗っていたとすれば、胡散臭くて当然だな
ともあれ「優秀な架空戦記作家、読者」には、こんな裏事情なんて興味を持たないだろうが -
川尻徹は精神科医でノストラダムス研究家
予言通りに進むように仕組む裏の組織があると書き、それを真に受けた麻原彰晃がオウム事件を起こした後、裏の組織に救出されると信じて隠し部屋に籠ったと
確証はないが、荒巻義雄も川尻の著作に影響を受けていた模様
落合信彦は最初はまともなジャーナリスト志向で、著書にも参考文献などを記していたが、編集者が「これでは普通の本、売れない」と判断して引用部を「CIAの友人から聞いた話」と変えさせた
「ノンフィクション」から「ノンフィクション・ノベル」に転換したんだな
柘植久慶も同様に普通の作家志望者だったが、同じ編集者から「グリーンベレー在籍」と経歴を盛るよう指示された
本当に在籍した三嶋瑞穂から2度(うち一度は自宅玄関で)詰問され、経歴詐称していたことを認め、以降は「特殊部隊在籍」と変わった
柘植は「フィクション」から「ノンフィクション・ノベル」になったわけだ -
架空戦記も、「純粋なフィクション、ファンタジー」で止まっていたら良かったんだよ
「ただのフィクションではない」と見栄を張ったから、おかしくなった
やっぱり能力のある作家、専門家は、「シミュレーションはできません、していません」と下手に出たほうが多少売れ行きは下がるかも知れないが、作品=自分、読者、同業者や他業者を守ることを理解している
反対に能力のない作家ほど、「シミュレーションができます、しています」と強く出たほうが売れると思うが、結果的に同業者や他業者を不快にし、読者を騙し、回り回って作品=自分が損をすることがわからない
陰謀論者とかアンダーグラウンドの連中にいいようにあしらわれちまうんだな -
1 陰謀論、歴史偽造と接点のある架空戦記作家 荒巻義雄、檜山良昭、佐治芳彦、柘植久慶、日向仁(戸高一成)
2 陰謀論、歴史偽造と間接的に接点のある架空戦記作家 佐藤大輔、横山信義、大木毅(赤城毅)、吉田親司、松田隆宏
3 陰謀論、歴史偽造との接点が見えない架空戦記作家 若桜木虔、谷恒生、志茂田景樹、谷甲州、川又千秋
1は比較的初期で、陰謀論や歴史偽造のプロパー、ビリーバー
2は中期以降にデビューし、陰謀論や歴史偽造を信じているわけではないが、気付かないか、気付いていても口をつぐんでいる
3 いわゆる火葬戦記作家か、SF作家で架空戦記を書いていた。前者は気付くほどの知能はなく、後者は薄々知っていた可能性はある
ともあれこうした事情から、架空戦記はまともな小説ではない -
>小さな嘘が積み重なっている
「紺碧の艦隊」担当編集者芝田進午の父親、芝田進午は共産党50年党員で、著作は学生運動家のバイブルといわれた
架空戦記ブームの際に産経新聞で記事にしたのが記者の阿比留瑠比で、その後官邸担当から編集委員となり、少し前には「正論」などで「安倍政権応援団長」と名乗っていた
極左の息子が担当した小説の大ファンが、右派政権の後押しをするなんて滑稽にもほどがある
というか阿比留は「紺碧の艦隊」と陰謀論、歴史偽造の関係を見破れなかったのだとしたら、ジャーナリストとして失格じゃないか
左翼系平和運動家の息子が架空戦記ブームをつくったのも奇妙な話だが、右のジャーナリストが看破できないのも情けない話だ -
「安倍政権応援団長」の阿比留瑠比が、共産党50年党員の芝田進午の息子、暁が担当した「紺碧の艦隊」の大ファンってのは一見奇矯な話で、単純な「右か左か」の2択論では割りきれない
ただ「陰謀論に染まる右=阿比留」もいれば「染まらない右」もいるし、「染まる左=芝田(本多勝一なども)」がいれば「染まらない左」もいるってだけの話
基本的に、左右に限らず「染まる」のは熟慮できない人で、且つメディアなどで発言をしたがる
「染まらない」人は表に出たがらないが実績のある人で、「染まる」人たちは己の軽さを棚に上げて恨んでいるw
早い話が左右に関係なく、阿比留と芝田は陰謀論に傾倒していたからこそ意気投合できた=阿比留は「紺碧の艦隊」を読んでも「おかしい」とは感じなかったわけだ
同様に架空戦記を沢山読んでるのに社会で評価されない読者、作家は、肝心なところを読み解けなかった=熟慮できなかったってことだな
別に架空戦記が好きでもいいんだが、好きだったらきちんと読込めよと -
〉別に架空戦記が好きでもいいんだが、好きだったらちゃんと読み込めよ
人並みの感性、読書力を持っていたら、「どこかおかしい」って気づくもんだがね
まだ「みんなで改善していきましょう」ってムーブメントが起きていれば、架空戦記が好きか嫌いかという問題とは別に、そんな読者たちは人間として尊敬できるし、「架空戦記が好き」なことを尊重してもいい
ところが架空戦記の読者たちに読み込む力がないばかりか、「読み込まない自由もある」と居直ってくるんだもんなぁw
だから架空戦記と陰謀論、歴史偽造の接点も読み解けないし、自分たちがそういうのを広めようとしていた連中から良いようにあしらわれていたのにも気づかなかった
能力もないくせに自尊心だけは強いから、陰謀論や歴史偽造を広めるための第一の目標として狙われてたんだがな
阿比留と同じで、情けないよ -
〉能力もないくせ
厳密に書けば知識とかピンポイントの能力はあるのに、決定的な部分が欠落している
佐藤大輔の用いた「マイナスの要素がプラスになっていたらどうなっていたかのシミュレーション」なんて、「そんな状況設定なら、誰がやっても勝つじゃね?」とはいえないんだな
佐藤が膨大な知識量を持っているのは理解できるが、そこしか見ていないから恐れいってしまい、他の部分を読み落としているのだろう(同じ言葉を霧島那智が用いていれば、クソミソに叩いていたはず)
肝心な部分を読み落とすから、陰謀論や歴史偽造を広めたい連中にはいいカモだったわけだ
だから架空戦記の作家や編集者が「間違えたり混乱すれば、読者の自己責任」と言われたら、普通の読者は「作家、編集者の責任転嫁」と立腹するものなのに、反対に「その通りだ」と作家、編集者に同調してしまう
こういうところで普通の読者との間で齟齬が起きてしまい、架空戦記が低迷したんだがな
多少専門知識があろうが、常識の欠落した人間は、「専門的なシミュレーション」をする資格なんてないんだ -
結局架空戦記は「正しい間違い」「面白いつまらない」「好き嫌い」という問題で捉える以前に、陰謀論や歴史偽造との関係を追求せねばならない
多少間違えてたり、盛り上がりに欠けていても、陰謀論や歴史偽造との接点がなければ「罪のない娯楽小説」という評価で済む
反対に多少正確で、盛り上げていても、陰謀論や歴史偽造と接点があれば「社会に害を与えかねない娯楽小説」になってしまう
別に架空戦記が存在してもいいとして、「罪のない娯楽小説」でいいじゃね?
できもしないシミュレーションを「できます、してます」と強弁する理由も必要もないんだしな
ところが架空戦記作家、編集者、読者、そして批判している連中は、この程度の道理すらわからない
両者は対立しているようで、問題の本質を理解できてないという意味では同じ穴のムジナなんだわ -
・戸高のオカルト本3冊を刊行した八幡書店創業社長の武田崇元(洋一)は、学生時代には共産主義者同盟の活動家
・大学卒業後も、武装革命を目指していた
・戸高とほぼ同じ時期、八幡書店にはオウム設立前の松本智津夫=麻原彰晃が出入りしていた
・徳間、幻冬舎で「紺碧の艦隊」の担当編集者だった芝田暁の父、広島大学名誉教授の進午の著書は、学生運動家のバイブルと呼ばれた
・「紺碧」の冒頭で、主人公たちはクーデターを決行する
・荒巻義雄が作中で絶讃した「操られたルーズベルト」は、オウム機関誌でも参考資料として用いられた
「共産主義→学生運動→カルト→クーデター」とつながるのは、偶然にしては一致し過ぎて気持ち悪い -
そういや荒巻義雄は、「紺碧の艦隊」でロスチャイルド陰謀論にも触れていたな
「操られたルーズベルト」の翻訳者馬野周二、武田崇元の盟友太田龍もロスチャイルド陰謀論者だった
百歩譲って陰謀論者が小説を書いてもいいとして、伏せたまま読者に紹介するのは良くないだろう
「私が信じているだけで、読者は信じなくても結構です」「小説を面白くするための要素に過ぎません」と開示するのが、礼儀ってものだろうに
ちょっとした配慮をするだけで、読者も混乱しなくなるのにね
伏せたままだから「陰謀論を紹介するため、架空戦記がつくられた」という疑念につながる
「陰謀論信者の架空戦記作家が多い」だけでも問題なのだが、「指摘できない作家、読者も多い」のも問題なんだがな
いずれにしてもそんな作家や読者たちに「専門家に匹敵するシミュレーション」なんてできるはずがない -
・架空戦記を書いていた森詠の兄は、元SFマガジン編集長の南山宏でムー創刊時の三角メンバー=武田崇元と関係あり
・荒巻義雄、オウム真理教が参考資料とした「操られたルーズベルト」(プレジデント社)の訳者、馬野周二は陰謀論者で、架空戦記を刊行していた経済界からの著作もあり
・馬野が傾倒していた超古代に刊行されたという文書「秀真伝(ホツマツタヱ)」を参考にしたのが、荒巻が幻冬舎から刊行した「帝国の光」
架空戦記が存在しても許されるとして、どうしてこれほど陰謀論や歴史偽造との接点が見つかるのかと
「罪のない、ただの娯楽小説」として架空戦記が刊行されたのではなく、娯楽小説の看板を出しながら陰謀論や歴史偽造を広めていたのであれば、多大な問題がある
架空戦記の読者、批判派の双方を裏切っているのだが、どちらにも馬鹿が揃っているから真相まで踏み込めないw -
架空戦記の読者が「架空戦記が好きだ」というのは自由だが、だからこそ「ちゃんと読み込みなさい」よと
「好き→読み込む→矛盾に気付く→原因を探る」まで昇華して、胸を張って「好き」といえるもの
読み込まないから矛盾には気付かないし、原因を探る段階に達しない
それで「俺はこんなに好きだ」といわれても説得力がない
背後関係の怪しさ、おかしさにも気付かないまま、「理解できない人間は頭が悪い」なんて台詞を、いままでよく吐けたものだ
「架空戦記が好き」なら好きでいいが、率先して陰謀論や歴史偽造と戦ってみろ
戦えないなら、他者や史実の人間を批判するな -
〉「理解できない人間は頭が悪い」
もし架空戦記の読者の頭が良ければ、「理解できない人間は、どうしてなのか」まで考えようとする
能力、自信があるからこそ、相手に合わせる努力もするんだな
そこまでしたうえで、理解できない相手を切り捨てるのは悪くない
ところが架空戦記の読者には、能力や自信はおろか、相手を慮る気持ちすらない
知恵遅れの同級生を虐め続け、止めさせようした同級生たちから虐められたことをずっと逆恨みし続けている某関係者のように、常識以前のものが欠落している
多少知識があったとしても、何の意味もないんだな
いつしか架空戦記は常識、人並みの想像力、思いやりが欠けている人間にしか反応できないものになってしまった
だからこそ陰謀論や歴史偽造を広めたい人間たちが、そんな読者たちに向けて偽情報を流したわけで、一般の読者が見向きもしなくなったんだ -
〉常識、人並みの想像力、思いやりが欠けている人間
娯楽=大衆小説は、多くの読者が読むことが前提
だからこそ質的に低い読者が混乱しないための配慮が、作家や編集者に求められている
架空戦記は「知識のある=質的に高い読者を想定している」といった段階で、まず娯楽、大衆小説として矛盾した
そして「間違えたら読者の自己責任」と、作家、編集者が読者に配慮をしないことを正当化した(そもそも配慮できなかったからこそ作家は大成できなかったし、編集者ともども質的低下が書籍の売り上げ低迷を招いたのだが)
さらに愛読する読者(一般読者を貶めていた)はおろか、批判的な読者(架空戦記作家、編集者、愛読者と一般の読者を切り捨てた)も「おかしい」とは気が回らなかったんだな
まわり回って他者に配慮しなかった架空戦記作家、編集者、批判派も含めた読者は、自分たちがいかに愚かかを露呈したようなもの
情けは人の為ならずで、他者を守ることは、いずれ自分(たち)を守ることを意味するのがわからなかった
架空戦記作家、編集者、愛読者、批判派の読者は、揃いも揃って愚か者だったわけだ -
・他の作家、専門家に挑発的な言葉を吐く
・「娯楽小説なのか、シミュレーションなのか」をはっきりさせない
・読者を持ち上げながら、「混乱したら自己責任」と作家(編集者)の責任を読者に転嫁する
架空戦記ブームをつくった荒巻義雄、檜山良昭がフォーマットというか、架空戦記の方向性を決定したんだな
こういう言動は、普通の作家はまずしない
架空戦記は、普通の娯楽小説、大衆小説であることを否定したのも同じなんだよ
後から考えれば、陰謀論、歴史偽造を広めたい人にとって好都合な手法だったりする
後発の作家、編集者、好意的な読者はもちろん、批判的な読者ですらここが「おかしい」とは感じなかった
おまけに架空戦記と戸高に接点があることを知っていた軍事関係の出版社ですら、ここを戸高に追求しなかった -
>架空戦記は、普通の娯楽小説、大衆小説であることを否定した
後発の架空戦記作家、好意的な読者は「普通の娯楽小説ではないものを書いて(読んで)いる」という優越感に満たされた
否定的な読者は、個々の間違いには気付いても、「通底になにがあるか」までは踏み込まなかった
双方とも、戦功の架空戦記作家たちが築いた「架空戦記のルール」自体が「おかしい」とは思いもつかなかったという意味では大差がなかったりする
「おかしい」と感づいたのは架空戦記批判本を書いたライターたちだけで、架空戦記側はもちろん、裏でつながっていた軍事関係の出版社ですら脅威と捉え、総出で袋だたきにしたわけだ
ところが架空戦記作家と戸高一成と歴史偽造を広めたい勢力との接点が露呈し、文字通りの「大逆転」となったわけだw -
架空戦記作家、シミュレーション作家とかいって、「普通の作家とは違う(作品を書いている)」と差異化、ブランディングをしてるだけなんだな
反対にいえば、「どうして普通の作家は架空戦記を書かないのか?」ということに気が回らない
「架空戦記というジャンルに魅力がない」のとともに、普通の作家は架空戦記の方向性に疑念を抱いたんだろうさ
同様に専門家やまともな読者も、架空戦記には靡かなかった
変な話、架空戦記の質的向上を図ろうとするなら、まず「普通の娯楽小説、大衆小説」に戻すことなんだな
そして一般の読者に読んでもらえるよう、普通の作家、専門家が書く
現在の架空戦記作家や愛読者は不必要なんだw -
〉「普通の娯楽小説、大衆小説」に戻す
・陰謀論、歴史偽造を広めない
・他の作家、専門家に挑発的な言葉を吐かない
・(作中の地の文で)史実の人物を批判しない
・作家、編集者、読者の責任分担を明確にする(作家、編集者が騙すよう誘導しておいて、「読者が間違えたら自己責任」とはいわない)
このルールを守ったら架空戦記も普通の娯楽小説、大衆小説になる
またこれらを守っている限り、批判する連中も多少のミスだったら許してやんなさいよって -
〉普通の娯楽小説
「フィクション」と「鬱」とは似て非なる存在
作家と(好き嫌いは問わず)読者の間に信頼関係が構築されており、虚構のなかで完結するのが「フィクション」
信頼関係が構築されないもの、虚構のなかで完結しないものが「嘘」になる
つまり架空戦記でも、作家や編集者が「これは娯楽小説であって、シミュレーションではありません」と断れば「フィクション」として許されるし、これを批判するのは大人気ない行為だ
しかし「これは娯楽ではなく、シミュレーションです(基づいてます)」といえば、虚構の外側で「嘘」をついていることになる
別の表現をするなら良質な「フィクション」を書こうとする作家は、絶対に「嘘」をつけない部分がある
簡単に「嘘」をつく段階で、良質な「フィクション」を書くことを放棄した作家なのだと
だからこそ架空戦記に集まる作家はレベルが低く、まともな作家は架空戦記を書こうとしないんだな -
そもそも「シミュレーション」とは思考実験のこと
是非はともかく娯楽小説は痛快ならばいいのであって、読者は適度に思考を止めて楽しめば良い
ただ「思考停止をする娯楽小説」を「シミュレーション=思考実験小説」と呼ぶのは矛盾となる
つまり主人公たちが無双する娯楽小説を読者が読む、作家が書くのは自由だが、その娯楽小説を読んで歴史や国際政治のシミュレーションをしたところで何の意味もない
普通の作家、専門家、そして常識を持ち合わせた読者はこのような架空戦記の矛盾に気づき、魅力を感じないが、「おかしい」と感じない作家、読者しか残らないわけだ
架空戦記を良くしたい、多くの人に読んでもらいたいなら「娯楽小説なのか、シミュレーションなのか」をはっきりさせるべきだし、それを阻害するような作家、読者は排除しなきゃならんとw -
・娯楽性を完全に排除したシミュレーション
・歴史改変SF
・歴史改変のない、史実に架空の戦闘を練り込んだアクション小説
・史実とはまったく関係のないファンタジー小説
結局架空戦記が生き残るためには、「どれか」を選択しなければならない
「どれが高尚、低俗」という問題ではなく、そのなかで最高を目指せばいい
ただアクション、ファンタジーを書く作家、読んでいる読者が、軽々しく「シミュレーションを書いて、読んでいます」というべきではない
ジャンルが違うんだから、他者の領域には踏み込むな
またジャンル侵犯がない限り、批判も控えなさいよと -
〉史実とはまったく関係のないファンタジー小説
中途半端に史実の国、組織、人物を登場させたり、シミュレーションでもないのに「してます、できます」と作家が口にするからおかしくなる
史実の国、組織、人物を登場させない、作家が「シミュレーションではありません」と明言すれば、「架空戦記」が存在しても許されるし、作品の不出来以外の批判を封じられるんだよな
3段飛行甲板の空母や潜水戦艦みたいな荒唐無稽な兵器が登場しても、それが許される世界を構築できればいいんだしさ
そこまでの世界を構築できない作家が史実の設定を拝借したうえ、読者と一緒になって「シミュレーションをしてます、できます」と専門家の領域まで侵食しようとするのが気持ち悪いんだ
批判する連中も同じ誤解をしているが「娯楽小説が悪い」のではなく、「最高の娯楽小説を目指しますから、シミュレーションはしていません」と振り切っていれば、それはそれでいいんだよ -
>最高の娯楽小説を目指しますから、シミュレーションはしていません
荒唐無稽な兵器が登場しても許されるような作品世界を構築する、魅力的なストーリー、キャラを出せばいいだけの話
そこまでできる作家は、「軽々しくシミュレーションという言葉を使うのは専門家に失礼」、「他の作家に「知識、危機感がない」というのは良くない」、「シミュレーション小説という名称で読者が混乱したら自分にも責任がある」を理解している
つまり「シミュレーションができる」という自己ブランディングの無力さ、無意味さまで気付く
下手に「できます、してます」と出るより、自分(たち)が「できません、してません」と一歩引き下がったほうが誰も傷つかなくて済むのだと
だから「最高の娯楽小説としての架空戦記」を書こうとする作家ほど、現行の架空戦記のおかしさまで理解できているわけだ
しかし理解できない作家が架空戦記を書けば、そりゃつまらなくなるわな -
>一歩引き下がったほうが誰も傷つかなくて済む
こういうのが大局観であり、戦略ってものじゃないのかな?
専門家、他の作家と読者を貶めることで自分(たち)の価値、立場を高めるのではなく、うまく共存共栄しながらいいポジションを狙える位置に立てば、誰も批判できないのにね
その辺りを理解できない作家や読者が「戦略だ」と口走るから、架空戦記がダメなんだと
そんなことだから、自分たちの背後に陰謀論や歴史偽造を広めている人間がいたことにも
気付かない
知恵遅れの同級生を執拗に虐めたので、止めようとした他の同級生たちから虐められたことを何十年も逆恨みしているようなヤツしか、架空戦記を読まないんだよ -
〉「戦略だ」と口走る
どうして架空戦記作家たちは、こんな「戦略」をとりはじめたのか
「専門家を貶める」のは仏革命からはじまり、露革命、文化大革命、日本の学生運動、ポルポトとつながる系譜だな
「知識層は敵」とすることで大衆に常識を疑わせ、不安に落とし入れて社会騒乱=革命を起こす
「紺碧の艦隊」担当編集者の父親が学生運動を煽り、戸高一成のオカルト本を刊行した八幡書店社長の武田崇元が武装革命を標榜し、八幡書店に出入りした松本智津夫=麻原彰彰彰が創設したオウム真理教が実際にテロを決行した
「紺碧の艦隊」第1巻冒頭でクーデターが起きたのも、荒巻義雄が参考資料にした書籍がオウムの機関誌でも用いられていたのも、戸高と麻原の原稿をムーに掲載した太田雅男が学研で架空戦記を創刊した際の総編集長だったのも、もはや偶然の一致とは思えないんだよな
「専門家は想像力がない」と規定し、架空戦記作家と読者が相互承認を高め合うことで(劣等感の裏返しである)優越感を高めたところに陰謀論や歴史偽造を紛れ込ませれば、熟考しない読者ほど情報操作に引っかかるわけだ
そのうえ批判派のように振る舞っていた戸高が裏からブームを煽っているのだから、事情を知っていた軍事出版社なども水をさせないと -
だから架空戦記作家は、「普通の娯楽小説です」とはいえないんだ
「シミュレーション小説」という他の小説との差異化を図る意味があり、一方で「架空戦記はシミュレーション(に則っている)」といいつつ、都合が悪くなれば「シミュレーションではありません」と使い分ける
ハマった読者は使い分け=矛盾に気づかない、もしくは容認しているが、気づいた、または容認できない読者は去っていった
「間違えたら読者の自己責任(作家、編集者に責任はない」と逃げ道をつくっていたのも、当初からの狙いだったんだな
早い話が後発の作家や編集者、批判派を含めたすべての読者と、みんな騙されていたってこと(小さな嘘、裏切りが層をなしていた)
つまり現行の架空戦記って、「誰も幸せにしない小説」だったわけだ
ちょっとぐらいの間違いなんて、実はとるに足らないことなんだよ -
だから考えなきゃならんのは、「専門家、他の作家と双方の読者、架空戦記の愛読者と批判派」の全員が読んで「不快、害にならない架空戦記」を構築するってことだな
そのためには架空戦記作家と編集者が「シミュレーションはできません」、もしくは「できますが、この作品ではしておりません」と正直に申告し、今まで専門家や作家に吐いてきた暴言を謝罪し、そして陰謀論や歴史偽造と関係のある作家、編集者とは訣別しなさいよと
専門家や批判派の読者も許してやり、架空戦記作家が頭を下げて教えを乞うてきたら、快く受けなって
「質の高い娯楽小説としての架空戦記」ができりゃ誰も傷つかないし、不快にもならないんだよな
せっかくの短い人生なんだから、嫌な思いをするより、明るい方向へ進んでいこうや -
〉誰も幸せにしない小説
架空戦記は「普通の娯楽小説」ではなく、陰謀や歴史偽造を広めるための手段に過ぎなかった
だからこそ初期の架空戦記作家、編集者は専門家や他の作家を貶め、自分たちを高める必要があり、「シミュレーション小説」という名称を付けたんだな
一方では「架空戦記はシミュレーション(に基づいている)」、他方では「架空戦記はシミュレーションではありません」と、その場凌ぎをしていた
これを「おかしい」とは思わない読者が熱狂したが、作家と編集者は自分たちの責任を回避するため、「読者が勘違いしたら自己責任です」と逃げ道をつくったわけだ
熱狂する読者、後発で参入した作家や編集者、そして批判的な読者まで、この構造を読み解けなかったんだな
ちょっと兵器のスペックを間違えた程度ではなく、構造そのものが問題だったんだ
架空戦記に参入した作家、編集者、楽しんでいる読者、専門家や他の作家、批判派を含めたその他の読者と、全員が不快で不幸になる小説だったと -
「シミュレーションと娯楽小説のどちらが優れている」わけでもないし、「シミュレーションができる人間はできない人間より優れている」わけでもない
「シミュレーションと娯楽小説は別のジャンル」だし、シミュレーションができなくても世の中に貢献したり、人を幸せにできればいい
批判派を含め、架空戦記を取り巻く人たちって、この程度のことも認識してないようなんだな
作家が「読者に良質な娯楽小説を提供しよう」と思うのは素晴らしいことだとして、だからこそ「シミュレーションをしています」と公言する必要も理由もないわけだ
「良質な娯楽小説」を書けない作家が自分を高める=同業他者を貶めるため、「シミュレーションができます」と口にするのは、話をすり替えている
「できない」のは悪くないし、そこを批判してはならないが、「話をすり替える」のは良くない
作家は「フィクションを書く」のはいいが、「嘘をつく」のは許されない
また架空戦記が荒唐無稽な娯楽小説でも問題はないとして、荒唐無稽な娯楽小説にシミュレーションと銘打つのは常識のある作家、編集者にはできないし、批判的な読者はもちろん、熱狂する読者も許してはならないんだよな -
〉自分を高める=同業他者を貶める
実在の国家や組織、史実の人間を登場させるのも同じだな
自分(たち)の優秀さを誇示するために用いるだけで、リスペクトの念がない
「フィクションだから許される」のではなく、「フィクションだから配慮しなさい」よって
ファンタジーの世界に、史実の事件や人物をモチーフとして用いるぐらいの「芸」を見せりゃいいんだがな
「フィクションがダメ」なんじゃなくて、「フィクションとして完成度の高い世界を構築する」ならば、誰も文句はいえないんだよ
「フィクションとして完成度の高い世界が構築できないから、史実を拝借しました」ってのは、手抜きと言われても仕方ない
また安易に史実を用いるから、「間違えている、許さん」的な単純な批判も受けるんだしな
質の低い批判を跳ね返すぐらいの、質の高い虚構を生み出せばいいんだわ -
〉架空戦記の構造
厳密には「歴史のイフ、改変小説」とは似て非なるもの
改変の是非は別として正確さを期するのであれば、「イフ」の箇所は少ない、規模は小さい、期間は短いのが望ましい
しかし正確であればあるほど、改変は小さい=史実と大差がなくなる
そうなると「太平洋戦争で日本が勝利する」という「逆転」が不可能となるから、「正確、厳密ではなくてもいい」となってしまう
「イフ」の箇所が多く、規模は大きく、期間を長くすれば「逆転」するかもしれないが、まともな作家、専門家は書かないし、常識ある読者も読まない
書く作家、専門家、読む読者は、どこかおかしな連中しか集まってこないw
多少知識があろうが、どうでもいいんだなw -
大衆向けの娯楽小説は、多くの人が納得できる構造であり、魅力的な作品世界を構築しなければならない
架空戦記を含めたなろう系とかは、熱狂する極少数しか納得されない構造で、魅力的な作品世界なんだろうが、残る大多数には納得できないし、魅力を感じられないんだな
無論楽しむのは個人の自由だとして、「少数しか理解できない大衆小説」という存在は矛盾している
あけすけにいってしまえばそんな大衆小説は失敗作というか、存在自体がおかしいんだわ
「この小説を理解できない人間は頭が悪い」といってるが、自分たちは「悪い」以前でしょうにw
この程度の道理がわからない人たちが、専門家と同格なわけがないんだよ -
〉正確、厳密ではなくてもいい
「娯楽小説なんだから、多少間違いがあっても許される」という意見には賛同するが、そんな娯楽小説に大量の専門知識を並べて「シミュレーション(に基づいている)」、「作家、読者は専門家に匹敵する」といっても意味がないんだよな
こんなのは専門知識有無とは別の、気の利いた小学生でも理解できる程度の常識w
普通の専門家や作家は「書けません」、編集者は「出せません」、読者は「読めません」と拒絶しているはず
批判以前の問題だってことだよ
「荒唐無稽な娯楽小説を思考停止して読みたい」のは個人の自由として尊重するが、「シミュレーション(小説)と銘打つ必要はない」「読んでも歴史、外交、軍事は学べない」「作家、編集者、読者は常識を持ち合わせていない」ことまで認めなさい
裏を返せば「シミュレーションを理解できる」「歴史、外交、軍事を学びたい」「常識を持ち合わせた作家、編集者、読者」は、既成の架空戦記では満足できないんだと -
先日麻雀中継を見ていたら、解説者が「ひとつの役を選択することは、他の役を捨てるのを決断することと同義」と語っていた
架空戦記を「思考停止をして読む娯楽小説」だと考えている読者の意見は間違えていないし、尊重されるもの
しかしそれは「歴史、外交、軍事の知識を必要とするシミュレーションではない」のを認めるのとセットなんだよ
「思考停止できる娯楽小説」と「思考実験としてのシミュレーション」は矛盾した存在なんだから、ひとつの作品で同時に行うなんて誰もできないんだよね
つまり「同時にできる」「してもいいと認めろ」って意見を口にできる人は常識が欠落しているわけで、戦略を考える力どころか、資格すらないわけだ
「思考停止して読む荒唐無稽な娯楽小説なんだから、シミュレーションではありません」とカミングアウトするのは、何も恥ずかしいことではない
だけど作家ともども「できもしないシミュレーションを、できる」と口にするのは、恥ずかしいんだ -
架空戦記の構造でいえば、荒巻義雄が「紺碧の艦隊」で「タイムスリップ+パラレルワールド+歴史改変」とともに、読者からのツッコミを受けて「敢えてこういうプロットを選択しました」という反則技を発明したんだな
文字通り解釈すれば「他の複数のプロットと比較検討した」ことになるが、作中に形跡がなく、ツッコミに対する逃げの言葉に過ぎなかった
著作を何十冊も出した作家が用いたとは思えないような禁じ手であり、「稚拙な嘘」だったわけだ
ところが「紺碧」が売れたおかげで後発作家も抵抗なく採用して架空戦記のプロットとなり、さらに換骨奪胎したものが「なろう系」でも使われるようになった
禁じ手が当然となった世界観だから、普通の作家であり読み慣れた読者は逃げてしまい、常識の欠落した作家と読者の楽園と化したのだと -
架空戦記の構造には、意外と誰も触れてないんだな
荒巻義雄が禁じ手を平然と使いはじめたことで、旧来の小説とは別の存在なってしまった
参入した作家、編集者も当然のように用い、(読み慣れていない)読者たちも「何が悪い」としか感じなかった
「古い娯楽小説ではない」という「売り」だったわけだ
他方批判する人たちも感情論かスペックな末端のことが主で、小説としての問題点は突けなかった
批判本を出した人たちが軽く触れたが、双方から見て一番憎い存在になってしまったんだな
しかし反対に考えれば、禁じ手を用いなければ架空戦記は「普通の娯楽小説の変種」に過ぎなかったが、良質な作品が誕生する余地も残ってたわけだ
作家、編集者、愛読者、批判派がそこを目指せば対立もなく、みんな幸せになれたのに、誰もそこに向かおうとはしなかったと -
〉普通の娯楽小説の変種
娯楽小説のルールを守る=禁じ手を使わない架空戦記を多く売り、多数の読者の支持を得てこそ、架空戦記は市民権を得られるわけだし、架空戦記作家も他の小説、作家を凌駕したと胸を張れるはず
ところが架空戦記(作家)の嫌な部分は、避けてはならない決戦から逃げたうえ、理由をつけて「戦っていれば俺たちが勝っていた」というんだな
自分たちのやってることは、作品内外で批判している旧日本軍首脳とどこが違うんだか
普通の娯楽小説を書いても他の作家に勝てないと思ったから、禁じ手が使えて、読者の大半が「おかしい」とは感じない架空戦記に逃げたんだろって
戦って勝つ自信のある作家、または勝てなくても筋を通そうとする作家は、たとえ自分が不利でも相手の土俵に上がるもんだよ
荒巻が去年出したミステリは、酷評どころかAmazonで自賛レビューを書いた疑惑があると指摘されたじゃないか? -
〉ルールを守る=禁じ手を使わない
知恵遅れとか障害を持つ相手を守るのが社会的なルール
それを無視して執拗に虐めてて、止めようとした他の同級生たちを逆恨みし続けたヤツが、架空戦記の同人活動からコネを得て関係者になるわけだw
まともな作家、編集者、読者が集まってこないから、売れ行きが低迷してるってのが理解できんのかな?
もっと売れてほしい、沢山の人に評価してほしいなら架空戦記のローカルルールを捨てて、「シミュレーションではなく、娯楽小説です」と言明する
同時に「専門家、他の作家、一部読者には大変不快な思いをさせました」と謝罪し、許しを乞う
そして陰謀論、歴史偽造と接点のある作家、編集者を排除する
最低でもこれぐらいしないと、架空戦記の再生なんてできない
もっともそこまでの度胸、熱意のある架空戦記関係者なんていそうもないから、このまま全員死滅したって構わんけどねw -
〉敢えてこういうプロットを選択しました
「確固たる世界観があったうえに壮大な虚構を構築する」のが普通の娯楽小説なんだが、荒巻義雄がこの言葉を使った段階で架空戦記の浅さ、薄さ、そしておかしさが露呈したんだな
世界観が乏しいのに売れ行きが良かったので無理矢理ストーリーを延長し、矛盾が噴出した
おかしな話だが、しっかり読んだ読者ほどおかしさに気付き、離れていったか間違いを是正しようとして荒巻や編集者に遠ざけられた
ノリノリになったのは「読んでいないから、おかしさに気づかない読者」で、後発の作家や編集者は「架空戦記とはそういうものでいい」と規定してしまった
そのうえ批判的な読者もそこに同調してしまい、「批判しているのに、良くしようとはしない」という奇妙さに陥った
全員が「良くしようとしない」んだから、売れなくても評価されなくても当然なんだなw -
〉荒巻義雄がこの言葉を使った段階で架空戦記の浅さ、薄さ、そしておかしさが露呈した
敵が「史実のルーズベルトをモデルにした米大統領」、「大統領を操る影の政府」、「世界を操る秘密結社」と変遷した
確固たる世界観を持つ娯楽小説なら、「主人公たちがどこまで知っていたか」を決めているし、それを作家がどのように読者へ伝えるかという腐心も作中から伺えるはず
「紺碧、旭日」からは微塵も感じられなかったし、薄っぺらい世界をさらに水増ししたとしか思えなかった
しかし肯定、否定の読者ともども、「読んでいない」からこういう部分には触れない
敵対しているようで、両者の根は意外と近い(だから双方とも戸高一成に引っかかった) -
架空戦記作家、編集者、読者に共通した「いい架空戦記」って、「自分たちのわがままが通る」ものなんだな
一応普通の娯楽小説は「多くの読者」に合わせようとするが、架空戦記は反対で「少数」に合わせる
自分たちより知識のある専門家、感性が優れている作家、多くの小説を読んでいる読者、そして知識も感性もない読者も、架空戦記の世界に合わせるとともに、「俺たちが一番優れていると認めろ」ってことだな
その意味では憲法9条を守ろうという平和団体と大差ない(「紺碧の艦隊」担当編集者の父親が共産党系の平和運動家だったのも納得できる)
自分たちにとって優しく、優越性を誇示できる世界であり、その世界実現のために革命を起こすとともに、「仮想敵」が必要だったわけだ
「仮想敵」が自分たちを認めない専門家、他の作家、一般の読者であるとともに、「こんな小説はダメでしょ」と善意で苦言を述べたくれる相手まで憎たらしくなる
虚構の世界だけではなく、作家、編集者、読者の内面まで薄っぺらくて粗雑ななんだよな -
「紺碧の艦隊」担当編集者の芝田暁の父親、広島大名誉教授の進午の著作は学生運動家のバイブルと呼ばれた
芝田をはじめ左系の大学教授は、学生たちに理解を示しながら自分たちの思い通りに動かし、右系の教授たちを吊し上げにしてほくそ笑んでいた
しかし運動が激化し、左系の教授も吊し上げに合うと、それまでは大学自治を名目に警察介入を阻止していたが、一転して介入を容認した
早い話が、学生たちを革命のための使い捨ての駒としてしか見ていなかったんだな
反対に右の教授たちが警察まで学生を迎えに行き、企業に頭を下げて就職できるよう懇願した
学生たちの味方だったはずに左系教授が裏切り、敵だと思われた右系教授が助けたんだな
架空戦記を巡る状況も意外と似ている -
荒巻義雄、芝田暁が立ち上げた「紺碧の艦隊」を発端とした架空戦記は一見読者に開かれ、寄り添った小説だった
ところが荒巻、芝田をはじめ、檜山良昭、日向仁=戸田一成といった初期の作家は、陰謀論や歴史偽造という共通項でつながっていた
読者を偽情報に誘導していた疑いが濃厚だったわけだ
それを後発の作家、編集者、批判的な読者は見抜けず、軍事関係の出版社なども見て見ぬ振りを続けていた
架空戦記作家たちは「フィクション」のなかで完結しない「嘘」を垂れ流し、愛読者はもちろん、社会まで裏切っていたんだな
一部作家がおかしさに気づき、声を上げることで注意喚起を促していたが、読者たちはそれを疎んじた
だけど彼らのほうが、読者の味方だったんだ -
架空戦記を読んで疑問だったのは、「歴史改変」について登場人物たちがなんの疑念も感じないんだな
旧来のタイムスリップ系の小説だと主人公たちが「元の世界」に戻るための試練として「歴史改変」をせねばならない状況に追い込まれ、苦悩葛藤しながら活動するというものだった
ところが架空戦記にはこの部分が決定的に欠落しており、疑念を抱くことも葛藤することもなく「改変」のために活動し、その後の展開が事細かに描写される
どれだけ緻密に描かれようが、薄くて軽いんだな
あくまで「改変」が目的であって、「元の世界=現世」に戻ることを拒絶しているみたいだ
そこまで現実世界が嫌だったら、「改変」のエネルギーを少しでも住みやすくするよう努力すればいいのに、それは嫌なんだなw
「なろう系」とも相似しているが、現実世界で何も動かない連中が、どうして仮想世界にいったら活動的になるんだ? -
〉歴史改変について登場人物たちがなんの疑念も感じない
転生した世界の住民のことなんて、全然考えていない
それこそ超兵器を携えた未来人がやってきて、「中国との戦いの勝ち方を教えてあげるから、私のいう通りに社会を変えなさい」と言われて、ほいほい追従できるか?
不要なお節介と考えるのが、大多数だと思うけどなぁ
自分がされたら快く感じないことは、他者にもしないのが社会通念だよ
もっとも自分は知恵遅れの同級生を執拗に虐めていたのに、止めさせようとした同級生たちから自分が虐められたことを何十年も恨んでいる人間が架空戦記の関係者なんだから、何をいってもわからないだろうがw -
〉超兵器を携えた未来人
現代兵器を見せて過去の人間を追従させるって、過去の人たちを未開人蛮人としてみなしているようなもの
リスペクトの念もないんだな
何より兵器が凄いのであって、持ってきた人間が凄いとは限らないんだがねw
だから登場人物の頭が良ければ、自分の能力の限界も悟っているわけで、軽々しく「歴史改変をしよう」とはならない
なんの疑いも感じない登場人物たちの歴史改変ほど成功しないし、そこまで読み込まない読者たちに歴史を考察する力もないわけだ -
〉リスペクトの念もない
アマ将棋の高段者に「タイムスリップして江戸時代の名人、天野宗歩に勝てるか?」と尋ねたら、「棋譜を知っているアドバンテージはあるが、勝てるとは断言できない」との返答だった
これが強いというか、常識のある人間の返答なんだわ
それこそプロ棋士が「現代の棋士がタイムスリップして連戦連勝し、江戸時代の名人になる」漫画の監修をしてみろ
読者から「そんな監修をする前に、対局で勝てるよう研究しろ」と言われるのがオチだよw
「現代兵器を使って太平洋戦争を連戦連勝」を書く作家も、「そんなもの書く暇があったら、普通の小説を書いて評価を受けてみろ」ってことだねw -
〉登場人物たちがなんの疑念も感じない
架空戦記側だけの問題でもなく、批判的な意見にもおかしいのがある
作家、編集者が「読者に受けそうなところを多く書き、受けないところは削る」ようにしたから、架空戦記がすかすかと薄っぺらいものになった
ところが批判している人も「架空戦記とはそういうものだ」と思い込んでいるんだな
つまり「架空戦記は嫌いだから、良くならなくてもいい」のであって、「受けそうなところばかり増やさない、受けないところもしっかり描く架空戦記」が生み出される素地がなくなった
「質が悪い、低い」とはいっても、「どこがどう悪い、どう改善すべきか」という提言はないと
そんなことだから戸高一成が架空戦記を書き、作家を支援していたことにも、陰謀論や歴史偽造とつながっていたことにも気づかなかったわけだ
架空戦記の質も低いが、批判している連中もいえた立場ではない -
〉読者に受けそうなところを多く書き、受けないところは削る
「読者受けるところも、受けないところもバランス良く書いた」小説は「架空戦記」という枠には収まりきらず、「歴史改変小説」になる
そこまで振り切れば許されるのに、それをせずに「架空戦記、シミュレーション小説」と自己ブランディングを図る品性がたまらなく嫌なんだな
戦わなければならないところでは理由をつけて逃げ、戦わなくてもいいところで能力を誇示している
作家にせよ読者にせよ、社会から嫌われても当然だよ
やっぱり「架空戦記がつまらない」のではなく、「つまらない作家が書き、つまらない読者が読んでいる」だけなんだよ -
「思考停止して読める娯楽小説で現実逃避して何が悪い」というけどさ
その小説のなかに「史実、実在の人物」を登場させて、ディスらなくてもいいだろうってことだよ
中途半端な改変なんかいらないし、史実とはまったく関係のない世界をつくって、そこで完結すればいいじゃね?
つまり架空戦記は「史実を改変する必然性が弱くて薄い」のに、兵器のスペックや戦闘描写がやたら細かかったり、変にストーリーが壮大なんだ
おまけに「シミュレーション=思考実験」と銘打っているのに「思考停止して楽しむ」なんて、分裂症ですか?と
矛盾、論理破綻の塊なんだから、仮に作家や読者が異世界に転生したところで、なんの役にも立ちそうにないんだよなぁ -
SF作家で主流ではなかった荒巻義雄、異端を信じたために歴史学界から放逐された檜山良昭と武田崇元、戸高一成という歴史偽造勢力が組んで90年代の架空戦記が誕生したわけだ
読者たちに普通の娯楽小説を提供していたようで、ところどころで偽情報を紛れ込ませ、陰謀論や歴史偽造の信奉者に仕立て上げようとしたんだな
事実劣等感を持ち、思慮の浅い読者が反応し、後発の作家も誕生した
作家と読者が優越感を誇示するため、史実や実在の人間を登場させてコケにすることで、相互承認を強めあっていたわけだ
こんな娯楽小説、大多数の読者は見向きもしなくて当然だね -
「逆転」は太平洋戦争の推移でも、転生した世界の住民のためでもなく、「現実世界で受け入れられない作家、読者」のためだと
しかし裏を返せば「そのために戦争したり、史実の人間をコケにしてもいいのか」という問題が生じるが、そこはうまくスルーしている
やっぱり浅くて薄っぺらい世界観だし、それこそ「そんな小説で作家、読者ともに満足しているから、現実世界で受け入れられなかったんでしょ?」で済む話
彼らにとっての「いい娯楽小説」の定義は、それこそ「なろう系」や架空戦記の世界と同じで「自分たちを認めてくれるもの」なんだな
大多数の世間が極少数の自分たちに合わせるべきって考えだから、大衆小説として破綻していることにも気づかない
「大衆が読めない、読まない大衆小説」って存在自体がおかしいし、その矛盾を直視できない作家、読者たちが戦争を逆転させるほどの能力なんてあるはずがない -
娯楽小説なんだから、別にタイムスリップも転生もいいんだよ
ただフィクションならばこそ、「どうやって現代の考えを過去、もしくは異世界の人間に伝えるか」をしっかり書かなきゃ
「知識、価値観の齟齬をいかにして埋めるか」がこの種の小説の面白いところ、読ませどころなのに、そこを飛ばして「どれだけ活躍したか」を事細かに描かれても意味がない
それこそ過去や異世界の人間を未開人、蛮族としてしか見なしていない
一方で「現代最高」的なことを書きながら、他方では作家、読者が現代、現実世界でで評価されていないという恨みが噴出しているのだから、矛盾も甚だしいんだな
というかこの程度の小説で満足できるから、現実世界で評価されないんだわ -
〉異世界の人間に伝えるか
将棋の羽生善治さんが「コンピューターのほうが棋士より強くなったのだから、プロ棋士は不要になったのではないか」と尋ねられたとき、「コンピューターは「なぜその手を選択したのか」を伝えられないのだから、プロ棋士には人間の言葉に「翻訳」するという新たな仕事ができたと受けとめている」と返答していた
現代人が過去にタイムスリップしたり、異世界に転生するなんてまずあり得ないことだ
しかし「どうやってコミュニケーションをとるか」という想像ができるのは、やはり作家が適任なのだろう
架空戦記の批判派が「タイムスリップ、転生なんてありえない」と口にしても、それは批判にもなっていない
本当に指摘しなければならないのは「その説明が適切なのか、相手に納得してもらえるのか」なんだな
ただ作家に必要な部分を描く力がないし、編集者は飛ばすように指示する
愛読者も批判派も読んでいないのだから、架空戦記がよくなるはずがない -
〉現代人が過去にタイムスリップしたり、異世界に転生するなんてまずありえない
架空戦記作家、読者が自分たちの優越感、存在意義を誇示したいなら、「どうやって過去、異世界の人間とコミュニケートをとり、いかに納得させるか」を徹底的に描くことなんだな
これは普通の作家、専門家では「できない」、あるいは「しにくい仕事」なんだからさ
ここをきちんと描いた架空戦記があれば、作家や専門家、そして世間にも溜飲を下げられるしね
ところが「とにかく納得した」で書き飛ばしてしまい、そのくせ「他の作家は、専門家、一般読者は」と書く
戦うべきところで戦わず、戦わなくてもいいところで戦ってどうするのだ
平素「戦略」などと口にするが、自分たちはどうなのかと
戦略以前の、もっと重大な部分が欠落しているのではないか? -
架空戦記作家がするべき仕事をしていれば、批判派がどれだけ嫌いであっても賛辞の拍手を送る
趣旨は理解できても出来が追いついていなけりゃ、「もう一回」と背中を叩くのが 大人の対処ってもの
ここは批判派の狭量さだとして、架空戦記作家もきちんとした意志を見せてないんだな
批判派にも読んでもらおうという気があれば、他の作家や専門家の顔を立てることもできるのだからな
架空戦記作家と読者、批判派の質の低さは、どっちもどっちとしか言いようがないw
編集者を含め、誰もが「質の高い架空戦記」を求めていないのだからな
質が高ければ双方のいがみ合いも軽減できるのに、そのための歩み寄りもしようとせず、低レベルの戦いを繰り広げて互いに自分たちが優秀だと酔っている
そんなことだから、ともに陰謀論や歴史偽造を広めている連中からバカにされるんだ -
するべきこと(戦闘シーンに偏らず、人間ドラマやストーリーを濃密にする)をして、してはならないこと(陰謀論や歴史偽造を広めない。専門家、他の作家、多数の読者気を害さない)をしなければ、架空戦記が多少荒唐無稽な展開でも兵器が登場しても許されるんだよ
するべきことをしない、しなくてもいいことをするから架空戦記はおかしくなるし、批判するはずの人もなぜかそこを指摘しない
架空戦記の作家、編集者、読者だけではなく、批判側も質が低いんだな
裏を返せば、全員が意識を高く持って質を上げようとはしない
批判派含めて全員が質の低さに甘んじているから、陰謀論や歴史偽造を広めたい人たちに狙われてたんだ
この程度の連中が歴史を調べていると宣える国が、戦争に勝てるはずがないだろう? -
>陰謀論や歴史偽造を広めたい人たちに狙われてた
戸高一成が架空戦記を書いていたことの是非は別として、表向きの顔は戦史、艦艇研究の第一人者なのだから、火葬戦記などが出てくると立腹してもおかしくないのだが
「そもそも架空戦記に質など求めていなかった」のか、「質が低くても、市場を制圧することで陰謀論や歴史偽造が広まればいい」と考えていたのだろう
戸高配下の架空戦記作家はともかく、架空戦記と二股をかけていた大木毅、架空戦記批判をしていた神立尚紀、戸高が架空戦記と関係していたことを知っていた軍事関係の出版社の編集者たちは、いったいどんな顔をしていたのだろう?
戸高の姿勢を見て、「なにかある」とは気付かなかったのだろうか?
架空戦記作家たちの怠惰さは問題だとして、それを食い止めようとしなかった専門家、専門出版社の姿勢も同じぐらい問題だ -
>陰謀論や歴史偽造を広めたい人たちに狙われてた
架空戦記批判派にしても「間違いが多い、荒唐無稽だからダメだ」とはいっても、「どうして間違いが起きたのか」「この荒唐無稽さは適切なのか」まで踏み込まなかった
架空戦記に限らず間違いを列挙し、相関性を考察すれば、ようやく「本当の姿」が見えてくる
これをしたのは架空戦記批判の本を出した人だけで、25年も前に架空戦記とオカルトとの類似点、接点を指摘していた
架空戦記作家、編集者、愛読者はもちろん、批判派のライター、読者、中立を標榜していた編集者などの全員が見逃していたんだな
そればかりか危機を察知した人たちを袋叩きにするときは、共同戦線を張っていた
危険を察知した人を排除することで、自分たちの心の平穏を得たわけだ
そんな連中に、旧日本軍首脳を批判する資格なんてない -
架空戦記側と批判側のトップがともに戸高一成
戸高が上位にいることを知っていた編集者、作家やライターという中堅層がいて、対立していたようで、プロレス顔負けの八百長を繰り広げていた
その下に後発組の作家、編集者と読者の大半がいたわけで、戸高が両方のトップだとは知らされないまま、抗争がガチだと見ていたと
ところが戸高以外の全員が、戸高がオカルト=陰謀論や歴史偽造と関係があることに気づかなかった
1番早く察知したのが批判本を書いたライターで危険さを説いたが、戸高は暴露されたら大ダメージになる
双方の中堅に頼んで攻撃させ、実情も知らない下層構成員も乗っかかって全員で袋叩きにした
ところが様々な場所で戸高の疑惑が噴出し…ってことだな
戸高の勝利は陰謀論や歴史偽造の勝利でもあり、戸高を支持した全員は陰謀論、歴史偽造の同調者になるんだが? -
現状をなろう系のタイトルにするなら、「架空戦記のパーティから追い出した相手は創造主レベルで、おまけに俺たちを助けようとしていた。反対に守護聖人と崇めていたのがとんだ一杯食わせもので、我が世の春を謳歌していた俺たちは一転カースト最下層に。大逆転なんて所詮は小説のなかの出来事で、転生した世界でも俺たちは救われないのか」ってことかなw
戸高に忠誠を尽くして、世間から石もて追われる覚悟を決めるか?
それともバカにしていた相手に、泣いて詫びて許しを乞うか? -
架空戦記の定義をつくらないままブームとなったから、「いい架空戦記とは」という定義もなかったんだな
読者に売れそうなこと、喜びそうなことを書くだけで、特定少数の読者しか見向きもしなくなり、かえって売れ行きが低するという陥穽に落ち込んだ
大衆小説、娯楽小説として沢山売るなら「専門的なシミュレーション」とは名乗れないし、「専門的なシミュレーション」であるなら大衆小説、娯楽小説として売れないという矛盾と直面しなかった怠惰な作家、編集者、読者しか残らなかった
批判側にしても「いい架空戦記」を明示して、そこに架空戦記を誘導しようとしなかった
あくまで批判のための批判で、「架空戦記なんてよくならなくてもいい」立場なのに、「架空戦記は質が低い」と苦言を呈していたのだから、これもこれで情けない
全員に「戦略」なんて考える資格も能力もなかったわけだ -
タイムスリップとか異世界転世が悪いんじゃない
荒巻義雄が「タイムスリップ+異世界転世=パラレルワールドを改変する」という禁じ手を使ったことで、「架空戦記=禁じ手が許される小説」になってしまったんだ
ただそれを潔しとしない作家たちは、架空戦記に興味を持たなかった
「いいか悪いか」「面白いかつまらないか」ではなく、「禁じ手が許される世界には魅力がない」なんだな
架空戦記が小説としての欠陥を持つ構造だからこそ気付いた作家は参入しようとせず、反対に欠陥を持つ作家ほど参入したわけだ
ところが奇妙なことに、架空戦記に好意的な読者も批判的な読者も、この部分を理解していないという意味で共通していた
双方とも架空戦記作家と同様に架空戦記の構造を読み解けておらず、「架空戦記とはそういうもの」という同じ認識を有していたんだな -
普通の作家がタイムスリップ、異世界転世ものを書こうとすると「なぜ必要だったのか」を作中で読者に説明しなばならない
ところが架空戦記はタイムスリップ、異世界転世が起きて当然で、「なぜ」を説明しない
作家に確固たる方向性がないのだから、「とにかく起きた」で話を進めていく
言い方を変えれば、作家に方向性があれば、史実とは関係のないファンタジーの作品世界を立ち上げてもストーリーは進展するはず
架空戦記作家たちにそれだけの力量がないから、史実を拝借したタイムスリップ、異世界転世になってしまうと
同様にその世界を許容できる読者はもちろん、批判的な読者でさえ、こういう部分を読んでいなかった
「認識が違うから対立した」のではなく、「同じ認識をしながら対立した」んだな -
>荒巻義雄が「タイムスリップ+異世界転世=パラレルワールドを改変する」という
>禁じ手を使ったことで、「架空戦記=禁じ手が許される小説」になってしまった
「小説だから禁じ手を使ってもいい」という考えはあるだろうが、新たにその小説を「シミュレーション」と称しても許されるのかという問題が生じる
「禁じ手を使わない小説」を書く作家は胸を張って「シミュレーションではありません」といえるが、禁じ手を使っておいて「ただの小説ではなく、シミュレーション(に基づく)」とは普通の神経の持ち主ではとても口にできない
もはや「二重の禁じ手」であり、まともな作家、専門家、読者にとって架空戦記は小説としてもシミュレーションとしても魅力がないわけだ
批判する人たちもここを指摘するのが一番の痛撃なのに、読んでいないから急所を外した指摘に止まってしまう -
架空戦記が大衆向け娯楽小説であるなら、専門家からまったく知識のない人も納得でき、受け入れられる世界を作品構築しなければならない
作家が世の中の基準、規範に合わせるわけだ
ところが架空戦記は大衆向け娯楽小説なのか、専門知識を有さなければ読めないシミュレーションなのかをはっきりさせない
だからこそ能力のない作家、読み切れない読者を誘引し、他の作家や専門家、読者より優位に立つことで「俺たちこそ基準、俺たちに合わせろ」と強弁する
「自分たちに合わせた小説、シミュレーション」を楽しむのは自由だとして、考え方はカルトと大差がなく、多くの人たちには魅力を感じないから売れないんだが -
普通の小説は「テーマ性、ストーリー、人間ドラマ」が主だが、架空戦記では従の扱い
「テーマ性、ストーリー、人間ドラマ」のない、もしくは弱い作品のほうが圧倒的に多い
結局「ある、強い作品」を突き詰めれば「普通の小説」に収まってしまうし、そうなると「普通の小説ではない」という優越性が誇示できなくなるわけだ
どうして「ない、弱い」になったのかを考察すると、「陰謀論、歴史偽造を広めることが主目的」で、「能力はないが自意識の強い作家、読者が集まった」からだろう
確固たる作品をつくろうとする作家は多産や「読者からのリクエスト」という要求に応えられず、編集者や読者に疎んじられる
架空戦記の作家、読者は自分たちを優越だと信じているが。実際は愚者の楽園だったわけだ
「自分たちは最高」だと信じているから、「よくする」ことを拒絶したと -
何度も繰り返されているが、架空戦記を再生するには「専門家でも納得できるシミュレーション」にするか、「より多くの人が読める小説」にするかの2択しかない
軍事や歴史の知識のない作家、想像力の乏しい専門家の双方はこの点を理解しているから、架空戦記には靡こうとはしなかった
反対に靡いた架空戦記作家は「知識は専門家、想像力は作家」と自賛していたが、常識が欠落していたわけだw
売れ行きの低迷しているこの期に及んで、まだ最悪の選択に固執している
戦略がどうこう騒ぐが、自分たちは本職で決定的なミスを犯してどうすんだと
状況を改善するには「この作品はシミュレーションであって、娯楽小説ではありません」、「この作品は娯楽小説であって、シミュレーションではありません」と旗色を鮮明にするしかない
「できないことをできる」と自分や世間=読者を偽るのではなく、「捨てるべきものは捨て、できることに全力を傾注する」戦略の根本に立ち戻る以外の選択肢はないんだ
これができない作家は別のジャンルの小説を書いても面白くできないし、ここを理解できない読者は知識をつけても無意味だと悟ったほうがいい
しかし覚悟を決められる作家、読者がいれば、批判する連中もこの決断まで叩くのは卑怯ってもんだ -
架空戦記を「いい娯楽小説」にしようとすれば、「シミュレーション」にはならない
反対に「いいシミュレーション」にしようとしたら、今度は「娯楽小説」にはできない
「娯楽小説だからダメ」という批判は短絡的で、本当は「娯楽小説とシミュレーション、いったいどっちにしたいのか」と追求すべきなんだよな
「娯楽小説です」と作家、編集者、読者が返答するのは自由だし、尊重されるとして、それなら「シミュレーションとは名乗れないだろう?」と
荒巻義雄が「シミュレーション小説」という造語を用いはじめ、「どちらなのか」を曖昧にした
都合に応じて「娯楽小説、シミュレーション」と使い分けたことで、熟考しない=浅慮な作家ばかり参入したわけだ
結果「間違えても許される娯楽小説」を「間違えていないシミュレーション」とすり替えても、作家、編集者、読者の誰もおかしいとは感じなくなった -
〉すり替え
これは専門家の地位を貶める行為なんだよな
「専門家、シミュレーションなんてこんなもの」と読者が誤解し、専門家と専門知識に疑念、軽侮を抱かせる
さらに「この小説の読者は真面目な人が多い」と煽て、いい気にさせたところで偽情報を紛れ込ませると、立派な情報操作になるw
そのうえ第一人者と称される戸高まで一枚噛んでくると、批判派が考えている以上の危機だ
現状の架空戦記は「つまらない」というより、「存在自体が危ない」んだな
変な話、もし架空戦記を守りたい人がいれば、その人たちほど架空戦記の裏の人脈を糾弾しろよと
ところがそこまで熱量のある架空戦記好きもいないし、批判派も口だけみたいで、どちらもだらしないんだなw -
変な話、架空戦記全体の質が上がって売れ行きが伸びりゃいいんだよなw
「架空戦記が嫌い」というより、作家、編集者、愛読者はもちろん、批判派もそれを考えない怠惰さが「嫌い」だと
どうして架空戦記の品質が上げられないのかは、やはり立ち上げた作家、編集者が陰謀論や歴史偽造に接点のある人ばかりだった
だからこそ「娯楽小説なのか、シミュレーションなのか」を曖昧にするくせ、専門家や他の作家、そしてそれらの読者に喧嘩を売るような言動をした
そして後発の作家、編集者、愛読者だけではなく、批判派や軍事、戦記関係の作家や編集者たちも誰一人として気付ず、声も上げなかった
それぞれが怠惰だったのに、自分たちを棚に上げて「旧日本軍は」と批判したがる
現代人も、昔の人たちを批判できるほど偉くも賢くもないんだよ
昔の人たちを批判するヒマがあったら、現状を少しで改善すべきなんだがな
もっともそれができないから、批判することで悦に入ってるんだろうがさ -
言いにくいことを書いてしまえば、誰も「架空戦記を良くしようとは思っていない」んだろうさ
もし架空戦記が娯楽小説であるなら、一般の作家と読者の参入を認めなければならないし、シミュレーションであるなら、専門家の精査を受けなければならない
どちらだろうが、「自分たちは優秀だ」といままで信じていた架空戦記作家と読者たちの心の拠り所が喪失してしまう
「自分たちは娯楽小説もシミュレーションもできる」という優越感を抱いていたが、本当に優秀な人たちは「矛盾した目標を同時に達成できるはずがない」ことを悟っている
明け透けにいうなら、架空戦記とは愚者の楽園だったんだな
知識の有無なんて、実はまったく関係なかったんだ
ところがさらに愚かなことに、批判的な人たちもここを指摘できなかった
対立していたようで、本質は意外と近いところにいたわけだ -
架空戦記の質と売れ行きが上がれば、いい作品を書ける作家、編集者は儲かる
愛読者も嬉しいし、専門家や批判的な読者も文句を言えなくなる
困るのはいい作品が書けない作家だが、早めに見切りをつけて別ジャンルの作品か他の仕事に転職すれば、架空戦記に拘らなくても済む
みんな万々歳なのに、なぜかこちらへ進もうとしないw
作家や編集者は質を上げたくないし、批判的な読者も含めて質を上げない状況で満足している
それこそ架空戦記が娯楽小説であるなら、より多くの人が幸せになる方向を目指せばいいのに
それができない人たちが「旧日本軍の戦略、人事システムの問題は」と口にしても、説得力のカケラもない -
>誰も架空戦記を良くしようとは思っていない
>愚者の楽園
もともと歴史偽造や陰謀論に染まった作家たちが書きはじめたのだから、「いい娯楽小説」など書く気がなかった
「シミュレーション小説」とそれらしいブランドをつけたが、実態は「娯楽小説ではなく、シミュレーションだから正しい」「シミュレーションではなく、娯楽小説だから間違えてもいい」と姑息に使い分ける方便に過ぎなかった
これが「おかしい」と感じない作家、編集者、読者たちが集ったのだから、質など上がるはずがない
初期の作家たちが歴史偽造や陰謀論とつながっていたことにも気付かなかったのも、当然の帰結だと -
佐治芳彦も架空戦記ではないが、2001年10月に経済界から「石原莞爾 天才戦略家の肖像」って本を出していたのか
羅門祐人は2000年3月にベストセラーズから「覇王の軍」を出していたが、2000年9月から経済界に移籍し、2003年まで続いたんだな
どうやらベストセラーズの担当編集者が経済界に移籍し、新レーベルを立ち上げたってことか
それでベストセラーズで出していた、佐治も連れてったんだな
ベストセラーズは戸高、原の本も出しているし、陰謀論や歴史偽造に傾倒した編集者だったってわけだ
結局架空戦記の周囲には、まともな人間がいないんだなw -
架空戦記が存在すること自体は何も悪くないんだが、思想的、政治的にバイアスのかかった作家、編集者が参入すんなよと
批判派も指摘していないが、90年代からはじまった架空戦記はバイアスのかかった作家、編集者が立ち上げたんだな
もはや「面白いつまらない」「正確不正確」以前の問題で、おかしな話だが架空戦記から陰謀論、歴史偽造を切り離すことは、架空戦記の愛読者(バイアスのかかっていない作家、編集者)と批判派の利害が合致するはずなんだ
それなら一時休戦して共同戦線を張ればいいのに、どちらも親玉が戸高だったことに気付ない程度の知能、洞察力なんだから、それもできない
全員「自分(たち)の利益」しか目が向いていないから、戸高とかに騙されていたわけだ
そんな連中ほど「旧日本軍の戦略、人事システムの欠陥は」と口にしたがるのは、滑稽以外の何者でもない -
「架空戦記は娯楽小説なんだから、多少間違えてもいい」のだが、それなら「間違えている娯楽小説を、シミュレーション(に基づいている)と呼んでもいいのか」は別問題
「娯楽小説だから、間違えてもいいじゃないか」という人ほど、「だからこそシミュレーションとは呼んではならない」と言わなきゃ整合性が保てない
同様に「娯楽小説は多少間違えてもいい」と「間違えてもいい娯楽小説を使って、偽情報を流してもいい」とは違う話
読者は「作家、編集者は悪質な嘘をつかない」と信用しているから「多少の間違いも許容される」のであって、作家や編集者が「明らかな嘘」を混ぜ込むのは読者の信用、信頼を裏切ることとなる
明け透けに書けば、「架空戦記の読者はバカだから騙してもいい」と考えている作家と、「たとえバカでも、騙してはならない」という作家と、どちらが信用できるか?と -
〉旧日本軍の戦略、人事システムの欠陥
それこそ架空戦記の戦略、人事システム(編集者と作家の関係)がうまくいっていれば、ここまでの低迷も避けられただろうさ
これだけ凋落したのは戦略であり、人事システムが機能しなかったに他ならない
まともな人間なら自省するものだが、架空戦記に群がる作家、編集者、読者は別の相手に責任をなすりつける
旧日本軍であり、批判派であり、他の作家や専門家に攻撃の矛先が向くんだな
そういうことだから、自分たちを高める方向に力が向かないんだ -
架空戦記を書く前の佐治芳彦は超古代史の本を多く出している
そのうち「東日流外三郡誌」、「秀真伝」については戸高がオカルト本を刊行した八幡書店から刊行されたもので、とくに後者は荒巻義雄の「帝国の光」でも使われている
また太平洋戦争に関連する本も出しているが、ルーズベルト陰謀論に好意的に紹介している
正直な話、超古代史と太平洋戦争がどうしてつながるのかが理解できないw(架空戦記の愛読者は理解できるのか?)
ただ「架空戦記がダメ」という短絡的な批判じゃなく、「政治的、歴史的に問題のある作家が架空戦記を書いているのがダメ」というべきなんだよな -
まともな考えができる作家、専門家が「太平洋戦争で日本が勝つ娯楽小説を、シミュレーション(をしている)といってくれ」と言われたら、まず絶対に断る
「娯楽小説がダメ」なんじゃなくて、「娯楽小説をシミュレーションと偽る」ことは読者、社会を騙すことになりかねないのを理解している
架空戦記作家には、そういう意識が欠落してるんだな
だから専門家、他の作家を貶める発言ができるし、「間違えたら読者の自己責任」と責任転嫁もできる
「架空戦記が面白いかつまらないか」ではなく、「こんな架空戦記戦記作家たちに面白い小説が書けるのか」と
そもそも「面白い小説が書ける」なら架空戦記以外の小説で名を馳せられたし、専門家や他の作家とも仲良くできるし、読者に責任を転嫁する必要もないわけだしね
また架空戦記の愛読者だって、人並みの洞察力があれば、作家や編集者のおかしさを見抜けたはずだ -
架空戦記作家と読者が作品を介して相互承認しあうのは自由だとして、そのために「歴史のイフ」が適切だとは思わない
宇宙戦争でもファンタジー世界でも構わないし、史実の出来事、実在の人物、国家などを用いる理由はない
こう考えると、どうして架空戦記が「歴史のイフ」に拘る理由が見えてくる
作家、読者が自己正当化を図るため、敵であり、貶める相手が必要なのだ
つまり「本当の俺たちはスゴいんだ」という比較対象として、「歴史のイフ」を用いているだけに過ぎない(「歴史のイフ」を真面目に考える人ほど読めなくなる)
こういう世界観だから、陰謀論や歴史偽造にとっても絶好の繁殖地なんだよな
だから「後発の架空戦記作家、熱心な愛読者」ほど視野狭窄を起こし、初期の架空戦記作家が陰謀論、歴史偽造に接点があったことを読み解けなかった -
架空戦記が好きで、作家と読者が相互に慰撫、承認し合うのも自由だが、そこに入れない読者もいるし、その読者が知識や感性が劣っているわけでもない
ところが架空戦記の作家、読者は、自分たちの優越性を誇示するため、入れない読者を「知識、感性が劣っている」と決めつけたんだな
「娯楽小説をシミュレーションとすり替える」のと同じすり替えをしたわけだ
こういうことが平然と行われていることが「おかしい」と感じない作家、編集者、読者が集まっているから、架空戦記が面白くなくなった
それこそ「多様性」を口にしたがる左翼系の団体が、少しでも異なる意見を述べる人を排除するのと同じだな
架空戦記を再興させたいなら多様な価値観を認めなければならないのに、自分たちの優越感を最優先にしたことで多様性が喪失し、売れなくなったのだがな -
架空戦記の方向性が微妙に変化したってことだろう
初期の架空戦記作家にとって「陰謀論、歴史偽造を広める」ことが主目的で、その実現のため「売る」であり、「固定読者と連携をとる」だった
だが陰謀論、歴史偽造に染まっていない作家が参入したことで、主目的が「売る」、「固定読者と連携をとる」に変節したわけだ
もっとも娯楽小説は売らなきゃならないし、固定読者との関係を強化するのも悪くない
ただ「その小説をシミュレーションと呼んでもいいのか」、「その小説の作家、読者はシミュレーションを理解しているのか」は別問題になるはずなんだな
「小説なんだからシミュレーションとしての出来は不十分でもいい」し、「シミュレーションを理解していなくても作家、読者にはなれる=架空戦記を読んでなくてもシミュレーションを理解できる人がいる」んだよな
そこの境界を曖昧にしたがるから架空戦記の作家、読者の質も低いし、架空戦記の質も上がらないんだと -
陰謀論、歴史偽造を広めようとしていた初期の架空戦記作家は、売り上げを伸ばすとともに読者を誤った方向に誘導するため
・作中に間違えた情報を紛れ込ませる
・「僕が考えた最強兵器」などを登場させることで読者との関係を強める
・「この作品の読者は頭がいい、真面目」などと読者を煽てる
・他の作家、専門家、知識のある読者を貶める
という手法を用いた
「架空戦記が売れてる」と参入した作家、編集者は、「陰謀論、歴史偽造」という部分に気付かず、「手法だけ真似た」ってことだな -
>手法を用いた
・娯楽小説とシミュレーションとの区分を曖昧にした
もともと架空戦記は「小説としてのテーマ性」「人間ドラマ」が弱く、それらを書けない作家、読み解けない読者ほど集まる傾向が強い
後発作家たちは、先発作家たちが用いた手法を洗練した形で用いたわけだ
反面「なぜ舞台が太平洋戦争でなければならないのか」、「どうして歴史を改編せねばならないのか」という肝腎な部分をぶっ飛ばした訳で、そりゃ大多数の読者にとっては何の魅力もない作品ばかり出てくるわけでw -
架空戦記が面白くないなら、「面白くすればいい」だけなんだよなw
そこを苦悩している架空戦記作家がいればここまで凋落しなかったはずだが、これだけ悲惨な状況に陥っているのは、もう知識や表現技術以前の問題としかいいようがない
普通ダメ人間なら、ダメなりの努力しようとするものだし、それができる人間は何らかの魅力を発しているもの
架空戦記作家、読者はダメであることに安住しているというか、ダメであることを正当化する理由を求めているとしかいいようがないんだな
百歩譲ってそんな作家、読者が集まる場所としての小説があってもいいとして、それでは世の大多数の読者、その道の専門家は誰も見向きもしないでしょうと
ここに気付かない作家、読者が、歴史や戦略を考えても意味がないですよねぇw -
〉ダメであることを正当化する理由
佐藤大輔の「日本にとってマイナスの要素がプラスになっていたらどうなっていたかのシミュレーション」だな
それだけ日本に都合のいい状況が揃っていたら、誰がやっても「史実よりプラス」になるだけ
真顔で「シミュレーションしてみよう」「こんなに正確だ」という人がいたら気味が悪いw
それこそ「架空戦記にとってマイナスの要素がプラスになっていたら」現在より売れているだろうが、だからといって現状は何も変わらない
「そんなシミュレーションをするヒマがあったら、売れる作品を書きなさい」ってだけ
「シミュレーションが正しい間違い」ではなく、「高度なシミュレーションができる人なら、そのシミュレーションに意味がないことを理解している」はずなんだよなぁ -
1993年 「噂の真相」9月号発売、筒井康隆絶筆宣言
1993年 8月29日 角川春樹逮捕、角川書店社長辞任
1995年 角川春樹事務所設立
1996年頃 中央公論社で筒井、荒巻義雄の担当だったN、角川書店に移籍
1996年 7月 角川、オカルト雑誌ボーダーライン刊行(武田崇元の関係)
2000年 角川、角川春樹事務所社長辞任&収監
2004年 角川、出所
2005年 3月26日 「男たちの大和」クランクイン -
1994年頃 戸高一成、史料調査会&今日の話題社社長退任
1996年12月 呉市議会、海事博物館建設を表明
1997年頃 戸高、昭和館図書室長※
2004年 戸高、呉市参事補
2005年 4月23日 大和ミュージアム開館
※地元平和団体が反対を表明したが、仲裁したのが有名な平和運動家の芝田進午広島大学名誉教授
芝田の息子が、徳間&幻冬社で「紺碧の艦隊」担当編集者だった暁
叩けば埃が出そうw -
「男たちの大和」の企画は90年代前半からあった(大和沈没&終戦反息に合わせた95年公開を目指した)が、角川春樹の逮捕、収監で10年ほどずれ込んだんだな
それらの流れに合わせて90年に「紺碧の艦隊」が刊行され、内部に陰謀論などを混ぜ込もうとした
さらに「紺碧」では戦艦を否定していたのに、92年の「旭日の艦隊」で超大和級戦艦を登場させたのも、映画との相乗効果を期待した
また戸高が史料調査会退職後、架空戦記作家「日向仁」として活動後に昭和館に移籍したのも、映画と関係があった可能性さえある
陰謀論、金と名誉欲の亡者ばかり集まった訳だな -
架空戦記とは冷戦終了とバブル、日米開戦半世紀が重なった時期の仇花だったと
バブルが弾けても、「バブルを仕掛けたのは日本潰しが目的の、米の陰謀だった」という陰謀論で命脈を保った
ただ中と北の脅威が高まると、米の協力は不可欠となって、フィクションの中でも米叩きをしにくくなったんだな
変な話、日におけるフィクションの中での米叩きは、中や北から見たら有り難いのだし
そうなると、芝田進午のように米の核の傘の下で反戦反核と叫んでる連中とどこがどう違うのだと
米の核の傘の下で、「こうすれば日本は勝てた」と息巻いてるだけじゃないか
芝田の息子が「紺碧の艦隊」を立ち上げたのは、偶然ではないんだろうな
架空戦記を読んだ世代がネトウヨになったと言われるが、ネトウヨの生みの親の1人が共産党50年党員の息子だということを誰も知らなかったのだとしたら、本当に情け無い -
〉米の核の傘の下で反戦反核と叫んでる連中とどこがどう違うのか
「僕の考えた最強戦略、兵器」と「僕の考えた世界平和」のどこが違うのかと
最初に自分たちの「こうあって欲しい」という願望があり、それにとって都合のいい条件ばかり揃え、都合の悪い条件は排除していく
それを得意気に「どこが間違えているのか、いってみろ」と振りかざすと、やってることは同じなんだな
「正しいか間違いか」以前に、「それをする必要があるのか」ってことなんだが
「どれだけ正しくても、する必要のない問題だとしたら意味がない」んだよな
架空戦記のロジックは対極にいるはずの平和主義と同じだから、「紺碧の艦隊」担当編集者の父親が平和運動家であっておかしくはない -
架空戦記作家や読者の主張は、意外と左に近い
自分たちが少数派だと、多数派に対して「少数派の権利を守れ」と口にする
反対に自分たちが多数派になると、少数派に対して「多数派に従え」と言いたがる
架空戦記が大衆向けの娯楽小説であるなら、多数派に見向きもされない現状の架空戦記は「大衆小説として失敗」と認めなければならない
無論少数派にも楽しむ権利はあるのだから、多数派はその権利は守るべきだが
ただ自分たちが「架空戦記」のなかでは多数派なのだから、「俺たちの楽しむものに世の中が合わせろ」ってことになるんだよなw
「少数派向けの大衆小説」って、存在自体が矛盾しているのだが -
「紺碧の艦隊」とオウム真理教の機関誌で参考資料になった「操られたルーズベルト」の訳者馬野周二は技術者だそうだが、いろは以前に存在したとされる「ヲシテ文字」の研究もしてるんだな
この「ヲシテ文字」で書かれたとされるのが「秀真伝(ホツマツタエ)」で、これは荒巻義雄の「帝国の光」でも使われている
また戸高一成のオカルト本を刊行した出版社八幡書店、架空戦記を書いていた佐治芳彦も解説書を出している
八幡書店の創業社長武田崇元と馬野とは直接の接点はないが、徳間の担当編集者は同じだったらしい
さらに武田、馬野の著作を絶賛していたのが胡散臭い経済学者の小室直樹で、荒巻文通していたという関係だ
架空戦記は軍事でもSFでもなく、オカルト人脈がつくったようだな -
たしか小室直樹は東大数学科から京大院に行き、フルブライト留学をした超エリートで、本来なら官僚か大学に残れたはず
ただ奇行癖があって在野の学者となり、そのため官僚、学者には強烈な恨みを抱いており、著作で執拗に叩いている
小室の奇行奇癖だが、まず自分と意見が異なると即ギレする
テレビの生放送で女性評論家が反対意見を述べると急に立ち上がり、殴ったところまで放送された
またフリーセックス愛好家で、年一で北欧に行ってヤリまくってきたとか
青学国際政経の講師になったとき、講義中に参考映像として無修正ポルノを上映し、大問題に発展した
端的に述べれば病的な女性差別論者で、週刊誌で対談した漫才師の故横山やすしとはじめは「ロスケを銃で撃ちに行こう」と盛り上がったが、小室が「女はみんな女郎屋に売ってしまえ」と叫んだところ、親が女郎屋を経営していた横山が激怒し、「ロスケの前にお前を撃ち殺す」と言い放って席を立ったのだと
フェミニストのはずの荒巻義雄は、この程度のことも知らんのかと -
「架空戦記の闇」が確信めいてきたな
史実を改変するのが悪いのではなく、多少の誤記、誤認が問題でもない
90年代以降に流行した架空戦記背後には左右関係なく、狂信的な「日本はスゴイ」信者がいたってことだ
この考えを遡れば、戸高一成が盲信する木村鷹太郎のような、明治末期に勃興した「新日本主義」につながる
「日本はスゴイ」んだから「神代の時代まで凄かった」ってことで、「神代文字」や「竹内文書」といった偽書が創作された
戸高のオカルト本を刊行した八幡書店の武田崇元が結婚した、大本教の出口和仁三郎もこの流れだ
オカルト史観が源流になって、戦後の「太平洋戦争は米が仕組んだ=ルーズベルト陰謀論」などにつながった
さらに高度成長後の妙な教養ブームで、小室直樹など右系文化人が太平洋戦争時の政軍指導者を叩いたこともミックスされたわけだ -
そして冷戦崩壊とバブル、開戦50周年などが重なったと
対ソ危機がなくなり、経済が活況となったことで、「日本は米に勝った→俺たちなら、半世紀前でも米に勝てた」と思い上がったんだな
そんな時代背景に居心地の悪さを感じていた武田崇元、芝田進午の息子で徳間在籍の暁など狂信的左翼の一部が、娯楽小説に偽情報を混ぜ込み、世論をさらに右に煽ることで国家騒乱、転覆を企てようとしたわけだ
これが架空戦記のできた要因だったと
学術的なシミュレーション、歴史改変SF、純粋無垢な娯楽小説の要素を持ちながら、そのどれでもない
小室直樹のような俗流教養本の要素を加えた、キメラ的な小説が誕生する素地があったんだな
架空戦記の作家、編集者、そして読者は、これでも書ける、出せる、読めるのかな? -
「日本いい国強い国」という過剰信仰の一方が「神代の時代からいい国」史観であり、もう一方が戦後の憲法九条的平和論になった
そこに小室直樹、檜山良昭といった主流になり損ねた学者
荒巻義雄をはじめとした本流に乗れなかった作家の恨み辛みが加わり、架空戦記の原型となった
「主流、本流ではない俺たちこそ学界、小説界の中心にいるべきだ」という思い上がりと、「経済で米を凌駕した」という時代がリンクし、「俺たちだったら、太平洋戦争で米に勝てた=俺たちが日本の主流、本流になれた」って思いになったんだな
そこへ「小学校時代知恵遅れの同級生を虐めたことで、他の同級生から虐められたことを根に持った」関係者のような、読者のコンプレックスを煽ったんだと
「架空戦記がつまらない」ではなく、こんな背景から誕生した架空戦記が面白くなるはずがない -
「架空戦記がつまらない」のだから「面白くすればいい」の話で、「どうすれば面白くなるか」という建設的な議論をすればいい
「面白くできない理由」の第一は架空戦記作家、編集者、読者の頭が悪いからw
「頭がいい」作家、編集者、読者が揃っていれば、架空戦記の背景を洞察する力があっただけの話
洞察力がない連中が、シミュレーションや小説を理解できるはずがない
次に「シミュレーション」、「歴史改変SF」、「娯楽小説」のどれを選択するか明確にする
1つに選択したら「他の要素はしません」と言明し、能力を集中させる
あれこれ手を出して失敗するより、することとしないことを決めるべき
その程度の戦略の基礎ができない作家が、戦略について語る資格はない -
〉米の核の傘の下
一方では「俺たちは優秀、俺たちなら米に勝てた」
北や中国の危機が高まると「アメリカさん、助けて」
2つの使い分けがおかしいと感じない人間しか、架空戦記は読めない
つまり「この作品はシミュレーションではなく、娯楽小説」、「この作品は娯楽小説ではなく、シミュレーション」と使い分けても、おかしいとは感じないわけだ
また日本が敗戦したことによる核の傘の下による平和と経済の安定、「押し付けられた民主主義」の恩恵は欲しい
しかし「日本が勝利」したとしても、恩恵は保証されるどころか、さらにいいことが起こると考える甘ったれさ
左翼的平和主義と架空戦記の本質は意外と近い -
架空戦記が好きなのは個人の自由だし、それが悪いとは誰もいえない
しかし架空戦記が好きなら、作家や読者ほど架空戦記の問題に気づき、改善を行わなければならない
改善をしたうえで「こんなに面白い小説なんですよ」といえば、共感する人も増えるだろうさ
つまり架空戦記の問題とは恩恵を受けている作家、読者の怠惰さなんだよな
架空戦記が好きなはずなのに、バックにオカルト、歴史偽造、陰謀論が隠れていることに誰も気づかなかった
読み方が浅いうえ、一般常識が欠落してるばかりか、改善しようとはしない
そんな作家、読者が、どうして専門的なシミュレーションであり、多くの読者の心に響く小説が書ける、読めるのかと
「知恵遅れの同級生を執拗に虐めていた架空戦記関係者」の同級生が、「あいつの関わった小説が面白いわけがない」と吐き捨てていた意味がよくわかる
同級生は軍事や歴史の知識はないかも知れないが、関係者よりも一般常識、社会通念があったってことだ -
「知恵遅れの同級生を執拗に虐めていた架空戦記関係者」は、専門家めいたこともしているようだが
これまでの架空戦記作家、読者の振る舞いが、どれだけ専門家を不快にしてたかも理解できないようだな
「シミュレーション」は専門家の専任事項なんだが、たいした能力もない作家たちがズカズカと踏み込んできたことに、専門家の人たちはどんな顔をしてたかもわからんらしい
同級生たちが虐められている子、虐めを見せられている自分たちがどんな気持ちなのかを教えるため、関係者を虐めたの意味を理解しようとせず、恨み辛みを募らせたんだが(その恨み辛みの解消手段として見ていた特撮、時代劇の関係者も趣旨を取り違ええられたんだから、いい迷惑だろう)
そんな品性だから、架空戦記を嫌っている人の気持ちも理解しようとしない
専門家面している自分が、専門家からどう見られているかもわかっていない
取材を受けた某氏は「戸高に取り入っているだけで、自分が偉い、優れていると勘違いしている」と吐き捨てていたぞ -
〉知恵遅れの同級生は執拗に虐めていた…
架空戦記が娯楽小説なら多くの読者に合わせた内容にしなければならず、専門家は評価しない
反対に専門家向けのシミュレーションなら高度だが、今度は一般の読者が読めなくなる構造的な矛盾を孕んでいる
結果一般読者より知識はあるが専門家には及ばない読者向けに特化したことで、一般読者も専門家も見向きしなくなった
その種の読者は、架空戦記=作家が自分たちに合わせてくれるから、自分たちを過大評価してしまったんだな
「一般読者も専門家も、俺たちに合わせるべきだ」という信念を持ったわけだが、もともと「専門家、一般読者にはどう映っているか」が考えられなかったのだと
後に関係者となった熱狂的な読者は「自分が知恵遅れの同級生を虐める」ことで、「その行為が同級生にはどう映るか」を理解できなかった
「自分が虐めるのは是」だが、「(虐めを止めさせようとした)同級生の虐め」の趣旨は理解できず、ずっと逆恨みしてたような人間ほど架空戦記に没頭したというのは、なんとも哀れだよな -
「現代人がタイムスリップして戦局を変える」タイプの架空戦記は多いが、「タイムスリップなど非現実だ」的な批判ではなく
普通に戦史を調べていたら、「どうやって現代的な感覚を、80年前の人間に伝えられるのか」と考えてしまうんだな
現代人同士でも(同級生が虐めを止めさせようとしたのも理解できない関係者のような)アタマの悪い連中とコミュニケーションをとるのが難渋するのにw
折衷点を探るには現代人側から譲歩するものだが、大半の架空戦記では(オーバーテクノロジーの兵器の威力などを見せて)過去の側を現代に合わせようとする
これじゃ過去の人たちを未開人並みにみなしているようなもので、先人へのリスペクトの念すらない
それこそ横暴な未来人がオーバーテクノロジーの兵器現代の日本にを持ち込んで、「中国に勝つには、日本社会を抜本から変革すしなければならない」と言われたら、納得できるのかと?
自分(たち)が嫌なこと(同級生全員から虐められる)は、相手にもすんな(知恵遅れの同級生を虐める)よ -
過去の人たちと「一緒に改変しよう」じゃなくて、「優秀な現代人が改変してやる」という思い上がりなんだな
あくまで現代人から見た「勝ち負け」で、元からその世界にいる人たちの気持ちなんか考えていない
それこそ本当に優秀な現代人なら、「自分(たち)ごときが歴史を改変しても構わないのか」と恐れを抱き、悩むもんだ
改変という大事を軽々しく行おうとする人間なんて、「軽い、思慮がない」んだよ
だからこそ「対中戦の勝ち方を教えるから、俺たちに従え」的な未来人が来たら、どんなに嫌かと
「中国に負けたくない」と「未来人の改革がうまくいくか」は、別問題なんだからさ
仮に俺たち現代日本人のことを疎かにした改革を強行し、中国に勝ったとして、何が嬉しいんだ?
勝ったとしても内外に不平不満、蟠りがくすぶり、新たな暴発の火種が残るだけじゃないか -
「元からその世界にいた人たちに寄り添った改変」ではなく、「その世界に流れついた人たち主体の改変」だから、現代人=改変する側のエゴが剥き出しになる
左翼的な平和主義が成功しないのと相似で、当事者ほど状況を理解できていないのも同じ
「紺碧の艦隊」担当編集者が平和運動家の息子なのも首肯でき、架空戦記と平和主義はシャム双生児みたいなもので、両者が対立するのは同族嫌悪だと
「改革」はあくまで自分たち本意だから大多数から支持されないのに、それを「自分たちが優秀だから」とさらにすり替える
それこそ本当に「優秀」だったら、現状をなんとかしろよ
惨憺たる売れ行きを改善してこそ、「俺たちは優秀で、改変、戦略は正しい」と胸を張れるってもんだろ
架空戦記が売れてないのは、架空戦記を巡る状況を洞察できていない作家、編集者、読者ばかり残ったからで、そんな連中が戦略を語る姿は、実現不可能な平和論を語る平和運動家たちと大差はない -
>「元からその世界にいた人たちに寄り添った改変」ではなく、「その世界に流れついた人たち主体の改変」
「相手のことを尊重と理解し、自分との折衷点、妥協点を見いだそう」とするのではなく、「自分は相手より優れているのだから、自分に従うのが当然だ」という思い上がった感覚
の改変だから、独善的なものとなる
荒巻義雄が「紺碧の艦隊」の正誤表をつくってくれた読者の善意を誤解したように、相手が自分たちのことを考えて動いてくれたとしても悪意として受け止めるんだよな
そんな心理、意識で行われる「改革」なんて、普通は成功するはずがない
仮に「改革」が行われたとしても、ロペスピエール的な恐怖政治に陥るんだよな
右とか左とかではなく、極右や極左のような社会が誕生してしまう
だからこそ極左系の平和運動家芝田進午の息子がブームを煽り、安倍晋三応援団を自称した阿比留瑠比が「大ファン」と公言するという頓珍漢さが起きるんだ -
>「自分は相手より優れているのだから、自分に従うのが当然だ」という思い上がった感覚の改変だから、独善的なものとなる
知識の有無は関係なく、「作家に同調できる読者」、もしくは「小説の構造がおかしいと感じない読者」は架空戦記に熱狂できるが、「同調できない読者」、「おかしいと感じる読者」は読めないってこと
前者の読者は「自分たちの考えに作中(史実)の人物、他の読者が合わせてくれる」のが当然だと思っている
他者には「自分たちの価値観を認めろ」と声高に叫ぶが、自分たちは他者の価値観を認めるほどの寛容さを持ち合わせていない
常識的に考えてもそんな連中が唱える改変、改革がうまくいくとは思えないんだな
それが証拠に致命的なまでに売れ行きが落ちているのに、自分たちは何等改革、改革を行おうとはしないではないか
作中で連戦連勝ができるなら、もっと現実的な方向に架空戦記を変革しろよと -
現代人が過去にタイムスリップしたら、まず「どうやって過去の人とコミュニケーションをとるか」から考えるはず
「どこまで現代の知識が通じるか」、「どけだけ相手の意見を尊重するか」、「どこで妥協するか」となって、はじめて歴史の改変ができる
こういう要素を徹底的に書き込めば面白い「歴史改変SF」ができるだろうが、一番盛り上がる戦闘シーンが圧迫され、大規模な改変もできない(オリジナルの「戦国自衛隊」が限界)
架空戦記は歴史改変SFのなかで戦闘シーンを増加させて大規模な改変を起こす反面、改変に至るまでを圧縮してしまった
結果としてストーリー、人間ドラマは平板、登場人物も魅力がなくなり、多くの読者を引きつけられないんだな
無論架空戦記の作家、読者が「俺たちが納得しているからいいじゃないか」と居直るなら、売れ行きが低迷するのも容認しなさいよと
また架空戦記の作家、読者が思っている以上に、自分たちの頭が良くないことまで認めるのであれば、こちらが引き下がってもいいよw -
結局タイムスリップの歴史改編、パラレルワールドの世界の改編、そして架空戦記の共通多目的が、架空戦記作家と読者の「自分たちの優秀さ」を示すためなんだな
自分たちが支配し、他のすべて人たちは従属するというとんでもない思い上がりで
だから「つまらない、面白くない」、「飽きた」などの言葉で批判されるが、本当は「その改編に意味があるのか」ってこと
たとえ作家や読者と同等かそれ以上の知識を持っている人が読んだとしても、「世界を支配したい、他者を従属させたい」という思いのない人には「読めない」んだな
そうした人の気持ちが理解できない、共感力の乏しい作家、読者しか架空戦記は読めないと
なにより人の気持ちが理解できない、共感力の乏しい人間が主導する改革なんてまともなものじゃないwし、成功することもないw
売れなくなったのも当然の帰結であって、本気で架空戦記を「改革」しようとしたら、やはり現在の作家、編集者、読者の全員を放逐しなきゃならんわけで -
・タイムスリップ、パラレルワールドに流れ着いた人間が理想とする改革
・タイムスリップ、パラレルワールドに流れ着いた人間の能力で実現可能な改革
・タイムスリップ、パラレルワールドの元の住民が求める改革
3つは別個のものであり、「どれが正しくて間違い」というわけでもない
流れ着いた人間、元の住民の代表がコミュニケーションをとり、優先順位を決めていくもので、それを克明に描くのが「歴史改変SF」になる
手順を踏んで事細かく書くだけではなく、コミュニケーションギャップや(悪意のある、善意の)妨害まで触れれば、それはそれで読み応えのある作品になるだろう
しかし「それだけ書ける能力のある作家、読める読者は少ない」「量産化できない」「派手な展開がない」「改変が小さい」という問題もある
架空戦記は歴史改変SFの手法は用いたが、重要な要素を縮小し、派手で大規模な改変を起こすとともに、「能力のない作家でも書ける」「量産化に対応した」わけだな
その代償として作品、登場人物に魅力がなくなり、多くの読者も専門家も見放したと -
「架空戦記は嫌いだから、なくなればいい」的な批判は全然建設的ではない(この意見を突き詰めれば良質な歴史改変SF、アクション小説、ファンタジーまで不要となる)から、「嫌いだが、どうすればよくできるか」という改善策を考えなきゃならない
何度も繰り返されているが、あたかも「潜水航空戦艦」的な中途半端な「シミュレーション小説」ではなく、「純粋なシミュレーション」、「歴史改変SF」、「アクション小説」、「異世界ファンタジー」に再分割するのが最善だと
作家は自分の能力、方向性を見極めて「どれか」を選択し、その作品では他の要素を排する=小説をシミュレーション(に基づく)と偽らない
読者も「この作品は××ね」と理解を示し、他の要素を求めない
批判派も、作家、読者が違反行為をしていない以上は批判を慎む
三方一両損のように、3者がそれぞれ妥協しあうことで、架空戦記の質的改善が図られるのならいいじゃないかと -
ではなぜ「架空戦記の改革」が改革しないのか?
架空戦記の作品内で行われる改革と同様、架空戦記の作家と読者は「自分たちの求める、自分たちが主導する改革」以外はしたくないのだと
さらに愚かしいことに、架空戦記を批判している人間ですら同様に感じている
双方が双方とも「自分たちの方向性、主体」を主張することで歩み寄らないばかりか、悪意のない=善意の改革案を提示されても、荒巻義雄が読者からの正誤表を悪意で受け取ったように、「どうせ自分たちと同じで、そいつの方向性、主体を押しつけたいのだろう」と解釈してしまうんだな
つまり批判派を含め、改革を実行できる能力どころか意思、方向性すら持ち合わせていない人間が架空戦記というか戦史に集まり、旧軍指導部を断罪して喜んでいるわけで
そんなことだから、架空戦記の背後に歴史偽造とか陰謀論があることに気付かないんだよ -
自分たちで架空戦記を改革できない作家、編集者、読者が集まっているわけだから、作中で行われる改革も「自分たちに周囲が合わせてくれる改革」なんだよな
その意味で主人公が、自分に優しい異世界に転世する「なろう系」と近い
敵も含めて主人公たちに優しい、立ててくれるのだから、盛り上がりにも欠ける
もっとも「娯楽小説」で止まっていてくればそれもいいんだが、「シミュレーション」と言うのだから話がおかしくなる
主人公たちの思い通りに進むシミュレーションをどれだけ緻密に描こうが、そんなものを専門家がするはずもないわけで
というか「思い通りに進むシミュレーションが、これだけうまくいった」と口にしたがるのは、左翼系の平和運動家とどこがちがうんだか -
「小説だから思い通りの世界をつくって何が悪い」というのは正論なんだが、「思い通りになる世界の出来事をシミュレーション」しても「思い通り」になるだけ
ましてやその「小説」を「シミュレーション(に基づいている)」とするのは、話をすり替えている
「娯楽小説を書く、読む」のは何も悪くないが、「娯楽小説をシミュレーションと称する」のは良くない
架空戦記作家、読者は「俺たちはフィクションと現実の区別がついている」と言いたがるが、本当に区別がついている人はここまでついているんだが
つまり「小説のなかだけが思い通り」なのではなく、「外側、定義まで思い通り」にしようってことだな
「今は娯楽小説だから間違えてもいいんです」「今はシミュレーションだから間違えていないんです」と使い分ければ、誰だって専門家にも勝てるさw -
「私たちは専門家ではないが、間違えていない」「私たちは専門家ではないのだから、間違えても許される」
どちらも正しいが、並列するのはダブスタになるからアウトだと
架空戦記と左翼系平和主義は敵対しているようで、根本は似ている
間違えている娯楽小説を楽しむ自由は誰も否定できないが、その娯楽小説を「シミュレーション(に基づいている)」というのは反則行為になる
娯楽小説を「シミュレーションみたいに装う」のはギリギリセーフだとして、「シミュレーションのように誤解させる」のは、作家と編集者の読者への背信行為なんだな
軍事や歴史の知識以前に、そこを理解できる読者は読めなくなり、理解できない読者ほど騙している作家、編集者に同調し、売れ行きが低迷する要因になっている -
背信、反則が恒常化したから、大半の読者が見向きもしなくなった
どうして恒常化したかだが、一つは無理なブランディングだな
能力のない作家、編集者が、必要以上に作品の価値を上げようとしたわけだ
裏を返せば、「この作品はシミュレーションではなく娯楽小説だから、多少間違いがあります」と正直に申告したほうが、架空戦記の低迷を防げたかも知れないと
もうひとつは、やはり架空戦記の本当の目的が陰謀史観、歴史偽造を行うことだった
間違いを広めるのが目的だからこそ、「こっちが正しい、本流」と言い続ける必要があったんだな
読者を混乱させ、何が偽物で本物かを見分ける力を奪おうとしていたってことだ
架空戦記に限らず、こんな売り方をするものはどこかにひずみが出るものだ -
読者に背信行為をして誤誘導を促しておきながら、「間違えたら読者の自己責任」と自分たちが負うべき責任まで丸投げしてしまう
作家も編集者も、「娯楽小説だから」では許されないんだな
軍事や歴史の知識がまったくなくても、常識を持ち合わせている読者は自然と離れていく
こんな姿勢で架空戦記=娯楽小説を売られたら、安心して作品世界に身を委ねられないよ
「面白いつまらない」「正しい間違い」以前の、もっと根元的な話だと
これが「おかしい」と感じない作家、編集者、そして読者しか残らなかったんだから、架空戦記なんて所詮はその程度の代物だったんだ
一般通念から外れた連中が、戦略や歴史なんて語る資格はない -
架空戦記の実態を知っているのは、陰謀論や歴史偽造と接点のある初期からの作家、編集者だけ
途中から参入した作家、編集者は実情を知らぬままフォーマットに則った作品を書いていたと
「読者受けする」と「陰謀論、歴史偽造を広める」の双方の条件を満たそうとすると、「日本軍無双」とともに「米が仕組んだ=日本は悪くない」って展開になるわな
途中参入の作家、編集者も踏襲するわけで、いつしか陰謀論、歴史偽造のパシリ、片棒を担がされていたと
前にも書かれていたが、嘘が何重にも積み重なった構造になっており、もはや実態が何かすらわかっていない
架空戦記作家、編集者、読者もわからないんだから、批判する人もわかっていないわけでw
こんな不毛な方向に進むぐらいなら、早めに「シミュレーションではなく、娯楽小説です」とカミングアウトしておいたほうが、まだよかったんじゃねぇの? -
〉カミングアウトしておいたほうがまだよかった
架空戦記が目指すべき方向は「愛読者だけではなく、初見の読者も幸せになれる」だったはず
多少間違えていても、作家が「シミュレーションではありませんので、許して下さい」と頭を下げたら、批判派も受け入れるのが大人の対応ってもの
作家、編集者、愛読者、批判的な読者が自分たちのエゴ、要求を少し我慢し、妥協し合うことで「いい架空戦記」ができればよかったんだがな
ところが全員がエゴ、主張を押し通し、妥協しようとしなかったのだから、「いい架空戦記」ができる余地まで潰してしまった
おまけに両者の対立を煽っていたのが「第一人者」の戸高一成で、その戸高と歴史偽造を広める勢力がつながっていたことには誰も気づかなかった
戦史研究自体がズタボロなんだから、架空戦記がまともになるはずがないw -
架空戦記が「娯楽小説ではなく、シミュレーション(に基づく)」のであれば、作家は専門家と同等の責任を負うもの
「シミュレーションではなく、娯楽小説」であれば、作家は専門家と同じ責任は負わなくてもいいが、作家として小説を面白くする責任がある
「娯楽小説もシミュレーションもできます、やってます」なら、専門家と作家の責任を負わなければならない
結局架空戦記作家は、どの責任を負っているのかと
娯楽小説としても、シミュレーションとしても中途半端だろうに
「娯楽小説だからダメだ」の批判はおかしいが、せめて娯楽小説としての完成度を上げるべきだし、それを目指すなら「シミュレーション」なんかしなくてもいいはず
面白い娯楽小説を書けないから、「シミュレーションをやってます」というのは、世の中を馬鹿にしている -
〉目指すべき方向は「愛読者だけではなく、初見の読者でも幸せになれる」
架空戦記に限らず、すべての娯楽小説はここを目指すものなんだがな
架空戦記の作家、編集者、愛読者は、「自分たちだけが幸せになる」を目指しているのだろうなと
作品世界における改革も、架空戦記を巡る状況も、「すべて自分たちに合わせろ」
作品世界の住民のことも、読まない人や離れていった元読者のことも、何も考えていない
知恵遅れの同級生を執拗に虐めたことで他の同級生全員を敵に回した人間が熱狂的にハマって、同人から関係者になったってのも理解できるよ
人並みの共感力を持ち合わせておらず、自分が相手からどう見られているかを理解できていない
作品の改革なんて成功するはずもないし、架空戦記が売れるはずもない
そんなことだから、支持した戸高一成が歴史偽造をしていたのも見抜けなかったんだ -
>人並みの共感力を持ち合わせておらず、自分が相手からどう見られているかを理解できていない
某軍事系なろう系小説について、熱狂的読者とそうでない読者との評価が正反対らしい
前者の読者は著者はエリートサラリーマンというが、後者は「ここまで人の気持ちを顧みない人間は出世も、仕事も、管理も、営業も出来ない」とまでいわれている
単なる共感力の乏しさを、「冷徹さ」と都合良く解釈する読者しか読めないんだろうな
「エリートになれなかった」作家と読者が、自分たちだけに優しい作品世界を構築して「世が世なら、俺たちはエリートだったんだ」と互いに傷をなめ合っている
いやそういう卑屈な品性だから、あんたたちは仮に能力があったとしても、エリートにはなれなったんだよと
作品が面白いかつまらないか以前に、そういう作品を書ける作家、読める読者とはお近づきになりたくないんだよね -
>エリートサラリーマン
80年代頃にベストセラーズが出していた新書版カッパブックスなんかは「知的ビジネスマン向け」と称して荒巻義雄と親交のあった小室直樹、日下公人、長谷川慶太郎といった俗流右系文化人を重用し、「軍事の有用性」とともに「旧日本軍批判」を散々書いてたんだな
ところが啓蒙書としてはあまりにも薄っぺらく、本当に「知的なビジネスマン」だったら専門書を読んでますよと
つまり実際に読んでいたのは「知的コンプレックスを持つビジネスマン」に過ぎなかったわけで
また小室をはじめ著者もエリートコースを追われた人が多く、「本流のエリート」に対する恨み辛みで溢れていた
旧日本軍批判を行うのも、「自分たちを追い出した本流のエリート」を叩くのが目的だったんだな
こうした俗流ビジネス本、第三次世界大戦もの、終末思想=オカルトが絡み合ったのが、90年代に流行った架空戦記の源流なんだよ -
本当に知的レベルの高い読者は軍事、政治、歴史の専門書を読むが、高くない=知的コンプレックスを持つ読者には読めない
代償行為として専門書の内容を端折った俗流ビジネス本であり、架空戦記を読む
どちらも内容が薄いのはともかく、著者の誤認、誤誘導が混ざるリスクもある
小室直樹は東大数学科を出てるから「戦艦大和は砲数を減らしてでも長口径砲を積むべきだった」という主張には一理あるのだが、生産技術面以外に長口径砲に問題のあることを理解していなかった
もっとも専門家ではないのだから小室が間違えていても仕方ないのだが、小室の真の目的は史実のエリートを批判することであって、最初から自分の非を認める気なんてさらさらないんだよな
奇癖とともに、そういう歪んだ性格だから学会を放逐されたのだが
つまり小室は啓蒙書を書きたくて書いたわけではなく、自らの恨み辛みを読者の知的コンプレックスと共鳴させたかったのだと
その意味で、荒巻義雄や檜山良昭といった初期の架空戦記作家と被るんだな -
架空戦記を「良質な娯楽小説」にしたい作家ほど、自分がシミュレーションをしても専門家に劣るのを自覚しているから、他の作家や専門家の気分を害さないためにも軽々しく「シミュレーション」という言葉を使わないほうがトクだと認識している
「シミュレーション」という言葉を使って無理に自分の価値を高める反面、他の作家や専門家を敵に回すのが架空戦記作家w
最初から架空戦記を「良質な娯楽小説」にする気なんとなく、作家や学会で主流になれなかった作家の怨み辛みと読者の知的コンプレックスとを共鳴させたかったんだ
そんなことだから架空戦記が面白くならないんだがな
コンプレックスを持たない読者の心には何も響かないし、知的な読者は専門書を読めば済むだけ
また善意で間違いの指摘をしてくれた読者の行為まで、作家や読者は悪意に受けとってしまうわけで -
小室直樹、日下公人は奇書「太平洋戦争 こうすれば勝てた」を出している
そんな本を出すなら「こうすれば学会に残れた 小室直樹」、「こうすれば興銀崩壊を防げた 日下公人」を出せばいいw
そりゃ太平洋戦争の政軍指導者はバカだったが、小室も日下も仕事上で致命的なチョンボをしてるじゃないか
自分たちのミスには頰被りして、他者の失敗を一方的に叩くのは卑怯じゃありませんかと
しかし小室が荒巻と親交があったように、架空戦記作家と俗流右系文化人の胡散臭さは似てるんだな
強烈なコンプレックスを持ち、それを素直に認め、反省できないから、常に叩く相手を探している
自分ほどではないがコンプレックスを持つ読者を相手に薄っぺらい知識を誇示し、「世が世ならば俺たちは」と相互承認、慰撫をしている
どちらもコンプレックスのない人間には読めないんだな -
>強烈なコンプレックスを持ち、それを素直に認め、反省できないから、常に叩く相手を探している
軍事や歴史の知識がない相手には「こんなことも知らないのか」
自分より知っている相手には「知識があっても仕方ない」
この論法は架空戦記の作家、読者と同じなんだな
知識のない人には噛んで含めて納得させ、ある人間からは知らないことの教えを請うのがまともな人間ってもの
どっちもできないし、しようともしないから、コンプレックスを余計に捻らせる
多少知識や能力があろうが、人として素直じゃないんだよ -
>この論法は架空戦記の作家、読者と同じなんだな
普通の作家には「歴史、軍事の知識、危機感がない」
専門家には「想像力がない」
両者を叩くことで、自分たちは「知識、危機感、想像力がある」と悦に入っている
それだけ揃っている人たちの誰一人として「ブームをつくった編集者は共産党系平和運動家の息子」、「戦史研究の第一人者が、陰謀論や歴史偽造と接点があった」ことにお気づきにならなかったとはねw
つまり優越感を抱いていた知識、危機感。想像力も大したことがなかった
だからこそ陰謀論、歴史偽造を広めたい人の標的にされていたし、実際問題として全然売れていないのだと -
ある意味蓮舫、辻本清美とも似ている
自分たちが人を叩くときは周囲が嫌悪感を抱くまで叩き、少しでも自分たちが叩かれると逆ギレする
架空戦記が娯楽小説ならそれはそれでいいが、娯楽小説をあたかも「シミュレーション」かの偽るように振る舞うのは作家、専門家に喧嘩を売っているのと変わらない
そのうえで作家、専門家を批判するような言説を吐いておきながら、自分たちが批判されたら逆ギレし、挙げ句は「娯楽小説じゃないか」と居直るのはどうなのかと
知恵遅れの同級生を散々虐めておいて、それを止めさせるために同級生たちが自分を虐めはじめたのを逆恨みした架空戦記関係者のような人間しか、架空戦記は読めないんだな
「つまらない」以前に、そんな人間が関係するような小説が「面白くなる」わけがない -
〉娯楽小説じゃないか
娯楽小説なんだから「多少荒唐無稽でも構わない」として、その娯楽小説を「シミュレーション」と銘打つ、あるいは「シミュレーションに基づく」といってもいいのかと
「架空戦記がいいか、悪いか」ではなく、「娯楽小説なのか、シミュレーションなのかをはっきりさせましょう」ってことなんだけどね
「娯楽小説です」と断言できる作家、編集者、読者はシミュレーションとは言えないし、「シミュレーションです」と言い切れば今度は娯楽小説とは逃げられない
どちらをはっきりさせ、一方に全力を尽くせばいいだけなのに、架空戦記の作家、編集者、読者はそれを嫌がる
両者の区別を曖昧にすることで、他の作家や専門家、一般の読者に優越感を得ているだけだと
考え方が卑怯で卑屈なんだな -
〉両者の区分を曖昧にする
架空戦記の読者から批判する人への常套句は「フィクションと現実の区別がついてない」だけど、区別できている人ほど基準、境界線を明確にするもの
「ここまではフィクション、ここからは現実」とはっきりさせるのは、作家と読者の責任分担の意味もある
架空戦記は区別、境界が曖昧で、作家や愛読者の都合で「フィクション、現実」が入れ替わる
これは作家が自分の負うべき責任を読者に転嫁していることを意味し、普通の読者は「安心して楽しめない」と感じるんだけど、愛読者はそこに気づかないまま作家の肩を持つ
早い話が基準、境界線を明示できないってことは「定義」も確立できないってことで、ジャンルとしての地位も築けない
売れないのも当然だし、何より架空戦記の作家、読者こそ「フィクションと現実の区別がついていない」 -
シミュレーションを書く作家、専門家は「娯楽小説的な面白さはありません」と断言できる
また娯楽小説を書く作家も「シミュレーション的な正確さはないです」と言い切れる
架空戦記作家は「自分は娯楽小説も、シミュレーションも書ける」とはいうが、自分の作品がどちらなのかの明言は避ける
まさに「航空戦艦」なんだよな
シミュレーションに対しては「娯楽小説的な面白さ、想像力がない」、娯楽小説には「シミュレーションのような正確さがない」と難癖をつけるが、自分たちの作品は娯楽小説としての面白さに欠け、シミュレーションとしての正確さもない
娯楽小説なのに娯楽小説として、シミュレーションと言いながらシミュレーションとしては評価されないんだな
他の作家、専門家、そして両者の読者に失礼なんだよ
架空戦記が嫌いなのは、こういう下劣な品性の作家、編集者、読者が集まったからなんだ -
〉他の作家、専門家、読者に失礼
人の痛みを理解できない、共感力の欠けた作家、編集者、読者が集まっている
自分たちは「冷徹な判断ができる」と自負しているが、実態は無神経なだけ
そのくせ自分が、平素自分がしている行為で意趣返しされると、烈火の如く怒る
「知恵遅れの同級生を虐めていた」同人上がりの関係者が、「止めさせようとした同級生たちから虐められた」ことをずっと根に持ってるのなんて典型例だよな
「架空戦記が悪い、嫌い」なのではなくて、「特定の価値観を持つ作家、読者しか集まらない架空戦記だから悪い、嫌い」ってことなんだと
読まれない、売れないのは当然なんだよ -
「架空戦記の基準、他の小説、シミュレーションとの境界線を明示する→各運気の定義を確立する→架空戦記というジャンルの地位を築く」という手順を踏んでいない
現実世界の作家、編集者、読者は手順を踏まないのに、どうして「作品中の改変」がうまくいくのか?と
そのくせ「俺たちは優秀、あいつらは…」と口にするから、他のジャンル作家、専門家と双方の読者が架空戦記に嫌悪感を抱くんだな
裏を返せば手順を踏めるような作家は架空戦記の問題点まで理解しており、早い段階から「このままでは破綻する」と見通していた
しかし能力のあるない作家を登用して簡単に騙せる読者向けの作品を乱発し、ある作家を切り捨てていったのが現在の惨状なんだがな -
どうして架空戦記は(娯楽)小説とシミュレーションの境界線を明示しないのかだが、やはりバックが歴史偽造、陰謀論を広めている人たちだからだろう
架空戦記に没入する読者は強度の知的コンプレックスの持ち主で専門書を読めないか、読んでも理解できない
代償行為としての「専門書に匹敵する娯楽小説」という位置付けにすると飛びつく
そこでカルトの勧誘方法である褒めまくりをしながら、少しずつ作中に偽情報を紛れ込ませる
最後に「間違えたら自己責任」と、梯子を外すって寸法だな
読者は知らず知らずのうちに偽情報を掴まされていただけではなく、責任までなすりつけられていたと
もっとも作家の大半も、読者と同様に騙されているんだろうが、「読者を守ろう」としなかったのだから当然の報いだ -
結局架空戦記の作家、編集者は「読者を守ろう」って意識がなかったんだな
お金をいただき、応援してもらっている相手を腹の底から馬鹿にしていた
架空戦記の愛読者は一般人より多少知識はあるのかも知れないが、そこを読み解けなかった
反対に一般の読者は知識はないかも知れないが、「なんかおかしい」と気付いて距離を置いたと
架空戦記の愛読者は「知識のない人間には読めない」と嘯き、専門家には「知識があるだけで想像力がない」と批判し、自分たちは「知識も想像力もある」と自負していたが、実際は陰謀論と歴史偽造のパシリをさせられてたってことだな
同様に中途参入した作家、編集者も、架空戦記の裏事情まで読み解く洞察力を持ち合わせていなかった
読者を含め、陰謀論や歴史偽造を広めたい人たちにいいように遊ばれてたわけだ
こんな作家、編集者と読者に、戦略なんて語る資格はなかったんだな -
基本的に小説は「多少間違いがあってもいい」し、読者も必要以上に追求しないものだし、作家も間違いに気付けば「間違えました」と謝れば済む
架空戦記には「謝れば許される間違い」とともに、「許されない間違い=意図的な誤認、誤情報」があったわけだ
荒巻義雄が用いた歴史修正学は米の反社会的団体が広めたものだし、「ルーズベルトが真珠湾攻撃を仕組んだ」もまともな歴史学者は相手にしていない
「東京初空襲は原爆投下の予行演習」なんて、元ネタ不明の代物だ
「許される間違い」のなかに「許されない間違い」を混ぜ込み、読者を誤誘導させようとしたんだな(荒巻の参考資料がオウム真理教で使われた。学研が架空戦記を出したときの編集総責任者が、麻原が「ムー」に寄稿した際の編集長、がリンクする)
だから正誤表をつくった読者の善意を、「いらん邪魔をするな」と悪意で返したのだと -
「面白いつまらない」「正しい間違い」以前の、「安心安全」がないんだな
つまらなくても、多少間違えていても、「読者が安心できる、安全な作品」にはまだ救いがある
ところが架空戦記には特定思想に関係した作家、編集者がいたから、安心も安全もなかった
はじめから読者のことなんか考えていなかったんだな
知識の有無は関係なく、「おかしい怪しい」と気付いた読者は離れたが、残った読者は気付かないままに陰謀論や歴史偽造を植え付けられていた
救いのないことに中途で参入した作家、編集者も、初期の作品をフォーマットにしたことで陰謀論、歴史偽造を広める片棒を担がされていたわけだ
「安心安全」がないんだから、架空戦記を読んでも誰も幸せにならないんだな
「架空戦記自体が悪い」とは言い難いが、「この程度の架空戦記」なら今すぐなくなっても構わない -
例えば「ルーズベルトが真珠湾攻撃を仕組んだ」にしても、作家が「こういう説もありますが信憑性はありませんし、私も信用してません」と断言し、そのうえで「小説を面白くするために用いたのであって、読者の皆さんも御理解下さい」と書いておけば、作家としての責任は果たしている
それでも読者が陰謀論を信用してしまったら、「自己責任」と突き放しても問題ない
架空戦記にはこういう配慮がないんだな
だから娯楽小説とシミュレーションの境界線を明確にしたがらない
「娯楽小説だから間違えてもいい」と出どころの怪しい説をもっともらしく紹介し、「ただの娯楽小説ではない」と価値のあるように演出する
読者が間違えれば「自己責任」と自分の負うべき責任を棚上げし、間違いを指摘されると「間違えてもいいんだろ」と逆ギレする -
身も蓋もないが、架空戦記作家って架空戦記自体や読者の質を高めようとは思っていないように感じる
読者の喜びそうなこと、売れそうなことを書いてれば事足りるというか
その意味では陰謀論や歴史偽造も読者が喜び、売れそうな内容なんだな
しかしいくら売れるからといって、陰謀論や歴史偽造を広めるような作品を書く作家を信じられるのかと?
何より「娯楽小説としては間違えていない」にしても、その小説を「シミュレーション(に基づいている)」といってもいいのかと?
読者と社会に対する背信行為としか思えないんだな
そういう情況を「おかしい」と思わない読者しか読めないわけで、その読者たちが怪しい価値観を植え付けられても、架空戦記作家は「読者の自己責任」と冷たく切り捨てられるのだろう
架空戦記がその程度の存在なら、この世から消え去っても誰も悲しまない -
「架空戦記作家を批判するのは失礼」という意見もあるが、「架空戦記作家が他者を批判する」のも失礼ではないのか?
檜山良昭の「大戦略日独決戦」の著書の言葉に「歴史にIFはないとは想像力のない学者馬鹿の寝言」とまで書かれていたが、さすがにこれは学者に対して失礼というものだろう
そもそも檜山は大学院で指導教官と大喧嘩したことで学者への道が閉ざされたのだから、学者に対する恨み辛みで小説を書きはじめたんだよな
「作家、小説のIF」と「学者、専門書のIF」は似て非なるもので、檜山の言葉は誤解を招きかねないんだ
そしてこんなことを書けば、フィクションと現実の区別が付かない読者が檜山の言葉を真に受け、「学者なんて大したことがない」と思ってしまう危険性まである
なにより檜山は、戸高一成や荒巻義雄と同様に、偽史の書籍を多く出している八幡書店の武田崇元とも面識があるわけだ
「偽史を広める」と「学者=正史の信用を落とす」は同じなんだな -
>「偽史を広める」と「学者=正史の信用を落とす」は同じ
「娯楽小説」と「架空戦記=シミュレーション小説」、「架空戦記」と「シミュレーション」の二つの境界線を明示しない
つまり強引な三段論法を使えば、「作家が面白おかしく書いた娯楽小説」を「専門家が書いたシミュレーション」にすり替えることまでできてしまう
こうやって学者、専門家の価値、信用を落とし、作家がその間隙に入り込み、ところどころで出所の怪しい学説、陰謀論を混ぜて広めていく
おまけに戦史研究の第一人者と評される戸高一成が一枚噛んでいるのだから、大多数の人にこれだけ複雑なトリックを見破るのは不可能に近い
便乗して架空戦記を書き始めた作家、架空戦記を読んで爽快感を得ていた読者の皆さんは、どう思われますか? -
別に架空戦記があってもいいんだが、
・「紺碧の艦隊」担当編集者の父は共産党系平和運動家(学生運動家のバイブルの著者)
・学研編集総責任者はオウム真理教の麻原彰晃がムーに寄稿したときの編集長(戸高一成が寄稿したときの副編集長)
・「紺碧の艦隊」で紹介されていた「操られたルーズベルト」はオウム真理教機関誌でも紹介
・ムーの編集顧問武田崇元は戸高、荒巻義雄、檜山良昭と親交がある(他に疑わしい作家もいる)
・武田経営する八幡書店は偽史、陰謀論の書籍を多数刊行(戸高も3冊出し、経営参画していた戦記出版社の経営権も譲渡)
・八幡書店には麻原が出入りし、オウム事件直後に武田も東京地検特捜部から任意聴取
これぐらいは、「架空戦記が好きな作家、読者」が調べておけよと -
>これぐらいは架空戦記が好きな作家、読者が調べておけよ
「架空戦記を理解できないヤツは頭が悪い」、「佐藤大輔を理解できる読者は自衛隊の幹部学校に入学できるレベル」と今まで散々書いていたじゃないかw
架空戦記の背後にこんな問題が隠れていたのを、どうして今まで気づかなかったんだ?
読者、世論のステルス的な誤誘導があったのに、それを20年、30年も読み解けなかったなら、頭はそんなに良くないねw
それとも作家、読者が標準的な知能なら、読み解いた人間は神級だと認めるのかな? -
もっとも「架空戦記が好き」な側だけが悪いってことでもない
「嫌いだ」といって批判していた連中も、架空戦記の裏事情を読み解いていたわけではなかった
神立尚紀、大木毅という面々も、戸高一成が架空戦記に関係していたことを読者に伏せていたが、戸高がオカルトと関係していたことにはまったく気づかなかった
それなら批判していた架空戦記側と大差がないってことだなw
結局読者などに誤情報を掴ませていたが、自分たちも誤情報を掴まされていたってことだ
大丈夫かね、日本の戦史研究は?
正当的な戦史研究がだらしないから架空戦記みたいのものが跋扈したってことで、あんまり悪様には罵れないんだよ
裏を返せば架空戦記がつまらないのは、正当的な戦史研究もつまらないってことなんだな -
>正当的な戦史研究もつまらない
大和ミュージアムの復元零戦の修復費の疑惑が出たとき、零戦の会有志とミュージアムを訪問していた神立尚紀は「知らない、わからない」と惚けたんだな
平素「俺はジャーナリスト」「日本で一番零戦の調査をしている」「俺が一番零戦を愛してる」といきってたのに、「俺が調査する」と指揮官率先的なことを言わなかった
早い話が真っ先に逃げたんだから、薄々不正は知っていたのだろう
そんなことだから、館長の戸高一成とオウム真理教の麻原が出入りしていた出版社社長の関係も見破れなかった
オウム事件の取材で、教団から出された飲料を口にして、翌日全身が痺れた目にあったのにさ(オウムの取材もちゃんとやっていたのかね?)
また自著で架空戦記の批判をしておきながら、戸高とはズブズブの関係で、読者や零戦の会会員には戸高が架空戦記の黒幕だってことは一切隠していた
戸高同様、卑怯者はああいう顔をしてるのだろうな -
>オウムの取材はちゃんとやっていたのかね
戸高一成がオカルト本3冊を刊行した八幡書店の通販で、脳波誘導マシンが発売されているw
麻原彰晃はこういうのを真似て、信者勧誘使っていたんだな
それが地下鉄サリン、松本サリン、坂本弁護士一家事件などにつながった
たしかに坂井三郎はネズミ講の広告塔だったし、多大な損害を受けた零戦パイロットもいるのも事実
神立が坂井を悪様に罵る気持ちもわかるが、オウムであり、経営のモデルとなった八幡書店の被害者はどうなるんだよと
そんな阿漕な商売をしてるヤツと戸高は半世紀近く交際し、角田さん、岩井さんをはじめとする零戦パイロットが著作を出した今日の話題社の経営権まで取られたんだがな
何より神立は平素から「歴史偽造は許さない」と叫んでいたのに、戸高が歴史偽造書を出している八幡書店から著作を出していたことに気付かなかったとはどういうことだ
これだけ粗雑な神立が、零戦についてちゃんと調べているとは思えないんだなw -
オウムが武装革命を起こすため、自衛隊員を勧誘していたのは事実
麻原彰晃の師であり、戸高一成の著作を編集した武田崇元も革命家を自称してたんだな
そして武田と親交のあった荒巻義雄の「紺碧の艦隊」冒頭で、クーデターが発生
おまけに荒巻の担当編集者の父親も共産党50年党員だで、荒巻が「紺碧」で絶賛した本がオウム機関誌でも紹介されていたと
偶然にしては一致し過ぎてるんだよな
武田の経営する八幡書店は、国家騒乱を起こすために偽史、陰謀論を広める目的で設立されているし、メディアミックス戦略の一環としてコミック、SF小説とも強い結びつきがある
おまけに戸高と共著が多い原勝洋もルーズベルト陰謀史観論者だしな
架空戦記が陰謀史観を広める目的でつくられたのだとすると、面白いつまらない以前の問題になってしまう -
「架空戦記とシミュレーション、架空戦記と娯楽小説との境界線を明示しない」、「明らかに能力的に問題のある作家も受け入れる」、「歴史改変をしても、歴史改変SFにはしない」、「常に日本軍チート」も一本の糸でつながりそうだ
境界線を明示すると、歴史偽造や陰謀論を扱った娯楽小説を専門的なシミュレーションにすり替えられなくなる
歴史偽造や陰謀論を広めるには、境界線がないほうが都合がいいんだな
質の低い作家もいなければ、基礎的な知識のない読者を騙せない
歴史改変SFより、チートのほうが偽情報を扱いやすいと -
書きたくはないけど、書いたほうがいいかな
架空戦記に集まる作家、編集者、そして読者には人間的として問題がある
「架空戦記が悪い」のではなく、「質の低い人間が集まったことで架空戦記が悪くなった」ってことだ
ブームを立ち上げた初期の作家、編集者がオカルト、陰謀論、歴史偽造と接点のあったことに、ブームで参入した作家、編集者、そして読者は誰一人として見抜けなかったんだな
そして何の疑問も抱かぬままフォーマットに沿った作品を乱発したことで、敵視していた作家や専門家、知識はないが常識のあった一般読者から見放されたことにも気付かなかった
明らかに自分たちが問題なのに、「受け入れない社会が悪い」と思っているのだから、ジリ貧からドカ貧になった -
架空戦記が娯楽小説であるなら、他の作家や一般読者を味方につけるもの
反対にシミュレーションなら、今度は専門家の後立てをもらうもの
結局架空戦記は「どちらでもない」から、両方の信任を得られなかった
初期の作家が作家、専門家の双方に敵意を抱いている人たちだから、「普通の戦略」をとれなかったんだな
しかし架空戦記作家たちと同様に社会からの疎外感をもっていた読者が反応してブームになり、その後に参入した作家、編集者も手法を踏襲したわけだ
架空戦記は作家、編集者、読者が相互慰撫をし合う場となり、他の作家、専門家、一般読者は見捨てていったと
挙句は批判派も含め、「どこがおかしいのか」を客観的に見れなくなったんだな
背後に歴史偽造、陰謀論がいることに、誰も気づかなかったんだ -
「(娯楽的要素を排除した)専門的なシミュレーション」「歴史改変SF」「(史実を弄らない)アクション小説」「(史実とは関係ない)ファンタジー」のどれかにするのが、一番いい解決策だったのだろうね
しかし上記の4つには歴史偽造、陰謀論を混ぜ込めない
そのため「どれでもない架空戦記」が必要だったわけだが、結果的にどの要素も中途半端になった
シミュレーションや改変SFほど正確ではなく、アクションやファンタジーほど面白くならない
悪いけど、それが現在の惨状だと
つまり架空戦記の現状をおかしいとは思わない作家、編集者、批判派も含めた読者は「戦略の基礎」を理解できていない
先の4つのどれかに特化すればまだ架空戦記が助かる道はあるのかも知れないのに、どれも選択できないまま座して死を待っているようなものだ -
>まだ架空戦記が助かる道はあるのかも知れない
「架空戦記は間違えているからケシカラン」的な批判じゃないから、助かる道は明示している
架空戦記作家の全員は無理だとして、たとえ数人でも、いいものを書ける作家が生き残ればいいんだよ
「架空戦記の命脈を断つ」のが目的ではなく、「いい架空戦記が残ればいい」だけなんだからさ
しかし生き残るためには、編集者や読者も含めて、まず陰謀論や歴史偽造と手を切りなさい
次に気付かなかった自分たちの洞察力の無さを自覚しなさい
そして他の作家や専門家、一般読者に愚弄するような言葉を吐いてきたなら、謝罪しなさいよと
この程度のこともできなかったから、いままで架空戦記に騙されてきたんだよ -
>洞察力の無さ
「洞察力のある作家」は、陰謀論や歴史偽造を広めたい人から見れば使い難いw
「無い作家」のほうが疑問を抱かないから扱い易い
結果「無い作家」が優先的にデビューし、「ある作家」のほうが干される
また「無い作家」だからこそ、「娯楽小説をシミュレーションと偽る」ことがおかしいと感じない
「ある作家」だと「専門家や読者に失礼」と反発するからな
読者も同様で洞察力のない読者ほど騙し易いので、陰謀論や歴史偽造をしている人には有り難い訳だ
多少知識があろうが、実は関係ないんだなw
この程度の作家や読者が、高度なシミュレーションができるとはとても思えないんだよ -
洞察力の無さでは、架空戦記批判派も大したことは言えない
神立尚紀、大木毅は戸高一成と20年以上親交があったのに、歴史偽造と接点があるのにまったく気付かなかった
神立はオウムの取材をしたのに、戸高が麻原と同じ出版社に出入りしていたのも知らなかった
また神立の読者も、神立が架空戦記を批判していたのに、神立と親交のある戸高が架空戦記の黒幕だったことには気付かなかった
神立は読者を騙していたが、戸高には騙されていたし、神立の読者は2人に騙されていたことになる
これで架空戦記の作家、読者を笑える立場にいますか?
バカさ加減は似たようなものじゃないか
大木も大木で、よく戸高と一緒になって旧軍指導者を批判できるものだと
架空戦記がクソなのは、批判する人間もクソ揃いだからなんだがな -
シミュレーション、歴史改変SF、史実を弄らないアクション小説、史実と関係のないファンタジー
どれが良くて、どれがダメって話じゃない
しかし架空戦記がダメなのは、すべての要素を入れながらどれも中途半端なんだな
そして中途半端だからこそ、陰謀論や歴史偽造を広めたい人には絶好の場所となった訳だ
つまり「現行の架空戦記」というフォーマットは完全に行き詰まっている
「荒唐無稽な娯楽小説」を「専門家に匹敵するシミュレーション」と偽るなんて、まともな教育を受けてきた人間には書けないし、読めないよ
ただ前記の4つに分化すれば、陰謀論や歴史偽造と手を切りつつ、なんとか架空戦記の命脈を保てるってことだ
残念だがこれぐらいの荒療治をしないと、現在のドカ貧どころでは済まなくなる
最後の足掻き、意地を見せるか、それとも座して死を待つのか? -
「荒唐無稽が悪い」んじゃなくて、「荒唐無稽が許される状況設定を構築」すればいい
大和が空を飛ぶとかキャタピラを履かせる話があったけど、史実の日本やアメリカを出す理由が感じられない
ましてや「荒唐無稽な娯楽小説」を「シミュレーション」と銘打たれると白けるよ
専門家ほど一顧だにしないし、娯楽小説としてもカタルシスを感じない
荒唐無稽な話にしたかったら、史実とは関係のないファンタジーまで振り切ればいいのにね
風の便りで聞いたが、この架空戦記を大和ミュージアムで聞いた戸高一成はけらけら笑ってたそうだな
第一人者がそんな態度で、どうすんだと
第一人者が毅然とした態度を見せらないようだから、架空戦記もつまらないんだよ -
荒唐無稽な兵器同士を戦わせたかったら、それもいいよ
でもやっぱり史実の日本やアメリカを登場させる理由はないんだな
ましてやその小説に「シミュレーション」と銘打たれたり、「この小説の読者は歴史を真面目に考えている」とか書かれると白けるよ
正確なシミュレーションをするなら娯楽小説的な面白さは捨てる、娯楽小説としての面白さを優先するなら「正確なシミュレーション」なんて口が裂けても言わないのが常識なんだがねぇ
「1940年ぐらいの科学技術力を持つ、架空の国同士による戦いのファンタジー小説」にして、好き放題架空の兵器を出して戦わせれば誰も不快にならないんだよな -
「専門家が評価するシミュレーション」や「歴史改変SF」、「史実に則ったアクション小説」では「日本がアメリカに勝つ」ことはできない
「史実と関係ないファンタジー」では日本やアメリカを出す必然性がない
「架空戦記」はそのどれでもないから、縛りを受けなくてもいい
都合に応じて「娯楽小説ではなくシミュレーションです」「シミュレーションではなく娯楽小説です」と使い分けるため、両者の境界線を意図的に設けない
そのうえ最後には「読者が間違えたら自己責任」と作家や編集者の責任を棚上げできる
歴史偽造や陰謀論を広めたい人たちには絶好の場所なんだな
架空戦記が好きな人間はもちろん、嫌いな人たちも一番重要なことを理解していない -
歴史偽造や陰謀論を広めたい人たちは、「シミュレーション、歴史改変SF、アクション小説、ファンタジー」であっては困るんだな
彼らが架空戦記に拘るのは、既成の小説では偽情報を広められないからなんだと
その狙いを隠しながら架空戦記に過度なブランディングを施し、他の小説=作家、専門書=専門家を貶めていた
「架空戦記が面白いかつまらないか」以前に、こんな背景が見えたら白ける
もっというなら「面白くならない小説」ってことだよw
架空戦記が現状のままなら確実に破綻するだけのこと
ドカ貧から破滅に向かうなら、陰謀論なんかと手を切って生き残りに賭けりゃいいのに
その決断ができないなら、史実の指導者の批判なんてするな -
「とにかく日本が史実以上の軍備を持って太平洋戦争に勝つ」フォーマットは、読者が喜ぶ以上に陰謀論や歴史偽造を広めるのが目的だった訳だ
単純なフォーマットほど「日本は悪くない→アメリカの陰謀」って展開にできるからな
もちろん「日本が悪くない」であって欲しい願望があっても、その目的を達成するために陰謀論や歴史偽造に頼るってのはおかしい
歴史を弄るのがいい悪いではなく、それ以前の問題だと
しかも背後関係を隠しているから、なおさらタチが悪い
架空戦記自体が悪くないにしても、陰謀論や歴史偽造の片棒を担ぐようならとっとと消え去ってもらいたい
作家、編集者、読者が早く決断をしないと、本当に社会の敵にされてしまうぞ -
「架空戦記は娯楽小説なんだから、多少ご都合主義の展開があっても許される」は誰も否定できない
しかしその架空戦記=娯楽小説を、「シミュレーション(基づいている)」というのはおかしい
「ご都合主義の展開があっても許される娯楽小説」は、「シミュレーションであることを否定している」から存在できるんだよな
佐藤大輔と霧島那智の知識量はともかく、どちらも「シミュレーションをしていない」という部分は同じだと
「シミュレーションをしていないのが悪い」んじゃなく、「やってません、してません」と自己申告してりゃいいだけ(申告してるのに「やってない、してないとはケシカラン」と怒るのは真性のバカ)
架空戦記の問題は作家、編集者、読者がこの申告をせず、さも「できる、している」と振る舞うことなんだな
自分自身であり、作品に自信のある作家は「やってません、してません」と口にしたほうがトクだと判断し、ない作家ほど「できる、している」といったほうが自分と作品の価値を高められると思っている
どちらの作家を信用できるかって話だよ
こうなると知識以前の常識であり、良識の問題なんだよな -
〉「できる、している」と振る舞う
「シミュレーションができない、してない」のは恥ずかしいことではない
作家は「シミュレーションができなくても、してなくても」、いい小説を書いてお客さん=読者が納得する小説を書けばいいだけのこと
「いい小説を書く」のが最優先で、「いいシミュレーションを書く」のはさほど重要なことではない
架空戦記作家の嫌らしいところは、「いいシミュレーションを書ける」と喧伝することで自己評価を無理に高め、他の同業者=作家を貶めている
そしてもっとも重要な、「いい小説を書く」は後回しになっているのには気付かない
架空戦記作家が普通の小説を書いても売れなかったのは、普通の作家と優先順位が違うからなんだな
自分たちの愚かさを棚に上げて、他の作家たちを逆恨みしている訳だw
そんな懐の甘さを、陰謀論や歴史偽造を広めたい人たちに狙われたんだが -
逆説的なようだが、「シミュレーションをしてません」と言い切れる作家(作品)のほうが、「してます」という作家(作品)よりも信用できる
作家が書くのはあくまで「いい小説」であって、「いいシミュレーション」は二次的なものだ
「シミュレーションをしていない作家」は全力を小説に振り向けられるが、「シミュレーションをしている作家」は振り向けておらず、作品は小説としてもシミュレーションとしても中途半端になりかねない訳だ
架空戦記作家は自分を高く売るため「シミュレーションができる」とブランディングするが、実は作家としての問題点を露呈しているんだな
またそういう売り方を勧める編集者、おかしさを感じない読者も同様だと
こういう人が群れるのだから、架空戦記はつまらないんだよ -
「架空戦記がつまらない」と言われて腹が立つなら、反論する前に「面白い架空戦記」を書けよと
初版2〜3千も売れてない作家とその読者が偉そうにする資格はないんだよw
現状で売れていない、新規の読者も増えない、古い読者は見捨てるという末期症状なんだから、何か打開の手を打てって
現実世界で何もしないくせ、作中では連戦連勝、挙句は「史実の指導者は」と偉そうに構えてどうすんだ
その程度の作家、読者だから、陰謀論や歴史偽造を広める人たちに狙われたんだろう?
まずは自分たちの愚かさに気づき、真摯な姿勢で架空戦記を改善していく
やるだけやって失敗したってきちんと見ている人は批判しないし、自分たちだって納得できる
そちらを選択するか、座して死を待つか、あるいは悲惨な現状から目を逸らして夢の世界で生きるかだ -
荒巻義雄が「旭日の艦隊」で、発生から2ヶ月も経ってないのに作中で阪神淡路大震災を使ってそこそこ問題になった
その後「紺碧の艦隊」DVDBOXが発売になった際、「東日本大震災の救出、復旧作業に従事する海上自衛隊」をボーナストラックとして入れたんだな
ところが徳間担当編集者、芝田暁の父親の進午は共産党50年党員平和運動家で、反自衛隊の演説をしていたと
バンダイ担当者が知っていたか知らなかったかは不明だが、映像協力した海自の顔に泥を塗っていた訳だ
いずれにしてもこの程度の作家、編集者に、まともなものがつくれるはずがない -
「架空戦記が悪い」って単純な話じゃないんだな
本来「シミュレーション、歴史改変SF、史実を弄らないアクション小説、史実と関係ないファンタジー」というジャンルの(一部の)総称が「広義の架空戦記」だったはず
「とにかく史実を弄って日本大勝利」という「狭義の架空戦記」はあくまで亜流、傍流だったわけだ
本流に潤沢な水が流れ、溢れたのが亜流、傍流に流れるのが自然だったんだな
ところが「狭義の架空戦記」がブームになったことで、いわゆる架空戦記作家をはじめ、編集者や熱狂的な読者が「こちらが本流」と誤解した
結果的に本流は枯れてしまい、傍流のほうは水量に耐え切れず決壊したってことだ
架空戦記作家、編集者、愛読者は自分たちの利益しか見ておらず、大局を見てなかったってことなんだな -
架空戦記作家、編集者、愛読者は「とにかく史実を弄って日本が大勝利」的な「狭義の架空戦記」を主流にしたい
対極に位置する批判的な人は「狭義の架空戦記」を敵視するどころか、「シミュレーション、歴史改変SF、史実を弄らないアクション小説、史実とは関係ないファンタジーという広義の架空戦記」までなくなってもいいと思っている
「狭義の架空戦記はなくなってもいいが、広義の架空戦記は発展したほうがいい」的な現実的で中庸な意見を述べる人は少数派で、双方から攻撃されていると
批判派をも含め、これでは架空戦記が良くならないんだよなぁ -
〉これでは架空戦記がよくならない
架空戦記作家、編集者は「とにかく売れればいい」(一部は「陰謀論、歴史偽造を広めたい」)
読者は「俺の好みの作品にしろ」
批判的な読者は「とにかくケシカラン」
3者とも「自分の意見が通ればいい」で妥協点、折衷案がない(対立しているようで同じ)
意見を調整しようとする人間がいれば真っ先に叩くので、まともな人ほど去っていく
「こうすれば勝てた」ではなく、「ダメ組織の典型例」になってるのに気づいてない -
荒巻義雄はSFの、檜山良昭は歴史学会の傍系だった
「傍系だから悪い」のではなく、傍系でも誇りをもって生きてりゃよかった
ところが2人に共通していたのは、「自分たちは主流であるべきだ」という頑固な信念だったんだな
流れついた先が架空戦記の傍系だったのだが、そこで「俺たちこそ主流」と叫び出した
2人と同様に劣等感を妙に拗らせた作家、読者が集まり、架空戦記は傍流の側が主流になった
ブームの時は勢いで押せたが、傍流の作家の実力なんて所詮その程度だったと
それが「ブクオフで買取拒否」、「一冊80円セール」、「新刊発売2ヶ月でブクオフ遺棄」という現状だったりする
結局「架空戦記の傍系」は知識とか技術以前のものが欠けている作家しか書けなくて、同様の読者しか読めないわけだ
普通の作家は参入しないし、新規の読者も集まらないんだな -
〉自分たちは主流であるべきだ
リードした2人が若手作家や編集者に目を通し、率先してジャンルの活性化と品質向上を図ってりゃまだよかった
だが2人の作品にも?がつくものが多かったから、そういう余裕もなかったのだろう
そのくせ主流を狙おうとしたのなら、問題のある作家たちが架空戦記ブームを主導したんだな
つまり「いい作品を書いて主流になろう」ではなく、「主流になることが目的で、いい作品を書くのは二の次」だったと
「戦争が起きたから勝つ」のは悪くないとして、「勝つために戦争を起こす」ってことだ
根本が間違えてるのだから初期戦略自体がズレてるわけで、ズレたままブームになったので、終焉が早いもの当然だった
作品内外で史実の指導者を批判しても、お前たちはどうなんだと -
「主流なんて関係ない。俺は傍流だろうが、俺が面白いと思ったものを書く」と架空戦記作家が振り切っていれば、まだ救いはあったのだろうな
ところが主流に色目を使う作家、文藝などの花形になれなかった編集者、読者が集まったわけで、全員の恨み辛みが架空戦記というジャンルの根底に流れてしまった
娯楽小説ほどの爽快感、カタルシスもないし、専門書ほどの知に触れたわけでもない
「これだけ史実を弄ったら日本が勝てた」のはともかく、「その娯楽小説」を番人が楽しめるのとは違う
ましてや「娯楽小辣を専門的なシミュレーションと偽る」のはモラル的に問題があるし、「娯楽小説を読める読者がシミュレーションを理解できる」ってことでもない
航空戦艦、潜水戦艦、潜水空母のような中途半端感が漂ってるんだな -
「万人が楽しめる娯楽小説」には専門家が読むシミュレーションのような厳格さ、正確さは不要
反対に「専門家が読むシミュレーション」には娯楽小説的な面白さは必要ない
そうなると「架空戦記、シミュレーション小説の面白さ」とはなんなのよ?
それこそ「娯楽小説」と「シミュレーション」は土俵が違うんだから、「どちらかひとつだけ」やっていればいい
「どちらもできます」と称するのは自由だが、中途半端になるくらいなら一方に全力を傾ければいい
結局「どちらもできます」といいながら、「どっちもやってない」ことになっている -
荒巻義雄が「旭日の艦隊」の作中で、発生2ヶ月後の阪神淡路大震災を用いたことが問題になったが
「紺壁、旭日」のアニメDVDボックスが発売になった際、せめてもの罪滅ぼしと思ったのか「東日本大震災復興に活躍する海上自衛隊」というボーナストラックを入れた
ところが「紺碧」を立ち上げた徳間の編集者、芝田暁の父親、進午は共産党系の平和運動家で、反自衛隊の大演説をやってるんだな
バンダイ担当者も知らなかったのだろうが、映像使用許可を出した海自広報の顔に泥を塗ったようなものだ
そんなことなら、ボーナストラックなんか入れなきゃよかったw
いや、阪神淡路大震災を作中で使う必要があったのかと? -
>徳間の編集者、芝田暁の父親、進午
731部隊の関係で、国立予防衛生研究所移転差止め裁判原告団団長で、暁も原告団の一員だったことから親子仲が悪かったわけではなさそうだ
ただ父の信奉者は反安倍晋三で、息子が担当した「紺碧の艦隊」の愛読者が安倍晋三応援団長と自称した阿比留瑠比産経編集委員なんだと
右も左もだらしないなぁw
つまるところ「紺碧の艦隊」とは「左の反米」と「右の反米」が、「太平洋戦争開戦50年」、「バブル経済」、「陰謀論、歴史偽造」でつながったってことだな
ここまでくると「おぞましい」以外の言葉はない -
「紺碧の艦隊」の前の「要塞シリーズ」は、まだ仮想空間上の戦争ゲームという設定だから納得できる要素もあった
また「タイムスリップ」、「パラレルワールド」、「歴史改編」の個々の要素はSF小説として用いられている
ところが「紺碧」の作品世界は3つを同時にやったもので、「面白いつまらない」以前に、SFとしては禁じ手なんだな
「何が起きてもおかしくない世界」なんだから、極論すればわざわざ読む必要がないわけでw
それが「娯楽小説」で止まっていたらまだしも、「シミュレーション」と言い出して訳がわからなくなった
もはや荒巻が、面白い小説を書くことすら放棄したとしか思えなかったんだな -
ようやく架空戦記の正体が見えてきたなw
「紺碧の艦隊」を立ち上げた当時徳間編集者の芝田暁(徳間の前が共産党系の大月書店に勤務)の父親は共産党50年党員でマルクス経済界学者、平和運動家の進午
ベトナム反戦にもつながりがあり、ベ平連活動家でトンデモ妄想(「爬虫類型宇宙人が世界を支配している」を日本に紹介した)的な陰謀論を唱えていた太田龍とも接点があったのだろう
もともと共産主義者同盟に所属していた太田を陰謀論に引き込んだのが、同じ共産主義者同盟活動家で「80年代オカルトの黒幕」と称された武田崇元
武田が編集長を務めていたオカルト雑誌「地球ロマン」の愛読者が荒巻義雄で、「迷宮」に寄稿したのが檜山良昭
「迷宮」に連載予告が載り、武田が立ち上げた八幡書店からオカルト本を3冊刊行したのが戸高一成という関係 -
1989年12月のマルタ会談で冷戦が終結し、折しも日本はバブルまっただ中
前者で緊張が解け、後者で行け行けどんどんとなった状態で1991年12月の太平洋開戦半世紀を迎えたってことだ
「経済で米を凌駕した」という思いが「俺たちだったら世戦争に勝てたかも」という思い上がりにつながったんだな
そして冷戦崩壊、バブルの恩恵に預かれなかった左翼が、最後っ屁wとばかりに日米間に楔をぶち込もうとした
それが90年にスタートした「紺碧の艦隊」だったわけだ
「左の反米意識」と「右の反米意識」が奇妙な融合を果たし、ルーズベルト陰謀論、歴史偽造、そして米キリスト教右派、石原莞爾、ノストラダムスといったオカルト的終末史観が接着剤の役割を果たした
「紺碧」作中で紹介されたオカルト本が、武田崇元と接点のあるオウム真理教の機関誌で用いられていたのも偶然ではないんだな -
事態を悪化させたのは架空戦記にハマった側だけではなく、冷笑を浮かべていた軍オタ側にも多大な要因があった
知識はあるのかもしれないが、それらをつなぎ合わせる洞察力が皆無だったんだな
さらに戸高が一枚加わっていたから、利害関係なども絡んで追求できなかった
効果的な批判がないので架空戦記がつけあがったが、まず黒幕の一人だった戸高が94年に史料調査会から昭和館を経て、大和ミュージアムに転籍することとなった
煽ってきたはずの架空戦記と接点があるのがバレると黒歴史になりかねないので、徐々に手を引きはじめたんだな
さらに95年のオウム事件で武田が数年間活動自粛に入り、統御する人間がいなくなった
ブームで参入した作家は多かったが、そもそも能力的に問題がある人間ばかりで、売れ筋をトレースした作品が濫作されたことで一般読者が飽きてしまった -
>洞察力が皆無 >利害関係なども絡んで追求できなかった
「知ってる、知らない」でしか判断できない知識、データ偏重の読者を、軍事本が育成してきた弊害なんだろうな
「データをつなぎ合わせて本質に迫る」ってことができない連中ばかり増えていた
戸高も大木毅、神立尚紀、さらに複数の架空戦記作家を育ててきたが、全員戸高の正体を見抜けなかったというクソ揃いw
というか戸高側からすれば、自分の正体に気付くような有能な人間を遠ざけ、無能な連中を揃えることで自分の王朝を築きたかったわけだ
「架空戦記が悪い、ひどい」というより、「架空戦記が生み出された軍事本の状況が悪かった、ひどかった」ってことだな -
・「娯楽小説」なのか「シミュレーション」なのかをはっきりさせなかった(その場その場で使い分けた)
・「作家(編集者)が負うべき責任」と「読者が負うべき責任」を明確に区分しなかった(作家、編集者が読者に責任を丸投げした)
・「タイムスリップ」、「パラレルワールド」、「歴史改編」を1つの作品で同時に行おうとした(個々を行うのは許されるが、同時に行うのは禁じ手)
・史実の人物、実在の国家や組織をそのまま使用した
架空戦記が好きな読者も嫌いな読者も、この部分を指摘し、追求しなかった
この部分をスルーしたまま「好きか嫌いか」「正しいか間違いか」「許されるか許されないか」と主張し合ったのだから、建設的な議論の積み重ねなんてできなかったんだなw
「架空戦記がいいか悪いか」と言う問題以前に、「(悪いのなら)よくしていこう」という方向にも進まなかったと -
>建設的な議論の積み重ねなんてできなかったw
貧弱な土台のうえに「架空戦記ブーム」が来たわけで、作家も編集者も「乗り遅れるな」と参入したものの、品質を上げる意思なんてなかった
「とにかく売れ、稼げ」とばかり派手な展開が求められ、堅実、地味な作品や作家を排除していったんだな
「荒唐無稽でも面白ければいい」となるのは仕方ないとして、その作品に「シミュレーション」と名付けるなんて、まともな作家や編集者にはできないし、常識ある読者は読まない
「荒唐無稽なシミュレーションが正確だ」なんて、分裂症患者じゃないと口走れないw
ところがそんな作品群を、艦艇史研究の第一人者であるはずの戸高一成が陰に陽に支援していたから、軍事書籍の編集者もブームを止められなかった
見て見ぬ振りを続けていたら、戸高と歴史偽造書を出していたって裏事情にも気付かなかったわけだ -
ともかく荒巻義雄、檜山良昭が「架空戦記は娯楽小説です」で止めておけば良かっただけのこと
「娯楽小説が悪い」のではなく、「品質の高い娯楽小説を出せばいい」んだよな
ところが2人とも既成の作家、歴史学会にコンプレックスを抱いていたから、「ただの娯楽小説ではない」といいはじめたので架空戦記がおかしくなった
「娯楽小説なのか、シミュレーションなのか」の境界であり、責任の所在が曖昧になったんだな
架空戦記が曖昧なジャンルの小説になったから問題のある作家、読解力の乏しい読者ほど集まった
おまけに「間違えてるからケシカラン」程度の批判で、誰も問題の根本を見ず、「よくしよう」としなかったんだな
そんなことだから歴史偽造、陰謀論を広めたい人間には好都合だったと -
架空戦記が娯楽小説なら、多くの読者に納得できる作品にしないと
それなら軍事知識、描写は控えめにすべきだし、多少粗い作品になるわけで、霧島那智化wするのも致し方ない
ただそちらを選択すれば、まともな作家、編集者、読者は「シミュレーションをしています」と口にするのは差し控える
反対に架空戦記をシミュレーションにしたいなら、専門家や批判的な読者を味方に引き入れないと
しかしその選択なら、一般読者が見向きもしなくなるので、売れ行きは確実に減る
どちらが正しい、間違いではなく、一長一短あるというだけの話
ところが架空戦記の作家、編集者、読者は「娯楽小説をシミュレーションと言い張る」という最低最悪の選択をしたんだな
結果として一般読者、専門家や批判的な読者の双方を敵に回した訳で、売れ行きが激減したのも当然の帰結だった
作中で「戦略が~」と口にしていた連中が、戦略を知らなかったというオチだったんだな -
>作中で「戦略が~」と口にしていた連中が、戦略を知らなかったというオチ
架空戦記を「シミュレーション」にしたいなら大多数の一般読者を切り捨てなければならないし、売れ行き低下にも甘んじなければならない
また作家、編集者、読者は「専門的なものを書いている」という恩恵は得られるが、荒唐無稽な作品は書けなくなる
反対に架空戦記を「娯楽小説」にしたいなら、多少荒唐無稽な作品にしても許されるが、「専門的なシミュレーションではない」と言い切らねばならない
売れ行きは向上するだろうが、専門家や専門的なものを求める読者からの反発を食らうのも甘んじて受けないと
ところが現状の架空戦記は、どちらに合わせようとしているのかわからない
作家、編集者、そして読者がその場その場で「シミュレーション」、「娯楽小説」と使い分けてるだけ
自分たちの戦略がブレているのに、「史実の日本軍は~」と口にするという滑稽さw -
「史実のここ、ここ…と散々弄った設定のシミュレーション」と「史実とはまったく関係ないが、つくり込んだ作品世界のファンタジー」は、タモリさん的な表現だと「あんまり違いないですけどね」
だったら「シミュレーション」、「大逆転」という表面的なことにこだわらず、「完成度の高いファンタジー」を目指せばいい
「荒唐無稽な兵器が登場する小説が悪い」のではなく、「正確なシミュレーションと謳っておきながら、荒唐無稽な兵器を登場させるのが悪い」ってこと
「正確なシミュレーションではなく、よくできたファンタジーです」と言い切ってしまえば、何も悪くないんだがねぇ
「名」にこだわっておかしくなるなら、確実に「実」をとればいいだけだと
そこがわからない作家、編集者、読者が、「戦略」なんて理解できるのかよ? -
>史実のここ、ここ…と散々弄った設定のシミュレーション
「完成度の高い(歴史)シミュレーション」にするには「(史実を)弄らないほうがいい」のであって、日米間で差のあり過ぎた太平洋戦争の逆転なんて「ありえない」ことになってしまう
なにより「ここを弄った、あそこも弄った」だったら「日本を勝たせるためのシミュレーション」であって、「それは、シミュレーションと呼ぶべきものなのか」という定義の問題になるんだな
その程度のシミュレーションを「正しい間違い」というぐらいなら、「史実とはまったく関係ないが、つくり込んだ作品世界のファンタジー」にしても大差ないよ
荒唐無稽な兵器を活躍させたいなら、それはそれでいいじゃないかと
そこまで振り切れる作家は「この作品はシミュレーションに基づいている」なんて口走れなくなるし、誤解する読者も批判する連中も激減する
「シミュレーションとは呼べない娯楽小説を、「シミュレーションです」と言い切る」より、はるかにトクだと思うけどねぇ -
総合格闘技やK1がブームになったとき、真剣勝負を謳っていたプロレス団体もその流れに乗ろうとした
ところが故ジャイアント馬場さんは、「ではウチがプロレスを独占します」と逆張りしたんだな
架空戦記の是非は別として、その流れでいいんじゃないかと
どんなに架空戦記作家が粋がったところで、専門家のシミュレーションを越えるのほぼ無理な話
それならシミュレーションではなく、完成度の高い娯楽小説としての架空戦記を目指せばよかったんだ
ところが架空戦記作家は意外とチキン揃いで、専門家や他のジャンルの作家にコンプレックスがあるうえ、振り切れるだけの技術も知識もなかったときたもんだ
シミュレーションとしても、娯楽小説としても半端なものしか書けなかったんだな
作品がつまらないというか、書いている作家も読んでいる読者も人としてつまらないんだろうな -
さっき野球の動画を見たけどさ、日ハムの新庄監督がキャンプ中の練習試合で自分のチームの選手の打撃を見てやってくれと相手の監督に頭を下げたんだそうだ
頭を下げたのが中日の立浪で、教える選手が清宮だったと
架空戦記もこういうのでいいのだろうけどねぇ
「娯楽小説が悪い」んじゃなくて、「少しでもいい娯楽小説にする」のが先決
架空戦記作家は「いい娯楽小説を書きたいので、わからないことは教えて下さい」と素直に頭を下げて専門家や知識のある読者を味方に引き込めばよかった
その程度のこともできない作家、編集者なんだから、「専門家に匹敵するシミュレーション」なんて妙なブランディングをしたわけだ
「いい娯楽小説」を書くことから逃げたばかりか、それを「シミュレーション」とすり替えて誤魔化しんだな
何度も書かれているが「架空戦記が面白くない」以上に、そんなことだから「面白くなるはずがない」んだよ -
奇妙な論理なんだが、「架空戦記は娯楽小説からダメ」と否定しているのは、架空戦記批判派だけではなくて、実は架空戦記作家、編集者、読者もなんだよな
娯楽小説であることに引け目を感じているから、「ただの娯楽小説ではない」「シミュレーションである」と口にするわけで
結果的に「娯楽小説として質を上げる」ことを放棄したのと同じだったと
だからこそ「架空戦記はつまらない」といわれるし、専門家も見向きもしないし、普通の作家も架空戦記に参入しない
専門知識が多少あるとかとは別のことが、問題の真因であるのに気付いていない
「娯楽小説が悪い」んじゃなくて、「娯楽小説として良くしよう」という方向に進まなかったのだから、「良くなるはずがない」ってだけの話なんだよな -
「架空戦記は娯楽小説だから、面白ければ多少間違えても許される」んだよな
それなのに架空戦記作家、編集者、読者は自分たちの価値を高めるために「架空戦記はただの娯楽小説ではなくシミュレーション(に基づいているの)で、間違えていない」と論理をすり替えた
というか、「間違えてもいい」「間違えていない」を都合良く使い分けることが、「事実とフィクションとの区別」だと思い込んだんだな
ところがその論理を受け入れられるのはその程度の作家、編集者、読者だけで、専門家や普通の作家、大半の読者は見切ったってことだ
「自分たちの間でしか通用しない論理論法」を得意満面で振りかざすのは、「憲法9条の精神が広がれば戦争はなくなる」って連中とどこが違うんだかw
そもそも荒巻義雄の担当編集者の父親が左翼系の平和運動家だと見抜けなかった架空戦記作家、編集者、読者たちなんだから、平和運動といい勝負の脳内お花畑だよ -
「多少間違えてるかもしれないけど、ストーリーや人物描写などで面白い小説にします」と作家や編集者がいっていれば、架空戦記の現状も変わっていたんだろうね
荒巻義雄や檜山良昭に他の作家や歴史研究者に劣等感、強い恨みがあったから、「面白い小説で勝負する」ではなく、「ただの小説ではない、シミュレーション」と土俵、論点をすり替えた
というか土俵、論点をすり替えるよう性根だから、2人とも主流になりきれず、いらぬ逆恨みを抱いたわけだ
他の作家や専門家は見向きもしなかったが、2人のように社会に対して不平不満を抱いていた読者が反応した
時期も時期で、戸高一成がオカルト本を出した出版社にオウム真理教の麻原彰晃が出入りしていた
荒巻が参考資料で用いた書籍が、オウムの機関誌で使われていたいうのも、偶然の一致だけでは済まない
架空戦記の構造はオウムと同じ、カルトだったんだな -
不平不満を抱いていた読者に、「ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていた」をはじめとする陰謀論、歴史偽造を植え付けようとした(実際オウムも信者に仕掛けていた)
「シミュレーションではなく小説ですから、多少間違えています」と正直に伝えたら、偽情報にはならないからなぁw
「ただの娯楽小説ではなく、シミュレーション(に基づいている)」と言うことで自分たちの価値を無理に上げつつ、他の作家や専門家を貶めるブランディングが必要だった
読者はもちろん、ブームで参入したような作家や編集者はこういう事情を読み解くだけの洞察力なんてないから、先発の作家たちに追従するように「シミュレーション」という言葉であり、フォーマットを使ったわけだ
変な話だが、偽情報を広めるには「品質の高いもの(架空戦記)」だけではなく、大量の「品質が低いもの(架空戦記)」も必要だったんだな
数で圧倒するだけではなく、真の狙いを隠す役目もあったと
霧島那智、谷恒生、志茂田景樹をはじめとする火葬戦記、下層戦記にも、それなりの意味があったってことだw -
戦力、国力に圧倒的な差がある太平洋戦争を「逆転するシミュレーション」なんて、まともな専門家ほど「できません」と断る
すればするほど荒唐無稽化するのだから、「正確なシミュレーション」をする意味はない
「架空戦記は荒唐無稽な娯楽小説です」で止めておけば誰も批判できないのに、架空戦記作家や編集者、読者たちが「荒唐無稽な娯楽小説ではなく、シミュレーション(に基づいている)」といいはじめた
自分たちの価値を高めようとしたのだろうが、結果的に架空戦記が娯楽小説でも、シミュレーションでもないものになったんだな
つまり「その程度の人しか集まらない」ことをさらけ出したのだとw
結局架空戦記を復権させたいのであれば、原点回帰というか、「娯楽小説であって、シミュレーションではありません」と正直に申告するしかないんだな
もっともそれだけ真摯な思いを伝えられる人が架空戦記作家、編集者、読者に揃っていたら、架空戦記がここまで凋落することもなかったわけでw -
「間違えているからダメ」的な短絡的な批判じゃなく、架空戦記作家、編集者、読者が「間違えているから、シミュレーションではありません」といっておけば良かっただけ
「多少間違えているかもしれないけど、一生懸命娯楽小説を書く」ってことだから、ここを批判することは誰できない
ところが架空戦記作家たちは「娯楽小説として完成度の高い架空戦記を、一生懸命書く」気なんてなかった
「完成度の高い娯楽小説=架空戦記」を書いて他の作家、専門家、一般読者を納得させるのではなく、「シミュレーションをしている」と論点をズラすことで作家、専門家、一般読者に勝とうとしたわけだ
知識や技量とは別の、本質的な何かがおかしい人たちが、架空戦記に集まったんだな
こんなことだから架空戦記を普通の作家、専門家、読者は見向きもしないんだ
というか架空戦記を再生するには、既成の架空戦記作家、編集者、読者は不要ってことだなw -
コズミックだと思うが、作家の略歴に「専門家に匹敵する知識の持ち主」とあって引いたなw
知識の有無以前に、まともな感性をした作家だったら、編集者がこんな略歴を書いたら「恥ずかしいからやめて下さい」っていうもの
この程度略歴を載せる作家の知識、力量なんて知れたものだし、案の定評判にもならなかった
もし能力のある架空戦記作家がいれば、自分の作品は「シミュレーションではなく娯楽小説」と堂々と言い切れるし、正直になればなるほど編集者、読者の意向から外れてしまい、仕事からも干される
仕事の回る作家は編集者、読者の意向には沿うが、「娯楽小説をシミュレーション」と偽るように自分にも社会にも不誠実な態度をとらなければならず、力量はもちろん人間的にも問題があることになる
「架空戦記がつまらない」のは作品内部だけの問題ではないんだな -
「架空戦記が悪い」んじゃなくて、「方向性がおかしい」んだな
史実から外れたことで、史実とは異なる人間ドラマが展開されるもの
そこを描くのが架空戦記であるはずなのに、ドラマ部が思いの外貧弱
無理に補うために展開、登場する新兵器が荒唐無稽化し、結果「ドラマを描けない作家」と「ドラマを求めていない読者」の溜まり場となった
「娯楽小説をシミュレーションと偽る」「とにかく日本が逆転する」という2つの縛りが架空戦記のガンであるはずなのに、その縛りが「おかしい」と感じない作家が書き、読者が読むのだから、自分たちで架空戦記の可能性、広がりを閉じてしまった
背後に歴史偽造や陰謀論を広めたい人がいるなんて、気付くはずもないw -
別にどんな新兵器が登場しようが、そこが問題じゃない
それら新兵器と改変された世界で展開される人間ドラマとが、「如何にリンクしているか」なんだな
「作者がこのドラマを見せたい、際立たせたいから、この兵器を登場させた=他の兵器ではダメなんだな」と読者を納得させないと
架空戦記はドラマと新兵器がリンクしていないというか、別のドラマ、別の新兵器でも作品が成立しそうだと
結果的に「じゃあなんで史実を改変したんだ」って矛盾に陥ってしまうわけで
知識の有無とかではなく、そういう部分に気が回らない作家、編集者、読者が架空戦記に集まり、自己陶酔に浸るのは勝手だが、多くの人の心には響かないのだと -
荒巻義雄は小説界、他の作家に不満があり「ただの娯楽小説ではない」といって架空戦記を書きはじめた
他方檜山良昭は歴史学会から放逐され、「学者には想像力がない」といって架空戦記を書き出した
架空戦記の最初の悲劇は「作家、学者に恨みを持つ2人がブームをつくった」のであり、「小説なのか、シミュレーションなのかを(意図的に)区別しなかった」んだな
前者で「社会に恨みを持つ読者」の心に響いたのだが、反面、「恨みのない作家、専門家、読者」には響かなかった
後者では「小説とシミュレーションを同時にしている→都合のいいほうをしており、もう一方はしていない→結局どちらもしていない」という怠惰さにつながった
結果的に「小説でもシミュレーションでもない存在」となり、「社会に恨みのある作家、読者が相互慰撫する場」になったわけだ
多少知識があろうが、描写が細かかろうが、実は関係ないんだな -
作家、編集者、読者が「何で架空戦記を読んでくれないんだ」と嘆こうが、「根本がおかしい」のだから仕方がない
「多くの読者に読んでもらいたい」「自衛隊関係者や学者にも認めてもらいたい」のであれば、自分たちのエゴを捨てて相手に合わせる努力をしないと
架空戦記からは、それが決定的なまでに欠落しているんだよな
「自分たちだけが楽しめる存在」という閉じた世界を構築したことで、「他者に合わせる」という部分が喪失した
というか、他者の気持ちを理解できない作家、読者しか反応しない架空戦記ばかりを刊行してきたんだな
いきおい「自分たちに合わせろ」であり、「俺たちが優秀であることを認めろ」だと
そんな考えをしているから、一般の読者も専門家も架空戦記を見向きもしないんだよ -
〉俺たちが優秀であることを認めろ
架空戦記は作家、読者をよりよく見せるための手段、道具なんだな
嫌な言い方になるが、作家や読者にとって架空戦記とは「所詮その程度の存在」に他ならない
「好きだ」といってるのに、ジャンルにも作品にも愛が感じられない
愛がないのだから、おかしい部分からも目を逸らすし、率先して改善しようともしない
何より自分たちが愛情を示せないのに、どうして他の人たちが読もうと思うのか
架空戦記というジャンルが嫌われてるのではなく、嫌われるような人間しか架空戦記に集まらないんだよ -
娯楽小説は「面白ければ間違えてもいい」で、シミュレーションは「正確であれば面白くなくてもいい」
1つの作品で、矛盾した2つのことを行うのは不可能
仮に架空戦記で同時に行えたのだとしたら、双方が干渉しあって娯楽小説としてシミュレーションとしても中途半端な存在になる
娯楽小説とシミュレーションはそもそも別のジャンルの存在なのだから、「どちらが良い悪い」と決めるのもおかしい
だから「娯楽小説としての架空戦記」を書きたいのであれば、作家は「シミュレーションをしていません」と公言すれば許される訳で
架空戦記が煮え切らないのは、これを言い切れる作家、編集者、読者がいないことなんだな
「シミュレーションではありませんので多少荒唐無稽ですが、面白い小説を書きます」といえば済むのに、それを口にする素直さがないんだよ -
〉所詮はその程度の存在
架空戦記を1番馬鹿にしてるのは、思いの外架空戦記作家、編集者、そして読者なのかも知れないね
架空戦記が娯楽小説だとしたら、「最高の娯楽小説にする」のが目標目的になるし、それが悪いとは誰もいえない
別に恥ずかしくも、悪くもないのだから正々堂々そう言い切ればいいのに、「シミュレーションをやってます」と論点をすり替える
まるで「俺たちは優秀だから、娯楽小説のような下等な小説は書いていない」と言いたいようだ
基本的にそんなすり替えを図るような人間は、専門的なシミュレーションはおろか、娯楽小説で頂点に立つことなんてありえない
架空戦記の構造では娯楽小説としてもシミュレーションとしても中途半端なものしかつくれないが、架空戦記作家の意識の部分も半端なのだと
またそういう売り込み戦略をとる編集者、作家や編集者を「おかしい」と感じない読者も同様で
既成の架空戦記作家、編集者、読者がいなくならないと、架空戦記の質は上がらないんだなw -
「現実世界で不遇な作家、読者たちが住みやすい世界」にするための歴史改変だから、世界観を共有できない読者には「面白いつまらない」以前なのだと
楽しむ自由は誰も否定できないとして、「改変の正確さ」なんてどうでもいいんだな
それこそ作家と読者たちが世界観を共有したいなら、なろう系的なファンタジーでも構わないって話で
「自分たちに合わせるため史実を弄る」と「自分たちに合わせた世界を1から構築する」と大きな差がないのであって
「ファンタジーではなく、歴史改変でなければならない必然性」を作家、読者が説明できないのだから、作品の価値、存在意義も説明できないんだな
通常の「日本を勝たせるための歴史改変」で行き詰まったなら、「作り込んだファンタジー=シミュレーションではありません」で局面の打開を図るしかないのに、作家も編集者も読者もそこまで振り切る気がない
そのくせしたり顔で「旧日本軍の戦略は」と言いたがるのだから、もういい加減にせいよと -
たとえ架空戦記作家、読者が現実世界で生き辛さを感じていたとしても、史実を改変した世界で解消する理由はないんだな
「日本がアメリカに大勝利」したから生きやすくなったなんて、それこそ「その程度の苦悩」だと
だから「架空戦記が悪い」じゃなく、「歴史改変して日本が勝利する必然性はない」ってこと
また「その程度の架空戦記をシミュレーションと偽る必要もない」わけで
「荒唐無稽な兵器が登場する」のも悪くないが、それなら「史実と関係ない世界を構築すればいい」ってだけのこと
「なぜ歴史を改変しなければならないのか」「なぜ日本がアメリカに勝利しなければならないのか」「なぜ娯楽小説をシミュレーションと偽るのか」「なぜつくり上げたファンタジーではダメなのか」
を説明した架空戦記作家、編集者、読者がいないのだから、貧相なものしかできないよと -
自分たちの優秀さを誇示するのは結構だとして、史実を改変する必要もないし、実在の国家、組織、人物を登場させる理由もない
架空の世界を構築して、「俺たち優秀だよね」といってればいい
ましてや架空戦記作家や読者が優秀であれば、娯楽小説をシミュレーションと偽ることを嫌がるはずなんだな
自分たちより優秀な人が、自分たちの行為をどう思うかまで察することができるんだが
自分たちより優秀な人の気持ちを察せられない人ほど、自分たち以下の人が自分たちと同じことをすれば烈火の如く怒るか過度に馬鹿にする
たしかに霧島那智とかの作品はヒドイのだが、一般的な架空戦記の作家やどこまで追求できるかは別ものだと
知恵遅れの同級生を散々虐めていた架空戦記の関係者が、その行為を見ていて不快になった同級生たちから虐められたとき、「どうして虐められるのかわからない」といったそうだが、その程度の読者しか架空戦記を読まないんだな -
日本の勝利や兵器の活躍が主で、ストーリー展開、人間ドラマが二の次なのだと
普通の小説はストーリー展開、人間ドラマが主で、兵器は手段、勝敗は結果なんだな
いきおい架空戦記にはストーリー展開、人間ドラマを描けない作家、そこを読もうとしない読者が集まり、その他の作家や読者は興味を持たない
極論だが「小説である必要がない、必要性を否定している」ってことw
それなら専門家が読むレベルのシミュレーションにまで昇華すればいいのに、そこまでの割り切り、力もない
だから「娯楽小説ではなくシミュレーション」「シミュレーションではなく娯楽小説」という使い分けができてしまう
そもそも高度な小説、あるいはシミュレーションができる作家や専門家、読んで理解できる読者は、ここで論理破綻をしていることに気づくもの
架空戦記が「つまらない」というか、編集者を含めた集った人間が「つまらなくしている」んだ -
「日本が逆転」が悪いのではない
「シミュレーションの結果逆転する」のはともかく、「シミュレーションの目的が逆転」なのはどうなのかと
「目的が逆転」だと、「目的を達成するには、何をやっても許される」になりかねない
「何をやっても許されるシミュレーション」が正確だろうが不正確だろうがどうでもいいし、何より「わざわざシミュレーションをする意味があるのか」って話になる
「高度なシミュレーションが理解できる読者」ほど、ここに気付く
裏を返せば、「このシミュレーションのどこが間違えているのかいってみろ」という架空戦記の読者ほど、高度なシミュレーションを理解する力がない
「する必要がないシミュレーション」が多少正確だとしても、意味がないんだな -
「シミュレーションの結果逆転する」は、開始前から結果が提示されていない
「日本が勝つ」「負ける」双方の可能性があり、シミュレーションの結果どちらかになるだけ
しかし「シミュレーションの目的が逆転」だと、開始前から「日本が勝つ」以外の選択肢はない
それを「シミュレーション」と呼んでもいいのか?
もちろん「読者にカタルシスを与える娯楽小説」では何の問題もないのだが、娯楽小説とシミュレーションは別のものなのだから、娯楽小説に「シミュレーション」という看板を着せて売ってどうすんだと
そして「俺たちは娯楽小説とシミュレーションの区別がついている」という作家、読者が区別をつけない、曖昧にしたがるのはどういうことか
架空戦記が娯楽小説であっても悪くないとして、だからこそ胸を張って「シミュレーションではありません」と言い切ろうや -
何度か書かれたが「シミュレーションができる人ほど、架空戦記を「シミュレーションではありません」「(この作品では)していませんといえる」といえる
つまり「できない人ほど、「シミュレーションです」「しています」と口にする」んだな
架空戦記が娯楽小説であっても何も悪くないとして、娯楽小説を対極に位置するシミュレーションと偽るのは良くない
「娯楽小説、フィクションとシミュレーション、現実の区別がついている」人は「娯楽小説とシミュレーションを分けましょう、境界線を設けましょう」という
対して区別がつかない人、他者がつけられては困る人は、「分けない、境界線を設けたくない」
「娯楽小説をシミュレーションと偽って何が悪い」となる
そういう意識の人が架空戦記に集まるのだから、面白くないのはもちろん、歴史偽造や陰謀論と関係する人が集まってもおかしくはない -
作家は小説を書くのが仕事なんだから、「専門家に匹敵するシミュレーションができる」は二議的な問題なんだがな
「シミュレーションはできません、してませんが、面白い小説を書いてます」でいいんだからさ
つまり「シミュレーションをしている、できる」と公言する作家ほど、本質からズレている訳で
作家がシミュレーションをできなくても恥ずかしくはないが、「できる、している」といいながらお粗末な出来だったほうが恥ずかしいのだと
つまり作家が多少荒唐無稽な作品を書いても、ちょっとミスがあっても許されるとして、「シミュレーションをしてます、できます」と口にするほうが問題なんだな
架空戦記作家、編集者はもちろん、批判しているはずの人も、意外とここをわかっていない -
娯楽小説は「面白ければ多少間違えてもいい」、シミュレーションは「正しければ面白くなくてももいい」
どうして架空戦記作家は、ひとつの作品で相反する要素を達成できるのかと
頭のいい作家、専門家は「娯楽小説」と「シミュレーション」を2つに分けて一方だけを頑張り、もう一方は捨てる
架空戦記作家は「どちらもできます」と公言するから、結局どっちもできない
皮肉な結論だが、架空戦記作家は「戦略を知らない」んだな
相反するものを同時にしようとするから、どっちつかずになって架空戦記はつまらなくなってしまう
多少荒唐無稽でも間違えてもいいから、全力で娯楽小説を書けばいいんだよな
それをしないのは、その程度の作家しか架空戦記を書かないってことだな -
>「シミュレーションはできません、してませんが、面白い小説を書いてます」
うがった見方になるけど、「架空戦記作家、編集者、読者」と「架空戦記批判派」は似てる部分があるんだな
架空戦記作家たちは「面白い小説を書く(出す、読む)」といわねばならないのに、「シミュレーションをしている、できる」と口にする
対して批判派は「シミュレーションとしておかしい」とはいうが、「面白い小説を書け」とはいわない
つまりどちらも「面白い小説を書く」という本来の目的を見失っているという意味で共通している
だからこそ「別にシミュレーションをしなくてもいいが、面白い小説を書け」という意見の人がいると、平素は対立しているのに両者が共闘してしまうんだな
本質を誤っている人が大半なのだから、架空戦記は娯楽小説としても面白くならないし、シミュレーションとしての完成度が上がるわけでもないと
翻って「軍事、歴史を真面目に考えている」という人のレベルが高くなるはずもないんだな -
架空戦記が娯楽小説だったら最高の娯楽小説を目指せばいいし、それを目指す人を批判する資格なんて誰にもない
しかしだからこそ、「シミュレーションはできない、していない」と断言できるんだよな
そもそも娯楽小説とシミュレーションは別のもので、同一に比較してはならないとして、「極限までつくり込んだ娯楽小説」と「ろくにつくり込んでいないシミュレーション」のどちらに人が感服するかといえば前者だろう
架空戦記もこちらを目指せば問題ないのに、なぜか作家、編集者、読者は後者を選択してしまう
批判派もそこを指摘すればいいのに、なぜか「つくり込んだ娯楽小説」は嫌いなんだよな
結局どちらも「娯楽小説」が嫌いなだけなんだw -
プロレスと似てるんだよな
是非は別として、プロレスは盛り上げたり安全のための「台本」は必要不可欠
しかしそれがある限りプロレスは「ガチの格闘技」ではなく、「格闘ショー」なのだと
プロレスがおかしくなったのは、価値を高めようとするため「格闘ショーではなく、ガチの格闘技」と偽り、格闘技を貶めるような発言をしたからだった
架空戦記も「台本のあるショー=娯楽小説」で止めておけば何も悪くないんだな
しかし作家たちが、自分たちや作品の価値を高めるため、「娯楽小説ではなく、シミュレーション」といいはじめたのでおかしくなった
批判しなければならないのはこうした作家たちの姿勢であるのに、批判する人たちも「シミュレーションとしておかしい」とズレてたと
「シミュレーションなんてしなくていいから、まず娯楽小説としての価値を高めなさい」と諭さなかったんだな -
ブームをつくった檜山良昭、荒巻義雄が歴史偽造や陰謀論と接点があったから、「純粋な娯楽小説としての架空戦記」というより「歴史偽造、陰謀論を広めるための、娯楽小説としての架空戦記」という位置づけだったんだな
だからこそ「ただの娯楽小説ではない」という意味を込めて、「シミュレーション」に固執した
こうすれば他の作家の書く小説より信用があるように見え、歴史偽造や陰謀論に否定的な専門家の信用を落とせる
読者はもちろん、ブーム後に参入した作家、編集者も真意を読み解けないまま、娯楽小説としての価値を高めるのではなく、「俺たちはシミュレーションができる」という優越感に浸ったんだな
また是非は別として「日本は悪くない、大逆転」という展開をフォーマットにすれば、歴史偽造や陰謀論を拡散できる
「歴史を考えている」はずの小説が、知らず知らずのうちに読者に「史実に疑いを持たせる」のだと
つまり架空戦記に関係する作家、編集者、読者は、洞察力が欠けてるってことだ -
架空戦記家、編集者、読者だけではなく、批判している人も「洞察力が欠けてる」んだよな
双方とも「どこかおかしい」と感じることなく、「好きか嫌いか」で止まっていた
結果どちらも「おかしい」から「よくしよう」に昇華しなかったんだな
だから「紺碧の艦隊担当編集者の父親が共産党系平和運動家」、「学研編集責任者が元ムーの編集長で、麻原彰晃の空中浮遊の号を担当」、「戸高一成が元オカルトライターで、ムーの編集顧問に会社を譲渡していた」などに気付かなかった
架空戦記関係者は胡散臭いし、そこを見抜けなかった作家、編集者、読者も十分間抜けだが、批判した人たちも大したことがないわけで
つまるところ「好き嫌い」は個人の問題だとして、どうせなら「いいものをつくろう」に力を向けようと
そこがわからないままどれだけ「好き嫌い」「正しい間違い」と騒いでも、建設的ではないんだな -
「架空戦記は娯楽小説だからダメ」という話じゃなくて、むしろ「少しでも面白い娯楽小説にしよう」という意思が感じられないんだな
作家が「最高の娯楽小説にしよう」と思っていたら、「専門家並みのシミュレーションをしてます、できます」というアピールなんてする必要はないんだからさ
最高なのは「専門家並みのシミュレーションができる作家」が、「この作品ではしていません」と断言すればいいわけで
また「できない作家」であっても「間違えてたら教えて下さいね」と下手に出れば、専門家や知識のある読者も不快に感じないんだしさ
「少しでも面白い娯楽小説を書こうとする作家」だったら、知識の有無とは関係なく、周囲への気配りができるってもんだ
「シミュレーションができる、している」と叫ぶ作家ほどちょっとした気配りができないわけで、作品が面白くなるはずもないんだな -
>「少しでも面白い娯楽小説を書こうとする作家」だったら、周囲への気配りができる
指導教官と揉めた檜山良昭は学者への恨み辛みを捨てなかったし、荒巻義雄は正誤表を善意でつくってくれた読者に嫌がらせをして恩を仇で返した
こんな2人がブームを牽引したんだから、まともな作品ができるどころか、作家や編集者、読者も集まらなかった
知恵遅れの同級生を執拗に虐め、止めさせようとした他の同級生たちから虐められたことを逆恨みするような読者が、編集スタッフになるんだからなw
挙げ句は歴史偽造、陰謀論を広めようとしていた人たちがバックにいたのに、批判派も含めて誰も気付かなかった
まともではない人間ばかり集まるのだから、ブームが萎むのも当然だと
「作品がつまらない」以上に、「集まってくる人間がつまらない」んだ -
>こんな2人がブームを牽引した
架空戦記に限った話ではないが、知識には反応するが、知性に反応しない人が一定数いる
知識をひけらかしたがる反面、その知識を活かす知性が欠落している
そういう人は専門家のように知識と知性を兼備えた人を尊敬するのではなく、嫉妬して貶める方向に進んでしまうんだな
知識偏重の結果、反知性に靡いてしまうという残念な人で
檜山良昭、荒巻義雄もそうした人間性だから、歴史偽造や陰謀論に染まったわけだ
もっとも2人がどうなろうが知ったことではないが、自分たちを信じてくれる読者を巻き添えにするなよと
というか架空戦記を書く作家、読む読者も、2人のように残念な人が少なくないのだと
だからこそ誰も歴史偽造や陰謀論との接点を見抜けなかったんだな -
檜山は「歴史学者には想像力がない」と罵っていたが、作家の想像力と学者の想像力は、是非は別として娯楽小説とシミュレーションと同じくらい違うもの
架空戦記作家、編集者、読者が批判に対して「娯楽小説とシミュレーションの区別がついていない」と反論するが、作家の想像力と学者の想像力を同一に比較する檜山こそ「区別がついていない」んだな
檜山以下架空戦記作家、編集者、そして読者は誰がみてもわかるように「娯楽小説とシミュレーションを区別する」のではなく、その場その場で「同じです」「違います」と使い分けることが「区別」だと思っている
学者はもちろん、他の作家や常識を持ち合わせている読者ほど敬遠するさ
基準が出鱈目なんだから、「面白いつまらない」以前の「安心できない」んだよ
作品世界=作家を信用できないのだから、心の底から楽しもうって気にならない
多少知識があろうが、どうでもいいんだな -
架空戦記が娯楽小説で悪くないとして、だからこそ堂々と「シミュレーションではありません」と言い切ればいい
「娯楽小説とシミュレーションは別のもの」としたうえで作家の想像力を解放し、最高の娯楽小説にすればいいんだからさ
娯楽小説とシミュレーションとの区別を曖昧にしたままでは、架空戦記は娯楽小説としてもシミュレーションとしても中途半端なものにしかならない
しかし架空戦記作家は、自分たちが他の作家や専門家より上位に立とうとするため、区別が曖昧なままのほうがいい訳で
そんな品性だから、歴史偽造や陰謀論を広めたい人たちのパシリされたと
歴史偽造、陰謀論と手を切るのが架空戦記再生の第一歩なのに、それをしようとはしない
その選択をするのは勝手だとして、「旧日本軍の戦略は」なんて批評をしたがるのだから、人並みの恥すらないんだな -
架空戦記を娯楽小説として良くしようとすれば「シミュレーション」と銘打つ必要はないし、シミュレーションとしての価値を高めたいのであれば「娯楽小説」の要素を減らしたほうがいい
架空戦記作家、編集者、読者は「どちらもできます」といいつつ、どちらもする気がない訳で
そのくせ専門家や他の作家、読者より上位に立ちたいから、「娯楽小説とシミュレーションの境界を設けず、その場その場で使い分ける」という姑息な戦術をとった
この姑息さは、陰謀論や歴史偽造を広めたい人たちには好都合だったんだな
「シミュレーション」と正確さを前面に出しつつ、ところどころで偽情報を混ぜ、そこを指摘されると「娯楽小説なのに、区別がついていない」と責任転嫁するんだな
多少荒唐無稽でも間違いがあっても許すとして、こんな架空戦記が刊行されてもいいのか? -
架空戦記が娯楽小説なら、「最高の娯楽小説」を目指せば良かったんだ
そこを目指したのであれば多少の間違い、荒唐無稽さがあっても許されるし、だからこそ「シミュレーション」と銘打つ必要なんかないことに気付く
それこそ専門家や他の作家、そして読者に「たかが娯楽小説なのによく調べてる、つくり込んでいるな」と思わせれば「勝ち」なんだよな
檜山良昭、荒巻義雄はこちらを目指そうとせず、「シミュレーション」という言葉の上っ面だけを用いて、専門家や他の作家たちに勝とうとした
ブームで参入した作家、編集者たちもその手法を踏襲し、読者もそれが「凄い小説」と勘違いしたと
架空戦記の個々の要素が多少間違えていても許されるとして、小説としての戦略の根本が間違えていたわけだ
2~30年もそこに目を向けようとしはなかった作家、編集者、読者たちはいったい何を考えて生きてきたのかと
「旧日本軍の戦略、人事システム」を批判する資格なんて、あるはずがない -
プロレスの比喩があったが、架空戦記は「軍事と歴史の知識と技量のある作家(レスラー)による荒唐無稽な戦争小説(プロレス)」で止めておけば良かったんだよ
ところが作家や編集者が、作家と作品に妙な箔を付けようと、「シミュレーション」という冠を乗せておかしくなった
作家や読者が「シミュレーションを書いて(読んで)るから、俺たちは専門家に匹敵する」と誤解してしまった(陰謀論や歴史偽造を広めたい作家、編集者はこの誤解が「目的」だったかも知れないが)
そのくせ都合が悪くなれば「これは娯楽小説です」で逃げようとした
架空戦記は娯楽小説だったのに、娯楽小説であることを自己否定してしまったんだな
小説=虚構と現実の区別がついている作家、編集者、読者なら、この歪みに気付き、是正しようとしたが、架空戦記にはそんな人は集まらなかった(いても放逐した)
それでは小説サイドからは嫌われるし、さりとてまともな専門家からは相手にされないのも、当然の帰結だと -
もともと「史実を最小限弄ることで、日本が太平洋戦争に勝つシミュレーション」だったはずなのに、「日本が勝つなら、どれだけ史実を弄ってもいい」に変容してしまった
「娯楽小説」としては間違えていないのかも知れないが、それを「シミュレーション」と呼んだのは明らかに間違い
「小説としてもっと面白く」しようとしたことで、弄れば弄るほど現実から遊離する
その小説を、作家、編集者、読者がどれだけ「シミュレーションとして正しい」と叫ぼうが意味がないんだな
さりとて「シミュレーションではありません、娯楽小説です」と自己申告するほど、正直さや真摯さも持ち合わせていなかったと
「シミュレーション」と「娯楽小説」をその場その場で使い分けてもおかしいと感じない人たちしか、架空戦記に残らなかった
「小説のなかにご都合主義がある」のではなく、「小説としての構造そのものがご都合主義」という小説になってしまったんだな -
「正確なシミュレーション」をすれば、専門家並みと評される反面、荒唐無稽なことはできなくなる
「娯楽小説」を書けば、多少の荒唐無稽は許されるが、専門家並みと評されることはない
一方を選択すれば、他方を捨てなければならないんだな
ところが架空戦記作家は「シミュレーション小説」という造語を用い、両方しているかのような印象を与えた
専門家並みと讃えられつつ、荒唐無稽なこともできるという
しかし裏を返せば「正確なことをする」という専門家としての責任は負わなくてもいいし、娯楽小説としての完成度を上げないから作家としての責任も果たさなくてもいいわけだ
「両方の恩恵はくれ、だが両方の責任は負わない」なんて、究極のご都合主義だな
米の核の傘の下で、経済的恩恵を得ながら、「憲法9条死守、米軍出て行け」といっている平和運動家たちと本質的な違いはない
だからこそ紺碧の艦隊担当編集者の父親が、共産党系の平和運動家だと誰も見抜けなかったんだ -
「これは娯楽小説ですので、シミュレーションのような正確さはありません」
「これはシミュレーションですので、娯楽小説的な面白さはありません」
「架空戦記がいい悪い」じゃなくて、普通の作家や専門家はこう区分していただけのこと
読者の混乱がミニマムになり、批判の大半も押さえ込める
ところがこう区分したとしたら、架空戦記作家は小説を書いても作家に、シミュレーションをしても専門家に勝てないんだな
区分が曖昧にし、作家にはシミュレーション、専門家には娯楽小説と相手を普段とは違う土俵に引き上げることで、自分が有利に立とうとしたわけだ
無論こんな姑息な考えをしているから架空戦記作家なんてその程度だったわけだし、架空戦記自体もつまらなくなったんだと -
架空戦記が小説だったら、シミュレーションなんかする必要はない
多少荒唐無稽でも間違いがあってもいいから、作家じゃないと表現できないことを書けばいい
それで一般読者、他の作家や専門家に「こんな見方もあるのか」と言わせれるのが仕事じゃないのかと
架空戦記には可能性が残されていたはずなのに、「日本を逆転させる」から荒唐無稽な展開になり、それをシミュレーションと自称したので混乱が大きくなった
挙げ句は小説としてもシミュレーションとしても評価されないばかりか、背後に歴史偽造や陰謀論を広めようとする人がいたなんて、シャレにもなってない
能力ばかりか人間性までおかしいヤツらしか、架空戦記に集まらないんだと -
・架空戦記は娯楽小説なのに、シミュレーション(をしている)と偽った=娯楽小説とシミュレーションとの区分を曖昧にした
・明確な区分を設けるのが作家、編集者の仕事であるはずなのに、「区分できないのは読者の自己責任」と責任を読者に丸投げした(作家、編集者が責任を放棄したのだから、小説としては面白く、シミュレーションとしては正確にならない)=架空戦記の読者ほどそれがおかしいとは感じない
・区分が不明瞭なのに史実の人物、他の作家や専門家、さらに両者の読者を「知識、想像力がない」と罵る
・批判があれば、「フィクションと現実の区別がついていない」と責任転嫁する(両者の区別をつけなかったのは誰?)
・歴史偽造、陰謀論と接点のある人物が多いのに、架空戦記作家、編集者、読者はまったく気付かない(想像力、洞察力がないんですか?)
「架空戦記がつまらない理由」であるとともに、「面白くならない理由」でもあるんだな
「架空戦記を面白くしたい」なら、周囲の改変の前に、自分たちから改変しなさいよと -
オカルト業界の懲りない駄々っ子たち 朝松健談 原田実構成 「歴史を変えた偽書」ジャパン・ミックス
もともとは「魔都物語-オカルト界で今何が起きているか」(『イスカーチェリ』二八号、一九八七年三月)
架空戦記と関係ある人間が結構出てくる
・『イスカーチェリ』二八号の巻頭エッセイは荒巻義雄
・『ムー』の太田雅男(副)編集長=前学研取締役、架空戦記を出したときの編集総責任者、オウムの麻原の「空中浮遊」を載せた編集長、戸高一成の寄稿が載った際の副編集長
・武田崇元=荒巻が読者だった「地球ロマン」、檜山良昭の寄稿、戸高の連載予告が載った「迷宮」の編集長 -
>『イスカーチェリ』に「魔都物語」が掲載された時には、何人かの、現在は、
>シミュレーション小説を書いている人たちから、オカルトって世界は物騒だな、
>あんまり近づかないようにしようという声が聞こえましたね。
「イスカーチェリ」と接点がありそうな架空戦記作家は林譲治、横山信義か
2人はほぼ確実に架空戦記とオカルトとの接点を知っていたはず
とくに横山は、と学会で原田実と接触があり、原田から戸高一成と武田崇元の関係を聞かされている可能性は高い
荒巻や中公に義理立てして、知ってて知らぬ顔を決め込んでたんだろうな -
>八六年から八八年頃にファンタジーブームというのが起きる。
>ここでブームになるのが英国本来のハイファンタジーに慣れた人にはかえって
>なじめないような変てこなファンタジーだった。誰かがそういう仕掛けを作って
>何か危険な方向に子供たちを引っ張ろうとしたのじゃないかと
武田崇元と関係の強かった大陸書房(ムー大陸から社名がとられた)もファンタジーを出してて、佐藤大輔、羅門祐人も出身
ひかわ玲子、茅田砂胡が中公に移籍したのが1992年
エンタメ小説で後れをとった中公が、大陸出身の作家と編集者を「抜いた」のは悪くない
ただ中公から「旭日の艦隊」が出て、徳間と協同で「荒巻義雄フェア」をやったのが92年6月
荒巻も大陸から数冊出しているし、武田と「抜く」のを仲介したのではあるまいか? -
>『ムー』は創刊一年目にしてすでに自家中毒症状をおこしている
>カンフル剤として利くのが日本オカルト、たとえば、木村鷹太郎とかですね
木村の評伝は戸高一成の書いたもので、No.25に掲載
>ところが日本オカルトには恐ろしい毒があるんですよ
>つまり日本人こそが、根源民族、単一民族で神に選ばれし民だという妄想です
>これが大きくなってごらんなさい。戦争で、進め一億火の玉だ、とこうなるんですよ
木村が属していた「日本主義」と」、80年代中期に流行った「変てこなファンタジー」の融合体が、90年代に誕生した架空戦記だってこと -
>「『ムー』を読んでいる君こそが霊的エリートだ」
「架空戦記」自体は悪くないし、罪もないんだよな
「史実の大枠を弄らないアクション小説」か「史実とまったく関係のないファンタジー」にしてりゃ良かったんだ
ところが架空戦記は、作家と読者の劣等感が共鳴し合う場所と化してしまった
シミュレーションではないのに「シミュレーションに基づいている」と偽るばかりか、歴史偽造や陰謀論を作中に散らしはじめた
「沢山の人が楽しめる娯楽小説」であることを否定し、「佐藤大輔の読者は自衛隊幹部候補並みの知識がある」と自家中毒に陥った
そんなに能力のある作家、編集者、読者が揃っていながら、オカルトとの関係を見抜けなかったとはどういうことだ? -
「日本が特別な国」と思い込みたいのは、右翼だけじゃない
憲法9条に固執する左翼も同様なんだな
だから紺碧担当編集者の父親が共産党系平和運動家なのも、紺碧の大ファンと自称する産経編集委員が安倍晋三応援団長と自称するのも、一見奇異だがつながっている
思想は正反対でも自分たちが特別視されたい、選民でありたいという意識は同じなんだな
紺碧は最初のうちは初歩的な間違いが鼻についたが、途中からは妙な選民思想が気になって読めなくなった
「紺碧を読んで国際政治や歴史を考えましょう」って、考えられる読者ほどおかしさに気づくよって
武田崇元が復刻しようとした日本主義の劣化コピーであり、行く末は現状への不満からの革命機運の醸造だったわけだ
それこそ「たかがフィクション」に、そんなものを混ぜ込んでどうするのかと -
ブックオフ某店ノベルズコーナー
棚4段約120冊のうち、30冊強が電波社ヴィクトリーノヴェル
もはや架空戦記が好きか嫌いか、面白いかつまらないかって問題じゃない
これが社会、市場が架空戦記に下した「審判」なんだな
作家、編集者、読者はこの事実をどう受け止めるのかと? -
「完成度の高い歴史のイフ」とは「弄る部分を最小限にする」であり、「日本が太平洋戦争で勝利する」ような「大きな改変は起こらない」ことを認めなければならない
「日本が太平洋戦争で勝利する」ような「大きな改変を起こそう」とすれば、「弄る部分を最大限」にしなければならず、必然的に「完成度は低くなる」という逆説に落ち込む
架空戦記が「好き嫌い」「面白いつまらない」とかじゃなく、この逆説に真摯に向き合えば「書きにくい、読みにくい」って話なんだな
濫作できる作家や編集者、疑問を持たず楽しめる読者は逆説であり、歴史に「向き合っていない」ってこと
「向き合ってない」のだから、シミュレーションとしてはもちろん、小説としてもどうなのか?と -
「歴史を弄るのが悪い」ではなく、「弄った話で、何を読者に訴えかけるか」なんだよな
作家から「読者に訴えかけるもの」があれば、弄る箇所は最小限のほうがいいし、結末で「日本が勝とうが負けようが知ったことではない」ってことになる
ところが架空戦記は「歴史を弄って、日本が勝つ」が大前提にあるから、弄る箇所は最大限でも許されるばかりか、「そこを弄って、結局読者に何を訴えたいの?」になるんだな
必然的に舞台は大きいのに、ストーリー、ドラマは平板なものに帰結してしまう
ストーリー、ドラマを描きたい作家は架空戦記を敬遠し、不得手な作家ほど集まるわけで、読者もストーリー、ドラマには期待していないと
もっとも作家も読者も素直に欠点と向き合ってくれれば救いはあるんだが、それがないんだよなぁw -
架空戦記批判で聞いたことがあるのは、「小説とはもともと登場人物の心理をシミュレーションしたもので、故に「すべての小説はシミュレーション」になる。わざわざ「シミュレーション小説」と銘打つのは、屋根を重ねるような表現で滑稽」ってもの
「歴史、史実を弄るのが悪い」のではなく、作家が「歴史、史実を弄ってまで表現したいものが見えない」んだな
作家に表現したいものがあれば、そこに集中するため「弄る箇所を最小限にしよう=最適な箇所だけ弄ろう」となるはずで、極端な大逆転なんて起こそうとは考えない
ところが架空戦記は「極論な大逆転」が最初にありきで「弄る箇所は最大限」となり、結果的に「表現したいものが見えてこない」のだと -
架空戦記の読者に興味があるのは戦闘シーンであり、兵器の描写であって、ストーリーやドラマは2の次になる
「人の心がわからない」読者が多くなるから、自分たちが娯楽小説をシミュレーションと偽り、「一般の読者は知識がない」「専門家は知識があるだけで想像力がない」といっていることに他の作家、専門家、読者がどう感じているかも理解できない
そうした読者に「この小説を読んでいる読者はエリートだ」と選民思想を与え、いい気になったところで歴史偽造や陰謀論を教えるのは、カルトそのものなんだな
小説=フィクションと現実の区別が付いている作家、編集者は要らぬ誤解を避ける努力をするし、読者は作家や編集者に「やめてください」と苦言する
ところが架空戦記の作家、編集者は自分たちがカルトの片棒を担いでいたことすら気づかなかったし、読者もことの重要性をまったく理解できていない -
某軍事専門出版社から書籍を出す予定だった作家が、偶然同社から多数書籍を出して戸高一成とオカルトとの関係を知り、「そちらから書籍を出すのが怖い」としか理由をいわずに原稿を引き上げた
その後しばらくして同社編集部と経営陣が戸高とオカルトとの関係を知り、作家が原稿を引き上げた理由も理解できた
本来なら戸高を呼んで詰問するとともに、引き上げた作家の名誉回復をしなければならないはずなのに、出版社はすべての責任を引き上げた作家に押し付けて戸高を不問にして逃げた
偶然その日に所用で編集部を訪れていた元編集長が、「なんだ。1番だらしないと思っていたヤツが毅然とした態度を示し、平素「旧日本軍首脳は」といってた連中が同じようなことをしたんだな」と吐き捨てたんだとか -
70年代初期にSFブーム、中後期に超能力ブームが来て、80年代初頭にムーが創刊されてオカルトブーム(並行して77年から84年が第1次アニメブーム
80年代中期から伝奇小説、ファンタジーの小さいブームがあり、架空戦記は91年頃からブームになった
武田崇元は超能力、オカルト、伝奇、ファンタジーに関係し、戸高一成、荒巻義雄、檜山良昭とも接点があるし、戸高から戦記専門出版社の今日の話題社を譲渡されている
創業した八幡書店に宗教法人設立前の麻原彰晃が出入りし、荒巻が用いた参考資料がオウム機関誌でも使われていた
また麻原の原稿をムーに載せた太田雅男編集長は、学研が架空戦記を出した時の編集総責任者
武田は80年代オカルトだけではなく、架空戦記の黒幕でもおかしくはないんだな
架空戦記は「純粋無垢な娯楽小説」ではなく、「歴史偽造、陰謀論の広告塔」だった可能性も否定しきれないんだ -
戸高の弟子筋になる大木毅は、ネット掲示板で戸高と武田の関係を指摘されて黙り込んだw
つまり「関係を知らなかった」んだな
薄々知ってそうなのは、武田の部下だった原田実と「と学会」で接点のある横山信義
朝松健と親交がありそうな林譲治、羅門祐人、そして故人の佐藤大輔だな
架空戦記とオカルトの接点を読者に開示しておかないと、読者が知らず知らずのうちにおかしな方向に誘導されかねない
「面白い小説を書く」以上に、「読者をおかしな方向に進ませない」のが作家の仕事じゃありませんか?と
「知ってて、知らない振りを決め込む」作家が書く小説って、「面白いつまらない以前」に「信用できない」んだよ -
まだ確証はないとして
Qアノンの正体とされるロン・ワトキンスは、2015年から2021年秋まで札幌市定山渓に住んでいた
荒巻義雄の元事務所、荒巻時計台ビルまでバスと地下鉄乗り継ぎで1時間ほどのうえ、荒巻も「紺碧の艦隊」作中でQアノンと同じ影の政府、イルミナティについて述べている
荒巻とQアノン=ワトキンスと接点があってもおかしくはないんだが、見当たらないw
しかし共通の知人がいた可能性は否定できない
心当たりがあるのは、ワトキンスの選挙参謀を務めた米出身のSF作家トニー・ティオラで、作家名で検索しても著作は見つからなかった
もしかしたらティオラは、荒巻の作品を翻訳した米のSF作家のW.シャイラーと同一人物じゃないのか?
もっとも証拠が出てこないので、現時点では「推測」で止めておくが -
〉ティオラは、W.シャイラーと同一人物じゃないのか
米のSF作家2人が、札幌を訪れるって考えられないんだよな
シャイラーって作家は、荒巻義雄の翻訳者として献本リストに記録が残っているから実在するのだろう
考えられるのは、シャイラーの変名がティオラだと
記憶が定かではないがシャイラーはたしか南部出身で、毎日新聞が掲載したティオラの写真ではテンガロンハットを被っていた
南部はQアノン信奉者、ルーズベルト陰謀論者が多いのは、共和党極右派が多いからだと
まだ確証はないとして、日米の陰謀論者が札幌で会談してたってこともありうるんだなw -
「Tony Teora」で検索したら、Amazonで著作が8冊見つかった
ティオラは「札幌で初めてワトキンスと会った」そうだが、米の陰謀論者2人が別々に札幌で暮らし、初めて会うって?
ありえないことではないが、不自然だよな
ワトキンスは札幌にペーパー会社を置いていたが、ティオラはどうして札幌での生活を選んだんだと
まあ深入りはやめておくかw -
書きたくはないけど、書いたほうがいいかな
架空戦記に集まる作家、編集者、そして読者には人間的として問題がある
「架空戦記が悪い」のではなく、「質の低い人間が集まったことで架空戦記が悪くなった」ってことだ
ブームを立ち上げた初期の作家、編集者がオカルト、陰謀論、歴史偽造と接点のあったことに、ブームで参入した作家、編集者、そして読者は誰一人として見抜けなかったんだな
そして何の疑問も抱かぬままフォーマットに沿った作品を乱発したことで、敵視していた作家や専門家、知識はないが常識のあった一般読者から見放されたことにも気付かなかった
明らかに自分たちが問題なのに、「受け入れない社会が悪い」と思っているのだから、ジリ貧からドカ貧になった。 -
「架空戦記の質を高めましょう」となると、シミュレーションにするか娯楽小説にするかの2択になる
どちらを選択するのも個人の自由として、前者なら「面白くなくても正確なもの」を目指さなければならないし、後者は「正確でなくても面白いもの」と乖離を起こす
「現状のまま」ってのはありえないし、だからこそジリ貧からドカ貧になったわけで
架空戦記の作中では改革、改善が行われているのに、現実の自分たちはしない、したくないって矛盾に陥っている
早い話が、架空戦記で恩恵を得ている連中ほど「質を高めたくない」ってこと
そりゃ新規読者が増えるはずがないし、新たな作家も集まらないのも道理だと
「面白いかつまらないか」じゃなくて、「面白くならない」し、仮に面白い作品があったとしても、現状と対比すれば辛さ、悲しさ、やり切れなさって感情のほうが先に来るんだな -
戸高一成がオカルト本を出しても、勤務先に連絡してたら問題はかなり減るんだな
呉市に転籍しても、人事担当者に渡す業務報告書に記載していれば良かった
「国家テロの首謀者である麻原彰晃が出入りしてた出版社から書籍を3冊出してました。その出版社の社長は元学生運動家で、オウム事件後に東京地検特捜部から任意聴取を受け、私は経営参画していた会社を譲渡しましたが、そんな人間でも呉市は参事補、参与、歴史博物館館長として雇ってくれますか?」と伺いを立てれば済んだだけの話
それでも戸高を雇いたいなら呉市の責任ってことになるし、戸高は「するだけのことはした」と胸を張れる
ところが常識的に、戸高が正直な履歴を述べたら、呉市が雇うのか?
「今回はなかったことに」が考えられる対応だから、「戸高は正確な履歴を呉市に伝えてなかった」んだろう
もう時効だが、公務員法に抵触してたんじゃねぇかと(刑法では問えないが、雇用主は「遡っての処分」ができるはず
前職の昭和館でもオウム事件直後と2003年の3冊目のオカルト本刊行時に上司、総務に報告できたはずだが、それもしてなかったんだろうな
そんなヤツの歴史書なんて、信じられるとは思わん -
戸高は「するだけのこと」を昭和館で2回、呉市で1回と計3度もしなかった訳だ
ここまで来れば偶然じゃなく、必然だろうなw
「オカルトに興味がある」のは自由だとして、「明らかに問題のあるオカルト関係者と親密な関係にある」のが公表されると自身の信憑性まで揺らぐことになる
何より問題がなけりゃ、自分からカミングアウトしたほうがダメージも最小で済む
カミングアウトでも多少のダメージどころではないことを自覚してるから、戸高は自分の過去を必死に隠してるし、だからこそ弟子筋も「気づかないような馬鹿」か「知ってて知らぬ顔を決め込む卑怯者」で揃えたかったw
こんな連中が「旧日本軍の組織的欠陥」と真顔で語るのは、最悪なコントだな -
その戸高が筆名で架空戦記を書いてたのはいいとしよう
戸高の弟子筋にあたる大木毅、吉田親司、青山智樹、松本孝宏といった面々が架空戦記を執筆
戸高と共著の多い原勝洋が陰謀論者で、2人が数冊出したベストセラーズから架空戦記が刊行
戸高が寄稿したムー編集長が麻原彰晃が「空中浮遊」写真を掲載した号も担当し、学研が架空戦記を出したときの編集責任者
オウムが機関誌で使った陰謀論の書籍を荒巻義雄が「紺碧の艦隊」作中で絶賛と、あり得ない連鎖が続く
これで「架空戦記とオカルトは無関係」と言われても信じられないよと
「陰謀論を広めるために架空戦記が使われた」と考えるほうが無難だよな
そして架空戦記が好きな連中ほどここに気づかないのだとしたら、架空戦記作家、編集者、読者に洞察力はなかったってことになる -
と学会で取り上げられていた精神科医でノストラダムス研究家の川尻徹の著書「滅亡のシナリオ」がオウム設立前の麻原彰晃に大きな影響を与えた
もともと週刊プレイボーイに掲載されていたのだが、集英社が出版を認めず、祥伝社から刊行された
たしかプレイボーイの担当編集者が落合信彦を売り出した人で、経歴を「盛る」指示を出した
そして落合の2番煎じが柘植久慶で、同様に経歴が「盛られた」
その柘植が陰謀論ビリーバーで‥と、無限連鎖のように怪しい関係が続くんだな(おそらくプレイボーイ編集者と武田崇元に接点があるはず
陰謀論と接点のない、初期の架空戦記(を書いてた)作家は山田正紀、川又千秋、谷甲州ぐらい(純粋なSF作家)だと
架空戦記のフォーマットをつくった作家、編集者と陰謀論とのつながりを明らかにし、そこから改善していかないと架空戦記の良化なんてできる訳がない
もっとも今まで気づかなかった作家、編集者と読者に、改善する資格なんてないってことだw -
・戸高一成が調べていた木村鷹太郎らの「新日本主義」(日本は神の国で世界の頂点に立つべきであり、根拠として古代史まで都合よく解釈する
・川尻徹のノストラダムスをはじめとする終末戦争観(石原莞爾、米キリスト教極右と連動
・「ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていた」的な陰謀論=Qアノン、荒巻義雄が用いた影の政府、イルミナティにつながる
・91年の太平洋戦争開戦50年
・バブル経済による社会の軽躁病化と、その流れに乗れなかった人たちの恨み辛み
これが架空戦記誕生の背景ってヤツだw -
架空戦記が普通の「シミュレーション」、あるいは「歴史改編SF」、「(史実を弄らない)アクション小説」、「(史実と関係ない)ファンタジー」のどれかに進化していれば、何も問題はなかったんだよな
しかし「シミュレーション」であるなら「娯楽小説」的な要素はなくなるし、他の3種の小説にしようとすれば「シミュレーション」と銘打つ必要もなくなる
どちらに進むのも嫌だった作家、編集者がいたってこと
そういう人たちだから架空戦記にわざわざ「シミュレーション」とつけることで他の小説との差異化を図りつつ、作中に歴史偽造や陰謀論を作中にまぶそうとした
「シミュレーション」としても、小説としても質を上げる気なんてなかったんだな
読者に選民意識を植え付けておいて、「騙されたら自己責任」と転嫁して逃げようとしたなんて、カルトそのままだよ -
荒巻義雄が作中で影の政府やイルミナティを出してきた時は引いたな
まだ「作品世界の話」ならわかるが、「史実の説明」の部分に入れるべきではないし、まともな編集者なら注意してるはず
作家も編集者もブレーキを踏まなかったのに、「現実と勘違いしたら読者が悪い」というのは筋が通らない
作家、編集者が「読者が混乱しないように」配慮したうえで、読者が混乱すれば「読者の自己責任」だが、「混乱してもおかしくない」状況をつくっているのだから、作家と編集者が責任を果たしていないことになる
カルトの手法と言われてもおかしくないんだな
しかしここをおかしいと感じない読者、後発の作家と編集者なんだから、架空戦記とオカルト、カルトとの関係を見破るのはできないってことでもある -
架空戦記が好きだといっている読者ほど「細かい部分を読んでない」「問題の重要さを理解していない」「作家、編集者に苦言を呈さない」
否定派や部外者に問題を指摘される前に自分たちで見つけ、解決しようと努力していれば相応の敬意も払えるのだが、そんなことはしないw
「好きだから欠点が目につき、改善しよう」とするのではなく、「好きだから欠点が見えないし、改善する気もない」んだな
どれだけ「好きだ」「俺たちはフィクションと現実の区別がついている」と言われても信じられないんだよw
だからこそ「ブームをつくった編集者の父親が共産党系の平和運動家」「歴史偽造、陰謀論と関係する作家が多数」ということに気がつかない -
「作品世界の説明」と「史実の説明」は作家と読者の共通認識の確認であって対等の関係
影の政府やイルミナティといった陰謀論を作家が信じるのは自由だが、「作家が史実をどう捉えているか」は基本的に小説には必要ない
もっとも「作品世界の説明」で「この世界には存在するんですよ」とするのは認められるが、バランスをとるため「史実の説明」では「ありません」にしておかないと
荒巻義雄が作中で影の政府、イルミナティを説明したのは、「小説としてどうなのよ」って話なんだよな
作中の「史実の説明」に怪しげな説を混ぜ込むと、読者は「ここは小説?それとも史実の説明?」と迷うんだな
「面白いつまらない」以前の問題として、読者を混乱させないのが作家の仕事でしょうと
読者を混乱させておいて、「誤解したら読者の自己帰任」と逃げるのは、作家の仕事ではない -
それこそ作中ではまったく触れず、あとがきに「影の政府、イルミナティという考えがあり、私は信じていますが、読者の皆さんは信じなくても結構ですよ」と書いてあれば、読者が陰謀論に染まらないよう配慮しているのだから、許されるのだろうさ
怪しい説を用いながら読者への配慮をしていないのは、「面白いつまらない」以前の問題だと(配慮がないのだから、「架空戦記は陰謀論の広告塔」と疑われても仕方ない)
「フィクションと現実の区別がついている読者」ほど作家や編集者のこうした姿勢に苦言を呈するはずだが、架空戦記の読者は危険性をまったく理解できていない
普通の小説はおろか、まともな書籍も読んでいないんだろうな
仮に読んでいたとしても、上っ面だけしか読んでいないのだろうさ -
「架空戦記は娯楽小説ですから、多少間違えても許される」のだとしたら、影の政府やイルミナティといった陰謀論を紹介するのも「あり」だろう
しかし作家と編集者が「架空戦記はただの娯楽小説ではなく、シミュレーション(に基づいているの)ですから、間違えていません」と銘打っておいて、怪しい説を紹介するのはどうなのか?
これでは陰謀論が「信憑性のある説」と読者が誤解する方向に誘導していると疑われるんだな
そもそもこの部分がなくてもストーリーは進展するのだから、割愛したところで問題ない
「フィクションと現実の区別が付いている読者」ほど、「不要です」「どうして必要なんですか」と作家、編集者に意見できるはずなんだよな
「不要なパートをわざわざ挿入する作家、咎めない編集者」と「指摘できない読者」が、歴史や国際政治なんかを考える資格なんてないw -
架空戦記が娯楽小説で、多少間違えても許されるのであれば、影の政府やイルミナティといった説を紹介してもそれほど罪は大きくない
しかし「ただの娯楽小説ではなく、シミュレーション(に基づいている)小説だ」というなら、信憑性の高くない説を紹介するのはよくないってこと
「架空戦記は娯楽小説なのか、シミュレーションなのか」の境界線を明示しなかったことが、混乱を引き起こす要因になっている
つまり「フィクションと現実の区別がついている作家、編集者、読者」は境界線を設けることで未然に混乱を防ごうとする
「区別をつけたくない作家、編集者」は境界線を曖昧にし、「重要性を理解できない読者」は危険性を把握しないまま「俺たちは区別できる」と息巻くw -
「軍事や歴史の知識がないと架空戦記へ読めない」って通説もおかしい
事実作家以上の知識を持っているはずの専門家が、架空戦記をまったく評価してない
作家と対等、もしくはそれ以上の知識がある読者には「穴、問題点」が見えちゃうんだな
「普通の小説」ならともかく、「シミュレーションに基づくを売り物にした小説」なんだから作家、編集者には「知識のあり過ぎる読者」ほど招かざる対象になってしまう
荒巻義雄が善意で正誤表をつくった読者を吊し上げたのも、自分より上位の読者は不要という意思表示だったんだ
つまり「作家よりも知識の劣る」、且つ「問題点を読み解けない、作品をちゃんと読んでない読者」ほど必要だった
そんな読者を「優秀、向学心がある」などと褒めつつ、専門家や知識のある読者を「知識があるだけで想像力がない」と貶めてた訳だw
まさしくカルトであり、反知性なんだよな -
それこそ小説なんだから、多少の「穴、問題点」があっても御愛嬌で済む
ところが架空戦記は作家、編集者、読者が「ただの娯楽小説ではない」「シミュレーション(に基づく)」と自分たちで勝手にハードルを上げてた
上げるだけ上げておいて、「ただの娯楽小説だから許してください」は都合よくないかと
まず最初から「ただの娯楽小説で、シミュレーションではありません」と言ってりゃ問題なかったんだな
そして「小説」としての完成度が高けりゃ、「穴、問題点」も読者たちの知恵でなんとかふせげた
対して架空戦記は小説としての完成度が低く、多くの読者からの知恵を集められず、穴や問題点に気が付かない読者しか残らなかったてことだ -
「高度なシミュレーション」にすればするほど理解できる読者は減り、「ノベルズ、娯楽小説」で刊行する意味がない
「一定数の読者」に読んでもらおうとすれば「シミュレーションとして高度にしない」ほうがいいし、そもそも「シミュレーション」と銘打って他の小説と差異化を図る必要もない
娯楽小説とシミュレーションのどっちが優れてる劣ってるという話じゃなく、別のものだから比べようもないのだと
だから「穴、問題点があるのが悪い」のではなく、「どう埋めるか」なんだよな
作家に器量があれば有能な読者に穴埋めを任せれば済むのだが、架空戦記作家は「自分が頂点」でなきゃ嫌だって人がいるw
有能な読者ほど排除してしまい、無能な読者相手に「優秀だ」と煽ててたんだな
作中などで「ダメ組織のトップはイエスマンしか集めない」と書いていたのに、自分はどうなのかと -
「普通の娯楽小説」だったら作中に影政府、イルミナティ、ルーズベルト陰謀論があっても擁護できる余地はあった
しかし散々「普通の娯楽小説ではない」「シミュレーション(に基づいた)小説だ」といってたのだから、相応の責任を果たしなさいよと
「普通の娯楽小説ではないから、間違えていない」と言いつつ、おかしさを指摘されると「普通の娯楽小説なのだから、間違えてもいい」って道理は通らない
作家がその場その場で立場を使い分け、編集者も読者もそれを咎めなかったのだから、架空戦記がおかしくなった
というかその程度の作家、編集者、読者しか集まらないのだから、架空戦記が社会から相手にされないのだ
作家、編集者、読者が現状を変えたいなら、まず自分たちが変われよ
現状ままでいいなら、この社会からとっと消え失せろ -
架空戦記ブームをつくった荒巻義雄は、「優秀な読者が熱心に読む」のを嫌がってたんだろうな
多少作品に問題点があるのはやむを得ないとして、そこから自分が現実社会の陰謀論と接点のあることに気づかれるのを恐れていた
優秀な読者は自分がコントロールできなくなる危険性を秘めているので、吊るし上げて排除し、「自分がコントロールできる、作品は好きだが問題には気づかない魯鈍な読者」を欲した訳だw
自分を頂点としたヒエラルキーを確立し、陰謀論を広めようとしてたんだな
もはやカルト教団どこが違うのかと
荒巻の読者は白い法衣を着せられて、ハリボテの象と踊らされてたのかも知れないんだぜw
シャレではなく、荒巻が作中で紹介した参考資料がオウム真理教の機関誌でも使われていたし、戸高一成のオカルト本を出した出版社の社長はオウム事件直後に東京地検特捜部から任意聴取を受けてる
そして学研が架空戦記を出した時の編集総責任者が、麻原彰晃が空中浮遊した写真を掲載したムーの編集長だからなw -
荒巻義雄が紀伊國屋札幌旧本店で艦隊シリーズの謎本を手に取り、店内に響き渡る悲鳴をあげたばかりか、その場で失禁と脱糞をしたw
紺碧の艦隊で「歴史修正学」を紹介した参考資料の米版元まで調べられ、米政府が反社会的組織と認定していたのを初めて知った
そればかりか版元は「ホロコーストはなかった」の書籍を刊行したことで米在住のユダヤ人団体から訴えられ、敗訴していた
荒巻は旭日の艦隊で2か月前に起きた阪神淡路大震災を使ったが、同日に起きたマルコポーロ事件(文藝春秋社の雑誌に「ホロコーストはなかった」の記事が載ったことでユダヤ団体が広告差し止めを決め、花田凱章編集長が解任、退社した)で「歴史修正学」が使われたことには触れなかった
しかし荒巻はあとがきにユダヤ人の手紙を紹介して「ホロコーストはあった」と認めているのに、「なかった」と訴える団体が刊行した本を絶賛していたのは、明らかな矛盾だと
荒巻は自分が知らなかったことまで謎本に書かれ、悲鳴をあげたんだなw -
荒巻の失禁脱糞事件は紀伊國屋を訪れた中央公論社販売担当の知るところとなり、編集部にも伝えられた
ところが編集者たちは荒巻の醜態を笑ったが、何の改善策もとらなかったんだな
作家も作家だが、編集者も編集者だな(中公新書から「歴史修正主義」が刊行され、好著なのだが、「日本の事例は扱わない」となっている。「扱った」ら中公の信用なんかなくなる)
またこの件は日本人のユダヤ研究者からイスラエル大使館と繋がりのある滝川義人さんに伝えられ、荒巻は要注意人物としてマークされているって話だw
荒巻は歴史修正学とはどういうものかを知ったうえで読者に紹介したのか?
反ユダヤ=親ナチスだったことも知らないまま読者に紹介したのなら、作家として恥ずべき行為なんだがな -
荒巻義雄が「紺碧の艦隊4」で紹介し、オウム真理教が機関誌でも使用した本は「操られたルーズベルト」
荒巻とオウムには直接接点はないが、両者をつなぐ有力な人間は、ムーの編集顧問で戸高一成のオカルト本3冊を刊行した八幡書店社長の武田崇元だな
荒巻は92年6月に中公から「旭日の艦隊」を刊行する打ち合わせのため、91年9月末に上京しているが、その際に武田(戸高)と接触したのではあるまいか?
「紺碧4」は91年12月刊行で執筆が10月
9月末から武田から紹介された「操られたルーズベルト」を読み、「紺碧4」の作中で読者に紹介したと
荒巻自身どこまで陰謀論に染まっていたかは不明だが、「知らぬまま読者に紹介する」「知ったうえで読者に紹介する」のいずれも読者への背信行為だ
こんな小説とは呼べないものをフォーマットにしたのだから、架空戦記はクソなんだよ -
「操られたルーズベルト」の著者馬野周二と武田崇元には接点がある
そして「操られたルーズベルト」の刊行日は91年10月1日で、書店に並ぶのは荒巻義雄が上京した9月末と一致
荒巻と武田が東京で会った際、武田から紹介されたって可能性が高い
そして中公社屋で、翌年6月に刊行する「旭日の艦隊」についての打ち合わせの前、荒巻は特別なコネで米空母インディペンデンスを見学している
このコネって、当時史料調査会に在籍していた戸高一成経由じゃないのか?
武田が米空母に乗れるかは知らん(最低限の身元調査がある)が、中公での打ち合わせ前に荒巻、武田、戸高が接触していたってことか
これで「紺碧の艦隊4」で歴史修正学、影の政府、イルミナティなんかが前触れもなく登場したんだな -
当初荒巻義雄は「紺碧の艦隊」を単体のシリーズととでしか認識していなかったが、予想外に売れた
中公から外伝「旭日の艦隊」を出すオファーをもらい、それまでの敵は「史実通りの米(連合国)」を「史実ではない独」に変更せねばならなくなった
旭日刊行までに残された「紺碧4、5」でストーリーを調整せねばならなくなったんだな
しかし問題だったのは、自分が「ただの娯楽小説ではない」とハードルを上げていたことだった
文句を言いそうな古参読者から矛盾を指摘されそうなので、「操られたルーズベルト」から歴史修正学を引用して、「
学界から評価されている」と権威づけようとした訳だ
ところが歴史修正学の裏などまったくとっておらず、謎本で追求されて糞便を撒き散らしたってことだw
荒巻も情けないが、徳間と中公の編集者、読者も揃って情けねぇな -
そして戸高のオカルト本3冊を刊行した武田崇元は、旧知の檜山良昭に大逆転シリーズの執筆を勧めたってことか
戸高は戸高で、ベストセラーズなどから架空戦記を刊行させた
折しも大陸書房が倒産、廃業で、出入りしていた佐藤大輔や羅門祐人たちの受け皿にもなった
架空戦記とオカルトはただならぬ関係だった訳だ
そして読者はもちろん、後発参入組の作家や編集者もこうした流れには無頓着だったんだな
知識の有無以前に、勘が働けば「なんかおかしい」と気づくはずなのに、それがないままズルズルと流された
架空戦記ブームといっても薄っぺらい内情で、まともな作品ができる素地などなかったんだな
この程度の作家、読者が戦略、歴史、文明を語るなんてちゃんちゃらおかしい -
架空戦記ブームをつくった荒巻義雄、檜山良昭、武田崇元、そして戸高一成は歴史偽造、陰謀論で接点がある
だから佐治芳彦、柘植久慶といった陰謀論プロパーも参入できた
また歴史偽造、陰謀論に沿ったフォーマットができたことで、ここに疑問を持たない作家ほど多く参入&デビューできた訳だ
つまるところ架空戦記にはテーマ性、ストーリー、ドラマは不要で、歴史偽造、陰謀論を広めるためのツールに堕ちたんだな
「おかしい」と声を上げる作家、読者は干され、疑問を感じないほど魯鈍か、ダンマリを決め込む作家、読者が重用された
しかしそんな連中でブームが継続できるほど、世の中は甘くないんだと -
「紺碧の艦隊」で頭を抱えたのは、「ドゥリトル隊の東京初空襲は原爆投下の予行演習」だな
荒巻義雄が信じるのは自由だが、作中の「史実の説明」になかに入れる必要があるのかと
「作品世界の説明」で「史実と違って、演習だったのです」とするのはまだいい
しかし「史実の説明=読者と共通認識の擦り合わせ」のなかに、元ネタを明らかにしないまま、荒巻が信じている説を挿入するのはどうか?
極論すれば「なくてもストーリーが進展する」のだから、わざわざ混ぜ込む必要はないんだな(書きたければ膨大なあとがきに書けばいい)
不要なものは排除して作品の密度を高めるのではなく、不要なものを書くことで作品の密度を落としているのだから、作家としても疑問な行動だし、それを咎めなかった編集者、読者もどうなのか?と -
東京初空襲は原爆投下の予行演習、ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていた、世界には影の政府があり、イルミナティが牛耳っている……荒巻義雄が何を信じるもの自由
しかし「紺碧、旭日」に限らず、すべての(商業出版された)小説は社会、読者との共有物なんだな
作家の信じるものを紹介するためだけに存在していない
ましてや信憑性の乏しい陰謀論なんだから、「作中」に書く必要なんてないんだよ
「作中」に書けば「事実勘違いする読者」も出かねないんだし、そんなに紹介したけりゃ「あとがき」に書いたほうが読者の混乱も防げる
読者の勘違いを防ぐ努力をして、「混乱したら読者の責任」と口にするのは道理だが、混乱を誘発させておいて「読者の責任」って言葉は使うのは反則だ
「面白いつまらない」「正しい間違い」以前の、「読みたいと思わない小説」なんだよ -
・荒巻義雄が信憑性の乏しい学説を、作中(の史実の説明部)で紹介した
・荒巻は「ただの娯楽小説ではない」「シミュレーションだ」という言葉を用いていた=信憑性の乏しい学説が、価値のあるものと読者が錯覚しかねない
・荒巻が読者を混乱させる行為をしたのだから、責任は荒巻が負うべきだ=混乱させない配慮をしたなら、読者の自己責任になる
「フィクションと現実の区別ができている」読者ほど、これが何を意味するかわかるはず
信用していた作家が、読者におかしな学説を植え付けたばかりか、自分がとるべき責任まで転嫁していた
端的に述べるなら、読者の信用、信頼を裏切っていた訳だ
荒巻の読者はここまで読み解けないのだから、どれだけ「好きだ」と言おうが「作品を読んでいない」
荒巻、編集者が欲していたのは「買ってくれるが、読んでいない読者」であり、そんな読者たちに歴史や国際政治を考える力量などない -
〉欲していたのは「買ってくれるが、読んでいない読者」
正誤表をつくった読者のように「読んでいる読者」は作品の問題点、矛盾を見抜く
作家と編集者が歴史偽造、陰謀論と接点のあることまで気付きかねない
つまり作家をトップとしたヒエラルキーを崩し、自分たちが裏で行なっていたことを阻止する危険な存在なんだな
能力高い読者を吊し上げて葬り、おかしさに気づかないか、気づいても黙っている作家、読者を重用した
愚者の楽園と化したんだな
もっとも人の集まる組織には多少の情実もあるとして、旧日本軍などが「イエスマンばかり集めた人事が敗因」とどの口がいうのか
作家と編集者が「イエスマンばかり集め」、多様性を否定したことで免疫不全を起こしたのが、架空戦記低迷の真因ではないのか
架空戦記作家、編集者、読者は、鏡の前に立てば無能、卑怯者の顔が見えるはずだ -
作家、編集者、読者は「架空戦記が好き」じゃなく、「架空戦記に携わっている自分たちが好き」だっただけだ
だから問題点には気づかないし、気づいたところで改善しようともしない
そのくせ「新しい仕事をしている」「他の作家や専門家は無能」と、自分たちに酔ってたんだな
その挙句が「古本屋で1冊80円で投げ売り」「ブックオフで1段占拠」なんだから、情けないにもほどがある
おまけに大木毅を筆頭とする戸高門下の誰一人として、戸高とオカルト、カルトとの接点すら気づかなかった
それはつまり自分たちもオカルト、カルトの片棒を担いでいたってことなんだが
戸高の件が公的にバレると、戸高どころか関係した出版社の信用はガタ落ちで、自分たちなんか吹っ飛ぶことすらわからんのか
そのくせ「旧日本軍の人事、戦略の欠陥」なんて、口にする資格があるのかと? -
専門書、一般常識はおろか、「自分の好きな小説」すら「読んでない読者」の喜ぶ内容を書きながら、ところどころで偽情報を混ぜていく
読者の混乱を防ぐことをせず、最後に「間違えたら読者の自己責任」と自分たちが負うべき責任まで丸投げする
それこそムーであり、八幡書店の手法なんだな
戸高一成が八幡書店から3冊刊行し、戸高と麻原の記事を担当した編集者が学研が架空戦記を出したときの編集責任者だったうえ、オウム真理教と荒巻義雄が同じ書籍を参考資料にしたなんて、もはや偶然ではないだろう
「90年代以降の架空戦記はオカルト、カルトの影響下にあった」のは、動かし難い事実なんだよな
そこに気づかなかった読者、後発組の作家、編集者が偉そうな顔をすんなよw
お前たちみたい連中が、80年前に日本を破滅に追い込んだんだぜ -
荒巻義雄が影の政府、イルミナティの存在を信じるのは自由だし、口出ししない
しかし作中の、「史実の説明」の部分で紹介する必要はない
歴史改変SFでは「史実の説明」と「(改変された)作品世界の説明」は読者との共通認識を確認する意味で必須だが、「作家が史実をどう感じているか」はさほど重要ではない
自説を述べたければ作中ではなく部外=あとがきに書けばいいし、そのほうが混乱する読者も減るだけではなく、荒巻が「配慮したのに混乱したのなら、読者の自己責任」と居直っても筋が通る
また減った部分を「史実の説明」、「作品世界の説明」、「物語の進展」で埋めたほうが、濃密な内容になる
つまり「作品の質を上げようとせず、わざわざ信憑性の乏しい説の紹介をしたのか」って話なんだな
普通に考えても「作品〉学説の紹介」という位置付けなのに、荒巻は「作品〈怪しい学説」なっている
「フィクションと現実の区別ができる読者」はここまで読まない、考えないのかな?w -
霧島那智や谷恒生、志茂田景樹は火葬戦記、下層戦記と呼ばれるが、読者の質的低下も敢行された理由なんだよな
編集者、出版社が「買ってくれれば、読まない読者でいい」と考えた
「読者が読まない、読んでない」のだから、作家や作品の質を上げる必要もないしな
反対にいえば「読んでくれる読者」ほど間違い、おかしさに気付くから疎ましくなった
「読んでくれる読者」は必要なく、「知識はあるが想像力がない」と貶めて追放した
回り回って作家、編集者、読者とすべての質が低下したわけだ
もっとも「普通の娯楽小説」ならともかく、「シミュレーション小説」と銘打ったことで「他の小説は違う」と差異化を打ち立てたんだからなぁw
「質の高い作品=作家、編集者、読者」だったはずなのに、実は普通の小説以下だったと -
「テーマ性、ストーリー、ドラマがしっかりしている」、「作家は読者との信頼関係を裏切らない(怪しげな学説などは紹介しない)」が一般的な意味での「いい小説」
ところが架空戦記の頃から、「読者の趣味趣向に合わせたものを作家が書く」のが顕著になった
「テーマ性、ストーリー、ドラマ」を読者の要求に合わせるのはともかく、「ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていた」の陰謀論的な、(日本人)読者は求めているかも知れないが、胡散臭い説を最新の学説のように紹介するのはどうなのか?と
なによりルーズベルト陰謀説は右だけではなく、本田勝一のような左翼にも信奉者がいる
荒巻義雄、艦隊シリーズの大ファンと公言した阿比留瑠比産経編集委員が安倍晋三応援団と自称するのに、担当編集者芝田暁の父親である芝田進午が共産党系の平和運動家で、芝田の弟子たちのHPに「安倍辞めろ」デモのバナーが張られているなんて、もはやコント以下だよ -
右であれ左であれ、ルーズベルト陰謀論は「心地よい物語」なんだろうさ
しかし心地よいからこそ思想信条が反対でも容易に受け入れられる訳で、「同じ説を信じているのに対立する」という倒錯した事態に陥っている
そう考えると、「心地よいからこそ間違っている」ってことに気付くはずなんだがな
端的に言ってしまえば陰謀論には実態がなく、受け入れる人の思想信条に合わせて変容してしまう
器がウーロン茶の瓶ならそのなかに、爽健美茶の瓶でもそのなかに収まるだけで、瓶を持っている人が「ウーロン茶が好きか爽健美茶が好きか」なんてどうでもいいとw
産経編集委員、平和運動家ですらこの道理を理解できないのだから、架空戦記の作家、編集者。読者ごときが理解できる話でもないわけで -
「架空戦記にテーマ、ストーリー、ドラマがない」からこそ、火葬戦記や下層戦記までできてしまう
テーマ、ストーリー、ドラマを書けない作家、読まない読者が集まるんだな
「この部分を改変することで、何を訴えたいのか」「他の部分ではなく、その部分でなければならないのか」「テーマ、改変に適したストーリー、ドラマなのか」なんてことを作家、編集者、読者が考えない
つまり「架空戦記にテーマ、ストーリー、ドラマがある」なら、普通の小説の1ジャンルで収まる
作家、編集者、読者たちが「他の小説とは違う」と差異化を図る必要がない訳で
差異がないのだから、「シミュレーションに基づく」とのブランディングも不要になる
結局架空戦記がおかしいのは、問題ある作家、編集者、読者が集まったからなんだと
まともな作家、編集者、読者が揃っていたら、ここまでの惨状も回避できたかもしれないが -
結局架空戦記は「専門家も読めるシミュレーション」にするか、「専門的ではない(娯楽)小説」にするかの2択なんだな
どちらを選択するのも作家、読者の自由だが、「シミュレーション小説」と両方しているように見せるのは愚策だったと
シミュレーションとして問題があれば「(娯楽)小説です」となり、(娯楽)小説としてつまらないといわれると「シミュレーションだ」と言い切れる
どちらも逃げ道になってしまい、全力を尽くさない方便になったんだな
だからこそ舞台は壮大なのにテーマ性、ストーリー、ドラマが貧弱になり、多くの読者を惹きつけられない
挙句は下層戦記、火葬戦記まで登場し、ブックオフで買取拒否や投げ売りにされる
情けないことこのうえないよ -
もっとも作家がどれだけ「テーマ、ストーリー、ドラマ」を盛り込もうが、読者が「爽快さ、わかりやすさ」を架空戦記に求めていれば、入れる必要がなくなる
架空戦記には「テーマ、ストーリー、ドラマ」が重要ではなくなり、編集者もセーブするよう要求していくうちに、「テーマ、ストーリー、ドラマを描くのが苦手な作家」が集まり、さらに「技量、人間性に問題のある作家」が増えたと
「知識がないと書けない、読めない」ではなく、「知識があっても」になり、最終的に「知識があったら」になったんだな
「知識がない」こと自体は批判できないとして、常識があれば「ない」を自覚できる作家、人間は「(専門的な)シミュレーションができます」とは口にしない
また「知識がある」ことを自負できる作家、人間は「この種の小説にシミュレーションと銘打っていいのか」と悩む
結局「知識の有無」とは関係なく、人間性に問題のある作家ほど架空戦記に群れたんだな -
「テーマ性、ストーリー、ドラマ」があったうえで「日本が勝つ」のは悪くない
作品の目的は「日本が勝つ」ではなく、他の要素なんだからね
つまり「小説として良くする」のであれば、「勝ち負けなんかどうでもいい」になる
だけど「日本が(大逆転して爽快に)勝つ」のが架空戦記の目的になったことで、テーマ性、ストーリー、ドラマが不要になったわけだ
「勝つ」という目的を達成するには、「小説としての要素が欠けていても構わない」んだな
結果的に「小説としてつまらなくなってもいい」ことになり、小説を書きたい作家、読みたい読者は来なくなるw
「小説としてつまらない」ばかりか、「シミュレーション」としては専門家も読んでくれないのだから、どれだけ「作家、読者に知識がある」と叫ぼうと意味がない
買取拒否や投げ売りは当然だよ -
「日本が大逆転して(爽快に)勝利する」からといって、「小説としてよくできている」わけでもないし、「シミュレーションとしてよくできている」わけでもない
重厚なテーマ性、練ったストーリー、納得できるドラマがあれば「いい小説」だし、「日本が史実とは異なる敗北」をすることを示せば「いいシミュレーション」になる
架空戦記がおかしくなったのは、「いい小説」や「いいシミュレーション」を目指すのでもなく、「とにかく日本が大逆転して勝利する」自体が目的になったからなんだな
つまり「日本が勝ちさえすれば、いい小説、いいシミュレーションでなくてもいい」のだと
それじゃまともな作家、専門家と読者は逃げてしまう
質の低くなった読者に、架空戦記作家と編集者が「あなたたちこそ真のエリート」とカルト的に煽てたんだな -
>日本が勝ちさえすれば、いい小説、いいシミュレーションでなくてもいい
それが「日本が勝つから、いい小説、いいシミュレーション」に転じたんだな
悪貨が良貨を駆逐したように、架空戦記から「いい小説、いいシミュレーション」を書く作家、専門家と理解できる読者が追放された
「日本が勝つから、いい小説、いいシミュレーション」を書く作家、専門家と理解できる読者が主流になったばかりか、そういう人たちが「実績を積み」歴史雑誌などに寄稿できるようになったわけだ
回り回って、全体的な質的低下をもたらしたんだな
無論その程度の作家、専門家と読者に、架空戦記の背後にオカルト、カルトの影があったなどを見抜く能力など持ち合わせていない
歴史偽造の片棒を担っていながら、よく生きていられるものだ -
>「日本が勝つから、いい小説、いいシミュレーション」を書く作家、専門家
架空戦記ブームをつくった荒巻義雄、檜山良昭がコンプレックスをこじらていたように、架空戦記に群がった作家、専門家もコンプレックスをこじらせていたんだな
自分たちが社会の主流になれないから「逆転」を欲していたわけで、架空戦記、荒巻、檜山に親和性があったと
つまり「いいものをつくって評価され、トップに立つ」ではなく、「トップに立てるのであれば、いいものなどつくる必要はない」という考えなんだろうな
>架空戦記の背後にオカルト、カルトの影があったなどを見抜く能力など持ち合わせていない
そういう品性だから、歴史偽造や陰謀論を広めたい人たちから見れば「いいカモ」だった
よい立場を宛がうことで、陰謀論などを広める作品を濫作させたわけだ -
娯楽小説は「単純さ、わかり易さ」が必須だし、勧善懲悪でもいいんだな
しかし実際の戦争は、どっちが100%正しいなんてあるはずがない
「連合国は善、枢軸国は悪」的な東京裁判史観は問題があるとして、「日本が100%悪くない」とは言い難い
ただ「架空戦記は娯楽小説」だから、「100%日本が善、連合国が悪」にならないと困るw
そこに陰謀論、歴史偽造が入り込む余地があるわけだ
もっとも「娯楽小説ですから、信憑性はありません」と注意書きでもしてりゃいいんだが、「シミュレーション小説」と他の(娯楽)小説よりも価値があるかのようなジャンルにしてしまったんだな
作家と編集者が、読者が混乱するよう誘発しておいて、挙句は「間違えたら読者の自己責任」と切り捨てるんだから、面白いつまらない以前の、人としてどうなのかって話なんだが -
・荒巻義雄とオウムの機関誌が同じ陰謀論の書籍を参考資料にしていた
・戸高一成がオカルト本3冊を刊行した出版社に、オウム設立以前の麻原彰晃が出入りしていた(オウム事件直後に東京地検特捜部から任意聴取を受ける
・その出版社の創業社長が編集長を務めていた雑誌に檜山良昭が寄稿
・戸高の寄稿を載せたムー副編集長が麻原の空中浮遊を載せた号の編集長で、学研が架空戦記を出したときの編集総責任者
・その編集者にムーの企画書を渡したのが、先の創業社長
・架空戦記を刊行した柘植久慶、佐治芳彦。戸高と共著が多い原勝洋は陰謀論ビリーバー
これだけ重なりゃ、架空戦記と陰謀論の関係を疑うなといっても無理な話w
優秀な架空戦記作家、編集者、読者の皆さんが、どうして気づかなかったのか? -
1991年1月17日に砂漠の嵐作戦が行われ、藤岡信勝が共産党から保守に転向
1997年に「新しい教科書をつくる会」を創設してるんだな
「日本の誇りを取り戻す」のは問題はないんだが、根拠が薄弱な部分を補強する必要があり、そこに陰謀論が接近したんだな
「日本は悪くない」を裏打ちするため「米でも米政府の戦争責任を追及している人、団体がいる」と紹介したのだが、それがナチシンパや人種差別団体だったのは報じなかった
「紺碧の艦隊1」刊行が1990年12月、1991年9月に翌年6月に中公から「旭日の艦隊」刊行が決まり、会議が行われた
同じ頃に米の怪しい団体が刊行した「操られたルーズベルト」の邦訳が発売され、12月に刊行された「紺碧4」で大々的に紹介されたと、時期的にはすべてリンクしている -
1991年9月に中公旧社屋で行われた「旭日の艦隊」刊行の会議に、著者の荒巻義雄は当然出席したが、他のメンバーは担当編集者である徳間芝田暁、中公新名新と両者の編集長、販売担当者というところか
戸高一成や武田崇元(同年に倒産した大陸書房と関係あり)が出席した形跡はない
荒巻は戸高と米空母インディペンデンスの先行公開で同席し、その前後に武田と会って3者で会談した…のだろう
その席で武田から刊行されたばかりの「操られたルーズベルト」を紹介され、荒巻が「紺碧4」の参考資料としたと考えれば、ここが架空戦記とオカルトの結節点となったんだな
武田は「操られたルーズベルト」の訳者馬野周二、機関誌の参考資料としたオウム真理教=麻原彰晃とも接点があるのだし
荒巻も先が短いんだし、事実を明らかにしてから死ねばいいんだよw -
「紺碧の艦隊」が突然「旭日の艦隊」という別巻をつくれたのは、身も蓋もないがシリーズに確固たるテーマ、ストーリーがなかったからなんだなw
つまり作品世界に戦略なんてものは存在しなかったのだから、いくらでも後付のストーリーを追加できる
「戦略シミュレーション」なんて銘打っているが、シリーズ開始から「戦略がなかった」のに、どうしてシミュレーションなんかできるのか?と
「しっかり読む=頭のいい読者」ほど作品の矛盾が見えてしまうわけで、荒巻にも編集者にも不要になったんだな
必要なのは「頭が悪く、しっかり読んでいない読者」で、彼らを煽てて手なずけたほうが容易いと考えた
この時点で架空戦記がカルト化しはじめたわけだ
中身のない作品、薄っぺらい知識、「しっかり読まない、熱狂的読者w」と選民思想の融合体なんだな -
架空戦記を娯楽小説として良くしようとすれば「シミュレーション」と銘打つ必要はないし、シミュレーションとしての価値を高めたいのであれば「娯楽小説」の要素を減らしたほうがいい
架空戦記作家、編集者、読者は「どちらもできます」といいつつ、どちらもする気がない訳で
そのくせ専門家や他の作家、読者より上位に立ちたいから、「娯楽小説とシミュレーションの境界を設けず、その場その場で使い分ける」という姑息な戦術をとった
この姑息さは、陰謀論や歴史偽造を広めたい人たちには好都合だったんだな
「シミュレーション」と正確さを前面に出しつつ、ところどころで偽情報を混ぜ、そこを指摘されると「娯楽小説なのに、区別がついていない」と責任転嫁するんだな
多少荒唐無稽でも間違いがあっても許すとして、こんな架空戦記が刊行されてもいいのか?? -
そもそも娯楽小説は「面白ければ、間違えてもいい」、シミュレーションは「正しければ、面白くなくてもいい」という正反対の存在
どれだけ素晴らしい作家、専門家であろうが、1つの小説で同時に2つの要素を満たせるはずがない
軍事知識の有無以前に、常識を持ち合わせている作家、専門家ほど一方を選択し、他方は切り捨てるという判断をする
「娯楽小説が低俗、シミュレーションが高尚」という問題ではなく、「一方しかできない」と見極めるのが作家、専門家の戦略ってものだ
つまり「どちらもできます」と大見得を切った架空戦記作家は、作品内で散々戦略と口にしながら、自分は実践できていないってことになる
つまらないのは、当然の帰結だよ。 -
しかし、批判派も批判派でおかしい
戸高一成が架空戦記作家を何人もプロデュースし、自らも執筆していたことが暴露されても、架空戦記を批判していたはずの神立尚紀は戸高を批判すらしなかったばかりか、神立の読者も神立を批判しないんだな
神立の読者は、「戸高と架空戦記は無関係」としたい神立にミスリーディングされてたのに挙げ句戸高が歴史偽造に関係していたことまで指摘されたのだから、神立も戸高に騙されていたわけだから、神立の読者は神立と戸高のダブルで騙されてたってことになる
もはや神立や神立の読者が、架空戦記の読者を批判する資格なんてあるのか?
愚かさ加減は、似たようなものではないかとん -
結局架空戦記は「正しい間違い」「面白いつまらない」「好き嫌い」という問題で捉える以前に、陰謀論や歴史偽造との関係を追求せねばならない
多少間違えてたり、盛り上がりに欠けていても、陰謀論や歴史偽造との接点がなければ「罪のない娯楽小説」という評価で済む
反対に多少正確で、盛り上げていても、陰謀論や歴史偽造と接点があれば「社会に害を与えかねない娯楽小説」になってしまう
別に架空戦記が存在してもいいとして、「罪のない娯楽小説」でいいじゃね?
できもしないシミュレーションを「できます、してます」と強弁する理由も必要もないんだしな
ところが架空戦記作家、編集者、読者、そして批判している連中は、この程度の道理すらわからない
両者は対立しているようで、問題の本質を理解できてないという意味では同じ穴のムジナなんだわ。 -
何度も書かれていたが、架空戦記が「普通の娯楽小説」なら問題は小さかった
「シミュレーション小説」と「娯楽小説よりも正確」と差異化を図るブランディングをしたことで、歴史偽造や陰謀論に対する免疫が減ったんだな
「正確」と銘打ってるのに、陰謀論なんかが作品に入ってきたら、読者が対応できなくなる
いくら「小説と現実の区別が付いている」と息巻いても、荒巻義雄が「操られたルーズベルト」の版元が米政府が認定した反社会団体だと知って、書店で悲鳴を上げて大小便を撒き散らしたんたぜw
作者が「区別できなかった」のに、どうして読者が「区別できるのか?」と
おまけに作家、編集者は「混乱したら自己責任」と読者の梯子を外している
自分たちが陰謀論を使っても責任はなく、読者に無理矢理転嫁してるんだよな
「小説と現実の区別ができる読者」には「面白いつまらない」という問題ではなく、「読めない」んだよなw -
91年末から架空戦記とオカルトが接近し、カルト化がはじまった
その少し後から「架空戦記ブーム」になったんだな
書ける作家がいないから、出版社と編集者は数を急いで数を揃えた
第一が佐治芳彦、戸高一成=日向仁、柘植久慶といった陰謀論と接点のある作家。荒巻義雄、檜山良昭に武田崇元の後押しもあったのだろう
第二はよく書けば小回りの効く、悪く書けば代表作も得意分野も志もない作家。霧島那智(若桜木虔)、谷恒生、志茂田景樹など下層戦記、火葬戦記作家たちも入る
第三が戸高人脈の作家たちなど、実績のない新人の登用
端的に述べれば1は陰謀論シンパ、2は人間性や洞察力に問題のある作家、3は立場上黙っていたほうが得策ってことだ
これで「架空戦記が良くなる」のか?w -
荒巻義雄が「紺碧の艦隊」作中で陰謀論を紹介したのは、自らのコンプレックスが要因なんだろうさ
売れ行きはいいのに、自分より戦史に詳しい読者から訂正を求められた
「自分はそんなに知らない」「娯楽小説だから多少の間違いは許して」と正直に申告すれば良かったのに、「自分のほうが勉強している」と強気に出たんだな
その根拠が「操られたルーズベルト」であり、歴史修正主義だった
しかし荒巻は歴史修正主義という言葉は知っていても、内情は知らなかったし、「操られたルーズベルト」は読んでもデティールのおかしさには気がつかなかった
上部だけの言葉で、詳しい読者に勝利宣言を出したわけだ(知識のない読者も、「知識があっても仕方ない」と荒巻を評価した)
ところが謎本の著者は荒巻より一枚以上上手で、「操られたルーズベルト」の米版元がネオナチと接点のある団体だと探り当てて(複数の大学教授も知らなかったらしい)、荒巻に猛烈なカウンターを放ったんだな
荒巻に大ブーメランが直撃し、糞便まみれになったんだとさw -
荒巻義雄「小樽湊殺人事件」:さよなら、荒巻義雄
>いろんな知識を意欲的にぶち込んできて、それについてひととおりの見解を開陳する
>にはするのだが、そうした意見に「深み」が無い。
>この人には、「実用性」を超えて、深く物事の本質に迫ろうとする、哲学的思弁性が
>無く、おのずと人間の内面性に対する深い洞察も無いから、作品の印象として、
>「文学性」が感じられないのだ。
>著者がひけらかして見せる、あれこれの「知識」とは、所詮「この程度」のもので
>しかない、ということなのだ。 -
>「即席もの(の知)」だったのだ。荒巻義雄は「速読をする小説家」だったのである
>「速読」では「論理的で緻密」な本、つまり本格ミステリ」だけではなく、「哲学」書
>や、本格的な「思想書」は読めないし、『文が堅牢』な、例えば「文学書」も読めない。>緻密な人間心理を描いたような「文学作品」を、「速読」で味わうことなど不可能なのだ
>荒巻義雄という作家の強みは、「表面的な情報の量」であって「練り込まれた、
>深い思弁や人間洞察」ではない
>いろいろと知っていて、いろいろと一家言がありながら、全体の印象としては
>「軽い」し「深みが無い」のである
「深い思弁」ができない作家が「思弁」をするのだから、つまらんわけだw -
・架空戦記は娯楽小説であるなら、多少間違いがあっても許される
・「いい小説、いいシミュレーション」は、主人公(日本)が勝たなくても構わない
この2点は誰も否定できないが、荒巻義雄は「紺碧の艦隊」開始前に「日本が勝つ」と言い切ってたんだな
無論それ自身は悪くないのだが、「間違いがあっても許される娯楽小説」に「シミュレーション」と冠を付け、「他の小説と比べて間違えていない」と協調したのは完全な悪手だった
荒巻という作家の本質が、「軽さ、薄さ」だと露呈してしまったんだ
「重さ、厚さ」のある作家には、口にできない言葉なんだな
フィクションと現実を区別できているうえ、きちんと読んでいる読者はここに違和感を覚え、「おかしい」と苦言を呈したわけだ -
読者に知識で負けたどころか、作品はおろか作家としての矛盾まで指摘され、荒巻は完全にプライドを打ち砕かれたんだな
それを逆恨みwして、自分より優れている読者を吊し上げたようとした
「俺はお前たちに以上に勉強しているんだッ!」を誇示するため、「紺碧4」で読んだばかりの「操られたルーズベルト」で使われていた歴史修正主義を「本シリーズの基本仮説」として権威付けを図ろうとしたのだろう
ところが「操られたルーズベルト」の版元が米のネオナチどころか、「旭日」に登場した世界を操る秘密結社のモデルとしたKKKとつながっていたことを、謎本で指摘された
自分が「敵」と設定したはずの組織が刊行した本を「シリーズの基本仮説」としていたのだから、シリーズの存在理由が完全に喪失したことを認めなければならない
それが紀伊國屋旧札幌本店失禁脱糞事件につながったんだなw -
そんな荒巻義雄が立ち上げたブームなんて、たいしたものではなかったw
便乗してデビューした作家たちも、荒巻という作家の本質を見抜けなかったか、見抜いても見て見ぬ振りしていたのだろう
編集者、読者たちも含めて、「発端となった荒巻、艦隊シリーズの問題点を改善しよう」とするのではなく、欠陥を放置したまま上に積み上げようとしたんだな
もっとも人間は幾度となく同様の過ちを繰り返してきたものだが、架空戦記の問題は、ブームをつくった、便乗したを問わず、作家、編集者、読者が自分たちの過ちを棚に上げて、「旧日本軍の問題点は」と語れるところだと
旧日本軍の問題を指摘しながら、自分たちが架空戦記の問題点を改善しなかったことは正当化するんだな
そんな作家たちが集まったから、架空戦記がダメになったんだよ -
「作家と読者がコミュニティをつくり、作品世界で遊ぶ」のは悪くないんだな
ただ「安心して遊ぶため、矛盾や問題点を取り除こうとする」か「矛盾や問題点を見て見ぬ振りして遊ぶ」は大きく違う
架空戦記の作家、読者は後者を選択し、前者の作家、読者を排除したのだと
そのうえ「イエスマンばかり揃えた旧日本軍のような組織は」と平気で口にするんだな
「自分たちは構わない、他者は許さない」という姿勢だから、そりゃ飽きられますがなw
それこそ架空戦記作家の回りにはイエスマンの読者を揃えたから、誰も間違いやおかしさを指摘しなくなり、作家も特定読者の趣向に合わせるものを書いたことで新規読者もなくなった
自分たちが批判する、典型的なダメ組織になんだな
だからこそ大木毅、青山智樹、吉田親司、松本孝孝宏といった戸高一成門下生が、戸高がオカルトと接点があることにも気付かないんだ -
>・架空戦記は娯楽小説であるなら、多少間違いがあっても許される
>・「いい小説、いいシミュレーション」は、主人公(日本)が勝たなくても構わない
架空戦記の是非はさておき、書く(読む)ときはこのジレンマと正面から向き合わなければならない
全員とは言わないが、架空戦記作家、編集者、読者の過半はここから逃げたんだな
ジレンマと向き合い、問題点を整理し、改善する努力をしないままブームに乗ろうとした
ところが自分たちが逃げたばかりか、問題と向き合おうとする読者を放逐したのだから、ブームが長続きしなかったのは当然の帰結だと
つまりブーム乗ろうとした作家たちも、荒巻ほどではないにせよ「薄い、軽い」んだな
史実の人間であり、同業の他の作家、専門家とその読者たちを軽視してきたツケが、一気に自分たちに襲いかかってきたわけだ -
>「いい小説、いいシミュレーション」は、主人公(日本)が勝たなくても構わない
荒巻義雄が艦隊シリーズを開始する前に「日本が勝つ」と言い切っていた
佐藤大輔は「逆転!太平洋戦史」では「日本を勝たせるシミュレーション」と書いている
そりゃ娯楽小説は「勝つ」がいいに決まっているとして、シミュレーションを行う前から「結末」が決まっていてもいいのか?
「過程」がしっかりしていれば、「結果、結末」はどちらでもいいんだよな
たしかに佐藤の知識は豊富で、描写力も抜けているが、こういうことを書いてしまう段階で「薄い、軽い」んだよな
「逆転!太平洋戦史」は「シミュレーションみたいな娯楽小説」としては合格かも知れないが、「シミュレーション」としては「?」という評価が妥当だと -
突き詰めれば、架空戦記の読者は「自分たちは専門家に匹敵する」から「専門的なシミュレーションを理解できる」と思い込んでいたが、「専門的なシミュレーションとはなんぞや?」を理解できていなかった
「シミュレーションみたいな娯楽小説」(これ自体は悪くないのだが)を「シミュレーション」とすり替えることで、自負を満たしたんだと
英語のシミュレーションには「まがい物」の意味があるが、架空戦記ブームで「シミュレーションのまがい物」が市場に溢れたわけだ
結果的に「いい架空戦記」は「必ずしもいい小説、いいシミュレーションではなくても良い」となってしまった
そのため「いい小説、いいシミュレーションを書きたい作家、専門家と読みたい読者」は架空戦記から放逐されたと
「いい小説、いいシミュレーション」を書く、読むのを架空戦記作家、編集者、読者は放棄したのだからクオリティが上がらないし、新規読者も増えずに売れ行きが低迷するのも当然なんだな -
「シミュレーションみたいな娯楽小説」で止めておけば、架空戦記の命脈は保たれてたんだよな
それを「シミュレーション」とすり替えて他の作家を貶めたくせ、「多少間違えても許される」という娯楽小説としての特権だけは手放さなかった
「高度の消費生活は維持したい」が「非武装中立」を宣う左翼の平和主義とどこが違うんだか?
そこに気がつかないから、架空戦記ブームをつくった「紺碧の艦隊」担当編集者が左翼系平和運動家の息子だってこともに気付かないんだ
娯楽小説とシミュレーションはまったく別のものなんだから、「どちらか」だけ一生懸命してりゃいい
「どちらもできます」のは、「どちらもできない」と同義語なんだよ -
「主人公、日本が勝つ」は結末であって、目的ではない
言い方を変えれば「ルールに則って主人公、日本が勝つ」のはアリだが、「主人公、日本が勝つがルール」ではない
九割以上の架空戦記が「主人公、日本が勝つのがルール」になってしまい、過程はどうでもよくなった
架空戦記作家や編集者、読者も「今は小説、今はシミュレーション」とその場その場で取り繕おうとしたしな
専門的なシミュレーションでもなければ、人間ドラマを描く小説でなくても良いことになったと
「いいシミュレーション、いい小説」でなくてもいいのだから、いい専門家もいい作家も、そしていい読者も不要になった訳だ
霧島那智とかを下層戦記と酷評していたが、そもそも架空戦記は質が上がらない構造なのだと理解していなければ、それほど大きな差はないんだな
「いい架空戦記」を「いい小説、いいシミュレーション」に戻すには、既成の架空戦記作家、編集者、読者では無理なんだよなぁ -
「歴史を弄って、珍奇な兵器が出て、現実的ではない作戦が成功して、爽快に日本が勝つ」のは、娯楽小説としては間違えていないのかもしれない
しかし「その改変、設定、展開が果たして必要、妥当なのか」「人間ドラマとどうリンクさせるのか」などを考えるのが「いいシミュレーション、いい小説」なのだと
「いいシミュレーション、いい小説」にする過程を辿っていない、放棄したのが架空戦記なんだな
「とにかく歴史を弄れ、とにかく面白く勝てばいい」というイケイケドンドンなんだから、深い戦略やテーマ、複雑なストーリー、重い人間ドラマなんて必要ないわけで
無論作家をはじめとして「俺たちは歴史とか人間ドラマなんて重厚なものは考えません」と断ってくれればいいのだが、そこまで正直でも素直でもないw
一端の口を挟んでくるから、不快さが募るんだよ -
本当に身も蓋もないが、荒巻義雄が「紺碧」を枝分かれさせて「旭日」を立ち上げ、長編化できたのは確固たる「テーマ、ストーリー、ドラマ」という小説としての構造面であり、「作品世界内の戦略」がなかったからなんだな
それこそ「IF」の話だが、きちんと構築されていれば1巻から重厚な展開になっていたはずで、軽々しい延長なんてできなかったw
長編小説としては致命的な欠陥を、ケレン味たっぷりな展開や兵器で覆い隠していただけだった
そこまでは許すというか、理解や我慢ができるとして、延長時に編集者とともにさも「テーマ、ストーリー、ドラマ、作品世界の戦略」があるかのように振る舞ったんだな
ここで因果の逆転が生じてしまい、空疎な作品に価値があるかのように見せるため、読んだばかりの「歴史修正主義」を「作品の基本仮説」と当てがった訳だ
しかし荒巻という作家の本質は「軽さ、薄さ」であって、歴史修正主義の正体とともに自分の限界まで暴露されたんだな -
「紺碧、旭日」が成功したから、ブームに便乗した作家、編集者も「テーマ、ストーリー、ドラマ、戦略なんていらない」になった
また「紺碧、旭日」に熱狂した読者も、そんなものは求めなかったんだな
まだここまでは納得できるとして、荒巻をはじめとして「シミュレーション小説」というそれらしい言葉を使いはじめた
「旧来の小説であることを否定した」ジャンルが、いつしか専門家の行為と同等かのようにすり替えたんだな
多少のミスなら弁解のしようもあるが、これは限りなく悪質な行為だろう
「小説の中」ではなく「外」の問題だし、常識を伴った人なら「絶対にしない」ことだ
挙句は「間違えたら読者の自己責任」と作家、編集者の責任を読者に丸投げしたんだな
これは信用してくれている読者を、作家と編集者が裏切ったにも等しい
しかし架空戦記の読者は、「この程度のこと」すら読んでいなかった訳だ -
架空戦記をきちんと読もうとすると、「その改変が妥当なのか」「(荒唐無稽な)新兵器を出す必然性があるのか」「テーマ、ストーリー、ドラマとリンクしているのか」まで考えなきゃならない
完成度を高めようとすると、必然的に「史実を弄らないほうがいい」というジレンマに直面するんだな
歴史改変をしなくても、「ファンタジーの戦闘」でいい作品ができるなら、そちらを選択すれば良いんだし
ところが「大逆転して日本が勝つ」以外を大半の編集者、読者が認めないから、作家もオーダーに合わせるしかない
面白いつまらないではなく、「粗く」て「薄い、軽い」作品になってしまうわけで
もちろん蓼食う虫もいるからここは深く責めないとして、せめてそんな作品は「シミュレーションではありません」と断言しましょうよと
「フィクションと現実の区別が付いている」人ほど、こういう部分は押さえておくものなんだな -
架空戦記の読者は「好き」かもしれないが、「深く読んでいない」
編集者もチェックしないし、作家も編集者と読者のオーダーに合わせようとする
「日本が悪くない」作品が売れるのだから、「米を悪くすればいい」
こうなると作中にルーズベルト陰謀論を混ぜ込み易くなる訳だ
作家、読者は強度の知的コンプレックを抱え込んでおり、他者にマウントをとるため胡散臭い説を聞き入れるうえ、チェックなんてしない
おまけに作家、編集者は「間違えれば読者の自己責任」と逃げ切ろうとするので罪悪感もないし、読者も含めて自分たちが騙させれているという認識もない
陰謀論の追跡経路が理解できないから、いくらでも繁殖する条件が揃っているんだな -
何度も書かれているが、架空戦記作家の目指すべき方向は「シミュレーションをする」ではなく、「いい娯楽小説を書く」だったんだよ
「多少間違えて許してください」と最初から頭を下げておけば批判の大半は潰せるし、それでもしつこく追求するほうが馬鹿に見える
専門家や自分より知識のある読者を味方につければ、細かい考証は任せて自分は「小説執筆」に没頭できる
勘違いする読者も激減でき、まだわからないヤツには「自己責任」と切り捨てても擁護してくれる人も増える
ところが荒巻義雄をはじめ架空戦記作家は「いい娯楽小説を書く」ことを放棄したのだから、最良最善の選択まで捨てたんだな
皮肉にも架空戦記作家には、一般人以下の「想像力」しか持ち合わせていなかった
そんな作家たちの書く小説、シミュレーションがまともなはずがないw -
架空戦記作家、編集者、読者が架空戦記を「いい娯楽小説」として育てていれば、ブームはなかったかもしれないが、悲惨な状況も避けられるたのかもしれない
「シミュレーションではありません」と引いていれば、専門家、他の作家と両者の読者も気を害さなかったんだな
架空戦記側が得るものも減っていたが、余計な重荷も抱えなくて済んだ訳だ
その程度の見通しが立たなかったのだから、架空戦記の個々の作品はもちろん、ジャンル全体の見通しも立たなかった
歴史偽造や陰謀論と接点がある人間たちがいたなんて、気づくはずもない
愚かな判断をした自分たちだけではなく、周囲まで不幸、不愉快にしたんだと
いったい誰が責任とるんだよ?
読者が混乱するような書き方をしておいて、「混乱したら読者の自己責任」と宣うてきたのだから、今度は「ブームの恩恵を得ていた自分たちの責任」と言わないと整合が保てんよ -
架空戦記に集まる人間は「こうなっていれば、俺(たち)はこうした」は考えられるが、「こうするには、俺(たち)はどうすべきか」を考えられないんだな
能力的な不足だけではなく、自分(たち)とは異なる思考ができる人間を排除する、性格的な問題まで有していた
そう考えると、旧日本軍の組織形態とどこが違うんだか?と
平素口汚く罵ってきた相手と、同じ轍の上を歩いてたんだな
「あいつ(ら)は無能だ、しかし俺(たち)は有能だから同じことをしても失敗しない」という甘ったれた考えなんだな
自分(たち)の愚かさを顧みることのない作家、編集者、読者ばかり集まり、歪んだ考えをさらに強くした
多様化を拒絶したのだから、環境の激変に対応できなくても当然なんだな
自浄作用も働かなくなり組織全体の暴走を誰も食い止めようともせず、その結果が「ブックオフ棚1段占拠」であり、「特価本1冊84円」なんだと -
架空戦記作家たちを少しディスり過ぎたwので、彼ら以外の問題点も
戦前まで遡って、「日本(海)軍を知っている」がいつしか「世界の(海)軍を知っている」という妙な偏った思考があるんだな
つまり「日本(海)軍に詳しい」と「世界の(海)軍に詳しい」が等式になっている
反対に「世界の(海)軍」から見れば、「日本(海)軍」の思考はグローバルスタンダードから逸脱しているんだよな
誤差の一例が漸減作戦で、「弱者側の思い通りに強者が動く=弱者が常に戦局をコントロールする」という非常識な思考に陥った
それこそ戸高一成をはじめとする戦史研究家とかがこの部分を指摘し、スタンダードに近づけようとはしなかった
「大和、零戦だけ書いてりゃ食うに困らない」という姿勢だから是正には消極的になり、その流れで知識を得た若い衆が架空戦記作家であり、読者になった
個々の要素は「詳しい」のかもしれないが、認識がズレてるのには気づかないんだな -
架空戦記作家が「日本海軍」しか知らないから、日本海軍を主人公にした架空戦記しか書けないんだ
架空戦記の低迷を打破するには「日本が大逆転して勝利する」という縛りから脱却しなきゃならんなのに、作家も読者も「世界の海軍=スタンダード」を理解できていないから、そういう作品は読者も求められないし作家も書けないと
翻って「世界の海軍」であり、スタンダードの海軍戦略を噛み砕いて説明できる専門家がいなかったってこと
そう考えると、かつて海軍大国だったイギリスは一方ではコーベットのような海軍戦略史を語る人がいて、他方ではホーンブロワーをはじめとする海洋冒険小説が多数刊行されている
深い戦史研究の裏打ちがあったうえで、豊穣なフィクションが育ったんだな
対して架空戦記が濫作される日本は、弟子たちに架空戦記を書かせる戸高が第一人者であり、その程度の戦史研究しかなされてないと -
〉弱者が戦局をコントロールする
もちろん「小説だから、非現実的な展開があってもいいだろう」という考えは否定しないよ
ただそんな戦略が登場する小説に、「シミュレーションと銘打ってもいいのか」なんだよな
「非現実的な展開のシミュレーションが正確だ」と誇っても、意味がないでしょう?って
「非現実的な展開」を楽しみたいなら「シミュレーションとしては無茶苦茶です」と認めるべきだし、「正確なシミュレーション」と言いたいなら非現実的な展開は止めましょう、というだけの話
ここで歯止めをかけられない作家、編集者に、多少の知識があっても仕方ないんだな
もっと言うなら非現実的な展開の小説に「シミュレーション」といえる人たちは、歪な知識しか持ち合わせていないし、そうなったのは思考であり、性格的な部分まで歪なのだろう
小学校時代知恵遅れの同級生を執拗に虐めたことで、学年全体を回した某ようにね -
某が学校で弱者の自分がコントロールできる唯一の相手が、自分より圧倒的に弱い知恵遅れ子だった
しかし多数派の同級生は、知恵遅れの子をコントロールする気はなかった
自分(たち)より弱いのを知っているから庇護の対象し、全員で彼を守ったんだな
某はなぜ自分が虐められるかを理解できず、反対に同級生たちを逆恨みした
某は人の心が理解できないのだから、関係した架空戦記は悉く失敗した訳だw
圧倒的多数をコントロールできなかったんだな
ところが某から見ると、「自分を理解できない相手は頭が悪い」らしいから、処置無しだとw
架空戦記どころか、そんな人間が戦史に興味を持ち、一端の口を叩けるのだから、日本の戦史研究なんてその程度に過ぎない訳だ -
ともあれ「いい架空戦記」と「いいシミュレーション」、「いい小説」は別のものになった
「いい架空戦記」を書きたい作家、売りたい編集者、読みたい読者は、「いいシミュレーション」を書きたい専門家、「いい小説」を書きたい作家、両者の読者を追い出したんだな
傍流であるはずの人間が主流に立とうとしたのだから、それこそ「紺碧の艦隊」の冒頭のようにクーデターを起こして乗っ取った訳だ
ところが架空戦記の構造的な問題から目を逸らし続けていたのだから、積み上げた自重で勝手に倒壊した
読者と売れ行きが減り、食い止めようとするには内容をエスカレートさせるしかない
「荒唐無稽なシミュレーションが正確だ」という、矛盾極まりない状況に陥ったんだな -
本質的に「いいシミュレーション」は正確であれば面白くなくても良く、「いい(娯楽)小説」は面白ければ正確ではなくてもいい
正反対なものだからこそ「どちらか一方」しかできないし、両者の間に境界線があったほうがいい
しかし「いい架空戦記」はシミュレーションより面白いが正確ではなく、(娯楽)小説より面白くないが正確という代物であって、シミュレーションと(娯楽)のような境界線が必要ない訳だ
境界線がないからその場その場で「今は(娯楽)小説ではなくシミュレーション」「今はシミュレーションではなく(娯楽)小説」と平気で使い分けられる
つまり架空戦記作家、編集者、読者は「どちらにも責任をとらない」ことなんだな
責任感のないシミュレーションが正確になるはずもないし、(娯楽)小説として面白くなるわけもない
それが現実の低迷の理由なんだと -
>正反対なものだからこそ「どちらか一方」しかできない
>架空戦記作家、編集者、読者は「どちらにも責任をとらない」
架空戦記は「娯楽小説もやっています、シミュレーションもやっています」だから破綻を来す
「正反対なものは同時にできない」のだから、無理してする必要はないんだな
自分たちで無理を設定しているのに気がつかないから、得意満面になるほど愚かしい
そんなことだから破綻を自覚すると、「いまはシミュレーション、いまは娯楽小説」と逃げを打つから、愚かさが倍増するんだな
それなら最初から「どらちか一方しかしません」と宣言してりゃいい
「一方の責任は負いますが、もう一方は負いかねません」と表明すれば、誰も不快にしないんだよ
「できもしないんだから、無理しなくてもいいじゃね?」といってるんだけどね? -
「娯楽小説もできます、シミュレーションもできます」というのは、ひとつの作品で「娯楽小説、シミュレーション」というふたつの責任を負うことになる
まずふたつは正反対の性質のものなんだから、同時にできるはずがない
「できます」と口にした段階で、力量がバレたようなものw
それなら「一方だけ頑張りますが、もう一方は勘弁してください」でいいんだよな
「無理なことをしろ」は無理難題のクレームだが、「しなくてもいい」は逃道の示唆だからね
能力が不足していたら、せめて素直に振る舞いましょうよと
娯楽小説を書くこと自体は悪いことでも恥ずかしいことでもないんだから、胸を張って「シミュレーションはしてません」と言い切ればいい
それができないのは、知識とか技量の問題以前なんだな -
架空戦記も、娯楽小説も、シミュレーションができないのも悪いことではない
しかし「娯楽小説をシミュレーションと偽る」こと、「シミュレーションができないのに、「できます、してます」という」のは悪い
架空戦記の本質的な問題はここなんだと
「シミュレーションはできません、してませんが、娯楽小説を一生懸命書き(編集し、読み)ます」といってりゃ問題ないんだな
仮に知識や技量がなくても、これぐらいは口にできる
つまり知識、技量以前の部分に難のある作家、編集者、読者が架空戦記に集まっているのが問題であり、そんなことだから売れ行きも低迷するんだよ -
〉無理なことをしろ
おかしな話だが、架空戦記が好きな読者ほど「ひとつの作品でシミュレーションと小説を同時にしろ」と無理難題を突きつけ、編集者も読者を咎めず、その無理な要求を作家に書かせようとする
反対に嫌っている人は「同時に書くなんて無理なんだから、片方だけ書けばいいんじゃね?」と勧めているのに、架空戦記作家、編集者、読者はなぜか反発する
どちらがおかしいかは、非を見るより明らかなんだがな
架空戦記作家、編集者、読者は、自分たちで破綻する方向に進んでいるのに気づいていない
「そっちは危ないよ」という善意の示唆まで、悪意に受け止めるんだな -
だから本当に奇妙なことなんだが、「ひとつの作品のなかで、シミュレーションと娯楽小説を同時に達成することは不可能なんだから、止めませんか?」という批判的な意見を述べている人のほうが、架空戦記作家、編集者、読者よりも架空戦記について正しい見通しを立てていたってことになる
つまり作家、編集者、読者は、味方につけておいたほうが得策だったわけだ
ところが敵認定したことで、敵対関係にしてしまった
そのため架空戦記作家、編集者、読者に、耳は痛いが客観的な忠告をしてくれる人もいなくなったんだな
誤った戦略のうえに修正も効かないという、最低最悪の組織になったわけだ
現在の惨状は自分たちの無為無策が原因だってのを、理解できてないだろうけどなw -
普通の専門家、作家は娯楽小説、シミュレーションのどちらかしかしない
どちらが高尚低俗という問題ではなく、「面白ければ間違えても許させる娯楽小説」と「正しければ面白くなくても許されるシミュレーション」という正反対の存在をひとつの作品のなかに収めるのはできないから
「一方の責任は負いますが、もう一方は免責にして下さい」といえば許される
架空戦記作家は「両方できます」と言いながら、綻びが見えると「今はこっち」となり、さらに矛盾を来すと「どっちもしてません」になる
娯楽小説としても、シミュレーションとしても責任をとらないんだな
作家が責任を負う気のない作品が、面白くなるはずがない
「娯楽小説が悪い」のではなく、「面白い娯楽小説を書きますので多少の間違いやおかしい部分もありますが、決して「シミュレーション」とは言いませんので許して下さい」って言えばいいだけ
知識量でも表現力でもない、人間的な素直さがないんだよ -
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「自己評価が異常に高くて他者への共感性がまったくない。
こんな自己中俺様野郎なら、人に好かれないのは当たり前」
「自分は相手に対して無作法なのに相手には従ってもらおうなんて、虫が良すぎる」
架空戦記作家、読者も似たようなもの
・自己評価が異常に高い(作家、専門家、一般読者はまったく評価していない)
・他者への共感性がまったくない(自分たちの暴言がどれだけ他者を不快にさせたか理解していない)
・自分は相手に対して無作法なのに相手には従ってもらおうなんて、虫が良すぎる(IFの世界でその我儘を達成しようとする) -
「歴史学会にいられなくなった檜山良昭」、「深い知識のないことにコンプレックスを抱く荒巻義雄」がブームをつくり、「小学校時代に知恵遅れの同級生を執拗に虐めたことで、止めさせようとした他の同級生たちから虐められた」某のような読者が集まって架空戦記のコミュニティが形成された
3人とも「自己評価が異常に高く、他者への共感性がまったくない自己中野郎」だったわけだ
知識の有無とは関係なく、同じような意識の人間以外は架空戦記を面白いと感じなかったんだな
たとえコンプレックスがあっても、一緒に共鳴させたいとは思わなかったんだ
だからこんな人しか集まらない架空戦記は専門家からは評価されないし、一般読者も読まなくなるだけのこと
架空戦記というジャンルをダメにしてしまったというか、こんな人の集まった場所が良くなるはずがない -
〉虫が良すぎる
架空戦記のなかでは、改変された日本軍が大勝し、米の指導者を軍事裁判で裁いて領土と賠償金を獲得する
現実世界では、「日米同盟があるから、台湾や半島有事にはヨロシク」
虫が良すぎる使いわけだなぁw
こんな考えをしている架空戦記作家、編集者、読者が「自衛隊は憲法違反」と言いながら、災害時に「自衛隊は何をやってる」という左翼系平和運動家を「虫が良すぎる」と批判する資格があるのか?
やってることは、本質的に同じだよ
つまり「紺碧の艦隊」担当編集者が左翼系平和運動家だと見抜けなくても当然だとw -
知識の有無以上に、コンプレックスが強くないと架空戦記を読めないんだな
コンプレックスの強くない人、コンプレックスはあっても他の解消場所、方法を持っている人には読めない
架空戦記作家や編集者、読者はそこを理解できていない
また史実(を改変した)作品世界である必要も、「娯楽小説をシミュレーションとすり替える」必要もない
なろう系のようなファンタジー設定でもいいし、「娯楽小説です」と言い切っても悪くない
ところがコンプレックスの強い人は自分たちの優秀さを誇示するための比較対象として「史実」が必要で、だからこそ「娯楽小説ではなくシミュレーション」と言いたいんだな
考えが素直じゃないし、卑屈なんだよ -
架空戦記が娯楽小説なら沢山の読者が読めるものにするべきだし、「知識のない読者は読めない」という切り捨てはおかしい
架空戦記が専門的なシミュレーションなら「知識のない読者は読めない」が、それなら娯楽小説のカテゴリで売るなよと
知識云々以前に常識があれば架空戦記を巡る矛盾に気がつくが、架空戦記作家、編集者、読者ほどここに気が付かない
常識の欠落とともに、強度のコンプレックスが目を曇らせているんだな
作家に対しては娯楽小説ではなく「シミュレーションができない」といい、専門家には「娯楽小説で用いられる想像力がない」と話をすり替える
性格が捻じ曲がった人間以外架空戦記は書けない、編集できない、そして読めないんだよ -
何度も繰り返されているが、架空戦記が娯楽小説であるなら「シミュレーション」という言葉は使わない
架空戦記がシミュレーションであるなら、娯楽小説的な面白さは排除する
この2択を遵守すれば、架空戦記は何も問題はない
正反対のものなんだから2つを同時にできるはずがないし、2つの責任も負う必要もないのだから「どちらか一方だけ」頑張ればいい
ところが2択を避ける=娯楽小説とシミュレーションの境界線を設けないから、架空戦記はつまらなくなるんだと
「できない」を責めているのではなく、「できない」と素直に認めれば責任も減るのに、それすらしようとはしない
もはや知識量の問題ではなく、人間性の問題なのだと -
〉人間性の問題
「自分がどう動けば、架空戦記というジャンルにとってプラスなのか」と考えるのはまだわかる
しかし架空戦記作家、編集者、読者の考えは「自分にとってプラスにするため、架空戦記というジャンルを如何に使うか」なんだよな
考えようによっては、架空戦記から恩恵を得ている人間ほど架空戦記を見下している
彼らにとっての架空戦記とは、自分をよく見せるためのツールに過ぎないわけだ
言い方を変えれば、彼らにとっての架空戦記とは利益共同体なのだと
「好きな小説に集まった」のではなく、「自分をよく見せることができる小説だから好き」なんだ
仮に「架空戦記が好き」であっても、そういう場として集まりたくない人間には「読めない、群れたくない」んだな
「つまらない」というより「多くの人には面白いとは感じられない」ってことで、だからこそ読者が増えない、売れないんだ -
「沢山の人の共感を得られるために架空戦記を良くしたい」ではなく、「俺が共感できるから、この架空戦記はいい→他の読者は俺に合わせろ」なんだな
考え方の根本が普通の人と違うわけで、そんな読者に合わせたから架空戦記は多くの人からの共感が得られない
「少数の読者しか読まない大衆小説」という、矛盾した存在なんだw
百歩譲ってそれを楽しむ権利は否定しないとして、そんな「大衆小説」をシミュレーションとすり替えるなよと
「大衆小説として評価されないから、いいシミュレーションだ」というのは詭弁だぞ
何より小説とシミュレーションの区別がついている人間は、こんな論法なんて使えない
区別がついている人は「小説とシミュレーションの境界線を設けましょう」という訳で、最初からすり替えを否定しているんだな -
端的にいってしまえば、「多少間違えているかもしれないけど、俺は好きだから許してよ」といってくれれば、相手も「許す」んだよ
だけど「優秀な俺が好きなんだから、間違えてない」と言われれば、相手も不快になるよと
架空戦記は後者の、「自己評価が異常に高く、自己愛とコンプレックスが強くて共感性が乏しい読者」を狙いはじめておかしくなった
小さいが強固なコミュニティをつくれるが、排他的だから多くの読者の共感は得られない
しかし裏を返せば、陰謀論などを植え付けるのには最適な相手でもある
ムーなどの人脈が隠れていたのも、偶然とは思えないんだな -
〉自己評価が異常に高く、自己愛とコンプレックスが強くて共感性の乏しい読者
普通にしていりゃ、多少間違いがあっても荒唐無稽でも架空戦記は許されたんだよな
作家ともども「間違えてるからダメ」じゃなくて、「間違えているのを素直に認めないからダメ」なんだと
「娯楽小説ですから多少間違えてますし、荒唐無稽な部分もあります」と言い切ってしまえば、「シミュレーションではありませんので、許して下さい」と頭を下げても誰も不快じゃないし、許しも得られる
そこで言い切れない、頭を下げられないのは、病的に高いプライドがあるからだと
だから架空戦記で娯楽小説とシミュレーションという相反するものを同時にしようとするし、詭弁や姑息な逃げを打った挙句、どっちもできないという袋小路に入り込む
知恵遅れの同級生を執拗に虐め、他の同級生たちが止めさせようと虐めたことを根に持つような人間をしか読まないんだよ -
「架空戦記は娯楽小説で、面白くするために多少の間違いや荒唐無稽はありますが、許してください。しかしシミュレーションはしていませんから正確ではありませんので、専門家と対等の評価は不要です」
「架空戦記はシミュレーションです。正確なことを書いていますので、専門家と対等の評価をして下さい。しかし娯楽小説ではありませんので、面白くするための間違いも荒唐無稽もありませんので、ご了承願います」
↑は「どちらも」正しい
しかし架空戦記は「娯楽小説なのか、シミュレーションなのか」をはっきりさせていない
そのため「娯楽小説の権利=多少の間違い、荒唐無稽は責められない」「シミュレーションの権利=正しいことを書いていると認められる」の双方は欲しい
だが「娯楽小説の義務=多くの読者に喜んでもらう」「シミュレーションの義務=正確なことを書く」は負いたくない
「同時に両方できる」と言いながら実は「両方しない」
結果「悪質な嘘を混ぜる」という最低最悪なことをしている -
「架空戦記は娯楽小説であって、シミュレーションではありません。この小説を読んでも歴史や国際政治を学んだことにはなりませんので、そちらに興味を持たれた読者は専門家さんの本を読んで下さい」
きちんと断っておけば、架空戦記が娯楽小説でも悪くないんだよな
その一言をいえる作家は、それだけ真摯に作品、読者、そして自分に向き合ってることでもある
それだけ言い切ることで娯楽小説とシミュレーションの線引きをはっきりさせたほうが、作家、編集者=出版社、批判派を含む読者にとってトクなんだと
線引きをはっきりさせないのは、回り回って架空戦記を取り囲む全員が損をしてしまう
この程度の損得勘定ができない架空戦記作家、編集者、読者が、歴史や国際政治を考えたところで意味がないんだと -
「なろう系とはどう向き合うべきなのか」
「・自分をダメだとは思えない人間
・敬われないことにイライラしている人間
・クズで無能なのに自分への言い訳に誰よりも特別扱いされたい人間
・お先真っ暗なのにしか興味のない人間
純度の高いなろう系の読者ほど、この特徴に当て嵌っていく
そして純度の高いなろう系小説ほど、そんな読者を無責任に褒めちぎる」
架空戦記も同様で、途中からは「歴史のイフ」なんてどうでも良くなっているw
そのくせ「なろう系」よりタチが悪いのは、ファンタジー逃げようとしない -
〉無責任に褒めちぎる
これはラブボミングという、カルトや学生運動が新規勧誘をするときの手法
まず勧誘相手を全肯定することで味方、仲間だと思い込ませ、組織に引き込むんだな
ところが架空戦記の背後にカルト関係者であり、「学生運動家のバイブル」の著者の息子がいるのはどうなのか?と
作家と読者が結束を強めるのはさておき、カルト団体御用達の書籍を宣伝したり、カルト思想を広めていたら、読者が損害を受ける
また架空戦記作家が他の作家、専門家を誹謗すると、そちらも不快だろう
なにより「架空戦記とはそういう思想を広める場所」と誤解されると、架空戦記自体も損をするのだが
「架空戦記は娯楽小説だからダメ」なのではなく、「まともな娯楽小説にしましょうよ」と -
〉まともな娯楽小説にしましょうよ
架空戦記が「まともな娯楽小説」なら、まず「シミュレーション」と銘打つ必要がなくなる
次に「歴史改変」する意味が減るんだな
「史実を弄らず、架空の戦闘を挿入するアクション小説」でも「史実とは関係ない、ファンタジーやSF戦記」でも構わない
中途半端な歴史改変、シミュレーションなんてせず、そこまで振り切りましょうよと
架空戦記作家、編集者、読者が歴史改変、シミュレーションに固執する意味、必然性が見えてこない訳だ
「史実と異なる日本の勝利、大逆転」が目標だとすると、そのために歴史改変するシミュレーションなんて、本末転倒なんだが -
〉架空戦記作家、編集者、読者が歴史改変、シミュレーションに固執する意味、必然性が見えてこない
・史実の人間より上位に立ちたい
・現実世界の人間より上位に立ちたい
史実の世界、現実世界、そして作品内の(の住人)世界より、自分(たち)が上位に立ちたいのだろう
知識の有無なんてどうでも良く、同じ価値観の人間だけが集まったコミュニティを形成している
無論「共有するだけ」ならいいんだが、「共有できない、しない」人を悪くいうのはどうなのかと
普通の小説なら「共有できない、しない自由」も認められるはずだが、架空戦記にはその自由はなく、相手を貶めようとするのが「カルト」的なんだな
つまり架空戦記には「史実を改変することで何かを訴えよう」というテーマ性がなく、改変自体が目的になっているから作品世界に奥行き、広がりがなく、単調なんだと -
「知識がなくても楽しめる」のが大衆小説であり、娯楽小説の目指すべき方向
「知識がある人しか楽しめない」のは大衆小説、娯楽小説として問題があるってこと
裏を返しにすれば、読者より知識があるはずの専門家が、どうして架空戦記を評価しないのかと
架空戦記作家と読者の嫌らしいところは、ここで「知識があっても仕方ない」と話をすり替えるんだな
一方で自分たちより知識のない作家、読者を「知識がない、シミュレーションができない」と罵倒する
他方では知識のある専門家、読者を「想像力がない」と愚弄する
そんな作家、読者が集まるような小説を、いったい誰が読みたくなるのか?と
娯楽小説としては面白くなく、専門書ほど得られる知識のない、中途半端な存在なんだよ -
作家が「知識のある人も、ない人も、私のつくった作品世界で一緒に遊びましょう」で娯楽小説はいいんだよな
知識のある読者が、作品の不備をフォローすればいいだけ
作家も読者も知識のある読者を立てることで、作品世界が豊かになればみんなが得をするのだが
ところが架空戦記は、作家と読者が自分たちより知識のない読者はもちろん、ある読者の存在すら許さない
「自分たち」が頂点に君臨したいから、自分たち以上の存在は認めたくない訳だ
結果的に作品世界に広がり、深みがなくなり、「特定少数の読者しか楽しめない娯楽小説」になった
売れ行きが落ちるのは当然だな -
奇妙な話なんだが、架空戦記作家は知識のある読者やちゃんと読んでくれる読者を求めていない
作品の不備を指摘されるからな
荒巻義雄はそもそもノープランで「紺碧の艦隊」を書きはじめ、ベストセラーになったものの、知識があってちゃんと読んでくれる読者からの鋭い指摘に耐えられなくなった
ヒトラーが史実以上に凶悪だったら、対米参戦して真珠湾攻撃をする必要なんかないもんな(日本でクーデターを起こしたら、すぐに三国同盟を破棄して米と外交交渉し、日本が反独を表明する見返りに禁輸解除を求めたほうが得策=紺碧艦隊の存在理由がなくなる)
荒巻は指摘が堪えたから、知識のある読者を排除するという暴挙に出て、知識がなくてしっかり読んでいない=作品の不備に気付かない読者を重用した
そんな作家や読者たちが、国際政治や歴史を考えるってねぇw -
「紺碧の艦隊」でヒトラー、ルーズベルト、チャーチルが「史実とは別人」と判明するのが「4巻」からって、いくら娯楽小説だとしても読者を馬鹿にしてるでしょうって
たとえ史実と別人であったとしても、「1巻」から読者に伝えるのが礼儀ってもんでしょうに
こんな構成をされたら、作品=作家の都合に合わせて、作品の途中でいくらでも設定が変わるってことになる
いいか悪いか以前に、まず落ち着いて読めませんよと
そしてきちんと読んでいる読者を愚弄してるよ
なにより「フィクションと現実の区別がついている読者」ほど、こういう部分に気がつくもの
気がつかない読者は、「区別がついていない」んだなw -
読者がしっかり読んだうえで「好きだ」というのは自由
読者が構成や考証のおかしい部分について指摘し、作家や編集者が訂正することで作品の質が上がればいい
質が上がって専門家や他の作家も評価し、新規読者が増えれば万々歳なんだしね
ところが架空戦記の場合、読者がしっかり読んでいるとは思えない
構成や考証がおかしくても気づかないし、気づいた読者を作家、編集者と一緒になって攻撃する
作品の質を上げる気なんてなく、そのくせ専門家や他の作家まで攻撃するのだから、もう救いようがない
そんなことだから読者はもちろん、作家や編集者でさえ、背後にオカルトがいたことにも気づかなかった
自分たちが好きな架空戦記を、自分たちで守る気すらないのかよ -
架空戦記の背後にオカルトの影があったのは、それだけ架空戦記にオカルトが繁殖しやすい条件が揃っていたことでもある
読者に常識的な知識が乏しいくせ、自己評価と自己愛が病的に高く、コンプレックスが強いのに解消方法がない若い人間を集めて褒めちぎりながら、途中で偽情報を混ぜていく
オウム真理教のようなカルトとどこが違うんだか(戸高一成のオカルト本を出した出版社にオウム設立前の麻原彰晃が出入りし、学研の編集総責任者が麻原の原稿を載せた号の編集長)
架空戦記はシミュレーションでもなければ、普通の娯楽小説でもない、カルトに勧誘するための小説だった訳だ
面白いつまらない以前に、考えなきゃならんことがあると思うぞ -
〉ノープランで「紺碧の艦隊」を書きはじめ
1読してまともな資料収集、考証、構成をしているとは思えず、素人が持ち込みすれば叩き返され程度の出来w
絶賛した読者にも知識がなかったうえ、まともに読んでなかったのだろう
もっとも「娯楽小説です」で止めておけば良かったものの、調子に乗って「シミュレーションです」と言い切ったのは愚策
知識があってしっかり読んでいる読者は「どっちやねん」と追求したが、荒巻義雄には姑息な言い逃れするしかなく、挙句はそんな読者を切り捨てて絶賛する読者だけを相手にした
編集者も、荒巻にろくに注意をしなかったのだろうな
結果的にイエスマンの読者だけが残ったが、「旧日本軍はイエスマンばかり集め、違う意見の人間を登用しなかった」と得意気に述べるんだから、精神がどうかしているとしか思えないw -
プロジェクトX オウムVS科捜研
麻原彰晃と同じ出版社に出入りしていた戸高一成、原稿を採用した太田雅男
どんな顔で見ていたのやらw -
オウムに殺されかかった神立尚樹
架空戦記批判をしておいて、戸高を隠していた&オウムとの接点に気付かなかった「罪」は大きい -
「紺碧の艦隊4」で「本シリーズの基本仮説」として紹介されたのが歴史修正学で、参考資料となったのが「操られたルーズベルト」
1995年1月17日に「ホロコーストはなかった」の記事を掲載した雑誌「マルコポーロ」の記事にも歴史修正学が紹介されていたが、はユダヤ人団体からの抗議を受けて1月30日に廃刊が決定
3月25日に発売された「旭日の艦隊11」では1月17日に起きた阪神淡路大震災が作中で使われていたのに、同日に起きたマルコポーロ事件=歴史修正学についての記述は一切なかった
シリーズの基本仮説であるはずの歴史修正学に触れないなら阪神淡路大震災も作品で使わない、阪神淡路大震災を使いたいなら歴史修正学についても謝罪するのが礼儀ってもの -
オウムの機関誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」6号「完全世界征服ユダヤの野望」が刊行されたのは1995年1月
参考資料が「紺碧の艦隊4」と同じ「操られたルーズベルト」
「操られたルーズベルト」の米の版元は歴史修正研究所で、ホロコースト否認をしたことで米政府から反社会的団体と認定された
開設したのが米の極右組織リバティロビーで、KKKやイスラム過激派との接点もある
荒巻義雄は97年に発売された謎本「落日の艦隊」を紀伊國屋札幌旧本店で立ち読みした時にはじめて知り、恐怖心のあまりその場で失禁&脱糞をしたw
麻原の空中浮遊を掲載したムー編集長の太田雅男が学研が架空戦記を出したときの編集総責任者で、麻原が出入りしていた八幡書店からオカルト本3冊を刊行したのが戸高一成
八幡書店創業社長の武田崇元が編集長をしていたオカルト雑誌に寄稿していたのが檜山良昭と胡散臭さ満点 -
架空戦記が好きなら好きで結構
しかし「好き」な作家、編集者、読者ほど「架空戦記とオカルト、カルト」との接点について正面から受け止める必要がある
問題と真摯に向き合って、改善策を打ち出してこそ、「好き」ではないとできないはず
そこまでやったら人間として信用できるし、架空戦記にも箔が付く
オカルトとの関係にまったく気がつきませんでした、対策もしません、でも俺たちが架空戦記が好きで、優秀であることを認めてくれなんて、我儘にもほどがある
少なくとも架空戦記関係者は旧日本軍の首脳と同程度か、それ以下の品性だろう -
ブクオフで電波社ヴィクトリーブックス20冊以上を発見w
売れてないから「より派手な展開」にするのは娯楽小説の常道で文句は言わないとして、それを「シミュレーション」と銘打つのに架空戦記作家、編集者、読者は抵抗を感じないのかなぁ
「荒唐無稽な娯楽小説が悪い」のではなく、作家と編集者が目指すのは「完成度の高いただの娯楽小説」であるはず
そこを目指そうとせず、「ただの娯楽小説ではなく、シミュレーション(に基づいた小説)」というから話がおかしくなる
これではシミュレーションとは「ただの娯楽小説」すら書けない作家の逃げ場になってしまい、専門家はもちろん、他の作家、読者にも失礼だろう
そんなことだから架空戦記は新しい作家も読者も増えないどころか、オカルトに利用されるんだ -
「完成度の高いただの娯楽小説」を書こうとすれば、「シミュレーション(に基づく)」なんて不要
「シミュレーションとしてはデタラメですが、面白いドラマ、展開がありますのでご了承下さい」と断っていれば、怒ったほうがバカになる
その一言があるだけで専門家や頭の硬い読者を敵に回さなくて済むし、他の作家や一般人も悪い気はしない
それが架空戦記が本来目指すべき(ひとつの)方向だったんだよ
専門知識や描写力以前の常識であり、配慮、気配りが架空戦記の作家、編集者、読者になかったと
だからこそ自己を過大評価した者同士が相互慰撫を行うため娯楽小説をシミュレーションと偽り、結果として売れ行きが伸びないどころかオカルト、カルトとの接点まで指摘されたわけだ
今まで散々バカにしてきた他の作家、専門家、一般人のほうがはるかにまともなんだよ -
結局「いい架空戦記を書いていると自負する作家、編集している編集者、「好きだ」といってる読者」ほど、「娯楽小説をシミュレーション(に基づく)小説」とは言えない」ってことになる
「娯楽小説とシミュレーション」のky -
架空戦記関係者が「娯楽小説とシミュレーション」の境界線を他者に示せないのだから、専門家や他の作家、一般読者が納得できない
まともに評価されない、新規読者も増えないし、新しい作家も参入しないが重なり、架空戦記がオワコン化した
オワコンならオワコンでいいがせめて一矢報いる、悪あがき、最後っ屁でも見せてくれんかな?
その意地も見えてこないから、架空戦記がダメというか、架空戦記に集まっている人間がダメなんだよな -
「アメリカ陰謀論の真相」奥菜秀次「結果から原因や因果を創造する」
「主人公=日本が(カッコよく、面白く)勝つ」のは娯楽小説として悪いわけではない
「結果から逆算して歴史を弄る」のも悪いとは言い切れない
しかしあくまで「娯楽小説だから許される」のであって、この手法はシミュレーションでは用いてはならないと
「シミュレーションの結果日本が勝つ(負ける)」ことはあっても、「日本が勝つ(アメリカが負ける)のが目的のシミュレーション」ってのは存在しないんだな
そして「結果から逆算する」のは陰謀論の手法でもあり、架空戦記と陰謀論には親和性があるんだな
架空戦記の背後に陰謀論の影があるのは、偶然ではないってこと -
架空戦記には批判的な立場にいるが、別に「娯楽小説とシミュレーションを同時にしろ」なんて無理は言っていない
「どちらかが水準に達していればいい」だけの話なんだな
架空戦記作家は「両方できます」と公言しておいて、両方しないんだわ
だから無理して「両方できる」なんていわず、片方だけに全力を投入しなさいよと
そうなると、架空戦記を立て直す1番いい方法とは、「娯楽小説です」とカミングアウトするしかないわけで
その程度の作家しか集まらないのだから、架空戦記がつまらなくても仕方ないんだな
能力のある作家ほど正直にカミングアウトしたほうがトクだと考えるが、架空戦記作家は能力がないから、カミングアウトするのが損だと考えてしまう。 -
「歴史を弄って、珍奇な兵器が出て、現実的ではない作戦が成功して、爽快に日本が勝つ」のは、娯楽小説としては間違えていないのかもしれない
しかし「その改変、設定、展開が果たして必要、妥当なのか」「人間ドラマとどうリンクさせるのか」などを考えるのが「いいシミュレーション、いい小説」なのだと
「いいシミュレーション、いい小説」にする過程を辿っていない、放棄したのが架空戦記なんだな
「とにかく歴史を弄れ、とにかく面白く勝てばいい」というイケイケドンドンなんだから、深い戦略やテーマ、複雑なストーリー、重い人間ドラマなんて必要ないわけで
無論作家をはじめとして「俺たちは歴史とか人間ドラマなんて重厚なものは考えません」と断ってくれればいいのだが、そこまで正直でも素直でもないw
一端の口を挟んでくるから、不快さが募るんだよ。 -
奇妙な展開になるが、初期の架空戦記の作家や編集者は、読者の味方のように装いながら、裏では読者を騙そうとしていた
対して批判本の著者たちは、架空戦記を批判しつつ、読者には「そっちの方向に進めば騙される」と警告を発していたことになる
つまり読者の味方が騙し、敵が守ろうとするという倒錯に落ち込んだんだな
結果的に読者が選択したのは、「騙している味方」だったわけだが、 -
・娯楽小説なのに「シミュレーション(に基づく)」と言いたがる
・太平洋戦争で日本が逆転、勝利する
この縛りが架空戦記をつまらなくしているというか、どうして固執するのかが理解できない
「架空戦記と陰謀論の構造が酷似」、「架空戦記関係者に陰謀論関係者が多い」ことから、「陰謀論を広めるために架空戦記を使っているのではないのか」という疑いまで生まれる
「太平洋戦争で日本が勝利する」展開にするには「連合国が悪」という単純なストーリーが望ましいが、これでは「娯楽小説」と批判、揶揄されかねない
「ただの娯楽小説ではない、シミュレーション(に基づく)」とブランディングすれば狙いを隠せるとともに、読者の劣等感を優越感に変えられる
「架空戦記が嫌い」というか、こんな疑いを抱かされる段階で不快になる
「縛り」から脱却して、普通の娯楽小説でいいじゃね? -
「シミュレーションに基づいた架空戦記」、「基づいていない架空戦記」と2分するのが現実的なんだな
前者は正確で専門家からも評価されるが、娯楽小説としての面白さに欠ける
後者は娯楽小説としては面白いが、不正確で専門家からの評価も低いと棲み分けすればいい
前者のほうが高尚ではあるが、ジャンルを分ければ後者と比較しても意味がない
娯楽小説を書きたい作家、売りたい編集者、読みたい読者は後者で最高のものを目指せばいいだけ
しかし後者を極めるなら、「シミュレーションなんて不要」だと胸を張って公言できる
また中途半端に史実を改変するより、SFやファンタジーに流れても問題ないのだと
その域まで振り切れない作家、編集者、読者なんだから専門的なシミュレーションを理解できないどころか、一般受けする娯楽小説も書けない、読めないってことだ -
シミュレーション基づいた架空戦記は格闘技、基づいていない架空戦記はプロレスって感じで、似て非なる存在だと
ジャンルが違うから比較しても意味がないのに、後者が自分たちに箔を付けるため、前者のように装うのは良くない
猪木が馬場の団体をショーと揶揄したが、本質的にはどちらもショー、エンタメなんだと
競わなければならないのは、ショーでありエンタメとしての「質」なんだな
架空戦記も「シミュレーション、他の娯楽小説とは違う」とのブランディングを図ったが、娯楽小説のレーベルで売ってる以上、自分たちも娯楽小説、ショー、エンタメじゃないのかよ
まともな感性の作家、編集者は「娯楽小説としての質を上げよう」とするはずなのに、「自分たちの書いているのは娯楽小説ではない」と規定したのだから、架空戦記は「娯楽小説ではないもの」になった
ところが「シミュレーションでもない存在」になってしまい、結果的にブクオフ直行w -
「この架空戦記は娯楽小説であって、シミュレーションではありません。多少の間違い、荒唐無稽さもありますが、ご了承下さい」と作家が断っていれば、潜水戦艦でも多段層空母でも出せばいいんだよ
「荒唐無稽な兵器が登場する小説だからダメ」じゃなくて、「出せるような状況設定を考えるのが作家の仕事」じゃないのかよ
そう考えると「荒唐無稽な兵器が活躍する、太平洋戦争の架空戦記が悪い」ではなく、「太平洋戦争の架空戦記に、どうして荒唐無稽な兵器を登場させるのか」が疑問だと
基本的に「架空戦記=太平洋戦争で日本が逆転、勝利する」という縛りからなんだろうが、やはり「荒唐無稽な兵器が活躍する娯楽小説を、シミュレーションと偽る」のはおかしい
どれだけ正確にシミュレーションしようが、意味がないんだしさw
史実とはまったく関係のないSFでも、ファンタジーの物語でもいいじゃね?ってことなんだな -
娯楽小説なんだから「太平洋戦争日本が逆転、勝利」してもいいし、「荒唐無稽な兵器が大活躍」しても悪くない
しかしそんな娯楽小説を、「シミュレーション(に基づく)」といってもいいのか?と
娯楽小説自体は何も悪くないのだから、「娯楽小説です」といっても問題はない
わざわざ「シミュレーション(に基づく)」といって、他の娯楽小説と差異化を図る理由はないんだな
娯楽小説なんて、まともなシミュレーションをしてたら絶対に盛り上がらないよw
何より「シミュレーション」といって、まともな専門家から相手にされているのか
戸高一成が筆名で架空戦記を書いていても、複数の架空戦記作家を売り込んだのも問題はないはずなのに、架空戦記を書いていた過去は隠すうえ、故半藤一利が批判する文を書いた書籍に平然と寄稿するなんておかしいだろう?
荒唐無稽な娯楽小説でいいんだし、胸を張って「シミュレーションではありません」と言い切ればいいだけなんだよ
戸高をはじめ、架空戦記作家たちはその一言が言えないから、生理的に嫌いなんだ -
「シミュレーション小説はシミュレーションではない」という言葉を聞いたが、詭弁以外の何者でもない
それなら「シミュレーション小説は小説ではない」ってことになってしまうw
シミュレーション小説とシミュレーションが違うのなら、自分たちが境界線を明示するべき
明示しないうえ、その場その場で「今は娯楽小説、今はシミュレーション」と使い分けるのが嫌らしい
娯楽小説の「間違い、荒唐無稽さが許される」、シミュレーションの「正確、専門家並みの評価を受ける」という2つの恩恵は欲しい
しかし娯楽小説の「多くの人に読んでもらう」、シミュレーションの「専門家からの評価される」という責任は果たしたくないという、御都合主義が見てとれる
そういう性根だから、娯楽小説としてもシミュレーションとしても評価されないんだな -
「面白ければ間違えていてもいい」のが娯楽小説
「正しければ面白くなくてもいい」のがシミュレーション
評価基準が正反対の2つが、どうして同時にできるのか
知識量や表現力の問題ではなく、常識があれば「できない」のを理解できる
誰も「無理して同時にしろ」なんて言わない
「どちらかだけを一生懸命するが、もう一方は「できません」と言えばいい」だけの話
ところが架空戦記作家は「両方できる」と虚勢を張るが、結局どちらもできないってこと
それなら最初からすんなよ -
「架空戦記を面白くしよう」とすれば、「シミュレーションはしていません」と言い切るしかない
つまり「シミュレーション小説」というブランディングなど不要だと気付くことだと
「シミュレーションをしないことで専門家などの感情を逆撫でしない代わり、多少の荒唐無稽やミスを許してもらう」とすればいい
それでも怒るヤツは、どうしようないバカなんだしさw
「引くところを引いて、既得権を確保する」のが「娯楽小説家の戦略」じゃないのか?
架空戦記作家が嫌なのは、「娯楽小説家の既得権は欲しい」が「他の作家より上位に立ちたい」から「シミュレーションができる=専門家としての評価も欲しい」という強欲さなんだな
そのくせ専門家は誰も読まない、娯楽小説としては売れていないと、最低じゃないかよ -
〉専門家は誰も読まない
戸高一成、大木毅といった「専門家」が、本来真っ先に「架空戦記作家、編集者はやり過ぎだ」と釘を刺すもの
「架空戦記作家がやってもいいこと、ダメなこと」を決めて、架空戦記の質が向上してりゃ良かったんだ
ところが2人も架空戦記を書き、戸高は子飼いを出版社に売り込んでいた
そのうえ戸高が歴史偽造と接点があったことは、大木をはじめ子飼い、他の専門家や大半の編集者も知らなかった
これで架空戦記だけではなく、軍事の書籍に秩序も何もなくなったんだな
「架空戦記がつまらない」のは、「軍事の専門家もつまらない」からなんだと -
オウム事件を取材した際、教団から出された飲料を口にした翌日に全身が痺れた神立尚紀したところで、戸高一成が麻原彰晃が出入りしていたオカルト出版社から著作を3冊刊行したばかりか、戸高が雇われ社長を務め、岩本徹三をはじめとする複数の零戦パイロットの著作を刊行した今日の話題社の権利をオカルト出版社に譲渡したことも知らなかった
オウムの取材はおろか、零戦の取材もしているのか?と
架空戦記が悪いというか怖いのは、荒唐無稽さや間違いよりも、オカルト人脈という怪しい背後関係なのだと
戸高、檜山良昭、荒巻義雄、佐治芳彦そして学研の太田雅男と接点があるのはムーの編集顧問で、今日の話題社の権利を獲得した「80年代オカルトブームの黒幕」、オウム事件で東京地検特捜部から事情聴取を受けた武田崇元
神立、大木毅、戸高子飼いの架空戦記作家はもちろん、軍事&戦史研究家、軍事&戦史の出版社の編集者も誰も気づかないって、全員揃って旧日本軍首脳以下のバカさ加減だろう -
〉架空戦記が悪いというか怖いのは、荒唐無稽や間違いよりも、オカルト人脈という怪しい背後関係
「娯楽小説なのに、シミュレーション(に基づく)という」、「太平洋戦争で日本が逆転、勝利する」という「縛り」にも意味が見えてくる
「史実、既成の歴史学者は間違えている」と訴えることで、読者を陰謀論、歴史偽造に誘導するんだな
そのために架空戦記は「ただ娯楽小説であってはならない」のであり、「シミュレーション」という権威づけが欲しい
しかし責任問題を追求されたくないので、「シミュレーションだと勘違いしたら、読者自己責任」との逃げ道を設けておく
オウム真理教をはじめとするカルトとどこが違うんだか
こんな「娯楽小説」なんて、面白いつまらない以前に「読みたくない」よ
少しぐらい間違いがあっても、どれだけ荒唐無稽でも、心から安心できる娯楽小説を読みたいだけだ -
「太平洋戦争で日本が逆転、勝利する」「娯楽小説なのにシミュレーション(に基づく)」に拘らず、架空戦記を「完成度の高い娯楽小説」に特化したほうがいい
作家、編集者、肯定&否定の読者がそこに向かおうとしないのが異常、異様なんだな
全員が全員、娯楽小説を軽視、軽蔑しているとしか思えない
単純に娯楽小説を軽視しているのが架空戦記を批判、否定したがる人で、「ただの娯楽小説ではない」と言いたがるのが架空戦記作家、編集者、好意的な読者だと
両者は対立しているようで妙な接点があるわけで、だから架空戦記の裏人脈を見抜けなかったうえ、健全化しようとした極少数派を叩くときにはタッグを組んだ
知恵遅れの同級生を虐めていた架空戦記関係者のように、日本では人間性がおかしい人が戦史や軍事に興味を持ったんだな -
「太平洋戦争で日本が逆転、勝利」「シミュレーション」という制約を外しただけでも、架空戦記の可能性が広がるのに
例えば潜水戦艦といった荒唐無稽な兵器がにしても、「(史実の)日本が使って大活躍」だと現実味が乏しいのに、そのうえに「シミュレーション」とまで付けられると白ける
それなら2つを外して、「どういう状況設定なら潜水戦艦が登場、活躍できるのか」を考えればいい
実は戦前の専門書に「潜水戦艦はできても現実的ではない」と書かれているから、時代設定はWW1初期ぐらいになる
そこから主人公の国や敵国の地形、産業であり、戦力比という要素を考えるのが、作家に求められる想像力ってものじゃないのかな?
「専門家に匹敵するシミュレーション」なんて、別に作家にはできなくてもいいんだしさ
作家にできない「シミュレーション」をしているように偽るより、作家だから許される想像力を駆使するほうが健全だと思うぞ -
〉地形、産業、戦力比
専門家の想像力は、「それらの要素、条件が確定している」という前提のなかで用いるもの
その土俵のうえで、作家は専門家と戦っても勝てるはずがない
しかし「要素、条件が確定していない架空の世界の話」だったら、「専門家に勝てる」とは言い切れないが、一本をとれる可能性はある
「荒唐無稽なフィクションだけど、その発想は面白いよね」と、専門家に言わせりゃいいんだよ
そこを目指すのが、作家が進むべき目標じゃないのか?と
架空戦記を読んでむかつくのは、架空戦記作家が大それたことを口走るくせ、進むべき方向を誤っているからなんだな
方向を間違えている作家が、専門家に匹敵するはずがないんだ -
「ブラタモリ」的な想像というのかな
道を歩きながら地形や天候という自然、産業という人為的な要素を組み合わせながら、時代を遡っていく
架空戦記作家であり愛読者には、そういう洞察力、知的訓練が不足してるんだな
嫌な言い方をすれば「専門家の劣化コピーw」なのに、なぜか専門家と対等、あるいは優位だと確信している
専門家は専門的な勉強、知的訓練を受けているのだから、そもそも相手になるはずがないんだけどねw
それなら専門家の領域外の、作家特有の想像力を駆使すればいいだけ
ところが架空戦記作家、読者はそちらの能力も意外とないわけで、だからこそ「ただの娯楽小説ではなく、シミュレーション」って言葉を使いたがるんだなw
やはり能力のある作家ほど、シミュレーションという言葉を使うのには躊躇するんだよ -
「史実を最小限弄った状態」なら、作家の想像力は専門家といい勝負ができる
しかし「史実を最大限弄る」、あるいは「最初から日本が勝つに決まっている」状況では、専門家の専門外なんだから戦おうとはせず、進んで不戦敗を選択する
専門家は自分たちの価値を守るために戦わないだけw
「相手が土俵に上がらないから、自分たちの勝利」じゃないんだよな
架空戦記作家たちは、専門家や同様の思考ができる人が絶対に上がらない土俵を設定して、「俺たちのほうが強い、優秀」と口走るから人間性がおかしいんだ
専門家が上がってくれる、もしくは上がらなくても納得してもらえる土俵を明示するのが、専門家と対等の能力を持つ作家なのだと -
〉どういう状況設定なら潜水戦艦は登場、活躍できるのか
〉専門家が上がってくれる、もしくは上がらなくても納得してもらえる
「娯楽小説だから、ハワイ上陸のような荒唐無稽な作戦が成功しても許される」のは、ある意味正論
しかし「ハワイ占領が成功したと仮定したうえで、日本がどのような戦略をとるのかというシミュレーション」を真面目に考えても、前提が「娯楽小説だから許される」なのだから専門家は相手にしない
作家や読者がどれだけ正確、緻密に考えようが、「前提条件と矛盾する」と切り捨てられるのがオチ
「専門家が俺たちの土俵に上がらないのは卑怯」ではなく、上がらないのが常識的な応対ってもの
しかし「史実とは関係のない娯楽小説で、どのような状況設定なら潜水戦艦が登場できるのかを一緒に考えて下さい」はフィクションの世界を構築するわけだから、「娯楽小説だから許される」虚構と現実とのすり合わせ
うまく顔を立てれば、主旨を理解してくれる専門家なら話を聞いてくれる -
「歴史を弄って、珍奇な兵器が出て、現実的ではない作戦が成功して、爽快に日本が勝つ」のは、娯楽小説としては間違えていないのかもしれない
しかし「その改変、設定、展開が果たして必要、妥当なのか」「人間ドラマとどうリンクさせるのか」などを考えるのが「いいシミュレーション、いい小説」なのだと
「いいシミュレーション、いい小説」にする過程を辿っていない、放棄したのが架空戦記なんだな
「とにかく歴史を弄れ、とにかく面白く勝てばいい」というイケイケドンドンなんだから、深い戦略やテーマ、複雑なストーリー、重い人間ドラマなんて必要ないわけで
無論作家をはじめとして「俺たちは歴史とか人間ドラマなんて重厚なものは考えません」と断ってくれればいいのだが、そこまで正直でも素直でもない
一端の口を挟んでくるから、不快さが募るんだよ。 -
ファンタジーならファンタジーの作品世界を構築するものだけど、(9割以上の)架空戦記は太平洋戦争をはじめとする「出来合いの世界」
無論それが悪いわけではないが、必要以上のオーパーツ的な要素をぶち込んだうえに、「それが達成していたらどうなっていたかのシミュレーション」なんか、しても意味がないんだがねぇw
そんなことに労力を注ぎ込むより、完成度の高い架空世界を構築したほうがよほど知的冒険なんだが
現実世界では戦争戦艦、多層飛行甲板空母なんて荒唐無稽だけど、「どのような荒唐無稽な世界なら、荒唐無稽な兵器が登場できるのか」と発想を変えればいいのに
もっともそんな想像力がない作家であり編集者、読者だから架空戦記に集まり、背後に陰謀論者が隠れていたのにも気がつかなかったんだがな -
〉太平洋戦争に逆転、勝利
発達障害の同級生を執拗に虐めたことで他の同級生全員を敵に回した某のように、現実世界を逆恨みした連中が、架空の世界で代償行為をしているんだろうなぁ
弱い、認められない自分が、架空の世界で詳細されたいのは一種の願望なのだろうが、それが娯楽小説のなかで完結するならともかく、「シミュレーション」とすり替えるのはよろしくない
嫌われるのは、そういうことができてしまう下品な品性なんだと
「専門家やそっちの本の読者は嫌な顔をするだろうな」と慮る気持ち、共感力がなかったからこそ、自分の虐めを同級生がどう見ていたかにも気づかなかったわけで
そういう品性の作家、編集者、読者が架空戦記に集まり、相互慰撫し合う世界にしてしまったことで、専門家も他の作家、一般読者も架空戦記を見限ったのも理解できていない -
〉架空の世界で代償行為
「学校や世間で認められない自分」を「世界から孤立した80年前の日本」に投影しているわけだ
「架空の世界での日本の勝利」は、「虐げられていた自分がようやく認められる」ってことだな
しかし現実世界で認められなかったのは自分の行いが原因だし、日本が世界から孤立したのも自己本位な外交政策の結果だった
「自分たちが反省して、世界に受け入れられようとする」ではなく、「自分たちが受け入れられる世界に改変してしまう」から、おかしさが倍加してしまう
「架空戦記が悪いから売れない」のではなく、「特定少数以外には受け入れられないから売れない」んだよ
大多数の読者はもちろん、架空戦記の読者と同等かそれ以上のコンプレックスは持ち合わせていても、架空戦記のような解消を嫌う=他の代償行為を探す人間には、読めないんだな -
「学校や世間で認められない自分」を「世界から孤立した80年前の日本」に読者が投影する際、「自分は何も悪くない」(実際悪くない読者もいるのだろうが)と言いたいから、「日本は米英に陥れられて戦争に突入した」という陰謀論に傾倒しかねないわけで
また「陰謀を日本が跳ね除ける」展開は小説としてカタルシスが得られる
小説の構造上、「結果から逆算して原因、因果を創造する」(小説作法としては間違えていないが)のが、陰謀論とも一致してしまう
さらに陰謀論と接点のある作家、編集者が見受けられる…と、「架空戦記は陰謀論を広めるための道具、手法」ってのが濃厚だと
陰謀論と関係がないなら「太平洋戦争で日本が逆転、勝利」という展開に固執する必要はないし、何より戸高一成が架空戦記に関係していたことを隠す必要もないしなw -
架空戦記が嫌い、つまらないとか以前の話で、「ともかく陰謀論とは手を切れ」が大前提
手を切るためには「日本が太平洋戦争で逆転、勝利」というフォーマットにこだわる理由もないし、「娯楽小説をシミュレーション」とすり替える必要もないってこと
多少間違えても荒唐無稽な娯楽小説でいいから、2つの「縛り」から脱却しなさいよと(娯楽小説家に「シミュレーションをしろ」は無理難題だが、「娯楽小説を書け」は誹謗で批判でもない)
その決断ができないから、架空戦記でブクオフ棚1段占拠という末期的症状に陥っているわけで
もうジリ貧を通り越して、完全なドカ貧なんだよ
それでも「縛り」にこだわりたいなら、せめて旧日本軍首脳と左翼系平和運動家の批判は控えてくれ
架空戦記作家、編集者、読者のやってることは、そんなに差はないんだ -
〉学校や世間で認められない自分
そういう人たちに優しい声をかけたのが学生運動であり、カルトだった
「認められない」人間を集め、怨念を「世直し」という名の革命につなげようとした
実際にテロを起こしたオウム真理教、作中でクーデターを起こした「紺碧、旭日の艦隊」は時期的に同じ、擬似国家を形成し、同じ陰謀論の書籍を参考にしたうえ、荒巻義雄の愛読していたオカルト雑誌の編集長のもとに麻原彰晃が出入りしていたという一致まである
荒巻が「紺碧」開始の時点でおかしな方向に進む兆候があったとは思えないが、人気が出て「旭日」を開始しようとした時期(91年秋)頃から変容した可能性が高い
というかさ、「架空戦記が好きだ」というのは勝手だが、ここまで深く読み込まないのかね?
「読み込んでいない」のに「好き」というのは、薄っぺらいってことだよ -
「認められない」読者たちが集まって「多数派」を形成した
ブームのときは「自分たちの主張が受け入れられた」と思い、少しでも否定的なことを述べると「多数派に従わない」と散々侮蔑した
ところがブームが去り、末期的な現状では、所詮架空戦記の読者なんて少数派に過ぎなかったのが露呈したわけだ
ブームのときに自分たちが吐いていた言葉を、自分たちが受け入れられるのか?と
ブームのとき、できればブームの直前に少しブレーキを踏んで方向転換していれば、ブームこそ小さかった(なかった)かもしれないが、ここまで悲惨な状況も回避できていたかもしれないのだが
作中で散々「戦略」と騒いでいながら、架空戦記作家、編集者、読者には長期的な戦略、見通しがなかったんだ -
〉「読み込んでいない」のに「好き」
批判的な意見の人間より好きな読者たちのほうが「読んでいない」のは、矛盾というか屈辱ではないのか?
しっかり読んで、矛盾や問題点には批判派より先に動き、善処したうえで「好き」というのは何も悪くないし、批判派の人も一目置くってものだろう
おかしさに気がつかない、何も対策はとらない、しかし「好き」なのを認めろ、批判は一切許さないってのは問題だと
もっとも架空戦記の編集者にしたところで、オカルト人脈との接点に気づいていたのは学研の太田ぐらいで、ブームをつくった徳間の故芝田暁ですら見抜けなかったのかもしれないが
結局架空戦記ブームなんて、作家、編集者、読者が誰もブレーキを踏まなかっただけなんだな
暴走した挙句、エンジン、アクセル、クラッチまで焼き切れたのが現状なんだと -
新規読者はいなくなり、残った読者は自分の好みを優先させようとする
編集者は確実に売りたいから、過去に売れた作品の焼き回しを作家に書かせる
作家も作家で、フォーマットに則ったのほうが作品は書き易い
3者が堂々巡りをしてるってことだ
致し方ない部分もあるとして、出された作品が史実を自分たちの思う方向に「改変」した作品だから、見ててやり切れないんだな
「歴史がこうなっていたら、俺たちならこうした」なら、どうして現状で何か手を打とうとしないのかと
自分たちが現状を変えられないなら、史実の人たちが変えられなかったのを悪くいうなよ -
架空戦記がつまらなくなった要因のひとつは「特定の性格を持つ読者が増えた」だろうな
自己愛とコンプレックスが異常に強く、共感力が皆無な読者が主力となった
彼らの願望が投影される作品世界…は我慢するとして、その小説に「シミュレーション」と名づけておかしくなった
シミュレーションは客観性を優先するわけで、主観=願望が入ってはならないんだね
「娯楽小説としての架空戦記が好き嫌い」は主観の問題だが、「シミュレーションが正確か否か」は客観の問題
「俺はこの架空戦記が好きだけど、シミュレーションとしてはデタラメだね」という意見は認めなければならないが、「俺が好きな架空戦記だから、正確なシミュレーションだ」ってのはおかしい
この区別ができないレベル人間が架空戦記に集まったのだから、破綻するのは当然のことw -
荒巻義雄が「紺碧の艦隊」を刊行したのは90年12月
並行するように、戸高一成が雇われ社長を務めていた戦記専門出版社の今日の話題社社主が病気で閉業を検討していた
戸高はオカルト本を刊行した八幡書店創業社長、ムー編集顧問の武田崇元に援助を求めていたんだろう
2人は今日の話題社の価値を上げるため、架空戦記ブームを画策したんじゃないのか?
武田は接点のある荒巻に戸高を紹介するとともに、倒産した大陸書房のファンタジー部門の作家(佐藤大輔を含む)、編集者を中公に移籍させ、中公は「紺碧」の別巻「旭日の艦隊」を刊行
さらに80年代のオカルトブームで培った出版社、作家を架空戦記に参入させた
さらに「真珠湾攻撃、ルーズベルト陰謀論」を作中に混ぜ込めば読者も心地良く、フォーマット化すれば作家も書き易いうえ、陰謀論を広めることもできると
そこで武田が今日の話題社を合併すれば、管理していた原稿の価値も上がって大儲けできる
武田が架空戦記ブームの黒幕じゃないのか? -
武田は架空戦記作家の檜山良昭、佐治芳彦、オカルトブームでSF系出版社とも接点があった
他方戸高は戦記、軍事の出版社で顔が効き(福井静夫が隠匿していた図面、自分が史料調査会から持ち出した資料)、批判を抑え込んだ
そのくせ戦史研究家としての自分の価値を守るのと武田との接点に気付かれないため、日向仁名義で執筆していたことは封印した
架空戦記側の作家や編集者、出版社や神立尚紀といった戦史、軍事側の人間も、戸高から情報の一部しか与えられず、すべての情報を知っていた武田、戸高にいいようにあしらわれていたわけだ
両者をコントロールして架空戦記と戦記、軍事を操ろうとしていた武田、戸高にとっての誤算は、架空戦記批判の書籍を出したライターだったと
真実を隠蔽するため、葬りたかったんだな -
今日の話題社が刊行した岩本徹三をはじめとする零戦パイロットの書籍は文春文庫から再販されている
元文春編集長の故半藤一利のアシスタントを務め、文春主催の菊池寛賞を受賞したのが戸高一成
零戦パイロットの書籍は、戸高経由で文春が再刊したんじゃないか?
ついでに文春は「真珠湾の裏切り」、「真珠湾の真実」と陰謀論の書籍を刊行しているが、武田が渡米した際に向こうの陰謀論の書籍を買い漁り、日本で「超訳」(原書にないことを追加したり、都合の悪いことは削除する)して販売したのは有名
2冊は武田、戸高、半藤経由で刊行された…天下の文春が陰謀論者に騙されていたんじゃないのか?
架空戦記の闇は、日本の出版界の闇と連動していそうだ -
今日の話題社が活動停止したのは92年6月で、再開が98年4月
奇しくも架空戦記作家日向仁の活動期間とリンクする
そして95年3月のオウム事件、東京地検特捜部の武田の任意聴取から武田の活動停止もあったから、活動再開が遅れたとすれば(謹慎が3年ならぴったり一致)辻褄が合う
架空戦記ブームが思いの外終焉が早かったのは、粗製濫造とともに武田、戸高が仕切れなかったこともあったのだろう
そして内部の情報管理、統制が機能し過ぎたたうえ、架空戦記作家をはじめ関係者に洞察力がなかったと
誰も架空戦記の背後関係を知ろう、探ろうとはしなかったんだな
架空戦記を長続きさせるためにはバックボーンを押さえておく必要があったのに、恩恵を得ている人ほど動かず、批判的な人のほうが動いていたと -
荒巻義雄がルーズベルト陰謀論を信じていたなら、「紺碧の艦隊」の冒頭は違っていたはず
パラレルワールドの米が罠にハメていたのを日本が掻い潜ったという展開にすれば、是非は別として整合性が保たれた
荒巻はそちらを選択すれば良かったのに、選択しなかったのは、陰謀論は「後付け」だったからなんだな
「紺碧2」から陰謀論臭い展開が増えて「4」でMaxになったのは、なんらかの外的要因があったはず
陰謀論との接点を開示していたら、架空戦記に参入してブームの一翼を担った作家、出版社、戦史や軍事の出版社、そして双方の読者も対応が異なっていただろう
誰も背後関係に踏み込まなかったのだから、そういう人たちが史実の人たちの批判をしたところで、全然信憑性がない -
戸高一成が架空戦記を書いていても、やましくないなら名乗れるはず
しかし自分の戦史研究家としての立場を守るため、陰謀論を仕切っている武田崇元や歴史学者に恨みを抱く檜山良昭との接点を知られたくない
また真珠湾陰謀論者の原勝洋とは多数の共著があるし、「限りなく黒」ってことだ
青山、吉田、松本が好き放題の架空戦記を書いても、「まともな専門家」なら諌めるものだが、一緒になって楽しんでいながら、半藤一利や秦郁彦が架空戦記へ批判的な言説を述べると同調したという二枚舌野郎だと
ところが大木を含めた戸高門下の架空戦記作家、半藤や秦、神立尚紀といった戦史研究家、文春をはじめとする出版社、光人社や海人社といった専門出版社が誰一人として戸高の正体を見抜けなかった
阿呆とか馬鹿とかの罵倒語を使うのも汚らわしい -
「紺碧、旭日の艦隊」は人気が出たから後付けの設定をタコ足のように繋いだだけで、盤石の設定のうえに積み重ねた長編とは呼べないんだな
荒巻義雄はブーム後に「他の架空戦記とは違う」と自賛したが、どんなツラの皮の厚さだかw
少なくともその程度の小説しか書けない作家が、史実の人物を批評するのはやめてもらいたい
やってることは50歩100歩だと
戸高も戸高で戦史研究第一人者、歴史博物館館長が何やってんだか
歴史偽造に関与しておいて、その過去を隠蔽しながらよく生きていられるものだ
戸高の行状に気づかなかった架空戦記作家、編集者、戦史や軍事のライター、編集者も、ここまでくれば同罪だろう
全員揃ってくたばってもらいたい -
・オカルト、カルト、陰謀論との関係をはっきりさせるとともに、関係した作家、編集者は追放する
・「シミュレーションではなく、娯楽小説です」を徹底する(作家、編集者は読者が誤解しないよう配慮し、それでも誤解した読者は自己責任と切り捨てる)
最低でも2点が守られたら、架空戦記が存在しても批判できない(それでも批判するのは、それはそれで問題がある)
しかし他者から指摘される前に、自分から手を打てた作家は、今まで読者や編集者の主張でおかしい思った箇所は拒絶していたはず
つまり危機管理、修正能力の高い作家は架空戦記を書かないか、既成の架空戦記業界から追放されてたってことだなw
両者の劣る作家たちが専門家を唸らせることも、一般人から支持されることもあり得ないと -
架空戦記の質と売れ行きが上がることは、批判している人も認めなきゃならんのだな
おかしな話だけど架空戦記作家、編集者、読者と批判的な読者は手を組む余地はあるし、本来ならばそうしたほうが互いに得策だと
ところがこういう部分で実をとるより、主導権を握るという名に固執するのが、架空戦記が好き嫌いは別にして軍事の好きな人に意外と多いw
本質から離れた場所で戦いを起こし、本来の目的を忘れてしまう
その意味で架空戦記が好きな人も嫌いな人も似た者同士で、同族だからいがみ合う
そこで「本来の目的はこっちじゃないですか」と冷静に指摘する人がいると、それまで敵だったのに急に連帯するw
そんな性格をしているから、どちらも戸高一成みたいな人間に操られてしまう -
「鷲は舞い降りた」「女王陛下のユリシーズ号」「ナヴァロンの要塞」だって、考えようによっては架空戦記だよな
「紺碧の艦隊」が出たとき、欧米の戦争小説に近づくまでの最初の一歩かと思って期待したが、まったく明後日の方向に進んだ
さりとて「高い城の男」「SSGB」のようなSFにもならなかったので、驚くよりも呆れたわな
それこそマクリーンやヒギンズが「この小説はシミュレーションに基づいています」って口にするかよw
誇りを持って小説を書いている作家は、「シミュレーションをしています」なんていう必要がない
誇りを持たずに小説を書くような作家だから「シミュレーション」という言葉を使うのであって、実際にはシミュレーションもできるわけがないんだ -
架空戦記批判は、本来「架空戦記を良くしたい」という意思、気持ちがあるから行うものだが、「嫌いだから良くならなくてもいい」的な批判がある
反対に架空戦記が好きな側も「いい架空戦記」の定義(「自分が好きなもの=いいもの」的な解釈まである)が薄っぺらく、他者に伝わらない
対立しているようで、考え方の根源は意外と近かったのかも知れない(事実架空戦記作家、編集者、肯定&否定の読者は戸高一成が二股をかけていたのに気づかなかった)
短期間ブームになったとはいえ、架空戦記の基盤があまりにも脆弱だったんだな(裏を返せば基盤が脆弱だから、ブームが長続きしなかった)
「架空戦記を少しでも良くしていきましょう」なんて気持ちは、否定側にも肯定側にもなかったんだ -
・日本が太平洋戦争に勝って欲しかった
・日本はルーズベルトの陰謀、ハルノートで太平洋戦争に巻き込まれた
・架空戦記の読者はシミュレーションを理解できる=専門家に匹敵する能力を持つ
それぞれの是非は別として、3つはまったく別の願望なんだな
仮に架空戦記のなかで「勝って欲しかった」を満たそうとするのはともかく、他の2つが入るとグタグタになる
グタグタになっしまったのが架空戦記なのだと
残酷なようだが、「陰謀があったかはわかりません」「読者にそんな能力はありません」と作家や編集者が断りを入れれば問題はないが、そこまで「正直な娯楽小説」を読みたい読者なんているはずがないわけでw -
「日本が太平洋戦争に勝って欲しかった」のは個人の自由として、「ハルノートが日本が戦争に巻き込んだ」は無理筋(ハルノートに記載された「中国からの撤兵」の「満州は含むか否か」が書かれていなかった=日米再交渉の余地はあった)
そのうえルーズベルト陰謀論は限りなく胡散臭いから、「勝って欲しい」とは別の意味で非現実的なんだな
また架空戦記の読者が「専門家に匹敵する能力」を有していたとすれば、専門家の嫌がることをできる架空戦記には苦言を呈するはずw
つまり架空戦記作家と一緒に専門家の嫌がることをする読者に、そんな能力なんてないわけで -
プロレスの比喩が出てきたけど、架空戦記は「出来の悪いプロレス」を見せられているようなものなんだな
荒巻義雄が「旭日の艦隊」を出した頃か、「「紺碧」は3巻ぐらいで終わる思っていたので、勝ち過ぎた展開にしてしまった」と書いたのを見て、下手なレスラー同士が時間を繋ぐため、わざとフォールしないとかのパフォーマンスをしているかのようだったw
さらに後日、「長編になるのを見越した設定、展開」と書いていたが、ここまでくると作家というより虚言癖じゃないかと
フィクション=小説のなかだけで許される嘘って人畜無害で安全、整合性があって納得できるもの(それらが満たされていれば、多少のミスや荒唐無稽さは許容される)でしょうと
実際は陰謀論に関係する作家が多く、荒巻の発言に整合性がなく、納得もできないんだから、「まともな小説とは呼べない代物」なんだな -
荒巻義雄は「作家以前の虚言癖」、檜山良昭は「指導教官と大喧嘩して京大史学科院中退」、柘植久慶と戸高一成は経歴詐称
おまけに佐治芳彦を含め、全員陰謀論と接点があった
こんな作家たちが架空戦記ブームを牽引し、後発作家たちも「おかしい」と感じなかったんだな
知識、技量の有無以前に、人間的にどうなのかよと
ところが架空戦記の読者たちほどおかしさに気づかなかったのだから、作家とちょうどお似合いってわけでw
専門家や他の作家、知識がないと蔑んでいた一般読者のほうが「人を見る目」があったんだ -
〉一般読者のほうが「人を見る目」があった
架空戦記関係者が小学校時代に発達障害の同級生を執拗に虐めていたので、やめさせようとした他の同級生が同じように虐めたら、逆恨みしながら社会人になった
普通の娯楽小説と違い、作家と読者の願望=社会への恨み辛みが共鳴、共振しあったのが架空戦記なんだな
知識や作家の表現力、読者の読解力以前に、社会にそこまで恨み辛みがない、あるいは他の解消方法を優先する作家には書けない、読者には読めないのだと
関係者の同級生が「あそこまで共感力のない人間が関係した小説なんて面白いはずがないし、そもそも読む価値があるとは思えない」とまで酷評していたが、一般読者の感想もそれ以上でも以下でもないだろうさ
関係者の名前とともに、同級生が呆れ果てていた当時のエピソードは、武士の情けで書かないでおいてやるよw -
〉共感力のない人間
端的にいってやると関係者の幼児期は行為障害(攻撃性、破壊、虚言窃盗、重大な違反)、成人期は反社会性パーソナリティ障害であり、立派なサイコパスなんだと
ただ相手の気持ちが理解できないだけなのに、それを「(シミュレーションのような)冷徹な判断ができる」と都合よく誤解、曲解しているw
某転生戦記ものの主人公=著者は「徹底的な利己主義者、保身優先で虚栄心は一丁前にあるけども権威にはへりくだって他人を貶めることも躊躇しなクズオブクズ」と評されているのに、信者は超合理的なエリートと感じているのと相似しているな
そういう性格を有した人ばかり集まるようになったから架空戦記の人気は落ちたし、売れなくなったw
ちなみに戸高一成お友達であるムー編集顧問、八幡書店創業社長の武田崇元は「日本最悪、最強(凶)級のサイコパス」とまで言われていたが、武田と関係者の双方と接点を持つ戸高も…
門下の架空戦記作家たちと批判的な半藤一利、秦郁彦の前で話す内容は正反対のくせ、全員に自分の過去を隠してたんだから、その可能性は高いってことだ -
〉行為障害
架空戦記関係者は自分よりも確実に劣る発達障害、知恵遅れの同級生を執拗に虐めていたわけだ
「自分のしていることがどういうことか、自分がされたらわかるだろう」と考えて自分を虐めた同級生の気持ちが理解できず、社会人になってもずっと逆恨みしていたのだから立派なサイコパスだと
架空戦記がそういう人たちの恨み辛みが共鳴、共振する場と化したのだから、読者が減るのも当然の帰結
娯楽小説、大衆小説は「いかに多くの読者を取り込むか」が最優先されるはずなのに、「知識のない読者は来るな」と拒絶したのだから、架空戦記作家、編集者、読者は娯楽小説、大衆小説であることを否定したんだからな
「俺好きな架空戦記はなぜ売れないんだ」と言われても、自分たちが否定したからでしょうwと
やはり既成の架空戦記作家、編集者、読者を追放しないと、架空戦記はよくならないんだな -
架空戦記がつまらない、売れないのは、特定少数読者が過大に反応し、彼らの価値観に媚びたことで本質からズレてしまったんだな
あくまで客観的に「こうだったらどうなるか」を見せるものだったのに、展開が特定少数の読者が喜ぶ「こうだったら」だけに収束し、多様性を放棄したわけだ
「いい架空戦記=特定少数の読者しか反応できない作品」になったことで、「普通の娯楽小説、大衆小説」であることまで否定してしまい、新たな読者はおろか作家の参入なくなり、まともな専門家は見向きもしなくなった
「ブクオフ棚一段を電波社が占拠」ってのが架空戦記の現状であり、社会からの評価であるとともに、架空戦記作家、編集者、読者の能力の限界でもあると
現状を改善できないのに、作品内外で戦略だの旧日本軍の欠陥だの、わかったようなことは書かないでくれ -
どうやら糸がつながってきたな
・紺碧の売れ行きがよく、92年6月に中公から旭日が出ることが決まったが、荒巻義雄は延長することなど考慮していなかった
・今日の話題社の創業社長が高齢、病気のため、雇われ社長だった戸高一成が閉業処理をはじめた
・同様に経営危機に陥っていた大陸書房のファンタジー部門の作家、編集者の引き取り先を、創業社長と旧知だった武田崇元が探すよう依頼されていた
これらは91年夏頃、同時並行して行われていた
ここで荒巻、戸高、武田3者で取引があったのではないか -
戸高は荒巻のブレーンとなり、紺碧&旭日の考証、設定などを担当することでストーリーのテコ入れをした
紺碧&旭日=架空戦記の人気が上がれば、戦記ものを刊行していた今日の話題社の価値も上がる
武田は80年代のオカルト、伝奇小説ブームの伝手を頼って作家に架空戦記を書かせ、各社から刊行させた
また荒巻は旭日の刊行とともに、大陸から出していた茅田沙胡、ひかわ玲子、佐藤大輔と編集者の中公への移籍を仲介した
そこで価値の上がった今日の話題社を傘下に置けば、武田も儲かる(事実オウム事件後に傘下に収めた)
91年9月、上京した荒巻義雄は中公旧社屋で徳間、中公の担当編集者(芝田暁、新名新)と編集長、営業と販売と会議をしているが、その裏で戸高、武田と会っていたのではないのか?
これが「架空戦記ブーム」の真相ってヤツだろうさ -
戸高は荒巻のブレーンとなり、紺碧&旭日の考証とストーリー強化に協力した
武田は80年代オカルト&伝奇小説ブームの伝手を頼り、作家たちに架空戦記を書かせ、各社から刊行させた
架空戦記が売れれば戦記を出していた今日の話題社の価値も上がる
また荒巻は茅田沙胡、ひかわ玲子、佐藤大輔と大陸書房の編集者を中公に移籍させる仲介をした
武田が今日の話題社を傘下に収めれば、全員が儲かるって寸法だ
これが「架空戦記ブーム」の真相じゃないのか?
91年9月に上京した荒巻、中公新名、徳間芝田と両社ノベルス編集長、販売担当が中公旧社屋で会議しているが、その背後で荒巻、戸高、武田の会談もあったはずだ -
ただ荒巻、戸高、武田に元から関係があったことは、編集者以下誰も知らなかった
「小説としての読みやすさ」を添加するため、「紺碧4」からルーズベルト陰謀論がはじまったんだな
陰謀の有無は別として、武田と戸高は陰謀論と接点があるのは何人も否定できない
ここで架空戦記と陰謀論が結びついたわけで、日本に武装革命を起こそうとしていた武田には渡りに船だった
荒巻が「シミュレーション小説」という言葉を使いはじめたのも好都合で、娯楽小説に偽情報を塗すことで読者のコンプレックスを優越感に変化させつつ、自分たちを守る意味で「間違えたら自己責任」と責任を転嫁させた
さらに真の狙いを隠す意味で、下層戦記や火葬戦記も大歓迎だったw
ルーズベルトや影の政府も顔負けの、「壮大なウソ」が隠れていたんじゃないか? -
どちらがいいではなく、架空戦記は「荒唐無稽だが誰も悪い気がしない娯楽小説」と「専門家の評価に耐え得るシミュレーション」の二分化、二極化が理想だったわけだ
ところが「娯楽小説もできます、シミュレーションもできます」的などっちつかずなものが主流となったことで、歴史偽造や陰謀論を広めたい人たちが目をつけたのだと
そう考えると架空戦記も哀れで、残念な役回りを担わされたんだな
今までの失敗を教訓に、手を打てば再生できるかもしれないが、既存の架空戦記で恩恵を得ている作家や編集者、対立しながらも「架空戦記とはそういうもの」と思い込んでいる肯定&否定の読者が改善を拒んでいる
現状を変えようとしないのだから、架空戦記このまま滅びるしかないわけで
ともあれ改善する意欲のない連中が、過去の批判や批評なんかするなよw -
行為障害=素行症の症状
・わがまま・他者とうまく付き合えない・罪悪感の欠落・他者の感情や幸せに関心を示さない・他者の行動を脅しであると間違って捉え、攻撃的に反応する(逆恨み)・虐めや脅迫に加わったり、頻繁に喧嘩する・動物に対して残酷・ものを壊す、放火する・嘘をつく、窃盗をする
某架空戦記関係者の小学校時代はほとんどというか、ほぼ適合するじゃないかw
発症が早いと問題行動が長引き、成人期でも法的トラブルや他者の権利侵害を行うことが多く、反社会性パーソナリティ障害と診断されるそうだ
そういう人間が関係するから、架空戦記はまともな読者が離れていくんだ -
多少荒唐無稽でも間違いがあっても、架空戦記が「多くの読者に読んでもらうための娯楽小説」という方向に進んでいれば、それはそれで良かったんだな
専門家以外は読んでも意味がない、「正確だが娯楽小説的な面白みのないシミュレーション」とはまったく方向性が違うんだし、境界線を引いておけば共存共栄ができたんだわ
ところが「一般人より知識はあるが、専門家よりも劣る」作家や読者が、「俺たちは優秀なのだから、両方同時にできる」と無理難題なことをはじめたのが「シミュレーション小説」だったわけだ
当然「娯楽小説よりつまらなく、シミュレーションほど正確ではない」珍奇なものができあがった
なんの役にも立たないばかりか、専門家と専門書の信憑性を貶めただけだった
ところが歴史偽造、陰謀論を広めたい人たちから見れば、有り難い存在だったんだな -
〉「娯楽小説よりつまらなく、シミュレーションほど正確ではない」珍奇なもの
「シミュレーション小説」という造語をうまく活用し、一般読者の前では「娯楽小説よりも正確だ」、「専門家に匹敵する知識がある」
専門家の前では「娯楽小説なんだから、間違えてもいいだろう」、「俺たちのほうが思考が柔軟で、想像力がある」と使い分けることで、両者よりも上位に立とうとしたんだな
これは航空戦艦や潜水戦艦or空母のパラドックスで、戦う土俵をすり替えているだけで、なんの意味もなしていない
人並みの知能があれば娯楽小説なら娯楽小説で、シミュレーションならシミュレーションの評価を受けることが本筋なんだが、そこを理解できていない
しかし専門家の価値を落としたい歴史偽造、陰謀論を広めたい人から見れば、これほど扱いやすい相手はそうそういないわけでw -
行為障害、素行障害
反抗的で攻撃的な非行行為を繰り返す
原因としては脳の障害、精神的な障害、人格発達の歪み、家庭的環境や社会的環境の影響など
「発達障害の同級生を執拗に虐める」「止めさせようとした同級生が「同じことをされたら、自分の行いを理解するかも」と虐めたら、逆恨みする」ような人が、架空戦記の熱狂的な読者から関係者になったんだよなぁw
「あいつの関係した小説なんて、面白いはずがない」と断言した同級生の見立て通り、架空戦記はまともな人は手にも取らないんだな
当事者の某は何も理解できないとして、仕事仲間の架空戦記作家、軍事ライター、編集者もよく付き合えるなとw
「類は友を呼ぶ」のか「朱に交われば赤くなる」のか? -
反抗挑戦性障害、反抗挑発症も「過度に怒りっぽい」「周囲に挑発的な行動をする、口論を挑む」「意地悪で執念深い」と某架空戦記関係者の幼児期と一致する(ADHDの二次障害)
「架空戦記が好き嫌い、正しい間違い」以前に、「この系統の人間が熱狂する(関係者として内部にいる)」ことが問題なんだな
架空戦記が「一般の人を対象とした普通の娯楽小説」の方向に正統進化していればまだ良かったものの、これでは完成度など関係なく、誰も手にしませんよと(ブクオフ棚一段占拠も納得)
そして架空戦記が好きな人も嫌いな人も真っ先にここを討議すべきなのに、誰も本質から離れた議論に終始していたもの問題だったわけで -
「架空戦記が好き嫌い」や是非はさておき、「架空戦記が好きな読者はなぜ、どこが好きか」を深掘りすると、「主人公=ほぼ日本が勝つ」「史実が変わる(変えていく)」なんだろうな
ここに檜山良昭が京大史学科院でトラブったように、「権威(歴史学者)への反抗」も加わった
「学者とかの権威は偉そうに振る舞っているが、実は大したことはない→世が世なら俺もなっていた」という反抗も、架空戦記が売れた大きな要素、要因だったわけで
檜山であり、戸高一成が武田崇元というオカルト界の黒幕と接点ができたのも「権威への反抗」でつながったわけだし、権威側の歴史学者大半が架空戦記にまともな評価を与えないのも首肯できる
幼児期から反抗、暴力行為を繰り返した(兵器に異常な愛情を示す)某が架空戦記に耽溺したのも、ある意味自然な流れだったのだろうさ
そこまでは納得してやるとして、一般の読者を巻き込むなよw -
当初の架空戦記は「純粋無垢なIF」だったわけで、「専門家向けのシミュレーション」も「一般読者向けの娯楽小説」も共通、同じだった
ところがブームの頃から「権威、歴史学者への反抗としてのIF」が加わったことで、「こうなっていたらどうだったか、客観的なIF」から「こうなっていて欲しかった、主観的なIF」が主になったんだな
檜山良昭の属する異端、少数派の未練学派であり、武田崇元や戸高一成のようなオカルト、超古代史的な考えが架空戦記の主流になったんだな
つまりブームの頃に離れた初期の読者は、ここに耐えられなかったわけだ
反対に行為障害、サイコパス的気質のある読者にとって、「歴史を自分の思い通りに動かす」のは堪らない魅力だった
ところがその種の作家、編集者が主流を占めたことで、一般読者も「さすがにこれはおかしい」と異変を察知し、架空戦記ブームも終わったのだと -
歴史偽造であり偽情報を広めたい人には、勢力を広げるためサイコパス気質であり、反抗挑発障害的な人間を集めたかった
戸高が某を関係者に抜擢したのも、そういう流れからなんだろうさ
無論個々人がどんな歴史観を持つかは自由として、架空戦記は特定少数派が主流になったことで、その他大多数が見向きもしなくなった
もともと大衆小説、娯楽小説は作家、編集者が多数派読者の価値観に合わせるもの(ある意味合わせ過ぎたのが霧島那智w)だが、架空戦記の主流を占めた少数派は「俺たちは優れているのだから、多数派は合わせるべきだ」とエゴを剥き出しにしたわけだ
大衆小説、娯楽小説の本質を逸脱しているのだから、一般読者が離れる、売れないのは当然でしょうと -
「こうなっていたら、どうだったか」が「こうなって欲しかった」になり、さらにその状況設定を構築するため「史実を際限なく弄る、因果を無視する」に変化変容したわけだ
架空戦記の読者から「このシミュレーションのどこが間違えているのか、いってみろ」と言われるが、「結論を導き出すため、設定をつくる」のは(小説技法としては間違えていないとして)シミュレーションと呼んでいいのか?と
専門家や他の作家が架空戦記に参入しないのはこの部分の矛盾を理解しているからであって、知識量や想像力以前の問題なんだな
反対にいえば架空戦記作家は知識量の豊富さ、乏しさとはあまり関係ない
極々当然の自制心であり、常識が欠落している作家、専門家が架空戦記に群がるだけだと
そんなことだからまともな作家、専門家、一般読者は見向きしないんだな -
もっといってしまえば、シミュレーションは高度になればなるほど専門家の選任事項となる
ちょっとぐらい知識があっても、敷居が高過ぎて入れないんだな
仮に専門知識は乏しくても、常識を持ち合わせている作家は「シミュレーションができます」とは口が裂けてもいえない
専門家の専任事項に入り込んで質を落とすより、距離をとることで質を上げたほうが得だと知っているわけで
反対に架空戦記作家は専任事項に入り込むことで、自分の価値を上げていると思っているが、実際は全体の質を下げているという認識がない
知識量とか、そういう問題ではないんだな
「シミュレーションができる作家」ほど「できない」といったほうが得なのを知っていて、「できない作家」ほど「できる」と口にすることで損をさせてしまう -
陰謀論を広めたい人からみれば、「シミュレーションができる」と口にする作家が増加すればするほど、専門家の質が下がるから望ましいってことになる
戸高一成が「まともな専門家」なら、架空戦記の跋扈を真っ先に止めていたはずなんだな
戸高が弟子たちに架空戦記を書かせ、自らも変名で書き、さりとて関与していたことを抹消しているのは、架空戦記の闇を知っているからだろう
また戸高の弟子たちが専門家面しているのは、それだけ専門家の質が下がったことの証左なんだがな
だから誰一人として、架空戦記や戸高とオカルト、カルトの関係を見抜けなかった
日本人が戦史、軍事に興味がないのは、専門家の質が低いからなんだよw
日本人が戦史、軍事に興味を持ったら、質の低い専門家は最初に淘汰されているさ -
「架空戦記」と「オカルト、カルト」とのつながりを隠す以上、質的向上なんて永久に望めない
というか、架空戦記とオカルト、カルトとの関係をすべて知っている人がいない
架空戦記作家、編集者、肯定&否定の読者の知的レベルに問題があるとともに、戸高たちによる情報統制が機能した
「オカルト、カルトとの関係を知っている架空戦記関係者」、「知らない架空戦記関係者」、「知らない架空戦記批判派&中立派」のそれぞれに、違う情報を流してたんだな
こんな下工作が行われた娯楽小説=架空戦記が、一般読者に受け入れられるはずもないわけで
まず全員の情報共有、ついでオカルト、カルトと深く接点のあった作家、編集者の処分、最後に気が付かなかった作家、編集者と読者を処分しないと、架空戦記の良化なんてできない
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